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「愛」という表現がありますが、これは実際のところ何に対しての表現なのでしょうか。
生存本能や快楽追及(心理的な環境に対する改善欲?)を総まとめにした詩的表現でしょうか。
親和欲求でしょうか。
それとも、単体で存在する何かを「愛」と仮定しているのでしょうか。

私は、「神は死んだ」という表現があるように、いずれ「愛は死んだ」と言われる時代が来ると思います。
(けれど、現在でも神を信仰する人の他に無宗教者でも都合のよい時だけ神にお祈りし「神」を捨て切れない人がたくさんいるように、もしくはそれ以上に、「愛」が死んだ後も「愛」は生き続ける)

皆さんはどのような認識をお持ちなのでしょうか。




教養無く、思索にも乏しいため質問自体やお礼文がナンセンスであれば早期の終了も考えております。
その場合、ご指摘・ダメ出しいただけると助かります。

A 回答 (56件中1~10件)

感謝の意などを幅広く。

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愛するって実は、面倒で大変なことを、コツコツ実行することが愛なのです。



精神分析では、愛の定義があります。
それは、『愛とは、相手のために、相手本位に時間を与えることである』というもの。

そうです。自分がして欲しいと思っていることを、相手が相手の体と時間をかけて、自分のために何かやってくれたとき。私たちは愛されていると感じます。
相手のために膨大な時間を使う。それこそが愛だと、その行為にこそ愛は存在しているのだと、精神分析ではいいます。

相手が何を望んでいるのか、それを知るためには膨大な時間、相手のことを考える必要がある。そして相手が本当に求めるもの、それを与えるためには膨大な時間、手間と暇をかける必要がある。日々の仕事で忙しい私たちにとって、それは非常に面倒で大変なことです。

また、愛はかまわなくても育ち、恋はかまわないと育たないとも言われます。

いろいろと定義はありますが、基本的になやめばなやむ程、なやんだ人は人間的に成長する傾向があるようです。http://tama.reinnovation1.info/

修羅場を解決したなら小躍りしてもいいくらい。

http://tama.kirei5558.com/
「大丈夫!!!!」

前をむいて歩きましょう。
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私の中で愛とは以下の表現「コリントの信徒への手紙―13章」が最も相応しいと感じています。


特にキリスト信者でもありませんが、母校がカトリック系の進(神?)学校だったこともあり、生徒手帳にも最初に記載されていましたし。いくら光(知識)があったとしてもその真価が問われるのは愛であると指導されました。
幸い日本の最高学府と呼ばれるらしい大学に合格し学問・光の道を進みましたが、この言葉は折に触れて私の脳裏に浮かびます。アインシュタインが発した「神はサイコロを振らない」という言葉と同様、例えそれが本当の光に対する蒙昧であったとしても、ニーチェが言うような「神は死んだ。神は死んだままだ。そして我々が神を殺したのだ。」という時代を生きなければならない私たちは、神による愛は死んだかもしれませんが、人間には愛する力が存在すると思います。
神を殺したのは、人間が万物の霊長であり理性的存在であり理性万能的である思想によって神を殺してしまったからです。
しかし、理性には愛を説明する担保がありません。それは生物学的なことかもしれませんし、人間の実存・根本関することかもしれません。
つまり「愛」とは宗教的なものではなく「生物学的」なものであると同時に「人間社会」の本質的なものであるということです。
もし、この「愛」を破壊できる可能性のあるものとしては、市場原理主義・契約主義がありますが、アメリカでの代理母の判例を見る限り、お金で買えるもの買えないものが存在します。

神は信仰によって権威付けられるものですが、愛は人間の生物学的・知的な根源的な欲求によって意味づけれられ物るです。

それ故「愛」が世界的に死ぬことはありません。(ごく一部の価値観体系の異なる人の間では愛は死ぬ、あるいはその担保を失うことがあるかもしれませんが)



コリントの信徒への手紙―13章

 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、 やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、鏡と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
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存在するものすべてが幸せになってほしいと願い実践する心、良心の働きですかね。



五井昌久氏や江原啓之氏の書籍を読むことをお薦めします。
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愛(あい);自己の生命の組織(社会)性の認識によって、あらゆる衝動の発現に於ける利己過程に、利他が介在すること。



主として、性別(交配)・親子(生殖)・分業(組織)などに、個体生命の成立に於ける超個体的機能が顕著であるが、認識未だ及ばず、「自己の生存(反エントロピー)」という本質的統一性を、現象上に捕捉し得ない不完全な認識を補う、非認識的に組織化する上での近似的多元的に発達した多様な即物的衝動や他律的常識の集積による、内的矛盾に於て発生する自虐的意識行動に対し、その結果(非認識)的整合(>システム進化)に対する、形骸的概念として、主に性欲・自己顕示欲・虚栄心・偽善などの発現の上に、現象的定義域を持つ。

