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 ではないでしょうか? 次の理由により 哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか?

 理由その一: わたしは 過去世のこれこれという人間から 生まれ変わった者であると言うのは 自由である。その自由というのは 証明もできなければ 反証のしようもないという意味である。

 理由その二: 生まれ変わりというこの考え方には つうじょう 因果応報説も ついている。けれども このように 宇宙の始まり以来 いわゆる善因善果(ないし楽果)および悪因悪果(ないし苦果)のもとに 生まれ変わるとすれば ひとつの行為は つねに 例外なく 自業自得という意味である。仮りに人を殺しても 殺すほうも殺されるほうも まったく寸分たがわず それぞれが 自業自得だとなる。それ以外に考えられない。

 理由その三: ひとつだけの生涯ではなく やり直しが効くように 転生の思想があるのだと反論を聞いた。けれども それだと この今の人生については もはや 努力をしないと宣言したようなものである。たとえ 来世があるとしても それを頼まずに 今世にて やれるだけのことをやっておくのが 筋というものである。つまり 生まれ変わることを 念頭に置くのは 意味がない。

 理由その四: 民主主義ないし 思惟や行動をふくむ表現行為の自由ということ この自由が まだ 制約されていたときには 《たとえこの今の生において 達成し得なかったとしても 次に生まれて来たときには 必ず 成し遂げるぞ》という気概を表わしていたかも知れない。けれども 現代においては かえって 安易な考え方になってしまう。言いかえると 安易な考え方を持つなら 持った途端に 努力とそのための能力が 萎える。それゆえに 精神をめぐる病いが現われるのではないか。すべて ここに原因があるのではないか。

 真実をおしえてください。

A 回答 (114件中1~10件)

No.43で回答したものです。

ご返事ありがとうございます。前回は質問内容からずれてしまった回答になってしまったので、今回はまともに回答をするつもりです。


>輪廻転生説は 愚の骨頂 に関して私が思うことを書いていきます。

まず、輪廻転生説といいますが最終的に行き着く先は人間が死んだあとの世界はあるのか?それともないのかという話に帰結するものだと考えてます。
そして、現在の西洋哲学では私の知る限り人間の死後に対して明確な回答をした人物はいないと断言できます。(少なくとも根拠を示した人物はいないはずです)
そういった意味で西洋哲学における輪廻転生説は誰も証明しておらず、いまだに輪廻転生説を悪用して自分の利にしている人たちを見るのはうんざりです。まさに哲学が取り上げるには値しない主題というよりも、証明も客観的な根拠を示していない主題のうえで何やってんだ!って感じですね。まさに愚の骨頂であるというのは同意です。


次に私が仏教の輪廻転生説を書いた理由として、ある程度の客観的な根拠を示されているということが挙げられます。それはNo.43で書いた

1.キリスト教では死んだ後必ず天国に行くんですよね…。この世よりもずっといい世界なんでしょう。じゃあ、なんで人が死んだときあんなに悲しそうに葬儀に参加するんでしょうか?死んだら天国なんだろ!もっと喜べよ参列者!!今の世界よりいいとこいくんだからバンザイをしろよ!!

2.人が死んだとき冥福を祈るという言葉が贈られます。冥福とは冥土の幸福を祈るってことですよね…。冥土とは死んだ後の世界のこと。(これで死後の世界を信じてますね)しかも幸福を祈る…死んだあとの世界が不幸だから幸福を祈るんですよね?これって死んだあとが不幸になるって思っている証拠になりませんか?

という2つの根拠が示されたということにあります。この2つは少なくとも人間は死後の世界があると信じている、かつどうも死んだあとは不幸な世界に行くとわかっているのではないか?というものです。

この2つの謎は輪廻転生が事実であれば、簡単に謎はとけます。

(1)人間は輪廻転生しているがゆえに死後の世界があると無意識下でわかっている。(今までの経験上)
(2)今の私たちは過去遠い昔に人間であったときがあって、その時死んだ後地獄に堕ちたという経験を持っている。だから、死んだ人間に対してその人間は地獄に堕ちたということだから、わざわざ冥福、死後の幸福を祈っている。

という説明で謎はOKになるでしょう。

少なくとも私にはこれらの根拠を崩せるような持論がなかったため掲載させていただきました。もし、崩せる方がいたら本当に崩してください、お願いします…。


最後に
> たとえ《死後》のことが分からなくても ひとは 生きているうちに 一生懸命に 努力をするのであり 勤勉です。どうして 《死後が無く 未解決の課題が残されるからと言って 道徳が崩れ落ちる》のですか? ただ そういうふうにしか考えられなくなっているあなただけの問題ではないのですか?

について。これは中国最大の思想家に対する挑戦そのものですね!
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/71479/67603/5 …

まあ、かいつまんでエピソードを書いていきます。孔子の門弟で最高の人格者であった中国の顔回という人物がいた。しかしその生涯は極貧な生活で、しかも若死にした。
それに対して盗跖(とうせき)という同時代に生きた大泥棒は悪事の限りを尽くしながら、富貴栄華を極めて死んだ。
この事実を前に「善を進んでやれば必ず幸せになれる」と説いた孔子のなすすべはなかった。。。
というお話ですね。つまりこの世で努力しなかった盗跖はこの世で幸せであった。しかしこの世で努力したはずの顔回はこの世で不幸せであったと。。。

