プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

ここ数年さまざまあって、今でもその名残なのか、「うつっぽく」なるときがあり、もう少しどうにかしたいと思い質問しました。
思春期を迎えた頃に学校関係で環境が変わって、自分の家よりリッチで、自分より頭の良い人たちと一緒に過ごすようになりました。私の家も世間的にはそこそこ恵まれた家庭ですが、周りの人とは経済的にも頭の方でも違うなと感じるようになり、劣等感を持つようになっていきました。また、そのころから(一般的なことですが)親との関係も私としては良くない方向になっていって、本当はもっとその頃悩み始めていたコアな部分を理解して欲しかったのに、ただただ勉強をしなさいとしかいわず、それほどでもないのに遊びに行く日が続くと過敏に反応して、たたみかけてきたりしました。今思うと、家でも学校でもどこか居場所の無さがあったように思います。いままでそこまでは思わなかった「私はできないんだ」という思いがたまっていって、周りのできる人たちの存在がさらにその気持ちを掻き立てました。休日も何もしないでなんとなく過ぎていき、特にお風呂の湯船に浸かるとふさぎこんでしまって、1時間は上がれなく嫌でした。お風呂でも「私はできない」と何か思ってしまって、上がって次のことをすることが怖くてなかなかできなかったんです。
そんなこんなで、自分の性格について考えるようになり、過敏な親の性格を引き継いだように思えてきました。私の場合は、自分と人とを比べて極端に反応する性質があるらしく、優越感や劣等感をことあるごとに過度に感じているみたいです。要するに自我が希薄なのではないのかと思います。ここ数年はずっと劣等感が主で、これからもそんな感じになりそうです。今は、休日などに漠然と「自分はできない」と思って、思うように活動できないことがあり、折角の人生なのだからもう少し生活を充実したものにならないものかと思っています。当然さまざまなテストでは鬱病の判定は全然出ませんが、気分として「うつっぽい」です。自分のコントロールの仕方など、アドバイスをいただければ嬉しいです。

A 回答 (8件)

ごめんなさい、本当にしつこくなってごめんなさい。


大事なことを忘れていた。最初の回答を書きながら「?」と思っていたことがあった。
>要するに自我が希薄なのではないのかと
という貴方の自己分析にのせられてしまった気がする。
これは本当に曖昧で確信はないのですが、貴方のこの言葉で私は
貴方が境界性人格者的だと思い、そういう方向で回答をし、
そういう関係の私の回答リンクなどご紹介させていただいた。
しかしどうも、自己愛性人格である気もする。曖昧だが。

パーソナリティ障害がわかる本 岡田 尊司著
http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/31711759

この本は私にとっては大きな転機となった本です。
お暇な時に立ち読みでもして、ご興味が湧いたらでいいです、強くお薦めします。

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4996006.html
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4975119.html

さあ、キリがないので、本当にこの辺で引き上げます、ケジメをつけなきゃいかん。
長く付き合っていただいて、ご迷惑をかけた。ありがとう。
私も大変勉強をさせていただきました。お元気で。
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この回答へのお礼

加藤さんの本を読み返すきっかけを頂き、非常に有益でした。
今改めて読み返したり、パーソナリティ障害について調べてみたりしてみると、なんだか昔よりだいぶ思い当たれるようになっていて新鮮な気分を味わっています。
これを機会として、自分と向き合うヒントを様々頂けて、本当に感謝しています。人から自分をいろいろな角度から見て頂き、本当に良かったです。
ありがとうございました。

お礼日時:2009/06/01 05:48

ごぶさたです。


感情体験は、まぁ絶対と言いたいところだが、実はデカいのは、無いかも知れません。
あるとしたら、揺さぶれば早く出るものです。揺さぶってすいませんでした。
将来出るかも知れない。しかしそんなに大きな傷ではないのなら、
あまり明確に感じることはできないかも知れません。でも先行き分かりません。
とにかく今、貴方が焦り過ぎなことは確かです。
私だって本一冊理解するのに何年もかかった。まぁそれは私の能力が低いからかも知れないが。

