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私は自分が何教なのかわかりません。
無宗教なのかもわかりません。

神様がいるとは思ってないし、
わりかし現実主義ですが
親戚が死んだからお葬式に行きます。

正座して、お坊さんのお経を聞いて
周りの人と同じようにお線香をあげます。

創価学会にも入っていないし、幸福の科学も、エホバの商人にも入っていません。
家に勧誘が来ますが断っているし、興味もありません。

なので私は無宗教だと思ったのですが
お葬式に行くから仏教なのかな?と思いました。
葬式時に無理やり短いお経なども読まされたことがあります。

ということは私は無宗教だけど家族は仏教が正解ですか?

A 回答 (10件)

無宗教です。



 自分の宗派を知らないんですから。

クリスマスケーキ食べるでしょ?初詣に行くでしょ?バレンタインデーにチョコレート食べるでしょ?お彼岸におはぎ食べるでしょ、墓参り行くでしょ?可愛い子供の頭をナデナデするでしょ?人前で顔を見せるでしょ?

立派な、無宗教です。
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この回答へのお礼

全部します!
無宗教ですね
(もしくは多宗教?)
ありがとうございます。

お礼日時:2009/09/22 00:14

 外国人があなたを見れば、ライトな仏教徒です。

初詣に宗教施設に
行くのですから、無宗教ではありません。外国人には日本の神道は
理解できず、そもそも日本は神仏混交の国ですから、神道は意識する
必要がありません。

 どうしても自分の宗教を明示しないとならないときには、仏教と
するのが一番無難です。たとえばアラブ諸国では入国カードに宗教を
記入する欄があったりします。間違ってもここに、無宗教と書いては
いけません。無宗教を公言するのは共産主義者か、少なくても反イス
ラム的だと認定されかねないからです。
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この回答へのお礼

とても役立つことを教わりました!
ありがとうございます。

お礼日時:2009/09/22 21:30

あなたは、食事の前に「頂きます」をしますか?


死を、家族でなくとも、あるいは人でなくとも、悼みますか?

これらが『YES』なら『アニミズム信仰』です。

日本人の多くは、体系化された特定の宗教を信じていると言うより、
より原始的なアニミズムに近い信仰心を持っています。

生物・無生物を問わず(山など無生物や、雷など自然現象、人の作った道具すらにも)カミが宿り、
循環する命を頂くことに感謝し、自らもまた、循環する命の1つであると考える。
それもまた、信仰心です。

日本人は八百万(やおよろず)のカミを信仰し、それは体系化されていない故に、
他の宗教の体系を(ときに無節操に)借りて、信仰心を表現しているのかもしれません。
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この回答へのお礼

『アニミズム信仰』について調べてみます。
ありがとうございます。

お礼日時:2009/09/22 21:29

あなたのお家には、先祖代々のお墓は無いんでしょうか?



もし無ければ、お父さんは家を継いでいく長男ではないですね。お父さんお母さんが亡くなったら、葬式やお墓はどうしますか?

それから、お家には仏壇は無いのでしょうか?

>私は自分が何教なのかわかりません。

普通は、日本人は、特定の宗教団体に所属していない限り、自分が「何教」であるか決めてはおりません。

人生の成長過程の中で、葬式に列席したり、昔からの地域のお祭りなどに参加するようになって、仏教と日本古来の神様と接するようになります。

ですから、いま、あなたが「自分は何教か?」と考えなくても良いのです。決める必要もありません。

普通に「神仏」の行事に接していれば良いのです。

そのうち、宗教について考える時が来るかもしれません。その時に勉強しても遅くはありません。
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この回答へのお礼

お墓はあります。でも田舎です。
家に仏壇はありますが一人暮らしです。
今はこのままでいいのかもしれないですね。
常識の範囲内で式典に参加しようと思います。
ありがとうございます。

お礼日時:2009/09/22 21:28

無宗教で良いと思いますが、先祖代々のお墓はお寺にあると思います(つまり仏教)。

いずれ、家族が亡くなれば、葬式を出して、喪主をすることもあるでしょう。そうなれば「無宗教なので葬式はしません」とはいかなくなると思いますので、宗派(真言宗や浄土真宗等)ぐらいは覚えておいたほうが良いですね。お寺に行けばどっかに書いてあります。

