プロが教えるわが家の防犯対策術!

 この種の質問を重ねましたが あらためての設問です。
 それは どのように 情欲を 克服するかには 直接 かかわりません。実際に どのように 扱えばよいかという処世術の問題ではありません。それなら 無理することなく 受け留めていけばよいと考えます。
 趣旨説明は 次のようです。《罪》という概念が 鍵語であるようです。

 人間の存在は 善悪を超えています。そのような価値判断に先行して 存在があります。《善悪を超えている》ものとして 存在は 善です。規定するとすれば そうなるはづです。
 さて この存在とその持続に反することは 善ではなく 善を傷つけることです。この非善を 悪と称するというのが わたしたちの言語習慣だと見ます。
 この悪にかんして そのような内容のことを 思うことからも 行なってしまうことからも わたしたちは まだ 自由ではありません。悪なることを思い行なってしまいます。この相対的な存在は 相対的な善であるに過ぎません。
 だとすれば この悪から自由になろうと思えば そのときには おそらく最終的には 人間の能力と努力とでは 無理だと考えられます。しかも 悪から自由になりたいと思うなら おそらく ひとは この相対世界を超えたところに 解決(つまり すくい)を問い求めるように思われます。言いかえると この悪にかんして 人びと互いに対するものではなく――と言っても ふつうに 互いに 責任を負うことも 実際だと言わねばなりませんが―― その絶対の世界に対しての責任だと捉えるというものです。すなわち 《罪》という概念を持つというものです。

 さて 果たして 情欲は 悪であり 罪であるでしょうか。
 その昔には そう考えられたという歴史があります。どうして そのように考えたのでしょう。
 現代では 何も考えないというのが 正解なのでしょうか。

 長くなりますが わたしの考えでは もうすでに いわゆる《原罪》は 贖われ 跡形だけが――つまり しみ・そばかす あるいは ほくろや痣といった母斑に喩えられるものとしてのみが――残っていると見ます。だったら 情欲は どうなのでしょう? もともと 悪でも罪でもなかったのか。あるいは そうではあったが 原罪とともに 多少の後遺症をともないつつ その傷跡が 残っているだけだということでしょうか。どうも そうではないようですから あるいは ひょっとして エロスとして 古典古代人が神々の内に数えたごとく 中性の生命力〔の一側面〕と見るべきなのでしょうか?

 以上の問いに よろしくご見解をしめしてください。 

A 回答 (12件中1~10件)

存在が善悪を越えており


存在(生命・生命体)を維持・継続・継承するのが善であるならば
生理的な欲求は善を遂行を促す手段であると思います。
欲求を満たすことに快楽が伴うのも手段を強化させるためでしょう。

情欲は罪だと言おうとしたのは
手段が目的化することを戒めたかったのではないでしょうか。

この回答への補足

 あっ なるほど。これは おもしろい。と まづ 思いましたねぇ。
 CUE009さん ご回答をありがとうございます。流石 見逃さないですねぇ。

 きわめて 単純。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 情欲は罪だと言おうとしたのは
 〔生理的な欲求から成る生殖の〕手段が目的化することを戒めたかったのではないでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ はたっと膝を打ちつつ 《単純 伊豆 部巣戸 !》。