でもデカいのが無くても、小さいのはある。必ずある。
小さいものの積み重ねでも、少しずつ心は開いていく。

>自分が抱えている辛さに気づかされ泣くことはありますが

自分が可哀想だ、ということだよね。泣いた。感情だ。体験だ。理屈じゃない。
で、もしかして、世界中でこういう思いをしているのは自分だけだと思っていませんか?
「世界中の不幸を一人で背負っているかのような…」 とよく云われるアレです。
貴方と同じ苦しみを感じている人が、貴方が日頃憎しみを感じている人々の中に、
絶対にいないと言い切れますか?
もしいたらどうでしょう。
自分で自分が可哀想だ。そしたらその人のことも、可哀想じゃありませんか?
それでもその人のことが憎いですか? 貴方と同じ苦しみを感じているのですよ。

結局誰の心にも悩み・苦しみはある。たとえ質が違ってもタイプが違っても。
貴方と同じような心の痛みはある。みんな必ずある。

聖人君子のように憎しみがスッカリ無くなる、なんてことはない。
それは理想主義的過ぎる。フィギュアの女の子なんて実際にはいない。
もしそんなイメージを持っているなら、それは違う。

偉そうなことを言っても、私だって怒りや憎しみが湧くことだってある。
でも以前よりはずーっと心は軽い。曇っても、前よりずっと早く晴れるようになった。
これは間違いない。
最近もそういうことがあった(苦笑)。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4992458.html

まぁ気長にね。人生長いから。彼女でも作って楽しく生きましょう。それでは!
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この回答へのお礼

本当に今回は、いろんな発見があって非常にためになりました。
感謝です!ありがとうございました。

お礼日時:2009/06/01 05:39

>心底憎んで


一番端的に言ってしまえば、キミは未だ子供だ。「自分は自分、他人は他人」ということが分かっていない。分かっていないというより、そういう心になっていない。それは心が自立していないからだ。大人になるということは、自分と自分以外の人がハッキリと分かれるということだ。つまり未だキミは親を卒業していないのだ。

同じ人間なのにどうしてこんなに格差があるんだ、と考えるから憎しみが湧く。同じ人間でも、中身は人それぞれ全く違う。違うと思えば憎しみは湧かない。子供が騒いでも子供だから仕方ないと思えるのは、子供と自分が別だと分かっているからだ。兄弟で自分だけご飯のおかずが貧しければ、憎しみが湧く。しかしお父さんは別だと思えば、お父さんのおかずだけ良くても憎しみは湧かない。人間誰にでも富に対する執着はあり聖人君子とはなり得ないが、しかしキミは回りの人のことが、本当の意味で未だ見えていない。憎いというより羨ましいと感じる人、憎いというより憐れむべき人の数がうんと多くなれば、「心底憎んで」という心にはならない。心は軽くなる。この辺りのことは「運命のうけいれ方」に詳しく書かれてある。この本を本当に理解すれば、こういうことについて「心底憎んで」という言葉は決して出るものではない。

親に付けられた幼児の頃の心の傷は、誰にでも多少なりとはある。それがどういう形であったかで、その人の性格(パーソナリティ)に大きく関わる。そしてその程度が酷くなれば、例えばパーソナリティ障害を引き起こす。パーソナリティ障害中の境界性型は、例えば親に対する迎合という心により、自分を失ってしまう。自我が希薄というのは、これに類する場合も多い。そしてもっと酷くなり虐待などの肉体的苦痛を伴えば、時には自分の人格が分裂してしまうということまでもが起き得る。

加藤氏自身は、今でいうところの境界性パーソナリティ障害に近い人である。そして精神分析学の大家カレン・ホルナイ(ホーナイ)の自己分析を読み、それによって自分の心に抑圧されていた親に対する強い憎しみや、自分の心にあった悲しみ、辛さなどを見出してから、人生が変わったと云われている。おそらくはその頃のものであると思われる体験を、氏は同書で「バケツ一杯の涙を流した」というように述べている。

一番大切なのはここなんだ。>本当にこれぞ知識不足です。…本当は知識ではないんだ。加藤氏の本には、同じ言葉がしつこい程何度も出てくるということがある。これは要は、読者の意識の上に抑圧された怒りや悲しみを何とか引っ張り出そう、何とか本人に気づかせようとしているからだと思われる。知識ではない。体験だ。感情だ。感情体験ができたならば、本当に氏の言葉が理解できる。そして人に対する憎しみはうんと薄らぐ。

