プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

声とはどのようなものでしょうか?
たとえば不思議な無音の世界にいる人に、どのように説明しますか?
音波についての学習は済んでおり、思索はより形而上的段階に入っています。
人々と会い、舞台芸術や美術作品を鑑賞し、マンガも読み、印刷された文章も読み、インターネットもします。
楽譜と楽器の対応も知っています。海にも山にも街にも行きます。踊ったり走ったりもします。
声について説明してあげてください。声とは何でしょうか?

「不思議な無音の世界にいる人に声とはどのよ」の質問画像

A 回答 (19件中1~10件)

今朝は布団の中で鳥の声を聞いておりました。


も~おきよ
も~おきよ
これはまだ鳴き慣れてない鶯なのでしょうか
それとも親鶯でしょうか
たまに
ほ~ほけきょ
と明確な発音する時もあったりするのですが

それとはまた違った鳴き声が
すっきりすっきりすっきりす
すっきりすっきりすっきりす

ヒカリゴケ
神話解釈に対して暗示的だな
今この時に

この回答への補足

子鶯の発声練習はかわいいな。
口笛で誘うとだまされて答えるんだ。
すっきりすはなんでしょう。
高い枯れ木のてっぺんで、ほととぎすがほんとに、
てっぺんかけたかって鳴くんで驚いたっけ。
アフリカのマンゴー林で雨季あがりの春に歌う鳥の声が
人生で聴いた中でいちばん美しかった。平均律の楽器のようだった。
ひかりごけの、事件のほう、船長は寡黙というか沈黙にして天寿を全うされたから。
小説のほうの味わいは忘れた。

神話解釈に対して暗示的って 興味をおぼえますね。どんなふうに?
ということはすでに神話解釈の建築の足場は組まれていて、
あなたは足場をどうはずそうかなと考えている。
あるいはふだんからたいていの明示の足場ははずされていると考える癖のようなもの。
かな。

補足日時:2009/04/05 22:44
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この回答へのお礼

どんなふうにと訊いておきながら自分で考えてみるのですが
過渡期には神の意志が厳然と不条理に表れてくる というものではないかと
さっき思ったのです。
そう思ったのは
最初に見かけた(と言うのは後述に矛盾するようですが)あなたの「声」は
サクリファイスに聞こえたということを、ふと思い出したからでした。
この借り物の宗教語ではしっくりこないところもあるような、とはいえ
澄めらきの心中が炎死する、と言い直しては益々わからない表現だし。。。
なんにせよ
質問をお目に留めていただきありがとうございました。
しばらくのちに締め切ります。

お礼日時:2009/04/08 04:51

一斉に咲いたら


一斉に散るのも桜の定めではある
他にも道はあったのかも知れないけれども
誰のためにでもなく
ただ
守りたいもののために
かつて人は桜の花のように散っていった時もあった

以徳報怨
以直報怨

背負った荷物をおろして
一刻
桜の花でも眺めてみよう

外で食べるお結びも
さわやかな春の風も
これがまた美味しいんだ。
濁った空気は
はい
吐いて~
新鮮な空気を
はい
吸って~

どう
タマに気分転換も
No.15はある経験上の状況を想定しながら構成したんですが
他人の痛みまで感じてしまうなんて
なんて自他未分な
体がいくつあっても足りない性分?
しかも声は曲がって届いてしまったということかな?
ではその時
なんて言ったか中ててみて

この回答への補足

補記
お礼に誤字ありです 恨み→怨み 

自他未分は、どっちかっていうと、お引き受けしたほうだとおもうよ。
だからって誰にでもじゃない。

補足日時:2009/04/02 01:22
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この回答へのお礼

そちらの桜はまだこれから見頃ですか。
以徳報怨
なぁんて孔子より先に蒋介石を思い起こす。。。
知人の父親がかつてパリ士官学校長だったため、子供のころ蒋介石が家に泊まりにきた。
という話を聴いている日本人たちが押し黙ってうんともすんとも言ってやらないので、彼は腹を立ててしまった。
歴史への視点も、過ぎた政治への批評も、日本を背負って(あるいはむしろ背負わずに)話すことができない。
個人的な歴史、中島飛行機にいた祖父の話をしてもよかった。
喧噪のなかでコーヒーを飲みながら、じきに話を忘れてしまうような相手に向かって、そういうことができない。
、、、そういう思い出といっしょくたに。