 そうして――これは いつものイヂワル魂ではありません―― 思い出しました。やはり同じく はたっと膝を打ちつつ 次の文句を思い出しました。
 ▲ (アウグスティヌス:神の国について 14・26)~~~~~~~
 最初の人間たち(* アダムとエワ)の生活が このように(* =《神の命令に安んじて従う忠実さがあった》ように) 容易に幸いであったとすれば かれらが欲情の伝染なしに 子を産むことができなかったと想像するのは間違いである。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  * 最初の人間たち すなわち まづ男のイザナキが 《あなにやし( How beautiful ! ) え( Yeah ! )・をとめ・を( Wow ! )》と口説き そして女のイザナミが 《あなにやし え・をとこ・を》と答えたからといって 欲情の伝染があったとは言えない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 かれらの性的器官はむしろ他の器官と同じように意志の指図によって動いたのである。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  * もしただ この人間の意志の指図によって動かなかったとするなら それは あのイザナキ・イザナミの場合――昔の人びとの考えでは 非民主主義的にして―― はじめに 女であるイザナミのほうから 《あなにやし えをとこを》と声をかけたことによるらしい。そのばあい実際には 《蛭子(ひるこ)》が生まれ これは河に流したという。あらためて 口説き直したらしい。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 そこで夫は激情にそそのかされることなく 心の平静を乱さず 身体の丈夫さをこわすことなしに 妻の胎内に液を注いだ。さらに わたしたちは経験によって確かめられないとしても 身体のこれらの部分が情熱のさわぎに左右されず むしろ必要に応じて 自発的な力によって結ばれたということを信じてならぬ理由はないのである。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  * スサノヲの《すがすがしき心の スガの宮》=イヅモ共同体=出雲八重垣は むしろかれらの身体に樹立されたのである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 したがって そのとき夫の精液は 妻の処女性をこわさずにその子宮内に入ったが これは今日 同じく処女性をこわさずに処女の子宮から月経が流れ出るのと同じである。すなわち 精液は月経が出るのと同じ通路をとおって入って行く。ちょうど分娩にあたって 時が満ちれば陣痛で苦しまないでも 自然の衝動により女の胎が開くように 両方の性を結びつけて受精させ受胎させるものは 欲情のもとのではなくて意志の働きなのである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち 《欲情のない生殖》を言っているみたいです。
 ★ 欲求を満たすことに快楽が伴うのも手段を強化させるためでしょう。
 ☆ の先を行っているみたいでもあります。これ 如何に!?!?

補足日時:2009/01/31 18:40
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オコリザルです。


ちょっとお知恵を拝借です。
心理学ではミラーとして語られていますが。
何にでも反対の表現をする意思表示又は思考的判断は哲学においてなんと言われるのでしょう。
脳内つまり生命に内包しながら、生と死を対比させる考え方です。
これが想像でしかない、真実と異なる死を作り出しています。
私の無意識見聞録では「サカシマ」と表現します。
このミラーの役割はわかっておりまして、対比させることによりウソを浮き彫りにする嘘発見器です。
真実を語るのが哲学としても、真実を知りうる過程として、心理学で語るミラーは哲学にもあるのではないかと考えました。
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この回答へのお礼

 つづいてのご投稿です。

 ★ ミラーニューロン
 ・ヰキぺディア:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A9% …
 ☆ をざっと読みましたが これ自体は 同種の行動を起こす場合のほうのようですね。
 ご回答では 
 ★ 「サカシマ」
 ☆ ということですから 反対の概念を呼び起こすような反応を 言っておられるのでしょうか。
 ○ 存在とその持続のためになるかならないか つまり 善か善でないか この判断にかかわっている。
 ○ つまりは ウソでないか ウソか。
 ○ そして 今の場合には 情欲という 身体生理的にして心理的な動きが 善かウソか。
 ☆ このような問いにまで 踏み込んでいらっしゃるようですね。

 まづ 情欲が起こるという事象じたいは ウソではないでしょうね。そこまでは認めざるを得ない と言いますか その点の認識から 思索は出発するということでしょうね。
 問題点のひとつは こう問うことに見いだされるのではないでしょうか。 
 ○ 実際に起こる情欲の動きに対して 存在たるわたしは それらを超えている身体=精神の領域を持っている。この存在のあり方において その全体として・また人格として わたし〔たち〕は 情欲を超えて あゆみ得るか。

 今回は ここまでとします。思索のみを――つまり わたし自身にとってのことですが―― 進めても まだ 実を成らせることは叶わないようなのです。

お礼日時:2009/02/01 04:55

オコリザルです。


一切の真実の無い欲の類に関しては哲学を語るのは禁止してもらいたいところですが、性欲がなぜ罪でなく許されているのかについて考えます。
欲が罪であるならば、性欲は究極の生命に対する無理解です。
生命はたくましいので性欲を飛び越えて命をつないでいきます。(生殖)
性欲そのものは性への冒涜として、むしろ死の予感です。実際にそのように表現した芸術もあります。私に言わせれば電車に出没する痴漢は歓楽殺人者予備軍です。
性欲は許されていると言うよりも存在にとって、又は命をつないでいく行いにとっても、はなっから相手にされていないと見るべきでしょう。
それならば罪の予感はただの勘違いとするのが正しいのではないかと考えます。

この回答への補足

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。

 ううーん。そうとう 飛ばしていますね。すでに そういうご見解は うかがっていたと記憶を新たにしたところですが そういう場合に けっこう 該当する文章に出遭うことがあるもので 今回 次の一節に出くわしました。かかげます。