貴方のご両親が貴方をどのように育てられたのか、ここにある情報だけでは到底分かるものではない。しかし記されているその断片を拝見した限りにおいては、やはり貴方の心には傷があるはずだ。自分が親に本当に愛されて育てば、それは人を愛する心の土台を親から貰ったということだ。そういう土台を貰った人は、決して「心底憎んで」などという言葉を吐くものではない。そして本当に親に愛されて育てば、子供は健全に自分で自分を愛することができるようになる。精神的に自立できる。そしてキミ自身がその言葉の意味を本当に知るためには、単に本を読んだ知識だけでは難しいだろう。感情による心の体験を通らないと、本当には分からないだろう。

私がそうだった。例えば解離性同一性障害(多重人格)の人を見れば、可哀想だとは思った。しかしその心には「精神的な病を負った人には優しくしなければいけない」という「かくあるべし」が多分に含まれていた。しかし今は違う。加藤氏と同じような「バケツ一杯の涙」という体験を経て、自分の心の傷を感じ取ることができて以降は、自分の体験ですらあれだけ辛かったのに、それに比べてこの人のそれは、一体どれ程大きな苦痛であっただろうかと、慄然とするものである。それは同情などという生易しいものではない。結局完璧な親などいない。だから誰にでも大なり小なり心の傷がある。だから例えばこのような解離性の人に対する気持ちが拡大して、今の私はキミのような「心底憎い」という感情から脱却できている。

尚、上記においてパーソナリティ障害について少し触れたが、ご存知ないかも知れないので念のために追記する。誰にでも性格はある。よって例えば境界性人格者、自己愛性人格者というように、単にその人の性格傾向を示す言葉もある。そしてこれが酷くなれば後が~障害者に変わるだけのことだ。決してキミを境界性人格障害者だとは言っていないし、又境界性人格者であるという限定もしていない。性格であるから、分類の複数に跨るのが普通である。私なら一番強いのは自己愛性、その次は強迫性…という具合だ。ただこれらについて共通してその最大の原因とされているのは、「幼児期において親若しくは回りの人に心を傷つけられたこと」である。これは専門家による定義である。それで、ではどうして親は子供の心を傷つける親となってしまったのかとなると、それはやっぱり、親のその又親のせいであることが一番の原因であろう。更に親の親と考えていけばキリがない。だから結局は、親を恨んでも無意味である。最後は親を許す。そして親を卒業する。そして精神的に自立することだ。先ほど「気持ちが拡大して」と述べたが、結局この拡大した先に、自分の親も含まれていくということだ。

迎合については過去において下記に書いた。又迎合以外にも、沢山の人に沢山の言葉をぶつけてきた。まぁ私の過去回答もそれなりに役立つという自負はあるのだが、やはり加藤氏のそれとは比較にならない。そもそも加藤氏の影響大で書いたものだし。向こうはプロだし(笑)。

繰り返して言うが、一番大切なのは心の体験だ。感情だ。知識ではない。それがあって初めて、知識は本当に役立つものとなる。


~迎合ということ~
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4922134.html 回答番号:No.14

~その他 参考~
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4945040.html 回答番号:No.6

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4917219.html 回答番号:No.2

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4917631.html 回答番号:No.2

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4918859.html 回答番号:No.11

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4912075.html 回答番号:No.3

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4946105.html 回答番号:No.3 No.4

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4936942.html 回答番号:No.4

この回答への補足

遅くなってしまってすみません。

あれからなんだかんだと忙しくなって、ちゃんとこの問題に向き合う時間が取れていないように思います。

そんな中で私何悩んでいるのだろうと思うこともありますが、やはり自分が無いので人と比べて焦ったり落ち込んだりという傾向は昔と変わらず、と言う感じです。

回答者様がおっしゃったことや、加藤さんの本などを読んで、自分が抱えている辛さに気づかされ泣くことはありますが、だからと言って実際的に根本的に変わっていっているのかというのは甚だ疑問です。

これから何かを感じることで自分の中に積もり積もっている周りの人間への憎しみを消していけるのか、正直自信ないです。

昔のような、意味無くぐるぐるするのをやめたいなとは思っていますが・・。

感情体験するまで 結構待つことになる気がします。
(私の中で まだ感情体験ということが なかなかしっくりきていないのも事実です)

補足日時:2009/05/29 23:51
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この回答へのお礼

度々のご回答 本当にありがとうございました!