孔子は
怨みに報いるものがそんないいもんでは、
徳に報いるとなったらどうする、
恨みにはせいぜい曲がらないやりかたで報いるのだ と読むけれどよいのかな。
占いは、やらない。内容など読まない。
声は心臓の近くを掴んだから あたたかさと痛みです。

お礼日時:2009/04/02 01:14

ありがとうamaguappaさん



私が楽しそうですか。
今日の私は珍しく気分が良いのです。
長文なのは久しぶりの書き込みだからですね
とりあえず私からの、この質問への回答は
これで最後ですから安心してください。

そうですか、その人とは遠藤周作について
話し残していたのですか。たしか「沈黙」

ですが残念なことに
私は文学には疎いので語りようが無いのです。
せっかくの機会なのにもったいないですね。

その代わりといってはなんですが
ドストエフスキーの「罪と罰」の話を。

自分勝手な理論で罪を犯したラスコーリニコフと
家族の問題で苦しむソーニャは偶然、出会い
神がいるとか、いないとか論争して
さらに事件はいろいろあって
やがてふたりは人間性を回復する、と。

長いから全部読むのが大変なんですけど
二人の会話だけはよく読んでいます。

彼女は彼に「ラザロの復活」を朗読するんです。
女性の「声」は男性に「復活」を告げる。
だからamaguappaさんの質問への、私なりの回答は「復活」です。

せっかくなので
名作の文章を、エピローグから。新潮文庫の工藤精一郎訳です。

「過去の全ての苦しみがなんであろう!」


「弁証法の代りに生活が前面へ出てきた。
 そして当然意識の中にはぜんぜん別な何ものかが形成されるはずであった。
  彼の枕元には福音書がおいてあった。彼はそれを無意識に手に取った。この福音書は
 ソーニャのもので、いつか彼女がラザロの復活を読んでくれたあの本だった。」


「しかしそこにはもう新しいものがたりがはじまっている。一人の人間がしだいに更生していくものがたり、
 その人間がしだいに生れ変り、一つの世界から他の世界へしだいに移って行き、これまでまったく知らなかった
 新しい現実を知るものがたりである。これは新しい作品のテーマになり得るであろうが、
 ――このものがたりはこれで終わった。」

この回答への補足

(お礼欄からの続きです)

愛された子イサクに振り下ろされるアブラハムの刀は、ふたつの声の後にあり、ふたつの死の前にあるといえます。
絶対の神の声は刀のごとく仮借のない正義の充足としてイサクの死を要求します。不可解さのなかで差し出される死であるから、解釈という生産性も他者性も介入しません。
アブラハムがやめようとする心の声をはじめから持たなかったならば、試す価値もない異常者の物語にすぎず信仰の意味がなくなりますから、この老人の秘密の心の声はたしかに存在したのでしょう。
ひとりの心の倫理を超える飛躍が、この一族の始まりを決定づけるわけですが、この奉献では愛息イサクの肉体の死とアブラハムの社会的倫理的な死が覚悟されるでしょう。刀の下のイサクは死ぬために生きたのであるようにして、刀を降ろすアブラハムは生きるために死んだようにして、信仰の門にある象徴的な死のありかたともいえます。
あなたが「精神的な死」「魂の死」と書いたものは何の死なのでしょう。精神や魂というときに何をそのように呼んでいるのでしょう。精神は主体とも対象ともなりえぬとわたしは思っています。わたしについての「人の書いた文章から相手の精神を分析できるという」という勘違いも、あなたの思う精神なる像にひきずられてあなたの口から滑り出たのではないでしょうか。
わたしが分析するのは症状として表れている病です。症状にすぎません。下記は似たようなことをわかりやすいケースで説明していますのでご参考までに添えておきます。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4727271.html
象徴的な死はラザロの復活に重ねあわされたドストエフスキーにも忍び込むようですね。むしろ新生として忍び込むのでしょう。残念ながら「罪と罰」は読んでいません。
ラザロの墓石をとりのけるように言ったイエスの声のように、聖書を読むソーニャの声がラスコリニコフの「屍」から石をとりのくのでしょうか。内容の平行性よりも、神の声がラスコリニコフの自由意思の声を圧倒するまでに届くところに、仮借なき正義、収支のない決算が要求されるともいえそうです。
「復活」によって「魂」におけるエクリチュールの記法も新たになることでしょう。
おつきあいいただきありがとうございました。