 前もって 私註ですが ここでは 《魂》は 《心理》つまり《精神の表層で おもに 外側とのかかわりにおいて 動く心の部分ないし感情》つまりまた 《そういう動きとしての意志》ととると分かりやすいようです。《霊》は 《神》でもありますが このばあい 《〈善悪〉を超えているというべき存在》のことととると よいようです。言いかえると 《〈世界における善悪にかかわる相対的な現象〉を超えて存在している精神=身体》。
 ▲ (アウグスティヌス:ユリアヌス駁論 6・14)~~~~~~~~~
 ・・・《魂が肉的に欲するがゆえに 肉が欲していると言われる》・・・。というのは魂なしには肉の情欲は存在しないから。確かに情欲を起こすことは 生きており感覚している本性の性質である。だから去勢された男でも情欲が欠けていないで 貞潔がそれを抑制しなければならない。
 情欲を駆り立てる燃料が見出されない場合には 性欲が貞潔に逆らって刺激することがいっそう少ないから 苦労もいっそう少ない。 
 しかるに性交の試みが たとえ〔去勢されているがゆえに〕それができなくとも カリゴヌスの恥ずべき行為に到らないように 慎み深さによって抑えられている。彼はワ゛レンティアヌス皇帝の息子の宦官であり 娼婦の告白により醜行の責任を負わされて 復讐の剣によって罰せられたと言われている。
 肉の実行はなかったとしても 〔情欲が〕肉的な情欲の渇望によって引き起こされなかったとしたら 『集会の書』ではそこから比喩が付け加えられて 《彼は目で見て 嘆息し 宦官のように処女を抱きしめ かつ悲嘆している》(=《ベン・シラの書》30:20)と語られはしなかったであろう。
 したがって 魂が霊にしたがう動きによって肉にしたがう他の動きに反対し その逆に肉にしたがう動きによって霊にしたがう他の動きに反対している。それゆえ 《肉の望むところは 霊に反し 霊の望むところは 肉に反している》(ガラテア書5:17)。このことのゆえに 魂自身について 《日々 新たにされていく》(コリント後書4:16)と語られている。・・・ 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 わたし自身は このような引用を 澄ましておこなったにとどめます。――ずるいわけですね。

補足日時:2009/02/01 04:36
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こんばんは。


とってもトンチンカンな事を書いてしまうかも知れません。
どうぞバシバシご指摘お願いします!

ポルノの質問#62お礼欄後半にて、
>この「処女懐胎」は神的な意味からはともかくとして、
>その後の世界の「肉欲の位置づけ」を格段に貶める役割をしているように思えてなりません。

等と書いてしまいましたが、これについては全くの見当違いなのでしょうか?

不勉強の不信心者で申し訳無いのですが、
*何故マリアは「処女で懐胎」しなければならなかったのか?
*マリアを「処女としなければならなかった」(人為的な?)理由があるのでは無いか?
とは、トンチンカンな疑問でしょうか?

何故、マリアは
>そこにはこの肉的な欲望は全く存在する筈がなかった
=「愛(情欲)を奪われ」なければならなかったの?と思ってしまうのですが。。。だめでしょうか。。。?
(決して神的な意味での処女懐胎を疑っているわけではありません!)

ご不快な回答でしたら、削除依頼してくださって結構です。

この回答への補足

 yukkinn66さん これは これは。ご投稿ご回答をありがとうございます。

 蚊論争のほうでは 自分の価値判断や思考形式を そのまま 何の疑いも省みることもなく あてはめてしまいました。正直に申せば この判断のあり方も 妥当であるとさえ 思っているのですが もっと広く 考えをもって いえ それよりも 当事者であるyukkinn66さんに きちんと たずねつつ お話をすすめるべきでした。そのように省みて思っております。
 もう少し 細かく述べます。サビーヌさんの考え方が 飛び抜けて 妥当であると考えています。事件は 無効であったということです。八十日間は 空白の時間になってしまいますが 何もなかったという捉え方です。何もなかったのです。存在は 善悪やあるいは事件を超えていると考えるものです。ぜひ 真実の探究ができればありがたいと思っています。