お礼日時:2009/05/30 00:18

>厳しく客観的に自分を捕らえようとしても、


捕らえる× 捉える○

それじゃ厳しいことを言ってもいいかい?

>うつ(病)ではないのですが、ここ数年「うつっぽく」ってなんかうまく行きません

新品のテニスラケットに傷がついたら、悲しいだろう。でもそれは欝ではない。
厳しい現実に直面したら、辛いだろう。苦しいだろう。時には落ち込むだろう。
時には「欝的精神状態」に陥るだろう。誰でもそうだ。それが正常だ。当たり前のことだ。

欝ではなくて、単に厳しい現実が押し寄せてきているだけのことだ。
それ位分かっていれば、間違ってもこんな質問文はアゲないだろ。

うつっぽい気分が問題なら、ヒロポンでも打てばどうだ。毎日酒でも飲めばどうだ。
しかしそんなことをしていたら、ますます現実の問題から遊離してしまう。

だから、何が問題なのか? それは厳しい現実の方だ。
本質と二次的なものの区別をつけることだ。

「いやそれは分かっているんです、質問の内容を読んでもらえば分かるだろうと思いました」
…もしそんな言い訳を考えているのなら、それは甘え・我がままだ。
最低でも真意が伝わる「共通の言語」を話さなくても、だいたい人は分かってくれるだろうと。
これが甘え・我がままでなくて何だ。キミの言葉にはそういうものが多い。

…以上まぁチョット、無理矢理厳し過ぎる解釈をしているという噂もあるようだ(苦笑)。

人様の親を想像だけで悪く言うのは申し訳ないが、
おそらくキミは親に泳ぎ方を教えられないまま、海に投げ出されたのだ。だから泳げなくて当たり前だ。
しかし一方において、親に泳ぎ方をしっかり教えてもらってから、海に投げ出された人もいる。
そういう人は楽に上手に泳げる。当たり前だ。

キミはもう幼児ではない。もう海に投げ出されたのだ。
これからはどんどん、厳しい現実が押し寄せてくる。
加藤 諦三さんは著書 "「大人になりきれない人」の心理" で、
「人生は次第に厳しくなっていく」とおっしゃっている。今キミはその入り口にいる。

「うつっぽくなる」~ 気持ちは分かるよ、実は(笑)。自分も若い時そうだったから。
しかし、この問題は、実は相当根が深い。
要は、厳しい現実がもたらす辛さ以上に「何か」がある、ということだろ。分かってるよん。

>過敏な親の性格を引き継いだ →そんな簡単なことではない。
>要するに自我が希薄 →よく自分で気づいた。ここは偉いぞ。

私は随分な歳になってから気づいたので、大分損をした。
だから若いキミには、そういう思いをさせたくない。

だからとりあえず、加藤さんの本を熟読することを、強くお薦めする。
もう読んだ? それなら上のようなことをキミが発言するハズはない。もっとしっかり読み給え。
読んでない? それじゃ先の本と、それから「運命のうけいれ方」をとりあえず読み給え。
私のような歳になる前に。今なら間に合うぞ。
大きなものを得るためには、それに匹敵するだけの大いなる努力が必要だ。
たった本を二冊読むこと位、わけないだろ。絶対に損はさせない。
これらの本には、「自我が希薄とはどういうことなのか?」~それがしっかりと書いてあるから。
コントロールの仕方とか、そんな生易しいものではないはずだ。でも大丈夫だ。とにかく読むことだ。
健闘を祈る!
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この回答へのお礼