この件に関してはどう思いますか?もし完璧な反論をしたいなら少なくとも質問者の方は孔子を超えた思想家にならなければなりませんが…。


ROMに戻るとかいってまた書き込んでしまいました…。今度こそROMに戻ります、失礼しました。

参考URL:http://www.geocities.co.jp/Bookend/3756/seidan.i …

この回答への補足

 umaruko さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 では 《孔子を超えた思想家にな》りましょう。
 【Q:ぶっきらぼうは いただけませんか】のほうで やり取りがあったのですが 《理由その四》の民主主義の歴史的な進展ということに かかっていると考えます。
 社会が 二階建ての構造になったという問題です。国家ですね。その成立の以前と以後とでは 社会生活もしくは人間と人間との交通関係 これが 基本的に 変わった。あたかも地割れを起こし 断層を作ってしまった。それが 二階建ての意味です。一階は スサノヲ市民社会で 二階は アマテラス公民圏です。
 例証します。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 籠(こ)もよ み籠持ち           
 堀串(ふくし)もよ み堀串持ち       
 この丘に 菜 摘(つ)ます児(こ)         
 家聞かな 名告(の)らさね       

   そらみつ 大和の国は        
   おしなべて われこそ居れ       
   しきなべて われこそ座(ま)せ        

 われにこそは 告らめ          
 家をも名をも                
 (オホハツセワカタケのすめらみこと〔雄略天皇〕 万葉集 巻一・1番)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このうたは 《本来 春の野遊びの若菜摘みの歌が 雄略物語にとり入れられた一首》で
 ▲ 《その際 〔中ほどの三句が〕 挿入された》(中西進:万葉集  全訳注原文付 (一))
 ☆ と解説されます。このとき もしそうだとしたら それは 若菜つむスサノヲ市民らの生活圏の間にというか その上部の第二階に 三句のアマテラス公民の視点が突如加えられているのだと推し測られます。であるから そのように二階へ上がったという《アマアガリ》には 民主制の観点からは 疑問が付きまとうというものです。

 言いかえると まだ現在も 国家は存続していますし その二階建て構造は 変わっていませんが しかし 主権在民であることに間違いありません。スサノヲ市民主権制ということです。アマテラス公民たちを われわれの税金で食わせてやっているというわけです。
 ところが しかも ヨーロッパや あるいは 中国とも違って わが日本は じつは 神話によりますと スサノヲ市民たちは アマテラス公民に 基本的に言って 国ゆづりをしたと言います。その結果 西欧や漢民族の内部およびその周辺民族との間において スサノヲ圏とアマテラス圏とが つまり 上と下とが 回転( revolution )して 権力の当事者が 入れ変わるというわけではなかったようです。
 つまり 主権在民制になるまで スサノヲ市民らは ときを待っていたわけです。じっと我慢の子だったわけです。この一事をもって 《未解決問題が 死後に託されるという〈思い込み〉が なくても 道徳実践が止むことはなかった》と考えます。そうして わたしたちは 一般に いちいち 因果応報といった説にまで 持って行って 固定することもないと 考えているのではないでしょうか。

 ふつうに勤勉なのです。スサノヲ市民らはです。どれだけ公費着服やら浪費をしても おまえたち しっかりせよとは言いますが ギロチンにかけるところまでは進まないのです。やがて アマテラス公民たちは 人間には ひとりの例外もなく 仏性があるということに目覚めて ひざを折って 懺悔でもするようになる。のではないでしょうか? 
 いやいや わたしたちも 到らない人間です。ともに ふたたび われらが日本を よき国にしていきましょうと われわれスサノヲらは 答えるでしょう。

 この歴史過程に 輪廻転生など なんら 関係ないのです。それぞれ その一生を 精一杯生きて――それにしても 長寿国ぢゃないですか―― 死んでいくだけです。こんなたのしい ゆかいな国は ないでしょう。えっ? まだ そのようには出来あがっていないですって? では そのように作り直していけばいいでしょう。少しづつ 一歩一歩。

 新しい天と新しい地が ここに 成るかも知れません。どうですか?
 輪廻転生説は 愚の骨頂の理由説明でした。

補足日時:2009/05/05 20:30
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学問が足りないせいかもしれませんが、


お釈迦様が説明されたという輪廻転生はいわゆる生まれ変わるという意味ではないとおもいます。なぜか、仏教の教えでも時代を経るたびに人生をやり直す、違う人や生物として生を繰り返すなどの意味を濃くしていきます。
私はこの考え方を支持しません。

むしろ、お釈迦様はインド伝統の輪廻を否定していると感じています。元々基本的な仏教の教えは輪廻からひたすら解脱することを目的としていたはずです。
また、一部科学的な意味を示唆する部分も感じます。つまり死んだら土に帰り、植物を育て、人間を含んだ動物が食べるというサイクルの一部としてエネルギーとし他者の命を犠牲に自らの命を繋げ流れて行くものです。
その他にも、心の動きの説明としての輪廻もあると思います。個人的な心の動きだけでなく、誰かの魂を受け継ぐと言った意味のものです。
しかしそれらは、前世があるとかあの世があるとか、そのような話ではありません。

なぜ、仏教はお釈迦様が否定したことを、肯定していたかのように教えているのか疑問です。但し、お釈迦様の考えを純粋に広げようと思ってもポピュラーな考えでも、人々の欲しい答えでもないので、その他の良い教えを伝えようと思っても興味を持ってくれなかったり、人々の平安が得られなかったりするので、そういった意味では後世の僧侶は正しいのかもしれません。まさにウソも方便です。ウソも誠にしてしまっているような気もしますが。

質問者さまの仰るように、個人的には輪廻思想は愚の骨頂と思いますが、人間何かにすがりたい時には特に、そのような考えにすがりたくなります。そういった意味で、哲学が全ての学問の元なれば、その思想を持つものが多く、それを否定するだけでも、取り上げるに値すると云うことではありませんでしょうか。