間違っても新興宗教はやめましょう。

>創価学会にも入っていないし、幸福の科学も、エホバの商人にも入っていません。
家に勧誘が来ますが断っているし、興味もありません。

↑これは正解。
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この回答へのお礼

一応社会人として調べてみます。
新興宗教は嫌悪感があります。
ありがとうございます。

お礼日時:2009/09/22 21:27

あなたは日本教です。

あなたのその行動は日本教徒そのものです。
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この回答へのお礼

下の方にもありましたが、日本教というのですね。
ありがとうございます。

お礼日時:2009/09/22 11:08

ご質問を読む範囲では、宗教由来の生活習慣や儀式には従うものの、


特定の宗教を信じているからではないことは理解できましたが、
それでは、例えば、馬券や宝くじのようなギャンブルをはじめ、
生死に係わる手術、出産、生涯を左右する試験等のように、
人の力が及ばない運命に身を任せる時、
人智を越えた絶対的な存在に祈ったり願ったりすることはないですか?
葬式帰りに、お清めの塩をまいたりしませんでしたか?

その祈りそのものがあなたの信心であり、
おそらく既存の宗教のどれかに似たものがあるのではないかと思いますが、
それでも自分は祈らないというのなら、「無宗教」で合っています。
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この回答へのお礼

たまに願います。
ただお清めの塩は、やりたくてやっているわけではなく、まわりがやっているからやっています。
ありがとうございます。

お礼日時:2009/09/22 11:07

カトリック信者ですが、仏教や神道などにも親近感を感じており、


神様や霊魂は絶対に存在すると信じている者です。

といっても、見えないものを信じるより、見えるものや科学で証明できるものを信じる方が、楽であり自然であるというのもよくわかります。

よほど特別の宗教体験がない限り、或いは何らかの宗教の信者の家庭でない限り、それは自然なことだと思います。
ヨーロッパの人々が、何世代にも亘って、一神教(キリスト教)の環境下に置かれていたのとは訳が違います。

さて、一方、日本人は古くから「お天道様(太陽)の下では、悪いことは出来ない」という「恥の文化」を持ち、
自らの行動を律してきました。
特定の唯一神を持たず、多神教の世界に生きた日本人は、多くの「神々」や「仏」という漠然とした崇敬の対象を持ち、
等しくそれらに対し、感謝と祈りを捧げてきました。

個々の神々の厳密な存在を信じていたかとなると心もとないかもしれませんが、人類を超越した存在に、一定の畏敬の念を払い、
感謝をし、結婚式や葬儀にあたっては、神や仏のご加護を願い、
自分が良い行いをするための励みにしている訳です。

このように日本人は、特定の宗教に属していなくても、宗教には一定の敬意を払っていることが多いので、
これを「無宗教」というのは当たらないと考えます。
無神論者と無宗教は違います。
「特定の宗教団体には所属していないが、神様や宗教に対しては敬意を払っている」とでも説明すれば
いいのではないでしょうか?
西欧人には仲々理解しがたい考え方だと思いますが、説明がめんどくさければ、前の回答者の方がおっしゃるように、やはり「日本教」ということになるかもしれません。

尚、通常仏教で葬儀をやることについては、丁度学齢に達した子供が、
他に予定がなければ入れる「公立小中学校」と同じように考えればよい
のではと考えます。積極的に特定の宗教に入らなくてもこのような救済措置(?)があるのは、ある意味で安全弁だと思います。

この件については、私の次の質問への回答もご覧下さい。
海外で無宗教と言ったら無神論者ととられてしまった
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3211328.html

又、次の本も参考にしてください。
中村圭志著「信じない人のための〈宗教〉講義」みすず書房
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
読んでみます。

お礼日時:2009/09/22 11:06

日本教です。



日本教は山本七平氏が提唱した、日本人の宗教的概念で、正月は初詣、結婚式は教会、クリスマスを祝って、葬式は仏教で行う、一般的な日本人の宗教観を表した言葉です。

○○教の教徒といった場合、他の宗教を信じることはできませんし、そのような宗教が執り行う儀式に参加すること自体も禁じられます。厳密なキリスト教徒やイスラム教徒なら、神社仏閣に出入りする(観光を除く)ことはしませんし、仏教式で焼香することもできません(焼香は仏にささげる供物だからです)
それを行うと、他の宗教の行事を行ったことになり、自分の宗教を信じていない、ということになってしまうのです。