ものすごく びびっとひかれたので もう今書いてしまいます

読み足りないのでしょうか

1,2年前に これは自分でうつうつしていてもしょうがないから 外部情報を取り入れようと思って いろいろ 心理学系の本を 試した時期があったんです

加藤さんの本は その時に出会っていました
そこで 親の影響が少しはあるのではとか 自我が希薄とか 神経症の子供は神経症になるとか いろいろ読むだけは 読みました
図書館行ったり 安いので文庫本で結構買ったりしました
加藤さんは 著作がものすごく多くて その中で 同じことをいろいろな形で例を示しながら おっしゃっているように思います
生き直すのが人生だとか いろいろ 今の自己認識に 役立っている部分はあります。

でも 結局 新たな認識は進んだけれども だからといって っていうかんじがしてきて 最近はお久しぶりな感じです。

とにかく 家を出て生活することだ とか書かれている部分があって 励まされたこともありました。

もう一回読んでみます ちゃんと。 ありがとうございます。

今回は 自分のことについて 直接他の方から意見を伺えたので そちらに大きな意義を 感じております。


回答者様のような厳しさは 全く苦になっておりません。(変換ミス すみません爆)

たしかに 厳しい現実と 鬱っぽいという気持ちを はっきり分けなかったのは 認識不足他なりません。ご指摘 大変感謝しております。

再受験することになったときに 今相談したことを割と率直に話したら親に「泣きが入るとは思わなかった」と言われました。これで結構決定的に 一方的に 親との距離感を感じるようになりました。

ご回答に便乗させていただくと、泳ぎ方を教わってうまく泳いでる人と 表面的には仲良くしながらも心底憎んで 生きてきてる感じがします。

自分では「なんとなく」は昔よりなくなって やっと問題を人に説明できるようになったんだな っと思ってましたが くたくたに甘かったですね。本当にこれぞ知識不足です。もっと勉強してきます。

ここで相談してみて 本当に良かったです。
ご回答 ありがとうございました。

お礼日時:2009/05/17 23:55

誰しもそういう道はとおると思います。


質問者様の周りの、一見さして悩んでなさそうに見える人でも
何不自由なく生活してそうな人でも、そういったことはあると思います。
それは質問者様のご両親も同じ事。
過敏に思われる性格は培われたもので
遺伝もあるのかもしれませんが
それがすべてではありません。
だからそこに原因を見出して納得したい気持ちはわかりますが
自分の性格や考え方は自分次第で変えていくことも可能なので
あえて親のせいって枠を設けなくてもよいのではないかと思います。
親は親です。

比較対象としてはあまり信用できない他人
(共通する基準はありますがそれもまた多岐にわたるので、正確に優劣はつけ難いです)
に一喜一憂するのなら
どうせなら利用してみてはいかがでしょうか。
比べてみてどうせ自分はって思うのではなく
あそこまでいくぞ!みたいに。
自分が行動を起こさない、起こせない理由を自分でつくって
その中にとどまっている感じです。
動くのは自分、変えるのも自分です。
そしてそれは難しくありません。
目の前のできることから一つ一つ片付けていくと
知らないうちに違う景色がみえるようなところまでいってます。

劣等感は伸びる可能性を秘めています。
問題点を逃げずにきちんと捉え、
それを解決するにはどうしたらいいか考えてみましょう。
停滞している自分に目を向けるよりも、
策を考えるほうが進めると思います。

あとは脳が暇だからそういうことを考える面があると思います(^_^;)
熱中できることに時には時間も寝食も忘れるくらい
熱中してみるのもいいと思います。

この回答への補足

No.1の方への補足にも書きましたが、ちょっと状況を変えるチャンスがあったので思い切ってそうしてみました。
自分としては久しぶりに少しかはやったという感じでしたし、前と比べて少しかはできるようになり、今に至ってます。
でも、その周りの人たちほどにできるようにはならずに一区切りついてしまいました。
これからは、評価基準も変わっていくことですし、あぁあの時こつこつやってれば・・というのが率直な気持ちですが、どうにもならない時期だったんだしもう過去のことだからそれはそれにしておいて、今を考えようとも思っています。
すこしずつ、いろんなものをやっていきたいという気持ちはありますし、少しかはやっているつもりです。劣等感が引いていくにつれて熱中できるのかな、とも考えましたが、もういっそのこと思い切って昔の人のことを忘れて熱中してみるというのも手かなと思えてきました。ただの現実逃避になっている気もして・・・ですが。あと過去に(傍から見て)あることに熱中していた時期があって、熱中するならあんな感じになるのかなぁというあきらめの気持ちがやはり残ってしまっています。あーでもあの頃は「熱中」に見えた「逃避」だった気がしてなりません・・・(ちゃんと熱中したことあるのかな私・・)