補足日時:2009/03/30 01:27
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。多忙な週末でお礼が遅くなりました。
最後ということですので No.16,17,18から総括と疑問や所感など思い巡らせつつお礼にかえさせていただきます。
ギリシャ形而上学の伝統ではパロールは知の現前でありロゴスにおけるエクリチュールに先立つ優位性を持つでしょう、しかしいつでも、侵入者であるエクリチュールの誘惑、また毒薬的に捉えがたい機能性そのものであるエクリチュールの技術をまぬがれているパロールは存在しません。
いったい、抑圧をみとめ脱構築可能な構造としてこれらを二項図式に描きうるのか、デリダをどのように敷衍されるのか、ひっかかりを覚えました。
いわゆる「魂」におけるエクリチュールと、「魂」の影におけるエクリチュールがあり、前者はそれ自体で充足し、後者は他者との関係性に消費される、この充足と消費の様相はパロールにとっても相似形でしょう。
さらに問うべきは、真理を司るパロールのうちに生起する、神と自律の背反で、抑圧がどちらに働くか、このようにむしろパロールの内部で沈黙裡に在るその二律構造こそが、制度や絶対的正義を考えることを可能にする鍵となる、重要なものではないでしょうか。
書かれたものとの対比では神の声というアポリアの何も語りえないように思います。いいかえれば、制度化された声と制度化されない声にたいし同時に耳を開くという作業が望まれます。

お礼日時:2009/03/30 01:27

こんばんはamaguappaさん


子供の声ですか。
いつものように想起説を都合よく使って
知っているけど、忘れたので想いだしている
なんてことはやめて(これが一番叩かれた)
それよりたぶん
人の書いた文章から相手の精神を分析できるという
amaguappaさんなら、私の前々回の回答を踏まえた上での
問いなのかもしれませんね。

私の人格を解釈しようとする人は多いですけど
その人を何者かに定めることによって
安心したい人が多いのかもしれないな、と。
それに私を嫌いな人は多いですからね。
私をどう解釈するかでその人の人間性も伝わるわけで。

初めてamaguappaさんが回答してくれた
時の酷さよりはだいぶよくなり宗教的な苦悩は減り
哲学や宗教への関心は急速に薄れつつあります。
宗教について悩んだ人の出した見解の一つかと。
共同体とかいったけど
実は教会ももうどこにも所属していませんからね。
私は基本的に孤独なのです。そして実は共同体は嫌いなんです。
(散々言われたので他者は他者として尊重しますよ。)
カトリックでもプロテスタントでもまともなところ
探そうかなという気もしますけど
今はどうでもいいかという感じで。
もうキリスト教で無くても良いかって気もする。
それより他の宗教批判しすぎたので
悲惨な死に方するらしいです。
それはまぁ仕方ないなと。

星、星座はユングですか?
バラバラの断片から全体を見る。。。とか。
昔ユングに興味を持っていたこともありましたけど
解説書を買ったきりです。しばらくしたら
元型論読みたいと思っています。

さてキルケゴールの数冊の著作から(特に「瞬間」)
感覚的に都合よく抜き出して組み合わせました。
これがかつての私を支配した「私のキリスト教解釈。」
子供の声あり。

ただ☆★○△さんが過去の質問で取り上げていましたが
「第二の死」つまり肉体の死ではなく、精神的な死
魂の死についての感覚がないと共感できないかも。
「魂が甦った」と表現した回答者さんもいましたが、
第二の死を問題にしているように感じられました。
私の勝手な解釈ですが。
ベールをかぶった女性の容赦ない批判と擁護のおかげで
ゲヘナからは出られました。本当にありがとう。
さて。