なにか、矛盾が多い文章で失礼いたしました。
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この回答へのお礼

 hanakuso10 さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ★ むしろ、お釈迦様はインド伝統の輪廻を否定していると感じています。元々基本的な仏教の教えは輪廻からひたすら解脱することを目的としていたはずです。
 ☆ を わたしの解釈において 基本的なお答えとして 受け取りました。
 ★ なぜ、仏教はお釈迦様が否定したことを、肯定していたかのように教えているのか疑問です。但し、・・・まさにウソも方便です。ウソも誠にしてしまっているような気もしますが。
 ☆ 先の哲学としての解を前提にしつつも ひとは その上で 自分の文学作品を編むことがある。と受け取りました。

 重ねて確認しますと 文学ですから 《生まれ変わり》ということを想像しても まったく自由なのですが 基本的には・哲学としては
 ★ お釈迦様が説明されたという輪廻転生はいわゆる生まれ変わるという意味ではないとおもいます。
 ☆ と受け取りました。
 ありがとうございました。

お礼日時:2009/05/23 05:25

 ANo.114関係:


  ☆遺伝子をめぐって同じ人間存在はいないという知解を超えて
  ★輪廻転生に遺伝子やら、同じ人間存在というもの(で)は介在していない。

  ☆輪廻転生には深い意味がある。かどうかは ここでは どうでもよいことです。
  ★深い意味を説明するのが趣旨ではなく、
「哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか? 愚の骨頂」と言及するような哲学には窺知しえないことがらであり、そういう論及こそが愚の骨頂で、身を退いているべきだという事にすぎない。
 
 ☆知的に論及することは無意味である、というよりも 知的にあつかう主題をなさないという命題について 問うています。
 ★当然知的主題ではありない。身を退いているべきです。輪廻転生のことを、論理の現象世界の知性の着物を着せて表現したり、受け入れさせようとするとしたら、それは不可能であり、逸脱です。 
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この回答へのお礼

お礼日時:2009/05/22 14:51

少し誤解があるように思われますので、手直しいたします。



No.113にて、ロボットが心を持つとしたときに、少なくとも2段階に分けて考えるという条件を示すのを忘れていました。

2段階とは
1.第1の段階(哲学的ゾンビ状態)
2.第2の段階(人間と同等の状態)
です。

哲学的ゾンビ状態は、工学的・機械的・科学技術的に組み立てたり、分解したりして、元の状態に復することが可能な状態を意味します。

ようするに、自由意志といった概念ないしbragelonne様の言うところの《経験思考を超えた・つまり非思考としての わが心の伸び もしくは 明けとしての志向性》(私的には、「能動性」という単語をよく使いますが)とか言った概念(以後、+α)が加わることで、第2段階(人間と同等)になると仮定しています。

第2段階にて、「唯一無二の、かけがえのない存在」となり、「分解して元に戻そうとしても出来ない」(すなわち、個体の死と同等の状態)になるわけです。「非我」で用いた「諸関係の束」といった概念でいえば、再度組み立て直したときに「+α」に相当する糸(見えない糸)が欠落していることに気がつかないということに相当します。

無論、哲学的ゾンビ状態(第1段階)のロボットも、機能を停止したり、分解されたりすると「死」という概念で扱われる状態になります。

で、哲学的ゾンビ状態のロボットが出来たとします。
たとえばロボットA君がいたとします。
===
ロボットA君は、ある日犯罪を犯して処刑されました。
その人工頭脳内のA君の「哲学的ゾンビの魂」を司る部分を、別のロボットB君を組み立てるときに埋め込まれました。ただし、彼はA君ではなくB君であるという認識を行うように設定されており、成長に伴って少しずつA君の心にアクセスするようになっていました。(それ以外は、設定を変えていないとします)
ある日、B君の思考回路がA君の「哲学的ゾンビの魂」の全領域にアクセスし、重大な犯罪にて処刑されたことも知ります。
B君がA君の「生まれ変わり」だと知り、A君の部分を排除しようとするかも知れませんし、さらなる犯罪を犯すかも知れません。
いずれにしても、その後のB君の行為は「前世のA君」の行為と強く結ばれてしまっています。すなわち、「個から個への輪廻」相当になります。
===
といったストーリーを念頭に置いて、前回の回答欄に記載させていただきました。
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この回答へのお礼

 k_jinen さん ご回答をありがとうございます。

 あくまでも仮りの話としてである上に 
 ★ 「哲学的ゾンビの魂」を司る部分 / かつ これを別の者に埋め込む
 ☆ という仮定の話です。
 ★ 「哲学的ゾンビの魂」
 ☆ というのは
 ★ +α
 ☆ のことなんですか? もしそうなら そんなものは 取り出すことなど出来ないでしょう。
 ★ 能動性 ないし 志向性
 ☆ なんでしょう? 取り出せますか? 
 もし取り出せるとしたら たしかに
 ○ ひとは それぞれ かけがえの無い存在である。
 ☆ ことに挑戦しています。これを覆そうとしています。そして それだけのことです。そうしたいなら どうぞご自由に。
 
 ですが 輪廻転生は そのことが出来てやっと 話が始まるというものです。それだけの話です。
 たぶん そのときには 哲学など要らないでしょう。かけがえの無さを生む信仰が 人工のものになるのですから 明らかに 別種の人間になります。

 どうも 例の独我論というあれが このようなゾンビを生むようになったのではないか。もうこれだけの話です。なにかありますか?