しかしそれは、この本質としての、生体外情報の処理システムたる認識による、自己の生命システムの組織性の追跡によって意識(必然=宇宙)を共有し、自我を超越するものではなく、近似システム(金・権力etc.)による自我の延長(自由競争)、あるいは歪曲した衝動(イズム)の手段としての自我の相乗(マイホーム主義・愛国心etc.)とでも言うべきものであって、つまり「利己過程に利他が介在する」事によって個体間闘争が回避されるのではなく、集団的に新たな、そして組織的ゆえにより強力で容赦ない、闘争段階の形成へと変形されるに過ぎず、飽くまで常識による常識の為の虚構であって、人を低認識(情動)化して充足減に導く、中毒(近充足)性毒物(非最大充足)に他ならぬ。

そこに於て、真の愛は、完全なる科学(原理認識)である。
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 ニーチェの写真をウェブなどで見ましたが、澄んだ、良い目をしていますね。

人気があるのも分かります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA% …

 馬がこき使われるのを見て、駆け寄り、それが原因で...というが真実かどうかはともかくとして、その気持ちは分かります。
http://wpedia.mobile.goo.ne.jp/wiki/7978/%83t%83 …

 シュタイナーの見解?です
http://www.asahi-net.or.jp/~TF2Y-KWI/karuma.htm
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二人の間、もしくは、観察する人と対象の間(距離、違い、相対)の中から生み出される何かです。

実在といってもいいのではないでしょうか。
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>確かに、カボチャそのままで十分でした。

ようは、回答者さんへの料理は誰でも出せる、ということです。ミシェル・ブラスは嫌味ではありませんでした。

◇まあ、そうですね、弄った料理でなければ、大体素材の美味しさを感じることは出来ますから、その素材がよっぽど悪いものでなければ、確かに何でも良いといえるかもしれません。


>私が勝手に回答者さんを買いかぶりすぎていました。

◇もち上げておいて、落とすというやり方でしょうか.

すみません、一気に興味を失いました。

◇はい、例えば(例えばです)犬は人間(個人としての)に興味は無いでしょう。ですから、構いません。

まあ、蓼食う虫も好き好きということです.
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>◇そのイメージが幻視でなければよいのですが.幻視でなかったとしても、それは単に窓から「覗いた」だけでしょう。



◇あ、そうそう、江原さんも窓から覗くのが得意なようで。

>楷書が最も洗練されていると仰る方

◇では何体が最も洗練されていると思われるのか、非常に興味深いところです.示すことは出来ないでしょう?

「あなたの自慰行為はエレガント」となど言われたなら、それこそ究極の不幸です。

◇エレガントな音楽であればいつも聴いています。そうでないものは誰でも嫌なはずです。
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>回答者さんが女性であれば話が早いのですが、ある男性への興味を失ったときのことを想像して下さい。



◇いえ、女性しか(性的には)興味はありませんので解らないですね。

>以後は視界に入りません。

◇楷書体を正しく認識できなければ、視界に入ってはこないでしょう、入ってきたとしても目に毒です。

>実際に見てもわからない人に語っても「洗練」がわかるはずがありません。見てもわからないことは不思議なことではありません。見てわかるなら誰でもファッションセンスがよいことになりますから。

◇楷書と楷書体に違いがあるのでしょうか、楷書体にもいろいろ在るようですが、一般的には楷書体はすっきりとした、無駄のない洗練された字体である と言う認識があるはずです.見た目もそうですよね.ファッションセンスはそれこそ主観の問題であり、質問者さんが実際に「観た」のであったとしても、それはやはりセンスがないと言う事になりませんか

>楷書が最も洗練されていると仰る方に本気で「あなたの自慰行為はエレガント」となど言われたなら、それこそ究極の不幸です。

◇一般的に言われている楷書体 は、洗練された字体です。「エレガント」ではないから、人に見られないところでやってください、と言ったのです。

>いえいえ、、「イメージが浮かんだら」以上の理由は私にはありません。

自分を行動にかきたてる要因として「イメージが浮かんだら」、という理由ほど自分を突き動かすものが無いというだけです。それが自慰行為であることは自分が一番知っております。

◇そのイメージが幻視でなければよいのですが.幻視でなかったとしても、それは単に窓から「覗いた」だけでしょう。
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