神々についての異教の創作を人間的狂気と呼ぶなら、
キリスト教は狂気した神の作りごとである。
このような教説は、正気を失った神のみが
思いつきえたものである。
それは彼の周囲の世界が、彼について
「ほらここに自分の想像力に釣られて、とんでもない所にまで
足を踏み出した青年がいる。
そのお蔭で、この青年は変わり者、世間の物笑いになり、
現実としっくり行かない男になってしまった」というのと同じである。
キリスト教は『汝の敵を愛せよ』と要求する。この要求は、ある意味で
そう要求するに十分な根拠を持つと言うことができよう。なぜなら
神は愛されることを欲し給う、
しかも神は、全く人間的な言いかたであるが、
まさに人間のもっともおそるべき敵であり、
君の死と滅びとを欲し給い、
君の自然的生命の源と君の生のあらゆる
喜びの対象を憎み給うからである
そこで、子供が両親にむかってためらいなく、
こう言ったとしよう、「それがぼくを待っているのだとしたら、
ぼくなんかこの世に生まれてこなかったほうがよかったんだ。」
えらいぞ私の小さな友よ。おまえは適中した!
キリスト教ー死ぬことの教えー
同じようにまたキリスト教の用語でも
死は最大の精神的悲惨さを表すことばであるが、
しかも救済はまさに、死ぬことに、
死んだもののように生きることにあるのである。

この回答への補足

このような時刻に長いお書き込みをいただきありがとうございました。(インド以西にご滞在の場合を除き)

子どもの声について尋ねたのは、自分の勝手な都合からでして。
前のご回答のデリダ考は、日頃お持ちの習慣にはなじんでおられないのかなと思われ、
蔵書や修行時代の杵柄をひもとくにしても、実感にひきつけたご回答のほうが伺いやすいように感じました。
お子様がいればそれを、、、また、自身子ども時代を持たなかった者はないことから
幼年期というのは古今東西の思索家に筆を執らせてやみません。
何かご存じであれば、、、と思いました。

> 人の書いた文章から相手の精神を分析 .....
わたしは、いちいち飲み物を小分けして試薬入れて遠心分離器にかけてから飲みはしませんよ。

> 私の人格を .... 
> (中略)
> .... 仕方ないなと。
当サイト利用者が理解できる話か、せめてわたしに通じる内容を書いてくださるとよりご親切に思います。
酷いキリスト教徒で他教批判をする質問者と共同体の話なんてしたかなあ?
一人思いつきましたが、
わたしと話し残していることは遠藤周作のはずで、元気にやっていらっしゃるようです。

星座、コンステラツィオンといえばベンヤミンやアドルノです。
いえ、この場合は、
声という光はわたしたちの思考が近寄っても近寄っても遠ざかるばかりなので、
星座のほうを語ろうか、声についての構成済みの事を語ろうか、という意味でした。

補足日時:2009/03/26 01:49
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この回答へのお礼

以下、キルケゴールから感覚的にということで、
子どもの声のリクエストにお答えいただき、そこに第二の死を想起されるのですね。
批判と擁護でゲヘナ脱出、これも申し訳ないようですがわかりません。
ただ、幼い阿鼻叫喚の声、幼い魂の苦しみの声響く谷にいたという方に幼子の声を尋ねた形になりました。。。

『「それがぼくを待っているのだとしたら、
ぼくなんかこの世に生まれてこなかったほうがよかったんだ。」』

印象ぶかい箇所を出していただきました。
死につつあること以外には現実に自己に訪れることのない死について
キリスト教がどうしてかたりえたか、狂気なのでしょうね。
生の中にはどうしても不在であるようなかたちで、外部に死というものが作り出されるとき、
矛盾するようですが生き永らえるほうにしか死というものは存在しないうえ、どうしてもそれは精神的な死なわけで、
目の前で起こる他者の死は生き永らえる経験であって死の経験ではなく、
ほんとうには手は届かないものをかたるというところが、
なんだかさきほどの星座のようです。

