津田左右吉氏は、神武東征は史実ではない、とし
その根拠として次のような点をあげておられます。
(1)日向は熊襲と呼ばれる逆賊の占拠地であり、皇室の発祥地ではありえない。
(2)天皇は日神の子孫であるとされているために、その故郷は日の出づる方に向う国、日向でなくてはならないと考えられた。
(3)神代史の最初の構想では、ホノニニギの尊がヒムカに降り、ホホデミの命がヤマトに遷った、という形であったのを、ホホデミの命の東征の物語を分離して、新しく神武天皇の東征の説話を作り、ヒムカ三代の物語を中間に置くことによって、神代と人代との限界を和らげた。
(4)仲哀天皇以前の記紀の記事には、天皇の系譜をふくめて、客観的な史実の記録から出たと認められるものがない。
質問
a.現在でも津田氏の説が有力視されているのでしょうか。
b.みなさんは津田氏の説をどう思われますか。
※根拠のない回答は御遠慮くださいますよう、お願い申し上げます。
No.2ベストアンサー
- 回答日時:
>津田左右吉氏は、神武東征は史実ではない、とし
>(1)日向は熊襲と呼ばれる逆賊の占拠地であり、皇室の発祥地ではありえない。
(2)天皇は日神の子孫であるとされているために、その故郷は日の出づる方に向う国、日向でなくてはならないと考えられた。
津田説に対する反論として私の仮説を提起します。
先ず、天皇家の祖先のうち、後世になって神武天皇の称号を諡られた人の在世時期は、紀元前660年頃という日本書紀の記述は、確かにウソであり、西暦180年~220年頃に在世したというのが私の仮説です。第10代崇神天皇から33代推古天皇までの皇位平均在位年数から、初代神武天皇の在位年代は西暦180年~220年頃と割り出しました。
津田氏は「日向は熊襲と呼ばれる逆賊の占拠地であり、皇室の発祥地ではありえない。」というが、「初代天皇が在世した西暦200年頃の日向は熊襲と呼ばれる逆賊の占拠地」だった証拠があるのでしょうか。津田氏の単なる想像ではないのでしょうか。
さて中国大陸は、前漢および後漢の時代は、皇帝の支配力が安定して中国国内は平和で、皇帝の支配力は周辺国にも及び倭国(日本)も漢朝の支配下にありました。ですから日本も平和でした。
しかし後漢朝の末期、184年の黄巾の乱以後、大陸が乱れると共に皇帝の日本への支配力も低下し、日本は内戦の時代になりました(⇒桓霊の間、倭国で大乱あり。後漢書)。殊に九州では、中国東北に地盤を持つ公孫氏(漢朝の将軍)の武力南下の影響を受け、激しい内戦が繰り広げられたと推測されます。
天皇家の祖先も戦争をした氏族の一つで、この内戦期に各氏族が土地を巡って争い、北から南へ、西から東へと大規模な民族移動が起きたとしても不思議ではありません。
ですから、この時期に天皇家の祖先が九州から近畿へ移ったという記述は信憑性が高いと思いますね。
>(4)仲哀天皇以前の記紀の記事には、天皇の系譜をふくめて、客観的な史実の記録から出たと認められるものがない。
有力な反証を一つ、挙げておきます。
埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文に、次のように書いてあります。
<表>辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比【土へん+危】其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
<裏>其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
※辛亥の年:西暦471年
※意富比【土へん+危】(おおひこ):第8代孝元天皇の皇子の大彦命、第9代開化天皇の兄。
※獲加多支鹵大王(わかたけるのおおきみ):第21代雄略天皇。
現代語に訳すと、
「辛亥の年七月に記す。私ヲワケの臣である。私の最初の祖先はオホヒコ、その子はタカリノスクネ、その子はテヨカリワケ、その子はタサキワケ、その子はハテヒ、その子はカサヒヨ、その子が私ヲワケの臣である。」とある。
そして、さらに次のように続く。