お礼日時:2009/05/20 06:55

 輪廻転生には深い意味がある。


 知的に論及することは無意味である。
 輪廻転生が値しないのではなく、哲学という知的れクリエーションとか体操が資格がない、値しないということに過ぎない。
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この回答へのお礼

 遺伝子をめぐって同じ人間存在はいないという知解を超えて
 ★ 輪廻転生には深い意味がある。
 ☆ かどうかは ここでは どうでもよいことです。
 ★ 知的に論及することは無意味である。
 ☆ というよりも 知的にあつかう主題をなさないという命題について 問うています。
 それ以外のことは 問題ではありません。

お礼日時:2009/05/19 11:00

あと、もう一つの切り口について、提示するのを忘れておりました。


(といっても、既に、No.101にて触れておりますが)
これは、

1.ロボットに心があるか?
2.心をもつロボットが出来たとして、そのロボット本体を完全にコピーしたとき、心もコピーされるのか?

等にて扱われる「意識のハードプロブレム」(ディヴィッド・チャマーズ)といった概念領域に関連します。※

もし、上記が可能ならば、ロボットの世界にて「個から個への完全な輪廻」概念は意味を持つでしょうが、上記が不可能ならば、ロボットの世界にて「個から個への完全な輪廻」概念は意味を持たないでしょう。

ハードプロブレムに関する問題は半ば哲学の領域ですので、上記問題に限ったとしても「個から個への完全な輪廻」概念は、哲学の主題として扱うべき問題になろうかと思われます。

※ちなみに、チャマーズの定義では「(哲学的)ゾンビ」という概念に相当します。

この回答への補足

 k_jinen さん ご回答をありがとうございます。
 ですが あなたは 対話ということを ご存じでない。いくら回答者だからといって 自分勝手な議論(対話)の進め方をしていってもよいというものではありません。
 項目ごとに 一つひとつ どれだけ 問題は片付いたのか それについて 互いに 合意が出来たのかを確めあいながら 話をすすめていかねばいけません。
 
 ★ ハードプロブレムに関する問題は半ば哲学の領域です
 ☆ と言えるのでしょうが
 ★ 「個から個への完全な輪廻」概念は、哲学の主題として扱うべき問題になろうかと思われます。
 ☆ にはなりません。《哲学的ゾンビ》は 生まれ変わりとは 関係ありません。(文学的に関係づけることは ご自由です)。

 ▲ (ヰキぺ:哲学的ゾンビ)~~~~~~~~~~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E5%AD%A6% …

 哲学的ゾンビという言葉は、心の哲学の分野における純粋な理論的なアイデアであって、単なる議論の道具であり、「外面的には普通の人間と全く同じように振る舞うが、その際に内面的な経験(意識やクオリア)を持たない人間」という形で定義された仮想の存在である。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ この《哲学的ゾンビ》について たしかに 上で わたしも

   ★ ハードプロブレムに関する問題は半ば哲学の領域です。
   ☆ と言えるのでしょうが

 ☆ と言ったのは おそらく
 ○ 哲学と信仰とのあいだの問題をあつかう。
 ○ つまり 《経験合理性にもとづく思惟(もしくは 要するに 自然科学の知解領域としての哲学)》と 《経験思考を超えた・つまり非思考としての わが心の伸び もしくは 明けとしての志向性》との間の問題にかかわる。
 ☆ と考えられるからです。
 ひとは この経験的な相対世界を超えた領域に対して 何も言えませんし 言えないどころか 表象することも無理ですし それがあるのか無いのかも 分かりません。つまり 《絶対》の問題です。
 わづかに この《絶対》に ほんの少し 向きあったときの眩暈を感じるのみです。あるいは 時空間の無限の境界あるいは無境界を超えたその先という問題です。つまりは すでに わたしたちは このように 《無限(真無限) あるいは 絶対》という言葉を当てて その想定を終えているその問題です。
 しかも ところが この《〈絶対〉との関係における〈わたし〉》という事態を 広く中立の概念として《信じる》という言葉で表わして 扱っているのが 哲学的ゾンビならぬ普通の人間です。
 また 絶対との関係においては 《信じる》と言っても 《信じない》と言っても 互いに変わりはないという事態です。《信じないという表現において 信じる・つまり関係している》という事態のことです。
 この《志向性》ないし《心のわづかな明け もしくは 伸び》――くどいように言えば 《信じない》場合でも この開けや伸びがあると考えられます――が われわれをして 哲学的ゾンビのような状態ではなく 言わば 人間存在として息づいている状態にしているものと考えられます。

 ですが このことは 輪廻転生説とは 何の関係もありません。生まれ変わりの問題ではないのです。生まれ変わりという想像や推理が入ってくると その時点で 《絶対》は 遠ざかります。相対世界の人間が想像し考えるその精神の産物であるとなります。つまり 文学の領域にしりぞきます。
 このように仕分けしておくことまでは 哲学の仕事であるというものです。

補足日時:2009/05/19 09:59
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No.111では、輪廻といった概念が、初期の仏教にて「非我(無我)」と対立する思想だったという姿勢をとっておられるサイト


http://fallibilism.web.fc2.com/index.html
から、和辻哲郎氏等の文献を参考にさせていただきましたが、もともと、どうして、人は「輪廻」という概念を(たとえ無かったとしても)「ありうるかも?」と思い込みたがるかを考える必要があると思います。(※ちなみに上記は、論理的に輪廻を否定的に扱うサイトです。)

形而上学的な「○○」の存在の有無は、(幻想的にでも)共通了解可能な「○○という概念」が生じるときに生まれます。
その「○○という概念」(今回の場合、輪廻概念)として捉えうる事象は、(辞書やヰキペディアに載っている程度の)一般論的な概念として捉えている程度では、表面的な理解のままで終わってしまい、哲学的な論考の入り口で足踏みをしてしまうことになろうかと思われます。

