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 ふと、考えてみました。 
 ずっと遠い将来、「幸せ」「思いやり」「優しさ」「喜び」「楽しさ」「共感」「信頼」「衣食住の充足」「生き甲斐」「平和」などなど、そんなものだけでこの世を満たすことができるんだろうかと。
 地球全土にわたって、社会システム、教育、医療、科学技術、生活環境などが想定しうる最高のものがある。様々な民族・宗教的な遺恨も残されていない。全ての人が、生き甲斐や人生について積極的に考えている。コミュニケーションや豊かな趣味を味わう生活習慣がある。
 まるでジョン・レノンの「イマジン」のように、未来について想像してみたわけです。
 しかしそれには、否定的な考えが浮かびます。
 人は不幸や苦しみによって、幸せを感じるのだと。人生に不幸や苦しみがないと、幸せも感じなくなる。大切なものが大切ということがわからず、なくなってから気づく、と。平和しかり。愛する人しかり。
 また、苦しみによって鍛えられ、力を合わせる。世の中の苦しみが少なくなればなるほど、人はひ弱になり、まとまらなくなる、と。
 だとすれば、そんな満たされた世界は持続できないのではないか?「イマジン」することしかできない、空虚な、実現不可能な幻想にすぎないのではないか?
 この世界は所詮形が少し変わるだけで、不幸と幸福の混沌とした世界にしかならないのでしょうか。
 どのようにお考えになりますか?

A 回答 (13件中1~10件)

>とすると、その個人が.....に関わる悩みに影響を及ぼしうる…



hito no kazu no monndai deha nai.
ga sikasi touzen shakaiteki na eikyou ha aru.

>私自身の不安や悩みを社会の変化が解決してくれるようには思いませんが、社会の変化が、私と同じ悩みを持つ人を増やしもし、減らしもするようにも思うのです。その変化のいずれが良いと言えるのかは分かりません。本質的な意味で社会も含めた世の中が良い方向に進むということはどこまで期待できるのでしょうか。



>それは、遠い将来に、得るものではなく、そうじゃないと到達できないのではなく、今なのです。
この辺が分かるような、分からないような、すみません。
no sorry.
>今すぐにでも得ることができると言うことでしょうか。
tigaimasu.
ima sudeni souaru toiu koto wo iu.

>幸せは個人的、ということでしょうか。

zenn(all)teki.

happiness is at all.
not only happiness.
everything and nothing,at all.
pains,too

shakai ha ninngenn dakede keisei sarete iruwakedeha nai.
dakara siya wo gengo de kagitteha mienai.
shakai is not only shakai

mirai wo sirukotoha innga wo sirukoto dakedeha tarinai.
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苦しみの克服こそ、虚無からの脱出になる。


超人を目指そう。
ニーチェを呼んで、がんばロー。
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この回答へのお礼