声は生によりそうものであるがゆえに、やはり死を外部のもののように内包しているのかもしれませんね。
この、子どもの声が、明るい生の側にあるのに死の暗闇を包み抱えているようなのは、
そんなありかたのためなのかもしれないと思いました。

お礼日時:2009/03/26 01:52

こんにちはamaguappaさん


せっかくなので考えてみたことを書いてみます。
最初に質問をみたときに私がデリダについてわかればなぁ。。。
と残念に思いました。
なのでいい加減なことを書きます。いつもそうですけど。
なにせ狂人で病人ですから。

音声/文字
理性/狂気
健康/病気
男性/女性

二項対立の形式において
「差異」を解消や統合すること「なく」
たんに「転覆」させること「なく」
「ずらす」
そしてこれまで「抑圧」されてきたものを
「復権」させる。

脱構築。

構造主義が構造に見落としてきた時間の概念もとりいれた
差延によってずらす。

そして何も語らないために語る=騙る。
真意など無い。
意図など無い。
起源も無い。痕跡。
目的も無い。
ただ差異に戯れる。

理性は理性的であることを求め
狂気を排除した。

健康は病気を排除した。

そして「声」が抑圧した「文字」

聖書もギリシア神話も「書かれたもの」
ならば、なぜそれらが
聖書となりギリシア神話となるのか。
そこに潜む社会的な文化と制度と権力。

イエスといえばなぜキリスト教になるのか。
エーコーといえばなぜギリシア神話になるのか。

宗教は一つの制度なのではないか。
そこではただ「神の声」によって
特定の言語が神聖化される。

神は、神々は何語で語るのか。
それは預言者のように選ばれたものでなければ
聞こえないものとされる。
しかし「書かれたもの」である聖書やギリシア神話は
さまざまに多様な言語に翻訳され
さまざまな解釈が可能であり

多様な世界が広がっている。

というわけで「差異」を肯定してみました。
自分と異なっていることを認めたうえで尊重
共存ということですね。

あと責任=応答可能性。散種。
他者の言語。他者の他者性。毒=薬。

いろいろあるらしいけど
私はこんなところです。

声は、声とは「何か」を問うことによって
抑圧しているものがあるのかも。

この回答への補足

こんにちは。ようやく声が聞けました。
哲学の素人には、デリダは拷問なので、遠ざけています。
でも、音声と文字は、位置はそれでよいのですか。逆のような気がしませんか。
シャルコーのヒステリー研究などは、右側の要素をあきらかにした臨床例ではないかと思いますが、
するとやはり、音声、狂気、病気、女性 かもしれません。
西欧近代国家における出産も、長い間こちらの側でした。不潔と混濁と冷たい死の間にあるものでした。
厳密に言うと、日本にはこういう意味での抑圧の構造は無かったのではないでしょうかね。

翻訳や解釈は他者にひらかれている行為なのですね。
受け取ること は、やはり別の土地への移植のようにして
ずれてしまうのですか? 

思考の言語化からすりぬけるようにして、他者の海を渡りぬく
そんな声は、何を蒔き落としていくのでしょう。
アンフォルメル、不定形という意味と非公式という意味でそんな様態が思い起こされますが、
制度化されない声はいつも弱者でありつづける声でしょうか。
弱者の声といえば、聖徳太子が聴き分けるという逸話では、
太子にとって声の差異は、声を発するほうに備わるのか、
それとも、政治家である太子の聴き取りと解釈のほうに、声の差異があるのか、
作られた逸話で実在も危うい人物ですが、政治家の天賦というものを考えさせる話のようにも思えます。

> 声は、声とは「何か」を問うことによって
> 抑圧しているものがあるのかも。

代替であってもずらしであってもよいです。影であっても修辞であっても。
それによって声に触れ得るわけではないし、星と星座みたいなものではないでしょうか。
不可能性のなかで問うことで抑圧しないですむということもありそうです。