ここでの質問の主題である「形而上学的な○○は哲学的に(主題として)扱いうるかどうか」は、辞書やヰキで表現されている概念が成立しうる(複数の)過程を論考しうるかどうか?、そうして、そういった論考を通じて、対象となる概念に対する別の切り口(概念)からの説明可能性について論じあえるかどうか?にあると思っています。

bragelonne様の質問に対する回答としましては、この場でそのことを実証するのが一番だと考えます。

まずは、和辻哲郎氏の引用から。。。

和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』、岩波書店、1970年〔改版第一刷〕、pp. 288-290から引用された部分の一部(傍点を「'」に変換しています)http://fallibilism.web.fc2.com/070.htmlから引用
>>>
王はこの理想の世界の実現せられることを、すなわちおのれ一個人が幸福なる生に至るのではなく万人が最上の幸福に達する境地を、望んだのである。そうしておのれ一個人に関しては、かつてなせし悪業への悔'恨'を慈悲の行為に現わし、現'実'の'世'界'に'お'い'て'「ある人々を幸福に」作し得んことを、彼の努力の目的とした。明らかに彼はおのれ一個人の果報を目ざしてはおらぬ。彼の努力の意義は「全世界の幸福」を実現するという仕事の一'部'分'を'負'担'す'る'こ'と'、すなわち「ある人々を幸福にする」ということそ'れ'自'身'であって、彼自身の幸福を果報として得ることではない。かく解して初めて前引の文章における一人称単数と三人称複数すなわち「予」と「人々」との使い分けの意義が理解し得られると思う。しからばここに用いられたこ'な'た'、か'な'た'、天'などの語を現世、後世、生天などの意に解するのは、輪廻思想をここに注入して解釈するのであってアショーカの碑文の本来の意義ではない。
<<<

上記引用は、アショーカ王の碑文に「輪廻概念」を読み取る「一般的な」考え方に対して、別の視点(切り口)からの解釈の可能性を論考しておられる部分です。
考え方の基本としては、No.111にて私が提示させていただいたものに近いと思います(因果を認めつつ、輪廻を織り込まない解釈の可能性についての論考に該当)。

以上が、「一つ目の切り口」になります。

さて、人々が「輪廻」なる概念を抱くときの典型的なパターンを考えてみます。

おそらくそれは、我が子が天才的な絵画能力を有していたり、演奏能力を有していたりしたとき、「○○の生まれ変わり」と思う場合が該当すると考えます。もし、当人を含めて親戚一同が十分なバックアップを為し得、当人の才能が十分あったときには、まさに「○○の生まれ変わり」と信じるに足るだけのものを得るかも知れません。

それ以外の場合、たとえば過去の偉人にあやかった行為などを行おうとするとき、その偉人の能力の一部でも発揮できることを望んでいることでしょう。偶然にでも、そういった行為が立て続けに成功すると、本人は「○○の生まれ変わり」だと本気になって信じてしまうかも知れません。

これらは(辞書的な意味での)「完全な輪廻」とは言わないまでも、輪廻概念の一端を表していると思われます。

すなわち、(完全な輪廻概念としての)「個から個」というレベル
>>>
 同一の《わたし》の生まれ変わりという存在の【あり方を見てとる】
>>>
ことも、当人としては十分あり得るからこそ、輪廻概念は廃れ得ないのだと思います。

このことは「二つ目の切り口」になろうかと思います。

で、仰るように
>>>
個体は かけがえのない存在であるはづ
<<<
です。このことは、仏教的な概念である『我・非我(柄谷氏の言うところの「諸関係の束」・「この」)』とも密接に関連しますが、(負の側面を知った上で、かつ実際には【たとえ、そうではない】ことも知った上で)自身の一部に輪廻的な要素を【見て取り】、人生に積極的な側面を発揮できるのであれば、そのことを含めて「かけがえのない存在(ないし、非我、諸関係の束、単独性としての「この」私)」だといえるのではないでしょうか?

したがって、今回および前回提示させていただいたように
>>>
 輪廻転生を 哲学の主題にすることは 無理です。
<<<
ということには、ならないと思います。

※No.111にて図を添付しようとしたのですが、編集し直すことができないことを知り、何度が失敗してしまいました。結局No.101に貼り付けましたが、ご参照いただけましたら幸いです。

この回答への補足

 k_jinen さん これだけ――まづは ご回答をありがとうございます―― 勤勉な努力をしておられる方であるにもかかわらず どうして ほとんど自明の問題について こうも わからんちんのすっとこどっこいなんでしょう?

 1.《因果応報》説については どうやら それでも 放棄された――誉まれあれ――ようですね。

 2.《生まれ変わり》という考えが どのような状態と内容において この世界に発生するのか。これを追究されたようですが いづれも
 ★  これらは(辞書的な意味での)「完全な輪廻」とは言わないまでも、輪廻概念の一端を表していると思われます。
 ☆ に過ぎないでしょう。いえ 《(辞書的な意味での)》という限定は 必要がないでしょうし また《一端》ではなく あくまで《輪廻概念の一部分を 想像裡において 表わしている》のみだということが かえって 明らかになったのではないでしょうか。

 3.★ 「一つ目の切り口」に関して。
 ▲ おのれ一個人に関しては、かつてなせし悪業への悔'恨'を慈悲の行為に現わし
 ☆ ここでの
 ▲ かつてなせし悪業
 ☆ に注意すべきでしょうね。さらにその《かつて》という過去の中身が 問題です。誕生の以後か以前かです。はっきり言って 《誕生以前》とする理由も根拠も ありません。
 ないから そのように 自分が自分で 前世だと規定して想像してはいけないか?と言えば それは 自由ですと すでに 何度も 答えて来ています。つまり 哲学の問題ではなく 文学作品のそれであるということです。