 ★ (決して神的な意味での処女懐胎を疑っているわけではありません!)
 ☆ この視点が すべてです。と言いますか この神的な意味 プラス 人間的な意味 これらの意味が 同時に 成り立つと見る視点です。
 ドグマ――論証し得ぬ想定――ですが かの人は ナザレのイエスというふつうの人間であると同時に 神の独り子で自身も神であるキリストであった。この信仰における想定のもとに マリアは ふつうに人間の女性として 妊娠したと同時に 聖霊によって身ごもったという見方です。後者を 取り出して 処女懐胎と言うわけですが 一面だけを言っているとも言わざるを得ません。

 聖霊が出てくるということは 人間の理性や能力では 捉えられない世界だという意味だと思います。霊も神も 人には なぞであり 分からないという意味です。

 これを 実際の現実として(そして その一面だけを 全体として) 認識してしまえば 現実の世界認識が たしかに おかしなものになるようです。
 ★ その後の世界の「肉欲の位置づけ」を格段に貶める役割をしているように思えてなりません。
 ☆ 聖と俗などという対立する二項によって 同じく世界認識をするなら それは おかしい。それらの観念は いくら聖なると言っても そして その表象をどこまで推し進めて行っても この相対的な経験世界のものなのですから。霊は この世界を超えているわけですから。
 ただ物語をこしらえたということだと考えます。つまり あるのは 《絶対》という想定のみです。これを 霊とか神とか呼びます。

 いわゆるクリスチャンの見解とは違うと思いますので その点 ひとこと 触れておくべきだと思います。
 ご投稿を寄せていただき ありがとうございました。
 
 * 字数制限となり 補足欄にて お礼を申し上げました。

補足日時:2009/01/31 00:51
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この回答へのお礼

 蚊論争のほうで 補います。

 わたしが サビーヌさんでしたら インタヰ゛ュ―に こう答えます。
 △ いのししの群れが 道端に 突如 走って来て 自転車に乗ったわたしの周りを囲んだのです。あとは 覚えていません。
 △ 蚊が飛んでいたかも知れません。もうろうとした頭に その羽音が聞こえたような気がします。
 △ でも 意識がはっきりとしていた時に 猪たちを見ると どうも あの豚のできそこないでも 人間が好きなようで わたしがかわいいと思ったらしいのです。
 △ やつらは わたしの美貌に いちころになったようなのです。
 △ そうなると 隙が出来ます。鼻息の荒さも弱まるというものです。警戒がゆるくなるというものです。
 △ そうして この難局を潜り抜けるのに なんと 八十日もかかりました。かかりましたが 抜け出し切りました。

 △ (日記には ほんとうのことを書こうかな。――美貌と言ったけれど それは 当たり前なのだけれど ほんとうは こころの美貌なの。いのししも わかったみたいよ。ふふふ)。
 △ 情欲ですって? いのししのは 情欲とすら言わないわよ。笑わせないで。
 △ ひとの自由意志を拘束するというおのれの自由意志の放棄は 自殺です。だから いのししとしか言いようがないと思います。人間ではなくなっています。
 △ 大蛇が目の前に現われたからといって 人間の心が傷つくわけないと思うわ。びっくりしたけれど。 m(_ _)m

お礼日時:2009/02/02 09:44

参考程度に


「渇愛(タンハー)」は欲しい・欲しいという欲求のことですね。
愛欲=情欲のみのことではないですね。欲が制御できないという状態ですね。これが苦と喝破したのが釈尊ということですね。
「この苦の現世を離脱することを目的とするブッダの宗教」
現世を離脱してしまえば世捨て人か死ぬしかないですね。これだとオームの「あさはか」のポア思想と同じになってしまいますね。
現世を離脱ではなく『解脱』することですね。現世はありのまま受け入れて、「生きているのだから受け入れるしかないですよね。」 その上で、生きている理由を求め、哲学することによりそれを知りえたことを解脱というのですね。知れば苦が苦で無くなるということだけですね。物理的に苦がなくなるわけではないですね。また哲学するには、学生ですから妻帯を禁じたということですね。その程度のことですね。
ということで、
▲ (《岩波 仏教辞典》1989:淫欲) ~ の記載内容もいいかげんでしょ。将来向けには直さないとね。
どの宗教でも宗教者たらんとする者は、まずは学生だから欲を抑えて生きるのは当然のことですから、その言動で一喜一憂する必要もないのですね。あくまで師の教えを伝えればいいだけですね。
わからなければわからんといえばいいだけなんですが、坊主も名誉欲だけは強くていい加減なことをいってしまうのですね。
パウロもその一人でしょうね。
こういえばかどがたつかもしれませんが、イエス様にも愛人がいたしね。釈尊だって出家前は妻帯して子供もいましたから女性がきらいなわけではなかったのですね。そういう意味でも情欲は悪とか罪ということは出ないでしょう。指導者は皆、制御不能に陥った無軌道な欲は身を滅ぼすということは良く知っていたということですね。肉体生命を面々と維持し、人類存続のために男女がいるわけですから、本質は情欲も良いことなんですね。
社会形成と社会の運営に反することは「やめなはれ」ということが悪と罪の根拠でしょうから、情欲の悪と罪はそういった次元の問題でしょう。
情欲が異常に強く、情欲の制御が出来ず日々さいなまれていた学生パウロの精神に基づくものではないということですね。
文脈から読み取れないことはたくさんあるんですね。