ニーチェ的には、苦しみの克服とはどういう事をさすのでしょうか。いまいちわかっていないもので…
ありがとうございました。

お礼日時:2003/06/22 12:22

>この世界は所詮形が少し変わるだけで、不幸と幸福の混沌とした世界にしかならないのでしょうか。


その通りでしょう。ただ質問者自身どこか上の空ではないか。ご存じかとは思うが、人々が求める諸価値(富、名誉、地位)が世の中に数に限りがあり、希少であるが故に人々は争い、奪い合うという、醜くもどうしようもないこの根本病理が不幸の温床です。本当に世界の幸福を考えるなら、この根本病理をどうするか考えるべきじゃありません?ただでさえ先進国民として途上国の上に立ち甘い蜜を吸っているんだから、それを口ではあたかも世界平和を考えていますよといったことを言い、結局考えつくことはNO,9みたく目先の幸福なんていうのは、傲慢甚だしいではないか。
>しかし、経済格差による貧困、戦争、又、差別、国境、そういったものは、無いほうがよいのです。
無いほうがよくて、無くせるものは、無くしてゆけばいい。
こういう世界の諸問題に取り組んでいる学者さんなどいるから、世の中幸せな方向に進んでいっていると思うよ。経済格差はともかく、戦争、差別、国境はどうだろう?理由もなく結論だけ書いてあるから疑問だけれど、たとえば友好に再三応じず核を製造し続ける国にどう対処するのか、日本人という所属集団とその外側を差別したとき、日本人という平均民族が確立された歴史をどうとらえるかなど、問題はずっと深い。つまりは戦争や差別や国境などそれらがすべて悪なのではなく、悪になりうる「場面」があるということ。それは今回の質問にも通じていて、すべてを一色単にして「幸福な世界は実現可能か」なんて考えると途方もなく、上の空になっちゃうけど、やっぱり現実の一つ一つの場面を見つめてその幸不幸を考えるというのが基本じゃない?世界では一日に10万人が餓死しているけど、貧しい途上国では生まれて蠅を払いながら餓死を待つのが一生の人だっているわけで、そういう人は一生のうちにいくつの幸福を味わうだろう?もしかしたら一つもないんじゃないかと思う。法律なり制度なり、ローマでの三大宗教会談など、現実の一つ一つの場面を改善していこうとしてる人たちがいる限り、幸福の数は増えていくと思うよ。
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この回答へのお礼

 お礼が遅くなり大変失礼いたしました。
 上の空というご指摘、よく理解できます。おっしゃるように、実際に具体的に考え、行動している方がおられる中で、究極的に可能かどうかなどと議論しているのですから、私自身、この考えが何らかの結論に至るにしても、あまり意味のないものになってしまうようにも感じられます。
 「希少価値のものを奪い合うことが根本病理」。そのように思います。食べ物がなければ、病気の子供のために奪うこともするかもしれない。原始的な世界では絶対になくなり得ないことでしょう。人間の知恵でなくすしかないことと思います。その根本病理がない状況は、理想的な世界として想像しうる気はします。
 お書きくださっている、
>無いほうがよくて、無くせるものは、無くしてゆけばいい。
という考えは、はたと共感しています。確かに、なくなった方が良さそうなものはいろいろありました。「戦争によって文明が作られた」「戦争が社会を鍛える」うんぬんという議論は結果論として言いうるとしても、例えば覚醒剤や麻薬はない方が良さそうだし、安全運転してるのに交通事故で死亡するケースはない方が良い。「そこから何も学べずプラスにならず、損するだけ」みたいなものは確かに存在する気がします。
 ジョン・ケージが「人生で大事でないものなんてない」といっていましたが、「社会で大事でないものなんてない」とは言い得ない気もしています。
 それとは逆の人間が「あって欲しい」と思うものが必ず良いもの、とは限らないのでしょう。よくあることですが、企業が消費者に受け入れられることを考えて作り出すものが、人間にとって良いものばかりとは限らない。
 しかしながら、それでも人間が、「本当に良いこと」は何かをよく考えて少しでも前に進もうと行動することが、この世界を支えている気がします。それをなくしたときには現状維持どころか、後退するしかない状態になるように思います。
 もしかすると、はじめに私が申し上げた理屈では量り得ない社会の進歩があり得るのかもしれません。そこは私はわかりません。しかし、そうあって欲しいと思います。
 ありがとうございました。
 

お礼日時:2003/06/06 12:29

>この世界は所詮形が少し変わるだけで、不幸と幸福の混沌とした世界にしかならないのでしょうか。


 
世界とは、社会のことではありません。
人は、社会に生きますが、世界にこそ生きています。
社会による理不尽な不幸は、消せるのです。
無駄な苦しみは、なくてよいのです。
しかし、幾ら社会がよくなっても、人類自体が時とともに変化しますし、さらに、世界から比べれば、社会などはかなり小さい。
世界に生きることによる苦が、社会によって救われるとは思えません。
社会によってなくせるのは、社会的要因によって起こる不幸だけです。
食糧生産や、その他必要なものは、社会形成、その活動によって獲得している部分は多くありますが、もとより、それは自然の摂理なのです。厳しい自然でも生きていける社会は立派で有用だと言うのは、すこし傲慢、ずれている気がします。
それは、当たり前のことなのです。
 