補足日時:2009/05/17 09:35
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この回答へのお礼

自分ひとりで考えると、厳しく客観的に自分を捕らえようとしても、他の方からの視点すべてを持てるようになるというのは絶対にできないことだと改めて感じました。
御回答ありがとうございます。
今まで問題点なども自分で考えてきてはいますが、このように相談をして回答を頂く中でもっともっと見えてくる気がしています。
時には自分で考え、時には人に聞いてもらいながら、時間をかけて自分と向き合っていければ良いなと思っています。

お礼日時:2009/05/17 10:11

そういう、嫌なことに対する抵抗の末路として「うつ」を含んだ「自分以外に責任がある」という結論に逃げ込む思考回路って、すごく良く分かります。



私もそうでしたから。というか、みんなそうなのでは…。

以下、あくまでも私見ですが。

私の場合、「私にはできない」を「私はできる」にすることで、克服しました。まあこう書くだけだとかっこよく見えますけど、実際には何年も涙と鼻水を出しながら嫌なことから逃げまくった末に決まった覚悟です。

「私はできる」、これをどう実現するのか。それは、親御さんの言った「勉強しなさい」。これしかありません。

勉強、って言っても学校で言われるような勉強ばかりでは無いんです。参考書と教科書がこの世のすべてではない。

勉強の対象は、スポーツでもいいし、映画でもいい。実際のところ勉強というのは成績の競い合いとか、少しでもいい大学に入るとかではなくて、「能動的な習慣」、言いかえれば「自由」を身につけることだと思っています。

「自由」であれ、ということです。

自分がいない、自分が何者なのか分からない。いままでであれば、親に、他人に、モノに頼れば彼らが「自分」を埋めてくれていました。自分が何者なのか、決めてくれていました。ですがそれを由とできるのは子供時代までです。

実際、あなたも、思春期を迎えたころ、人生で初めて、新しくなった環境に自分が決められるのを拒否しました。自分以外に自分がどういう人間なのかを決められるのは嫌だけど、自分自身がなにをしていいのか分からない。そんな、宙ぶらりんの状態だったのだと、思います。

これからは、自分という存在を自分自身で作っていかなければいけません。そして自分とは、つねに未来にも過去にもいない、現在何をしているか、それだけの存在です。

よく、過去や未来の自分を持ってきて「これが本当の私」とやっているできそこないの大人がいますが、そんな人間は確実に不幸になります。過敏な親、という過去のせいにしたりとかね。私の場合は未来の自分をもってきて不幸になってましたが。

これからは、自分が何者なのか、自分で決めてみてください。そのためには、親や、他人や、モノに頼ってはだめです。能動的に、何かを「し続ける」ことで初めて、自らのよし、自らのゆえ、自由な個性は獲得できます。能動的とは、「自分で、なぜそれを自分はするのかという理由を考えた上で実行する」ことです。

自ら何かを由としてする、といっても、一回の挑戦でしっくりくるものをみつけることはできないでしょう。色々なことに挑戦しながら、自分を見つけ出していってください。

長文でまとまりがなかったですが、何かの参考になれば幸いです。

この回答への補足

いろいろやってみたい気持ちは結構ありますし、少しはやっていると思います。

今でも「やらなくてはいけないもの」というのは当然あって、それを消化しないと他のことがなかなかできません。

そのためにも、「自分はできない」とか思って動かないで過ごしてしまっている時間を活動する時間に変えていきたいのですが、
期限ぎりぎりになってやっと無理矢理自分を動かすというのが現状でなかなか思うように行きません。

やはり、時間をかけて試行錯誤するしかないのでしょうか・・

(出遅れるともう何もする気が一旦無くなって、ものすごく時間が経ってからやっとやろうかという気分になってきます)

補足日時:2009/05/17 10:24
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この回答へのお礼