この回答への補足

 mmkyさん ご回答をありがとうございます。

 ★ 「渇愛(タンハー)」は欲しい・欲しいという欲求のことですね。
 ☆ なのですが
 ○ 愛欲(カーマタンハー)
 ☆ を言っていますから 情欲にかかわっていますね。そのほか 詳しいことは さらに必要であれば 追って 調べることとしますが
 ★ 学生ですから妻帯を禁じたということですね。その程度のことですね。
 ☆ これは ゆるい解釈だと思いますよ。性行為の禁止(不淫戒)であるはづですよ。
 全体として ブッディスムにしろ クリスチアニスムにしろ 日本に入ると 戒律がゆるやかになったというその情況また現状から mmkyさんは このご回答を述べておられるように感じます。そういう見解も あろうかと思いますが そもそも それらの信仰なり修行なりが はじめに目指したもの これを 捉えたのちに 評価・評論するとよいと考えるのです。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 わからなければわからんといえばいいだけなんですが、坊主も名誉欲だけは強くていい加減なことをいってしまうのですね。
 パウロもその一人でしょうね。
 こういえばかどがたつかもしれませんが、イエス様にも愛人がいたしね。釈尊だって出家前は妻帯して子供もいましたから女性がきらいなわけではなかったのですね。そういう意味でも情欲は悪とか罪ということは出ないでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 角が立つという問題ではなく あまりにも 印象批評であり 世俗のうわさにしか過ぎない事柄であるように思います。
 もし 情欲について 趣旨説明に述べたような意味での《悪》でもなく《罪》でもないはづだというご見解でしたら その見解にもとづく批判を しっかりと 展開していただければと思う次第です。
 もう現代では 考え方は きわめて ゆるいものになっているのだから いいじゃないかというようなご議論のように映るものですから 一度 この物言いを述べます。

 最後の段落も 読み取れない部分があります。全体としても 誤解があれば あらかじめ つつしんで お詫び申し上げます。

 ★ 現世はありのまま受け入れて、「生きているのだから受け入れるしかないですよね。」
 ☆ 《ありのまま受け容れて》のあと その現世に はたらきかけるという道もあるはづです。その道の一環として 《情欲=罪》の説が 出されたのかも知れません。相手の側における理論的な可能性を探究しつつ あとは 葬り去れるものなら 葬り去ることにしたいと思うのです。どうでしょう。

補足日時:2009/01/30 21:17
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情欲が起きるのも優しくありたい、幸せを願っているという人間味から起きるものがあると思います。

しかし事情をよく知る宗教や哲学者がそれを戒めるのは「どんな優しさにも限界がある」と知っているからだと思います。

本当の解決になるような情欲は事後の慰め方ではなく、不幸な人や恵まれない人を生み出さない世界を築くことであって、目の前で困っている人に情欲し対処することではないからです。

この場合だと更に冷淡な仕打ちに映るし、自分や身内の世話や正当化をしていては、善人として存在が可能なのも、実は嫌われ役を担ってくれているような人が居てくれたお陰で、恩返し(?)しなきゃならない救うべき人は救えなくなってしまう。

志が万人に向けられるほど大きくなると「どんな優しさも偽者であり限界がある」と自ら証明してしまうことになる。そういった保身的な悩みから脱却するために目立った行動や情欲(態度を急変させること)、妻帯を禁じる宗教があるのだと思う。