社会システムが非常に、飛躍的に向上しても、失恋の痛みはなくならないだろう。
死の恐怖もなくならない。
自分が自分であるという思い故の苦悩も消えない。
社会の形が変わり、差別がまったき、なくなっても、離別の悲しみがなくなるわけではないだろう。
 
何が苦になるのか?
その人がその人として生きるということはどういうことなのか?
そういった哲学的難問、生の艱難、生の喜び、そういう生の本質にまつわることは、社会システムがどう関わろうが、社会が肩代わりしてくれることはありません。
それでいいのです。 
だれも、他人の生を生きることなどできないからです。
 
しかし、経済格差による貧困、戦争、又、差別、国境、そういったものは、無いほうがよいのです。
無いほうがよくて、無くせるものは、無くしてゆけばいい。
>だとすれば、そんな満たされた世界は持続できないのではないか?
 
そんな満たされた社会は持続できない。
社会によって、人が完全に満たされることは無いでしょう。そのことによって、その理想のスーパー社会が崩壊してゆく可能性はあるでしょう。
むしろ、あってよいのです。
それは、理想を超えて起こったことなのです。
そのとき、人は、全体的に、新たな局面を迎えるでしょう。
理想は世界に追いつかない。夢も追いつきません。
現実も、追いつきません。
世界は、果てしないからです。
それで、いい。
人の生も、果てがあってはならないでしょう。
「なら」ないのです。
果てが無いということが、、、
今なのです。
それは、遠い将来に、得るものではなく、そうじゃないと到達できないのではなく、
今なのです。
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この回答へのお礼

 社会と世界を区別するのはよく分かる考え方ですね。
 この世界に存在し続ける、人間故に持つ様々な悩みというのは、社会がどう変化してもただちに消し去ることはできなさそうな気がします。一方、社会システムの不備や、過去の過ちによって生じた遺恨などなら、時間をかけ、社会が変化することで何とかしていける、という点で、この考え方はわかりやすいです。
 ただ、「生の本質」に関わる悩みなども、単純にその発生確率や、程度といった点において、個人の思考パターンなどによっては変わってくる気がします。
 とすると、その個人が教育を含む社会全体の考え方の変化や、人間同士のコミュニケーションの変化やコミュニティの変化によって影響を受けるとするならば、人間は社会の変化をあたえることによって、良くも悪くも「生の本質」に関わる悩みに影響を及ぼしうる…というのはあまりに楽観的でしょうか。。。
 私自身の不安や悩みを社会の変化が解決してくれるようには思いませんが、社会の変化が、私と同じ悩みを持つ人を増やしもし、減らしもするようにも思うのです。その変化のいずれが良いと言えるのかは分かりません。本質的な意味で社会も含めた世の中が良い方向に進むということはどこまで期待できるのでしょうか。

>それは、遠い将来に、得るものではなく、そうじゃないと到達できないのではなく、今なのです。
この辺が分かるような、分からないような、すみません。今すぐにでも得ることができると言うことでしょうか。幸せは個人的、ということでしょうか。

ありがとうございました。

お礼日時:2003/05/30 13:49

言い切ってしまうと、この世の中はそんなに美しい世界ではありません。

 くだらなく、薄汚い世界です。
現に何の罪のない人々が世界中で死に、 一部の力を持った人間が多くの人間の上に立ち甘い蜜を吸っているのは事実です。 ことわざで「山あれば谷あり」などと言うものがありますが、それも理にかないません。 いつまでたっても苦悩しつづける救われない人もいれば。 苦労も知らず呆けていても幸せをつかむ人もいる。 理不尽なものです。また多くの人は自分が追い詰められた時に祈りを捧げるでしょう? 信仰深い人間でもないのに。 もちろん祈りが届くわけはありません。無駄な行いです。 人間というものは、救われないものなのです。 こんな理不尽な世の中に苦しみが伴わない訳がないと考えますが・・・

まぁ、そんな事は考えないほうがいいかもしれませんね。
私はこんなくだらない世界の中でも何不自由なく自分なりの幸せを見出しています。 世界規模で考えるべきではないと思います。 よくなる訳がないしね。
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この回答へのお礼