> 狂人で病人

自分に帰るというような自分を持てることのほうが、今や稀ではありますけれども、
ふつう、帰属を余儀なくされている部分と、自ら固定観念的に帰属のありかたを作っている部分があります。
自分自身から自由になるための技術というものもあって、一生つづく学びのうちのひとつは、そういう技術を学ぶことではないかと思います。
がんじからめの中で動くというのは難しいですからね。

とりとめなくなりましたが、子どもの声のことをご存じでしたら、子どもの声について何か伺えませんか。

補足日時:2009/03/23 18:28
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この回答へのお礼

26/03/2009
楽しそうにお書き込みを重ねていただいてありがとうございます。
三度とも、補足お礼欄で、なんとか脈絡のついた「声」の話にまとめさせていただいております。
それなりに労力がいりますので、とくに長文投稿にはご配慮をいただければ幸いです。

お礼日時:2009/03/26 03:49

一緒に食べたりして


一緒に遊んだりして
共に過ごす時の中で
ちょっと意地悪してみたりして
ちょっと揺さぶってみたりして
一瞬
焦点があったりして
照らし
瞳の奥に深く浸透させ合ったなら
キュッ~とタイトに抱きしめよう
その時の思いを
声を添えて

とどけ!
貴方の心に

澄んだ反応に会えた時は
ただただ嬉しくなります
ありがとぉ
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この回答へのお礼

はい。
ってか、アハハ。しょっちゅう見失うからなぁ。
受け取っておかないと。ありがとうございます。
(11:30前にとどいていました。あったかい痛みでした。)

お礼日時:2009/03/23 01:54

 回答番号:No.11 人間って声だけではなく、快い存在なんでしょうかね。

その肉体や声などで、観念や想念を芸術技術や言語で表現していますが、どれだけ本来的美やあり方になっているのでしょうね。
 むしろすごく異質なものなのではないでしょうか。
 雷や大風、大波の音、せせらぎ、鳥のさえずりって人が接しても快いものであるときがありましょうに。
 人間嫌いでも、閉じこもりやでもありませんが、人間って集団でなければ存在も生きることも出来ないくせに、お互いがどれだけ快いものになっていましょうかね、お互いに。
 利己やエゴでは大事・大切なんですが。ご質問者さんのご見解はいかがでしょうか?

この回答への補足

観念や想念と、肉体の関係は、
西欧の伝統では高次と低次、永遠と限界、伝播共有と所属固有に分かれた関係ですが、
音というのはどちらかというと、観念や想念の部類に入れられていたように思います。
声となると、音といっても肉体の機能でもあり、人間の限界を免れないものですね。
快さは、限界を知る中に永遠であることや、絶対の孤を知る己に他者との融解の訪れがあること
そんなものではないでしょうか。
瞬間にでも微小な隙間にでも、異質の要素が生じて世界が動くということの。
こんなことしかわかりませんが。

補足日時:2009/03/23 00:31
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その声は誰が発するものか。


私の?
貴方の?
それとも他の誰か?
その声は誰が受けるか?
貴方が?
私が?
それとも他の誰か?

とめどなく氾濫する声は心を素通りする
琴線を響かせる声の入口は部分を持たない点
ただ
水面に映る波を観る

声とは人生を味わうもの
喜怒哀楽と共に
耕しながら
お茶の苦さを楽しみながら
盃を傾けながら

点を通った声は水面に落ち
無音の声を響かせ
共振する
声は
よく調波され
静かに聴こうとするところに届き響く

ものってな~んだ。
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この回答へのお礼

波動を観る水盆なり味わう琴線なり 持っているひとにとっては、
通ってくる点も明確だし 
ただ一つの通路と水盆と琴線で 東屋に 
他の誰彼でも、貴方とでも共にいることができるのですが

たぶん そういう道具と東屋を知らないひとの世界を
不思議な無音の世界 と言ってみたのかもしれません。

お礼日時:2009/03/22 09:09

 回答番号:No.11  ご対応ありがとう。



 お書き込み:⇒:毎日のどをオリーヴオイルで調律、療養中も続けておられますでしょうか
 (これは朝晩の行(ヨガ:一致という意味:何に一致か:宇宙の根源に)での利用で胡麻でもいいのです。療養していても、渡航していてもそれは行います。三味線のおっっしょさんも、三日稽古しないと、・・というでしょう。士大夫のことですが、三日会わないときは畏怖して待て、の他に、三日読まざる士大夫は言動醜しというでしょう)