「乎獲居臣(おわけのおみ)の一族は代々、杖刀人(じょうとうじんの)首(かしら)(武官の長)として奉事(ほうじ)してきた。獲加多支鹵(わかたける)大王の御所が斯鬼(しき)の宮にあるいま、吾(われ)は大王の天下統治を輔佐している。よってこの百練の利刀を作らせ、わが奉事の根源を記す」
大彦命は第9代開化天皇の異母兄です。大彦の一族は代々、武官の長として天皇に仕えたことが分かります。またこの事実は、欠史八代と言われる初期天皇世代(第2代綏靖天皇から第9代開化天皇まで)と第21代雄略天皇までの皇統譜が、記紀が記述する通り、実在したことの(確証とまでは言えないとしても)有力な傍証になるのではないでしょうか。
稲荷山の鉄剣は、第14代仲哀天皇以前の天皇の系譜に重大な疑問を投げかけた津田説を、ものの見事に切り捨てたのです。^^;
丁寧な回答をありがとうございます♪
>後世になって神武天皇の称号を諡られた人の在世時期は、紀元前660年頃という日本書紀の記述は、確かにウソであり、西暦180年~220年頃に在世したというのが私の仮説です。
私もそう思います。
>第10代崇神天皇から33代推古天皇までの皇位平均在位年数から、初代神武天皇の在位年代は西暦180年~220年頃と割り出しました。
平均在位年数は確か安本美典氏が計算しておられましたね。
質問の趣旨からは外れますが、
平均在位年数の計算は本当に有効なのでしょうか。
(数学に弱いのでよくわからないのですが)
第10代崇神天皇から33代推古天皇までたった24代です。
ちょっと情況が変るだけで、平均在位年数は大きく変ってしまわないのでしょうか。
・・・これはまた別に質問たてた方がいいですね。
>津田氏は「日向は熊襲と呼ばれる逆賊の占拠地であり、皇室の発祥地ではありえない。」というが、「初代天皇が在世した西暦200年頃の日向は熊襲と呼ばれる逆賊の占拠地」だった証拠があるのでしょうか。
おっしゃるとうりです!
>184年の黄巾の乱以後、大陸が乱れると共に皇帝の日本への支配力も低下し、日本は内戦の時代になりました(⇒桓霊の間、倭国で大乱あり。後漢書)。
勉強不足で知りませんでした。大変興味深いです。
>殊に九州では、中国東北に地盤を持つ公孫氏(漢朝の将軍)の武力南下の影響を受け、激しい内戦が繰り広げられたと推測されます。
これは何かの文献に描かれていることですか。
それともそれを裏付けるようなものが発見されたとか?
>天皇家の祖先も戦争をした氏族の一つで、この内戦期に各氏族が土地を巡って争い、北から南へ、西から東へと大規模な民族移動が起きたとしても不思議ではありません。
なるほど~。
>稲荷山の鉄剣は、第14代仲哀天皇以前の天皇の系譜に重大な疑問を投げかけた津田説を、ものの見事に切り捨てたのです。^^;
いやー、勉強になりました。
感謝いたします!
No.6
- 回答日時:
ANo.3の続きです。
年代については指摘のあったものについては「歴博年代」と言われAMSによる更正年代ですが、これについてはまだ議論の余地があって学会でも賛否が分かれてます。
仮に歴博年代が正しいとしても弥生時代中期ですからこの時期の日本に西日本を領する王朝国家が存在したというのは考古学的には難しいでしょう。
地域国家の連合帯くらいなら想定可ですが。
3~7世紀に至る古墳文化において大きな断絶はなく、畿内でも拠点を少しずつ移動していく傾向はあっても滅亡のような断絶はないというのが古墳からわかる傾向です。
このことから「外部からの征服王朝があった」という証拠は考古学的にはありません。
いずれにせよ7世紀以前の日本は文献が乏しく、考古学資料も断片的情報にしかならないので議論が絶えないところですが、現在の研究成果からすると「古代日本において南九州から畿内へ東征があった」とするのは無理があるということです。
河内から奈良盆地への東征ならありえない話ではないです。
返事を下さりありがとうございます!
弥生時代の定義は、本来、弥生土器が用いられた時代とされていたのを
歴博は、水田稲作農耕が行われた時代を弥生時代と定義したのですね。
勉強になりました。
AMSについては炭素14年代測定法と考えていいのでしょうか?
>仮に歴博年代が正しいとしても弥生時代中期ですから
これが紀元前660年が弥生時代中期という意味ですか?
それとも神武東征があったと考えられている200年ごろが弥生時代中紀という意味ですか?