 4.★ 「二つ目の切り口」について。
 ☆ ベートーフェンの再来 ゴッホの生まれ変わりというとき
 ★ 当人を含めて親戚一同
 ☆ の範囲やその想像・信じ込みは 哲学にとって 問題ではありません。誕生以前の過去において 《わたし》が 生きて存在していたかどうかを 輪廻転生は 問うています。そういうもんだと規定して 哲学は 終わりです。つまり それは 想像の問題であるから 広く興味本位の大衆文学をも含めた 文学の領域であるという規定をするのが 役目です。
 ★ 哲学的な論考の入り口で足踏みをしてしまうこと
 ☆ で いいのですし いまの場合 そうあるべきなのです。

 5.★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・(負の側面を知った上で、かつ実際には【たとえ、そうではない】ことも知った上で)自身の一部に輪廻的な要素を【見て取り】、人生に積極的な側面を発揮できるのであれば、そのことを含めて「かけがえのない存在(ないし、非我、諸関係の束、単独性としての「この」私)」だといえるのではないでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★ 自身の一部に輪廻的な要素を【見て取り】
 ☆ ここですね。これについて 繰り返し確認します。
 (2) あくまで《輪廻概念の一部分を 想像裡において 表わしている》のみだということ 
 (3) 哲学の問題ではなく 文学作品のそれであるということ
 (4) 哲学は それは 想像の問題であるから 広く興味本位の大衆文学をも含めた 文学の領域であるという規定をするのが 役目です。
 よって
 ○ 輪廻転生を 哲学の主題にすることは 無理です。
 ☆ と結論づけることになると思います。
 ちなみに 輪廻転生や因果応報の説が 哲学の主題として扱い得るかどうかを 扱うまでの作業は むろん 哲学の仕事です。

補足日時:2009/05/16 09:08
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ブッダの言葉は様々に修飾されていて、その本質は「伝承されてきたもの」を介した「向こう側」をのぞき見ようとしなければならないでしょう。



すなわち、「○○の存在の有無」を前提条件として話を進めるのではなく、「○○の概念をどうして共通概念として持ちうるのか?」を、最初に疑問として上げ、そこを中心に各人の方向性を吟味すべき事柄だと思います。言葉の意味(概念)を限定して「それが哲学的かどうか?」を問うことは無意味だと思います。

さて、せっかく役に立つであろう資料を提示させていただいたのに、初っ端から色眼鏡で読もうとしておられます。

すべての回答(とくにアドバイス)にコメントを入れる必要は無いと思いますし、(当然のことながら)まとめなおす必要は無いでしょう。ご自身で理解しにくい・読みにくいと思われたのなら、その旨、簡単にコメントしていただければよろしいかと存じます。

ところで、引用させていただいた文全般に渡って書かれていることの一つめは、
※すくなくとも初期の仏教では「輪廻」よりも「非我(無我)」が重要視されていたということです。
※二つめは、和辻氏の参考文献からも明らかなように、仏教興隆当初を含め、過去から広く問題とされている話題だと言うことです。
※三つめは、多くの先達が、ここでの疑問と同等以上に考えあぐねている事柄だと言うことです。


まず、(意志と業――聖教新聞「智慧の泉─仏典散策─」より)では、ブッダが、自由意思と因果(業)との両方を考慮しようとする姿勢が見て取れます。
「どちらか?」ではなく「どちらも」といった姿勢です。(これは、No.72にて記した内容に相当します)

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 ある時、釈尊は次のように言った。
 「弟子たちよ、さまざまな思想家、またバラモンたちの中でこのような説を採るものがいる。

   (α)『人が、今どのような幸不幸を感じているとしても、その因は前世に作ったものであり、どうすることもできない』
   (β)『人が、今どのような幸不幸を感じているとしても、その因は神の創造によるもので、どうすることもできない』
   (γ)『人が、今どのような幸不幸を感じているとしても、それは単なる偶然であり、どうすることもできない』

 これらの間違った考えに対して、私は違う意見を持っているのです。
 一番目の人々が言うように、殺生や盗みなどの悪業を行う因を、人が前世にすでに作って、それが固定しているならば、今、殺生や盗みをする人は、その生まれついての業のまま、何の意志も決断もなく殺生などを行ったに過ぎないということになる。前世に行った業は固定していると考える人は、今、『これをしなければならない』、『これはやってはならない』と考える意志の存在を否定することになるのです。また、善をなそうという努力も否定することになるのです。
 また、すべてが神によって定められているという説に関しても、すべてが偶然であるという説に関しても、どちらも人の意志や努力を否定することになる。
 私が説く『業』とは、今この時の意志であり、努力なのです」
 (アングッタラ・ニカーヤ)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

※ちなみに、「自由意思の関与を考えない」とすれば、仰るところのαはNo.93に相当し、γはNo.105に相当するでしょう。

では、ブッダの言わんとするところの概念が、共通了解可能かどうかについて考えてみます。

先ずは、自由意思と因果との絡みについてです。

このことは既に、No.96にて提示させていただいた
>>>
因果応報・因縁にしても、
1.個から個へ
2.個から全体へ
3.全体から個へ
4.全体から全体へ
といった概念があり得ます。
<<<
および、No.101での
>>>
特に因果関係については、「特定の個から特定の個」といった関係は
非常に稀であり、さまざまな要因がさまざまに関連し合っていることは、
だれしも知っているわけです。
<<<
に該当します。
(ここでの質問・回答が1の「個から個へ」のみに限定していると言われましたが、それであれば、当然のことながら「哲学的な扱い」は困難・不可能です。「なぜ、個から個にのみ限定したがるのか?」を含めて考えるのが「より哲学的」だと思っております。)