 お書き込み:⇒:要求で固まっている電気の質の存在に、混沌の姿を見るか秩序の姿を見るか、
 (不可思議を受け入れない人間ですが、おかしな経験が白昼日にありました。存命であれば、109になる母は95でなくなった後、声だけですが、私と明確な意識ので会話しました。母などは決して慕っても恋しいとも思っていませんが。
 もう一つこの身に変な気配を感じました。押し付けがましい、頑迷な気配です。
 昼間ですが、あぁこれが幽霊かと存じました。電気としては与えようとする、自分を押し付けようとするプラス性でした。これはいやな気配です。この気配はよく知っています。大学に勤務していた頃の女性部下の気配です。何か執着や固定観念が強いのです。もう30年も前の人ですが。私自身は46年勤務はしましたが。
 幽霊というのは、まぁ生霊でも、魂魄など、固定観念があるものはとても自己主張が強くて、プラスで迫ってきます。
 マイナスで、受けて気持ちを広げるようにはしてくれません。

 太極は最初に陰を、そして次に陽を為しております(陰陽というますでしょう)。
 それはこういう原理だと存じました。ヒンドゥの宇宙創造の最初もそうです。
 ガンガ(ガンジス:宇宙音)はマイナスの気として、訪れてくれます。

 奇妙なことは大嫌いですが、そういう経験を面白く観察したものです。まぁ否定する人は否定するでしょうね。
 それで無理にこちらもぎゃぁぎゃぁ言わないことにしてはおります。
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この回答へのお礼

体験の側から智の側へけっして移植されないものもあるでしょうね。

肉体の知覚にたよるわたしたちの存在の仕方は、
世界の層のようなものを曖昧にまたがるのかもしれませんが、
世界と言っても、
わたしたちに属するのか、わたしたちが属するのかについては
矛盾した様相をみせているようです。

ガンガは宇宙音でマイナスの気なのですか。勉強になりました。
陰陽の思想は、陰なり陽なりの気を受け取って新しく育つ
というところに肝心のものがあるでしょう。
受け取り方と育て方の思想でしょう。

宇宙の最初といえば、人類の古い信仰のいくつもの物語に、
初めか段階のあたりで卵が登場しますが、
卵は、凝縮された極端な陽性なのです。
カオスとか、エーテルとか、闇に充満するところは、
拡散する性質によって陰とみるかもしれません。

お礼日時:2009/03/22 08:41

 言葉ともなっていませんでしょうし、人間同士のあたたかさも付加付随していませんでしょうから、そして愛するだれそれの親しい声という観念もないでしょうから、美的でもない単なる、騒がしい音でしょう。


 樹幹の風音でも、せせらぎでもない。
 不愉快ではないですか。機械の音とちがっても邪魔なものではないでしょうか?
 雀のさえずりはそれなりに聞けても、人の遠くのさんざめきというのはそんなものでもないですよね。
 自分という存在は要求で固まっていますが、どちらかというとプラスの電気でして、同じプラスの電気は嫌悪しますね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
たしか毎日のどをオリーヴオイルで調律なさっていましたね。ご療養中も続けておられますでしょうか。
質問をするとき、ノイズをどなたかがお示しくださるのではないかと思いましたが、
何か存在の実質に向かって窓を開いて勉強なさっているような方からそのお答えをいただくとは、深く考えさせられます。

前のほうに、エーコー、エックハルト、エロースの考察のてがかりがありましたが、
要求で固まっている電気の質の存在に、混沌の姿を見るか秩序の姿を見るか、
この逆向きが意味するところは何かとの想いに引き込まれます。
生きざまであるところの生々しさを引き受けた身が、地上を離れた夢をどちらの姿と取るかにも似ています。

言葉、人間同士のあたたかさ、愛するだれそれの親しみ、美、
どれもまさしく観念なのでしょうね。声に付随するものとは、観念なのですね。

お礼日時:2009/03/19 02:19

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