 まったく悲観すべき世の中ですね。しかしながら、私自身、悲観すべき世界を悲観できる精神は健康的で、救いがある感じがします。
 たとえ社会がどうであろうとも、それぞれ、本当にいろんな幸せがあり得るのでしょう。世界規模で考えることは個人にとってさほど意味のあることではないですね。
 ありがとうございました。
 

お礼日時:2003/05/27 17:48

えーと、議論がいろいろ進んでいるようですが、私からも一言。



物質的に満たされたら、自分の人生を「自己実現」に向けて
方向性を切り替えたら、人はいくらでもハッピーになれる
と思います。

まぁ普通の人というのはカネと女に目がくらみやすいですから、
死ぬまで物欲にとらわれたまま生きる人も少なくないでしょう。
ただそういう人は、死ぬまで幸福感は味わえないでしょうね。

世界から貧困や戦争がなくなったら、自己実現に向けて努力
したらいいと思いますよ。
松井やイチローのように、日本にいればいくらでもカネは
稼げたのに、わざわざ自分の夢のためにアメリカに行って
ゼロからスタートする、そういう生き方もいいじゃないですか。

結局のところ自分の人生が幸福になるも不幸になるも、
戦争や政府からの人権抑圧など社会的な不幸を除けば、
その人の生き方しだいというのが、私の考えです。
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この回答へのお礼

>物質的に満たされたら、自分の人生を「自己実現」に向けて 方向性を切り替えたら、人はいくらでもハッピーになれると思います。

 自己実現を目指せば社会がどうあれ、幸せになれそうです。幸せというのは確かにその人次第の部分が大きいようですね。
 幸せになれる環境にあってもなれない人、もっと大きな幸せを目指す人。いろいろですね。
 ありがとうございました。

お礼日時:2003/05/27 17:41

No.5 の misoka です。



> 願うことや想像することも大切な人間の力だと思います。
> それが、快適で満たされた状況では、その発達が阻害されて
> しまうように思います。これは危惧すべきことではないで
> しょうか。

願う力を阻害している要因が何であるか、ということは、
ポイントになるかもしれませんね。
確かに、物質的な充足は、精神的な幸福を保証するものでは
ありません。それは、言うまでもなく明白なことです。
しかし、物質的な充足は、果たして幸福を阻害するでしょうか。
むしろ、それは、各自の心の問題だと思います。

以前、このサイトで「砂漠が美しいのは、どこかに
オアシスを隠しているからだよ」という言葉について
回答したことがあります。

質問:砂漠が美しいのは どこかにオアシスを隠しているからだよ
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=348983

当たり前ですが、私たちは別に過酷な砂漠に住んでいるわけ
ではありません。しかし、この言葉が現代人の心にも残って
いるのは、なぜでしょうか。
心がパサパサに乾いてしまえば、状況や環境が満たされて
いても、満たされていなくても、同じことです。
乾いた人には、オアシスを見ることはできないだろう
と思います。

茨木のり子さんの詩に「自分の感受性くらい」というのが
あります。その最後の1節は

 自分の感受性ぐらい
 自分で守れ
 ばかものよ

と結ばれています。想像する力は大切なものです。
人生を楽しむ術です。それは時代の状況や環境から与えて
もらうものではなく、
自分たちが守るものではないでしょうか。

> しかし、食に不自由しない子供達は想像することなく、
> たいした感動もなく、口にします。

goo でも取り上げているみたいですが、最近は
「スローライフ」とか「スローフード」という言葉が
注目されています。
スローフードの考え方の基盤には、食を楽しむ、
という指向があります。
効率重視で量産された「冷たい」食に囲まれれば、
食に感動することがないのは、当然でしょう。
私たちは、人生を楽しめないわけではない。
人生を楽しむ術をないがしろにしてきただけです。
今となっては呪わしく、悪しきものになってしまった
合理主義や効率主義に流されてしまっている
だけなのではないでしょうか。
気がつけば、大事な感受性を守れなかった「ばかもの」
ということですね。