さて、個(仏教用語では「我」)には自由意思と呼ばれる概念が付随しています。
「非我」は、No.77の柄谷氏の言葉を借りるなら「あらゆる実体を諸関係の束にすぎないものとしてみる。」に相当します。

複雑系の科学などにて明らかにされているように、ほんの僅かな初期条件の差が後々の結果に多大な影響を及ぼしたり、初期条件が大きく異なっているのに、後々の結果に大差がないといったことなど、複数要因が複雑に絡み合う現実世界では、因果関係を構成しうる1本1本の糸は、本当に些細な出来事にしか過ぎないのですが、「あらゆる諸関係の束」が合わさったところに結実している「この」私にとって、それぞれの些細な糸は、非常に重要な意味を持っているわけです。

そのうちの一本の糸のみを重要視したとき、αやβやγといった「原因はこれだ」(もしくは、「これは原因ではない」への執着(二者択一)が生じてしまうでしょう。

限定された項目のみで説明可能で、他を排除可能だとは誰も考えないと思います。さらにいえば、ありとあらゆるものが関わり合って現時点が構成されているという概念には、誰も意義を唱えないと思いますが、いかがでしょうか?。

関わり合っているもののうち、「特定の何か」のみに視点を向けて考えあぐねることが愚かしいということになるでしょう。これは柄谷氏の述べるところの
>>>
ブッダは、同一の魂あるいは死後の生について「あるのでもなく、ないのでもない」といういい方で批判したからである。
「魂はない」といってしまえば、それはまた別の実体を前提することになってしまう。
彼は、実体としての魂があるかどうかというような形而上学的問題にこだわることそのものを斥けたのであり
<<<
に該当するでしょう。

そういった視点で考えるならば、

過去からの影響は、「わたし」という束を中心に捉えたとき、
「全体から個」
ないし
「個から個」
への因果応報であり、自業自得になるのは一部です。(あたりまえ)
また、未来への影響は、同様に
「個から全体」
ないし
「個から個」
への因果応報で、「諸関係の束」の一本の糸にしか過ぎない自身の行為・業は、確実に多くのものの未来に影響を及ぼし、「もし、仮に生まれ変わったとするならば」その個人にも影響が及ぶことは必須です。

すなわち、たとえ「輪廻」があったとしても「因果」の捉え方次第だということです。「個から個」以外の概念は「気の抜けた麦酒」だと思いたがる人々がいたとすれば、「多くの因果による諸関係の束」といった概念よりも「一本の糸」を意識することでしょう。まさに、個人個人の「情」(冷えて喉越し爽やかな麦酒が欲しい!)といった方向性の為せる業だと思われます。

「気の抜けた麦酒」は「麦酒」として扱わないと当初から宣言されて質問を立てておられるのでしたら、「この質問は哲学とは考えていない」と自ら宣言しておられるのと同じだと思います。
※添付画像が削除されました。

この回答への補足

 たとえばひとつの見方として 遺伝子を主体として見るわけにはいかないというものがあるはづです。
 遺伝子の連続性・その永続性を捉えたとしても 親子あるいは双子のあいだでも その存在は 別です。人格が 別です。さらに過去あるいは未来に その筋を伸ばして捉えても 同じことです。
 同一の《わたし》の生まれ変わりという存在のあり方を見てとるのは 無理でしょう。個体は かけがえのない存在であるはづです。
 したがって 輪廻転生を 哲学の主題にすることは 無理です。

補足日時:2009/05/15 03:34
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この回答へのお礼

 ▲ (ヰキぺ:因果) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E6%9E%9C
 仏教で通俗的に因果と言う場合には、業(ごう)思想と結びつき、自己の存在のあり方にかかわる因果性をいうことが多い。
 「善因楽果・悪因苦果」と言うように、人間や天人として生まれる善の結果や、地獄・餓鬼・畜生として生まれる悪の結果を得るのは、前世の自己の善業あるいは悪業を原因とするという、方便(本来の教説に導くための一種の方法)としてしばしば使われる。
 この因果は自然科学的法則ではなく、われわれの行為に関するものである。すなわち、自分のやった善は善果を生み、また悪を行えば悪果が返ってくる、と教える。因果応報とも言われ、人間の行為を倫理的に規定する教説として言われたものであろう。

 しかし、このような一般的考え方は、縁起説から考えられない俗説であり、仏教本来の考え方にはそぐわない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ▲ (ヰキぺ:輪廻転生) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB% …
 死んであの世に還った霊魂(魂)が、この世に何度も生まれ変わってくることを言う。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これを 哲学は 扱いようがない。

お礼日時:2009/05/14 05:40

maimai.susです。



うんー、いまさら?って気もしますが、世の中上手くいかないもんですね。

あちらを立てればこちらが立たず、こちらを立てればあちらが立たない、丁度いいが、難しいですね。

まあ、人によって大切なものやその順番が違うのは仕方ないことだと思います。

そういえば、エコ問題で思ったけど、それで人類滅んだら、因果応報と言えるかもしれないが、輪廻転生は無理っぽいね。地球外生命がいれば別か?
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おはようございます。

返信ありがとうございます。
訂正です、ヘッセの小説は【デミアン】でした。

以下死=暗い鏡について文中から抜粋。

「冒険と荒々しい運命(孤独な事件)が呼ぶ今の瞬間、または間もなくやってくるというのは不思議ではない。今僕は理想のために死ぬことが出来るのを見た。~「君自身の心に耳を傾けなければいけない」僕はときおり暗い鏡の上に身をかがめてまどろんでいるところへ降りてゆけば僕自身の映像が見られるのである。僕の友達兼導き手である彼にそっくりそのままの映像が。」

輪廻転生は人生が一度きりではなく、死んでも来世が与えられ自分探しを繰り返し続けられるという発想の希望的観測なのでしょうか?