日本の一般的なキリスト教徒は、それを行ってしまうと世間での生活が成り立たなくなるため、行事的行為と宗教行為を「心の問題」と分けて、一般的な行事を行っても異教を信じたことにはならない、としているようです。

このようなことになるのは、日本自体が多神教であることが原因です。多神教の場合、特定の宗教とは別の道徳が生まれます(一神教の場合は宗教と道徳が一体です)。特に東アジアは神道・道教・仏教などの宗教的な規範とともに、儒学(儒教)のような宗教に頼らない道徳規律が混在していましたので、昔からそのような問題があったのです。ただキリスト教のような一神教と比較しない限り、そのような問題点は見えにくく、「いわしの頭も信心から」という言葉さえあるぐらいです。

このような問題は古事記以前から信じられてきた「神」と飛鳥時代以前から伝えられ始めた仏教の違いが理解されるにつれ、宗教の本質について議論が起こるようになり、ずいぶんと昔から議論されている問題です。結局キリスト教のような一神教が入っている以前は、神仏習合という考え方で摩擦を少なくするように解釈されていました。
このような考え方は「本地垂迹説「神本垂迹説」として、「神と仏は元々同じもので、日本では神、インドなどでは仏として現れたのだ」と考えられるようになりました。(戦国時代、キリスト教の宣教師が辻説法した際に、「あなたは全知全能の神イエスによって救われます。喜びなさい」と声をかけたところ、「オレの先祖はどうなる」「イエスを知らないのですから、地獄にいます」「イエスは全知全能なら、なぜもっと前に日本に来なかったのだ」と問い詰められた話があります。日本人は多神教であるがゆえに、「信じる」という言葉の意味が一神教と違うのです)

現代で「宗教」というと狂信的なテロを行うイスラム教徒の姿を思い描くのが一般的だと思います。「宗教」はとても強い規範があり、それに従うのが信仰者であると、日本人も思っています。
一神教であればそれは正しいのです(一神教は他の神仏を信じることを許しません)
しかし日本は多神教ですから、もっと複雑でおおらかなのです。

逆に、日本人は「無宗教者」ではありません。なぜなら、無宗教者といのは、一切神も仏も信じないからです。それに寓するものも信じません。
たとえば占いもある意味「超自然」で「誰かの意思」を受け取るものですから、無宗教者はそれを受け入れることはありえません。クリスマスも救世主の誕生日ですから、無宗教者がそんなものを祝うわけがありません。また神道式でも教会式でも結婚式は「神」に対して結婚を宣言するものですから、無宗教者がそのような式で結婚することはありえません。
無宗教者とは、「誰かの意思」神でも仏でもいいのですが、極端にいえば運命(なんらかの形で定まっているとされる人生)も受け入れることはありません。
ですので、日本人は無宗教者というにはあまりに無自覚ですし、神・仏を信じない(お墓の先祖に拝むのも無宗教からすれば同じです宗教行為です)から、結婚式は人前式にしたという人などほとんどいないでしょう。
少なくとも外国人に「無宗教:irreligionなど」という言葉を使うと「道徳心も持たない者」と同様に受け取られるぐらい、微妙な言葉ですので、日本人の一般的な宗教観を表しているとはいえません。

つまり日本は世界的に見て、あまり例がない多神教国家のため、なんとなく違和感がありながら、「仏教でもないし・・かといって無宗教でもないし・・」という感覚を引きずっているのです。

しかし日本人は初詣して結婚式をして葬式をする国民ですから、日本的な多神教感=日本教なのです。無理に何教かと考える必要はありません。
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この回答へのお礼


なんとなく違和感がありながら、「仏教でもないし・・かといって無宗教でもないし・・」という感覚を引きずっているのです。

まさにこれです。

日本教ですね、
ありがとうございます。

お礼日時:2009/09/22 11:02

日本ではそれを仏教徒といいます。



今度、家族が何教かくらい聞いておいてもいいでしょう。

質問者さんの葬式にも坊主がお経をあげに来るはずですから。
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この回答へのお礼

確認してみます。ありがとうございます。

お礼日時:2009/09/22 00:34

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