>人間の存在は 善悪を超えています。

善悪を考えることが出来るのも、社会性に育まれた個性の現われに因ってで、没個性化への抵抗があるのでしょう。時間の継起の内に、空間的延長の内に、他の存在との関連の内にと「~の場合」で執行された個性も多様化してしまう。

他人と同じ人生は送れず、だが人間と影響を及ぼしあって生きているのも人間で、独立した存在であれない故に、個性~社会の善悪が存在したとしても存在からすると「添え物」程度のこと。
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この回答へのお礼

 miko-desiさん ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >人間の存在は 善悪を超えています。
 :・・・・・・・・
 ・・・個性~社会の善悪が存在したとしても存在からすると「添え物」程度のこと。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このように 善悪をうんぬんする世間から 人間の存在は これでも 首ひとつぶん 抜け出ている。そういう人間にとっての情欲であれば
 ★ 優しくありたい、幸せを願っているという人間味から起きるものがある
 ☆ のだ。ただし
 ★☆ 「どんな優しさにも限界がある」ゆえ 事情をよく知る宗教や哲学者は それを戒める
 ☆ という事情なのである。すなわち
 ○ 情欲は 悪だ 罪だと言っていても その言おうとすることは 上のような事情を反映したものなのだ。
 ☆ でしょうか?
 人にやさしい解釈ですね。そのご見解は 何も悪くないようなのですが 情欲を悪だ罪だと言ったということは 相当 きびしい中身を伴なっているようには 思っているのですが どうでしょうか。そうでなければ 禁欲だとかそのための修行だとかをしないと思うのです。
 それらは ただ 昔の人間たちの考え違いで 行き過ぎだったのか。そのあたりを きちんと 分かれば そのような情欲=悪の説を やはり きちんと 葬り去ることができると考えるのです。

 中ほどのご文章
 ★ 本当の解決になるような情欲は事後の慰め方ではなく、不幸な人や恵まれない人を生み出さない世界を築くことであって、目の前で困っている人に情欲し対処することではないからです。・・・
 ☆ は 役割分担のようなものがあって 禁欲する人たちの集団もいたし そうではない普通の人たちもいた というような意味合いでしょうか。もしそうであれば 《情欲=悪》の説は 中途半端な理論だということになりますね。読みが 間違ったかも知れません。

 ということで 《情欲は罪だと言おうとしたのは なぜか》について なぜだか ここに来て わたしは どこかに 神秘的な意味合いさえがあるかも知れないと ふと 感じるようになりました。この直前までのわたしの考えの推移とは また ちがって あちらこちらに 振れています。
 でも ありがとうございました。

お礼日時:2009/01/30 20:58

▲ (パウロ:ローマ書7:5-12) ~~~~~~~~~~~


[ わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。]

どうもパウロも含めて生悟りの坊さんは「情欲」を「罪」と捉えるきらいがありますね。パウロは「罪へ誘う欲情」と巧妙に逃げてますが「情欲」=「罪」と捉えていたのでしょうね。
情欲を罪とすれば、肉体に起因する全ての欲、つまり睡眠欲、食欲、色欲(情欲)、名誉欲などなど全て罪になってしまいますね。その結果は生きることが罪ということになってしまいますが、これでは生まれてくる意味もないですね。次から次に生まれてくる人に生きることは罪であるなどとのたまう宗教家がいるとしたら狂っているとしか言いようがないね。
正しくは、「欲」は「苦」と置き換えるものですね。行き過ぎると苦しいからですね。行き過ぎなければ「欲」は「楽」や「喜び」になるでしょう。一人で暮らすより夫婦二人で暮らすことが楽しいですよね。では不倫関係だとどうでしょうか、一般的には嫉妬の嵐でお互い苦しいんじゃないでしょうかね。世界には一夫多妻、多夫一妻という形態もありますので、一夫一妻であろうがその他の形態であろうが互いに認め合って子をなし楽しく生活できるのであればいいだけなんですね。家族関係を崩壊させるような性の乱れを罪というのですね。快楽にのめり込むと本人は夢中でわからないかもしれないが回りは迷惑千番ですよね。
快楽は情欲のみを意味しませんよ。「欲」全般ですね。食欲、睡眠欲、酒欲、賭博欲、麻薬なんかも身を滅ぼす欲ですね。なんでも行き過ぎると快楽になるのですね。食欲、睡眠欲も行き過ぎると大変ですよ。お父さんが健康なのに一日中寝ていたり、食べてばかりいたら周りは大変困るでしょう。酒乱よりたちがわるいかもですね。
というように、快楽の説明からも「情欲」が単なる人間が持つ生命欲の一つでしかないのがわかるはずですね。つまり、
○ 生命力に付属する力ないし欲求として 性欲がある。これは 生活するに際して 付随してくるようになる。
ということが正しいということですね。「言い切っておきますね。」
生きることは苦しいこともありますが楽しい経験や新しい出会い、新しい知識、夫婦で暮らす喜び、子を育てる喜びなどなどを得られるのですからいいことなんですよ。そこに一遍の罪もあるはずがないし実際無いからみんな生まれてくるのですね。
元に戻って「生悟り」の宗教家ほど困った存在はないということですね。イエス、釈尊も孔子も情欲が罪などといってないですね。パウロも後の宗教家足らんとした者もこれから目標にする者も、後の修正が大変になるのでこの点を間違わないようにしないとね。
追加の参考程度に

