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日蓮の佐渡流罪のとき、そばにいた人物

日蓮が佐渡に流罪されていた際、一人でいたのでしょうか。
誰かと一緒に住んでいたのでしょうか。

佐渡の日蓮を一時的に訪ねたなどではなく、
佐渡の日蓮のすぐ身近にいつもいた人物の名前を何人でもいいので、教えてください。

身分は問いません。

A 回答 (2件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。
佐渡市の出身です。

>>日蓮の佐渡流罪のとき、そばにいた人物

お答えから先に述べると、
分派した祖としては、NO1.の方の言われる「日興上人」だけの名前しか分かりません。
ただし、史料によると、下人も含めて8人がお供をしたことが分かっています。

(1)文永8年(1271)9月10日、日蓮は鎌倉幕府評定所から呼び出され、侍所所司(さむらいどころしょし)の平左衛門尉頼綱(へいのさえもんのじょうよりつな)の尋問を受けたが、この時も自著した「立正安国論」の説法を展開したため、ただちに捕縛された。

(2)9月11日の夜明け前の丑の刻(午前2時)に人目を避けての鎌倉出立。
これには、信者たちの日蓮奪還の動き等を牽制するものであった。

(3)途中、衣智(いち=現、厚木市)の佐渡守護代本間六郎左衛門の屋敷に一時留め置かれた。しかし、六郎左衛門は史料では、この年の春、職務により佐渡へ渡っているので、実際には、代官右馬太郎(うまたろう)の屋敷であったと思われる。

(4)10月10日、衣智を出立。
鎌倉出立から約1ケ月が経っていねが、どうやら、佐渡に居る六郎左衛門に日蓮を送ることや住まいの手配をさせたものと思われます。

(5)さらに、寺泊での船待ちなどもあって、佐渡に着いたのは10月28日であった。
10月と言えば、すでに冬に入っており、回船は翌年の春までは欠航していたが、どうやら、罪人の日蓮を送るために、特別の船が仕立てられたようです。

(6)佐渡での配所は、「塚原」とだけ記されており、佐渡でも「塚原」の在所ははっきりしていません。ただし、佐渡国府に近い場所であったことは確かなようです。
「11月1日 六郎左衛門が家のうしろ塚原と申す山野の中に 洛陽の蓮台野のやうに死人を捨る所に 一間四方なる堂の仏もなし 上はいたま(板間)あはず 四壁はあばらに 雪ふりつもりて消ゆることなし かかる所に しきがは(敷皮)打ちしき蓑うちきて 夜をあかす日をくらす」(種種御振舞御書)

(7)そして、日蓮を最初に預かったのは名主(みょうしゅ)阿仏房でした。
阿仏房は元は遠藤左衛門為盛と名乗り(NO1.の方のおっしゃる通り)、順徳上皇が佐渡へ配流された時の供人でした。しかし、順徳上皇が崩御され、京都の大原墓所に遺骨が埋葬されましたが、為盛は、佐渡に残っていました。日蓮を預かってから日蓮に帰依して、阿仏房と名乗り、妻は千日尼と名乗りました。
後に、阿仏房の住んだ所には「妙宣寺(みょうせんじ)」(現:佐渡市真野地区)が建立され、新潟県唯一の五重塔があります。

(8)やがて、国府入道(こうのにゅうどう)の堂へ移され、さらに一谷入道(いちのさわにゅうどう)が預かり人となり、やはり、日蓮に帰依したものとみられます。
当時、佐渡配流となった者への扶持米は一日、米一升、塩一斤と流人一人分の支給でしたが、どうやら、それよりも少なめだった可能性もあります。また、この一谷入道が預かるようになってから、鎌倉から2人の信者が日蓮と暮らすようになったようです。日蓮遺文では、
「入道の堂のらう(廊)にて いのちをたびたびたすけられし事・・・」
とあり、入道が差し入れしていたことが分かります。
逸話としては、当時は、佐渡の人々の間では、天台宗や浄土宗が盛んでしたが、政治に疎い佐渡の人々もこと神仏に関しては、日蓮に対しては四六時中、厳しく監視の目を向けていたようです。
そうした厳しい監視をかいくぐって、一谷入道は雨の日も風の日も雪の日も櫃(ひつ)を背負いて、日蓮に差し入れをした、と言われています。後に、日蓮が身延山へ帰ってからの便りに、
「宿の入道といい 妻といい つかう者といい 初めは おぢ をそれしかども 先世の事もありけん 内々不便と思う心尽きぬ 預かり(代官所)よりあづかりし食は少なし 付ける弟子は多くありしに わずかな飯二口三口ありしを あるは手に入れて(乗せて)食しに 宅主内々心ありて 外には をそるる様なれど 内には不便げにありし事 何の世にかわすれん 我を生みておわせし父母よりも 当時は大事とこそ思いしか・・・」
と、感謝の手紙を入道に宛てて送っています。

(9)文永11年(1274)3月、赦免状が出た。
鎌倉に残っていた弟子の一人日朗(にちろう)は、夜に日についで佐渡へ向かった。折りしも、海は荒れていたが、一刻も早く赦免状を届けたいとの願いで、一艘の小舟で沖へ出た。回船ならば船頭以下6~7人で櫓を漕いで3刻(6時間)位で渡り切るのだが、日朗の乗った小舟は佐渡を目前にして日本海の荒波の中に消えていった。
日朗は、まさに、板切れ一枚に掴り必死の思いで泳いだ。岩景が見えた。とにもかくにも、一命だけは助かったのである。
荒れ狂う波を避けて岩の頂上に登り、暗闇の中で成すすべもなく、ただただ念仏を唱えて夜を明かした。
陽が昇り始めて、日朗は辺りを見た。一念が天をも貫き仏の加護か、日朗が夜を明かした岩は陸続きであったのである。(現:佐渡市小木地区宿祢木(しゅくねぎ)、経島(きょうじま))

(10)3月8日、日蓮は赦免状を手にした。
3月13日、日蓮は供の者たちと共に佐渡を発している。

(11)日蓮上人が流されたので、佐渡は日蓮宗が多いのでは?
と良く聞かれるが、先にも述べた通り、配所での日々は厳しい監視の目が常にあったので、説法をして回ることは全くと言って良いほど何もできなかったようである。
従って、わずかに日蓮を預かった阿仏房や国府入道、一谷入道らが帰依して広めていったが、真の日蓮宗が佐渡で広まったのは、その後のことである。

(12)今日、日蓮上人の配所は「根本寺(こんぽんじ)」(現:佐渡市新穂(にいぼ)地区)と言われて、日蓮10大聖地となっているが、根本寺の縁起は江戸時代であり、後世に書き加えられたものである。
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 日興上人が、佐渡に同行して常随給仕をしたとされるのは有名です(^^♪


また、佐渡の念仏信者遠藤左衛門為盛は、日蓮を仏敵と思い、
殺害せんと訪れましたが、日蓮の教えを聞き、法華経に帰依し、
妻と共に、日蓮一行に食事を運んだり、身の回りの世話をしました。
遠藤夫妻は、後日、妙宜寺を建立した阿仏坊日得上人と千日尼です。
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