だから、満たされてしまえば不幸になる、というのは
すこし違うと思います。
満たされることと、願う力を失うこととは、必ずしも
同じことではないと思うわけです。

平和になっても、唯一の人生がいとおしいのは
変わりがないでしょう。
よい人生を願い続ける心は、何かの充足によって
失われてしまうでしょうか。
人生をどうでもよく過ごしたい気分になるでしょうか。
古くさい言葉かもしれませんが、
Be Ambitious! (大志を抱け)
なんて言葉もありますね。どうでしょう。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=348983
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この回答へのお礼

再度お書きくださり、誠にありがとうございます。

 >私たちは、人生を楽しめないわけではない。 人生を楽しむ術をないがしろにしてきただけです。
 とても共感できる考えです。人はそれぞれの人生をもっと豊かにできるのではないかと感じます。

>効率重視で量産された「冷たい」食に囲まれれば、 食に感動することがないのは、当然でしょう。
 大変よくわかる感覚です。私なりに実感があります。
 私なりに噛み砕きますと、
 「箱をあけたらたいしたものがはいっていなかった。この箱も、その箱も、これまでずっとそうだった。この分じゃ、この先も大したものに出会えそうにないな。箱を開けるのが面倒くさくなってきたぞ」という感じ。
 箱が周りにない人は、箱の中を想像し、箱を開けたがる。逆に箱が周りにたくさんある人は、ない人よりもそこまで開けたがらない。しかし、箱の中身(体験)が真に豊かなものありさえすれば、いや、いくつかにそういう箱があるだけでも、またもっともっと他の箱も開けたくなる。そういう箱との出会いが、次の箱への想像と、期待になるような気がします。

>よい人生を願い続ける心は、何かの充足によって失われてしまうでしょうか。 人生をどうでもよく過ごしたい気分になるでしょうか。
 全く同感です。誰もが良い人生(ひとそれぞれ望みは違うけれど、少なくとも何らかの満足がある人生)を生きたいと思っていると信じたい気がします。「世の中つまらない」と感じる時でも、つまらないものをつまらないと感じる感性は、心の奥で、ある方向を指し示している気がします。つまらない中でも、何らかの満足を得ようとするのだと思います。
 
 しかしながら、私の否定的な考えは残ります(しぶとい)。
 人は環境(周りの人、教育システムを含め)によって教育されるといえます。苦しみや、悲しみや、不合理や、不親切や、無駄、そういったことからの学びは確かにあり、動機付けにもなります。
 また、人は苦しみや悲しみに出会うほど、同じ経験をしている人に共感しやすくなります。
 すると、仮に、住みよい社会を想像したとき、必然的に、人はある種の学びが欠落し、それに伴って共感性を失っていきそうです。それは教育によってもフォローしにくく思えます
 そうした意味で、充実した人生を生み出す社会と、住みよい社会は本質的に矛盾しないのかと思うのです。

お礼日時:2003/05/27 17:30

幸せに満たされた世界がくればいいですよね。


ただ、幸福というものに対する考え方が違ってしまうのが人間という生き物らしい。
人にはそれぞれの幸福の概念がある。それは誰もが知っているのに隣人が自分と違う幸福観をもっていると自分の幸福観を押し付けようとする。それって不幸ですね。幸福を達成する為に不幸を呼んでしまう。
その不幸の根本は情報によるものだろうけれど、今更全ての情報から自分の身を隔離することは難しい。物質主義とネットワークがなくなってしまえば平和になるのかといえばそうでもないですしね。
全ての人類が農耕で自給自足をしたとしても、ある日大凶作になれば略奪は起きますしね。不作の人には作物が分けられるシステムがあれば良いかもしれないけど、システムがあるところには管理者が必要となると、独裁政治下での農耕生活ということはいわゆる・・主義と同じ。

悲しみの涙の無い世界に私も住んでみたい、悲しみという感情が何故存在するのかという疑問。
悲しみという感情さえなければ不幸など存在しないのではと考えてみる今日この頃。
いずれ愚かな科学者の手によって人間から悲しみの感情を取り除かれる日がくるかもしれないという空想。
しかしながら、喜怒哀楽は火水土木と同じくきっても切れない関係。微妙なバランス。一つが消えれば全てが崩れてゆく危うい関係。