この回答への補足

 mmkyさん ご回答をありがとうございます。

 ですが 今回も まだまだ むしろ mmkyさんが 最初に おっしゃったように
 ★ この命題はかなり根が深い問題ですね。理性や知識だけでは答えが出ないかもしれませんね。
 ☆ という感を深くしています。

 二点 あります。
 ブッディスムでも――どういう内実の《罪》と見るかは別としても―― 根の深い《無明》の問題に かかわっているように いま 確認しました。
 ▲ (《岩波 仏教辞典》1989:淫欲) ~~~~~~~~~~~~~~
 性欲のこと。仏教はこの世界の現相を輪廻として捉え この世界内にある人間の生を根本的に苦であると認定する。(苦諦)。ゴータマ・ブッダの立ち場は この苦の原因を世界の本質が渇愛( tanhaa )であることに求め(集諦[じったい]) その渇愛を滅して涅槃の寂静(滅諦)に帰するために行(ぎょう)を行ずべきである(道諦) というに尽くされるのであるが(四諦) この場合の渇愛の最も端的な現われが 《淫欲》である。
 すなわち《渇愛》は 《欲愛( kaamatanha )・有愛( bhavatanha )・無有愛( vibhavatanha )》(マハーワ゛ッガI.6.20)と定義されるが これは渇愛とは 《愛欲( kaama )》であり この世界と人間との根底をなす普遍的・根源的な性的欲求または意志が 現実世界において人間に対して生存・自我拡大への欲求(有愛・リビドー)とその逆の生存否定への願望(無有愛・モルティドー)として働き 人間を永遠に苦の世界に輪廻せしめていることを意味する。
 したがって この苦の現世を離脱することを目的とするブッダの宗教(根本仏教あるいは原始仏教)においては 自らの淫欲を抑制し克服すること(梵行)がその実践の本質をなす。すなわち 性行為の禁止(不淫戒)が 出家者の戒律の根本をなし その違反は直ちに教団からの追放という最重罪(波羅夷[はらい]罪)を形成する。ただし 在家信者には不邪淫戒が課せられるにとどまる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 ★ パウロ
 ☆ につきましては 次の文章に見られるように その当時 すでにこの世の終わりが迫って来ていると思われていた――つまり 全くの間違いです――その思潮にもとづいて 急迫した口調で言っていることと 一般論として言っていることとは 別であると考えられるのです。
 ▲ (コリント前書 7:25-35)~~~~~~~~~~~~~
 未婚の人たちについて、わたしは主の指示を受けてはいませんが、主の憐れみにより信任を得ている者として、意見を述べます。
 (* 命令ではないというこの態度も 参考になりますね)。

 今危機が迫っている状態にあるので、こうするのがよいとわたしは考えます。つまり、人は現状にとどまっているのがよいのです。
 妻と結ばれているなら、そのつながりを解こうとせず、妻と結ばれていないなら妻を求めてはいけない。
 しかし、あなたが、結婚しても、罪を犯すわけではなく、未婚の女が結婚しても、罪を犯したわけではありません。ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです。
 兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、 泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、 世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。