遅くなってしまってすみません。
とても参考になりました!ありがとうございました。

お礼日時:2009/05/30 00:21

ぜんぜんたいしたことがおこっていないのに


おおげさに書きたてていますね。
これは知識が乏しいのが一因です。
貧しい時代のドキュメントをたくさん知ると
治るかもしれません。
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この回答へのお礼

確かに了見が狭くて世間知らずなのは事実です。
そのような見方をしてくださるのも非常に有難いことだと思っています。
でもここでいろいろな誤解をされないために、一つ二つ言わせてください。
親はたいしたこともないのにおおげさに悩んだり表現したりする人です。そして実際私も大げさだと周りに言われたことがあり、その辺は少しは認識しているつもりです。景色をみてすがすがしくなると、世間的に見れば私の悩みなんかどうってことないんだろうなとかも思えてきます。
また、周りより少し経済的に・・というところを取り上げて指摘しておられますが、片方の親は貧しい時代にヤギの乳で育ったような人です。というより、裕福な人からみて耐えられないのではないかと思える現実とむきあって生きている恵まれない人々が世界中にいらっしゃるのは少しは知っています。がばいばあちゃんではありませんが、貧しくても明るく暮らせる人もいれば、裕福でも暗くふさぎこんで暮らす人もいます。だから、もっといろんな人生の形を知っていくべきなのはもちろんですが、恵まれた状況にありながら悩んでいる自分の現状も考える余地のあることだと思っています。ばかばかしいと思っていながらも神経がそちらに集中してしまうのをどうにかしていかないといけないというのはあります。

お礼日時:2009/05/17 08:57

こんにちは。



私も質問者さまと同じような環境になったことがあって、
そのときは本当にカウンセリングにかからなければならなくなりました。学校側から心配されたので。

居場所がないの、つらいですよね。

でもあせらなくて大丈夫。てゆうかあせらないで!
自分が没頭できるものをひとつみつけるといいですよ。
音楽をきくとか、絵を書く、ネットでもいいし。
(ただ度が過ぎると依存症になってしまうからほどほどに)
私は高校3年のときは皆が受験で自分のことしか考えなくなるから
かえって気が楽になりました。私は歴史が好きだったので、死ぬほど勉強して世界史だけは学年トップでした(でも選択者30人)。
就職活動のときも、みんな自分のことで精一杯になるので、これもある意味らくでした。逆に仲間意識(就活や勉強がんばってる)になるし。

だから、いまはそういう時期でも、そのうち劣等感が外れる時期が必ずくるから!

ただ、お友達がいないと学生時代すごくさびしい思い出になってしまうので、適度にあわせられるお友達とは仲良くしましょうね。

ご両親は、年頃だから過敏になるのでしょう。
ただあまり過干渉(携帯の、親からの着歴が異常だったり、机の中などみられてたり)だったら問題なので、それは専門の先生に相談したほうがいいと思うけど、そうでなかったらそれも適度にあわせておけば大丈夫。

自信持ってね! 応援してます(^_-)-☆

この回答への補足

ちなみな話ですが、私には周りが自分のことで精一杯だから気が楽になるという回路はないようです。むしろ周りができるから私はできないという思考回路に陥りました。教科に好きも嫌いもあんまりないし、受験期は自分がどこまでできるのか感覚的な予測というか勝算というか自信というかが無くって、それほど勉強もせずに終わってしまいました。
あとそのころはできるというなにかしらの勝算のようなものがないから環境を変えるまでは勉強したくない(その環境と自分に対する逃げなんでしょうけど)という感じでした。なのに親に言われたから勉強をする、ということになると、親のための受験になってしまいそうで、それがすごく嫌でした(どうせこれもまたあてこすりなんでしょうけど)。
で、補足しておくと、その後再受験をこころざし、親と極力関わらない生活を送り、あの周りの人ともあんまり会うことなく何とか勉強を始めていったら、前より少しかは一般的な「勉強」ができました。

補足日時:2009/05/17 09:12
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この回答へのお礼

遅くなりました。すみません。
ご回答 ありがとうございました!
そういってくださって 心強かったです。

お礼日時:2009/05/30 00:23

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