No.4
- 回答日時:
#2です。
>殊に九州では、中国東北に地盤を持つ公孫氏(漢朝の将軍)の武力南下の影響を受け、激しい内戦が繰り広げられたと推測されます。
これは何かの文献に描かれていることですか。
184年、中国大陸で黄巾の乱
189年、漢朝の将軍、公孫氏が挙兵。反乱を起こす。
190年、遼東太守の公孫度、楽浪郡と玄菟郡を勢力下に。
※太守:軍司令官
※楽浪郡と玄菟郡:朝鮮半島北部
204年、公孫度が死去、公孫康が遼東太守を継ぐ。
209年、公孫康、高句麗を攻める。
三國志魏書東夷伝の韓条に、
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡、遣公孫模、張敞等、收集遺民、興兵伐韓wai[偏水旁歳]。舊民稍出、是後倭韓遂屬帶方。」とあります。
読み下し『建安年間、公孫康、楽浪郡の南部を割いて帯方郡とす・・是より後、倭と韓は、遂に帯方郡に属す』
※建安とは後漢の年号で、196年~220年です。
※帯方郡は京城(ソウル)とその南部辺りです。
また、中国最古の地理誌『山海経』の第十二 「海内北經」にも、「・・蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕(蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。)
」という記述があり、日本の一部が公孫氏(燕の王)の支配下にあったことを裏付けます。
228年、公孫淵が遼東太守に。
237年、公孫淵、公然と独立して燕王を称す(燕国を建国)。
以下、略
漢の皇帝の支配を無視して動き出した公孫氏は、軍事力をもって支配地域を広げ、倭国(九州北部と推定)をも支配下に入れたのです。中国大陸と朝鮮半島の政治、軍事の動向を無視して、日本の古代史を語ることはできません。
>それともそれを裏付けるようなものが発見されたとか?
考古学的にも、この時期に西日本の広い地域で戦乱があったことが証明されています。しかし、パソコンに保存しておいた資料が紛失してしまったので・・済みません。
返事をありがとうございます。
とても興味を持ったので、今ちょうど調べていたところでした。
年表を書いてくださりありがとうございます。
たすかります♪
黄巾の乱の前後に起こった倭国大乱から
公孫氏滅亡後、238年に卑弥呼が魏に死者をまでの期間の記事が
技師倭人伝には記載されておらず、
それは公孫氏が倭が中国本土へ朝貢する道を遮っていたためではないか、という説があるそうですね。
日本の一部が公孫氏の支配下にあったなんてオドロキです。
>中国大陸と朝鮮半島の政治、軍事の動向を無視して、日本の古代史を語ることはできません。
ほんとうにそのとおりですね。
ご紹介いただいたウィキには吉野ヶ里遺跡が倭国の大乱を裏付ける、と
書いてありますね。
少し日本の古代史観が変りました。
あなたのおかげです♪
No.3
- 回答日時:
考古学的には
・神武東征とされるのは縄文時代末期であってこの時期に国内に王朝国家が存在した痕跡は見つかっておらず、また状況的に存在する可能性も低い。
・7世紀までみても南九州から畿内へ文化的移動があったという痕跡もみつかっていない。
・大型古墳の築造をみると畿内が先行している。
・弥生時代にすでに物流が奈良に集中する傾向がみられる。
ということから日本書記にあるような形での「東征」は史実ではないでしょう。
ただし、それなら何故わざわざ高千穂に天孫降臨して東征などという神話になった(した)のかという疑問が残ります。
これについては諸説議論が分かれるところですが、少なくとも「天皇家は奈良より西からやってきた」という伝承があり、それが反映されているということは間違いないでしょう。
ありがとうございます♪
>神武東征とされるのは縄文時代末期であって
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87% …
上記によれば、縄文時代は今から約16,500年前から約3,000年前(紀元前10世紀)とあります。
一方記紀に記された神武東征は紀元前660年です。
No.2さんがおっしゃるように、実際にはもう少し後の時代のこととされているようです。
「神武東征とされるのは縄文時代末期」だとおっしゃられる根拠を教えていただけませんでしょうか。
>7世紀までみても南九州から畿内へ文化的移動があったという痕跡もみつかっていない。
そうなのですか。参考にさせていただきます。
>大型古墳の築造をみると畿内が先行している。
>弥生時代にすでに物流が奈良に集中する傾向がみられる。
これは天皇家が政権を握る以前に物部王朝があったとしたら
神武東征を否定する根拠にはならないとおもいます。
No.1
- 回答日時:
少なくとも (4) を根拠にするのは論理的におかしい. これから出てくる結論は「史実かもしれないし史実でないかもしれない」でなけれ
ばならない. 「史実ではない」としてしまうのは明らかに予断がある.ありがとうございます。
確かにそのとおりですね!
私は(2)(3)はそう言われればそうかもしれない、と思いますが
(1)が納得できません。
(1)の説は天皇家が古くから日本に住んでいた氏族であった、という
前提にたっていると思います。
しかし、天皇家が渡来人であったとしたら(1)は成り立たないのではないでしょうか。
日向の人々(熊襲)はいやいや天皇家に服従していたが
天皇家が東征して行ってしまったので
民族の自立を謳歌した、とも考えられると思うのですが。
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