結局、幸福と感じるものと不幸と感じるものが入り混じり、混沌とすることが一番の幸せなのかもしれないともおもってしまう。でも、いつか地球上の資源を使い果たした時に気付くのかもしれませんね。それまでの価値観は間違いだったと。
ですが私は物質主義に取り込まれた私自身の生活は、物質によってしか幸せにはなれないと感じています。
裸で野宿はもはや出来ない人間ですから私はね。
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この回答へのお礼

 書いてくださっているいろんな考え方、参考にさせて頂きます。

 幸福感の押しつけが不幸。なんとなくわかる気がします。
 不幸の根本は情報。物質主義とネットワークがなくなってしまえば…って、このへんからちょっと分からなくなりました。
 最後の、資源を使い果たし、今までの価値観は間違いと気付いたときって、どういう価値を見いだすのでしょう。そしてその新しい価値に基づいて、社会はどうかわるのでしょう。んー、考えてます。
 ありがとうございました。

お礼日時:2003/05/24 23:52

> 人は不幸や苦しみによって、幸せを感じるのだと。


幸福感は、不幸によって生まれる、というのは、
あまり正確ではないではないと思います。むしろ
幸福感は、イマジンするから生まれているのでは
ないでしょうか。
想像することができなくなったら幸福はない、
そうであるならば、問題は心であり、願う力である
と思います。

想像するネタは、たぶん尽きることはないと思います。
好きな人にどんなことを話そうか。
今日は評判のあのお店に行ってみたい。
来週はあの映画を見てみたい。
etc...
必ずしも不幸である必要はありません。
ただ、ハッピーであるには、願い、想像し続ける
必要があるでしょう。
それは心から、自由に願いたいから願うのであり、
心から望んで想像するのであり、
そうすると、自然と幸福に包まれているのです。
幸せになるために願うってわけではありませんね。
一番いけないのは、
願っても仕方がないなんて思ってしまうことです。
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この回答へのお礼

 願うことが幸せを生む、という考えも、想像することの重要性、いずれもよく分かる気がします。おっしゃるとおりだと思います。
 ただ、動物園の空腹を知らない獣が自ら狩りをしなくなるように、不幸な(満たされない)状態がないと、欲しいと「願う」こともなくなるのではないでしょうか。
 また、貧しい子供達は、食べたことのない食べ物の味を大いに「想像」します。しかし、食に不自由しない子供達は想像することなく、たいした感動もなく、口にします。
 願うことや想像することも大切な人間の力だと思います。それが、快適で満たされた状況では、その発達が阻害されてしまうように思います。これは危惧すべきことではないでしょうか。

お礼日時:2003/05/24 22:44

生きることに止まない。


生きることをとめない。
生命は、止まらない。
 
この星は、数億年、百数十億年かけて、あらゆる状況によって磨きに磨きぬかれた生命たちが、生きあって来た、チャンピオンばかりが住む星、とも見れる。
マッチは、チャンプ対チャンプ、タッグを組めば、最強タッグ。チャンピオンがリングに捧げる自らの生。
リングは宇宙。ロープなし。審判なし。無差別級。
終わりなき理想のみが、夢に追いつき、終わりなき夢のみが、現実に追いつく。
 
そして今、私達は果たして、チャンピオンと呼ぶにふさわしいか?チャンピオンの尊厳を忘れていないか?
チャンプの風格ある人間の姿が、空からおちてきた物語の種子、理想の上に芽生え、夢において開花し、現実において結実する。
そうして、虚空という無限を従えた、新たなチャンピオンが、また生まれる。
生命の輝きは、理想や夢を中から飲み込み、終わりなき現実をも、完破し、更なる世界を、突き進むのだろう。
リングを越えて果てなく、自由に。
>この世界は所詮形が少し変わるだけで、不幸と幸福の混沌とした世界にしかならないのでしょうか。
 
何をいわはる。
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この回答へのお礼

 大変詩的な回答をして頂きありがとうございます。
 チャンピオンである地球の生命達。尊厳をもって、理想に突き進み、理屈を超越して、新しい世界を生み出す、ということかと思います。その考え、勢い、大変嬉しく思います。
 ありがとうございました。
 

お礼日時:2003/05/23 01:22

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