>突然変異か何か 何らかのきっかけがあって(もしくは なくても) 人間(現実)が変わると思っています。

>>★ 余計な思索 
>☆という言い方をされていますが~余計ではないのですが 余計な部分を 副作用として伴ないます。やがて 観念化し さらには幻想化するという道をたどるものです。。これが 逆転する(つまり 元の状態にもどる)でしょう。これが 《人間(現実)が変わる》の実質的な内容の事例です。 これら二点が 復活についての課題です。

自己探求を考古学に例えることがありますね。発掘調査して等身大の標本に組み合わせることを目指します。発掘してから知識や想像力で組み立ててゆくけれど、何がどう残り現われるかわからないで発掘せずに理想の標本を思索しても無駄骨で終わるから、現実とどう関わり格闘するかでしょうね。

男性にも乳首ありますね。無駄に!?きっと何らかの象徴に残されたと思います。頭で出来ることは自己の全体のほんの一部に過ぎず、へその緒から母乳へ、そして蝶を持て成す花のごとく、体を使って崇拝を受けるなら短い生も引き継がれるし咲かせた甲斐があろうということ。



>《たとえこの今の生において 達成し得なかったとしても 次に生まれて来たときには 必ず 成し遂げるぞ》

未来の展望=輪廻転生と逆行して完全な生は、完全な過去の死、用意した未来(子孫や弟子、理想に)抱きしめられて至ったものを見出せると暗い鏡はどんなものより雄弁に生長を語るだろうと思います。

つまり頭や心だけでなく体ごと使い抱きしめ堪能しないのは発掘調査経験不足。内実より考古学者の名誉のビジョンだけを欲してるとなります。

この回答への補足

 miko-desi さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ 輪廻転生は人生が一度きりではなく、死んでも来世が与えられ自分探しを繰り返し続けられるという発想の希望的観測なのでしょうか?
 ☆ これは あいまいに感じます。
 ★ 希望的観測
 ☆ だから 哲学にとって おもしろい課題ではないということなのか。ともかくも そういう想像をこころみることによって わづかにでも かすかにでも 希望が持てることがあると言うことなのか。
 後者なら それは 自分で文学作品を編むことですから 自由だと言って来ています。つまり ここでの哲学の視点とは 別問題です。
 前者のばあい 複雑です。でも 基本は 決まっているはづです。
 ○ あるかないかが分からない来世を前提として 話をすすめることは 哲学にとって 主題とはならない。
 ☆ です。複雑だという意味は 昔の話です。
 ★☆ >《たとえこの今の生において 達成し得なかったとしても 次に生まれて来たときには 必ず 成し遂げるぞ》
 ☆ と思っていた時代は あったはづです。これは 来世というよりは(つまり 自分の生まれ変わりというよりは) 時代の変化のことなのですが 未来に託したという心情は あったでしょうね。
 でも――いちど書いた気がするのですが―― 《板垣死すとも 自由は死なず》と言って 将来にのぞみを託したのは けっして 自分が 生まれ変わると思ってのことではなかったはづです。むしろ 一回きりの人生だからこそ そう叫ぶまでに 心情としては 思ったということではないでしょうか。つまり 輪廻転生は 関係ないのだと わたしは 考えます。

 ★ 自己探求を 考古学における発掘した遺物の復元にたとえること
 ☆ は 必ずしも 適切ではないと わたしは 考えます。理由を述べます。
 わたしが われに還るというのは 一瞬の出来事だと思うのです。あやまちに気づいたときが 一般的ではないでしょうか。わたしがわたしであるというのは われに還ったその瞬間に 獲得されていて しかも このわたくしを わたしは それまで 知らなかったわけではないと知ります。それまで 愛して来なかったわけではないと分かります。
 つまり  ずっと持続して わたしは わたしであったし わたしのことを思っていたと考えるのです。部分的な欠陥などは どうでもいいはづです。その欠陥をもぜんぶ包みこんで 《わたし》です。そのわたしを わたしは 知っていますし それまで ずっと 知らなかったわけではないことを知ります。
 そして この瞬間 この現在は じつは 永遠なのです。この永遠の現在のもとに わたしは 存在していて それについて わづかに 意識しているかどうかの違いがある。ということだと考えます。
 《わたし》万歳! ということで よいはづです。

 これが 荒削りであっても スサノヲ人間語ですね。アマテラス人格語は これを わざわざ 学問によって 飾り立てることになります。飾りをつけなければ ほんとうではないと 思いこんでいます。
 ★ 内実より考古学者の名誉のビジョンだけを欲してるとなります。
 ☆ そして ここで わたしの異見としましては
 ★ つまり頭や心だけでなく体ごと使い抱きしめ堪能しないのは発掘調査経験不足。
 ☆ について 表現を修正してしまいます。
 ○ つまり頭だけでなく 心の幅いっぱいにと同時に体ごと抱きしめ堪能しないのは 発掘調査経験不足であり あやまちに気づいたときの《自己還帰》不足。
 ☆ また 自画自賛をつづけますが この自己到来の時間というのは その瞬間には むろん 言葉には表わしていませんが それでも 全体として すでに スサノヲ人間語とアマテラス人格語とをまとめて 回復していると考えます。言いかえると そのときの《あっ そうだ。わたしは なんて ばかなんだ》というスサノヲ人間語に そのまま 潜在的に アマテラス人格語が 含まれているという意味です。

 だいぶ しゃべりすぎましたが このように考えます。

 * ヘッセは 明るいのか 暗いのか よく分かりません。

補足日時:2009/05/13 11:19
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