 (* 以下は いわば平時における一般論だと言えます)。

 思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、 結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、 心が二つに分かれてしまいます。
 独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。
 このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《大きなお世話だ。放っといてくれ》と言いたくなっても おかしくありませんが 問題点はそこにあって それを突いているのではないでしょうか。この質疑応答をとおして いくらかは わたしにも 向かう方向が見えてきたのですが

補足日時:2009/01/30 11:40
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この回答へのお礼

 ○ 情欲 もしくは 特定の対(つい)の関係における性愛関係を含む配偶者どうしの共生は 社会一般の交通関係(それとしての 愛)における共生また 共同自治のあり方に 含まれる。か もしくは 同等の 地続きの場において いとなまれる。
 ☆ こういうことを言おうとしているのではないか。それが 
 ○ 情欲は 悪であり 罪である。
 ☆ ということの意味するところではないか。
 ただし 表現の適切さが 問題になるという事態が そのときには 起きます。もし わたしの解釈のようであるのならば 言いすぎであり 言い方がつたないものです。したがいまして 逆に 問題がないように解釈する場合のほうが まだなお 正しいということにもなりかねません。まだ 分かりません。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ○ 生命力に付属する力ないし欲求として 性欲がある。これは 生活するに際して 付随してくるようになる。
 :ということが正しいということですね。「言い切っておきますね。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ と確認していただいて これの内容も 上に述べた方向に合致していることを確認できればとは思います。どうでしょうか。

お礼日時:2009/01/30 11:46

何故姦淫してはいけない、と多くの宗教が規定しているのか。


それは宗教にとって生きることが罪であるからです。




殆どの宗教は、現世における苦役によって来世や天国での
成功が保証される、という考え方を採用しています。何故か?
元々宗教というものは生産を行わないので、経済的な救いを与えることが
出来ません。指導者は見返りを与えることが出来ず、何の救いも
もたらさない宗教は支持を失うこととなります。
そこで教団は苦役によって見返りがある、苦役にこそ価値がある、
とするしかなかったのではないでしょうか。


生きることが罪である。
こう定義するだけで、宗教を信じても逃れられない
社会的・肉体的な苦役が「神に与えられた試練」と名を変え
彼らにとって素晴らしいものとなるのです。
こうして、宗教は多くの人間を「幸福」にしたのです。



宗教に生きる人間はその教義に矛盾しないように生きることを目指します。
生きることが罪である、あるいは現世の苦が次の生で報われる
という教義に対して、矛盾を生じさせないことを目指すのならば
生きる喜びを生じさせるもの・快楽も自動的に忌避されるのです。


快楽の禁止。これがまさに宗教の本質であると思います。
宗教家には「現在の幸福」は与えられないのです。
宗教家に与えられる「幸福」は精神の幸福。つまり"次の生における希望"です。

この回答への補足

 wiz0621さん ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 快楽の禁止。これがまさに宗教の本質であると思います。
 宗教家には「現在の幸福」は与えられないのです。
 宗教家に与えられる「幸福」は精神の幸福。つまり"次の生における希望"です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ほとんど このご見解に傾いたのですが わづかにでも 《宗教家》からも 反論が出るかに思われます。二点です。
 (1) 《希望》は 《かたちのないものが 希望である》と言う如く 非思考としての信仰の内にある。つまり 何もない。のですが そうなのですが かと言って この信仰のもたらす希望は 《"次の生における希望"》に限られるかと言えば そうでもないと言わなければならない。
 (2)宗教を説く説かないに関係なく すべての快楽が肯定されてよいかと言えば そうではないというふつうの思想がありうるのではないか。
 一般的な愛(交通)としての人間関係にしても 特定の性愛関係をともなう対(つい)の人間関係にしても 罪という規定は別としても 悪と規定されうる思惟や行為は 見られる。とすれば いわゆる倫理は 生活日常におけるふつうの思想のあり方だと考えられる。

 (1)の反論をうらづける文章をかかげます。旧い表現形式ですが。
 ▲ (アウグスティヌス:三位一体論 8・7) ~~~~~~~
 すなわち 彼(* イエス・キリスト)は自分の固有の権能や意志によってこのようなこと(* すなわち あたかも奇蹟のごとき隣人愛の実践)を為し得ない人々が戦慄することを為し得るよりは 敬虔な意志によって全能者(* 神)に結合されるほうが一層 力強いことを知っているのである。
 そこで 主イエス・キリスト御自身がこのような不思議な業をなしたまうのは それを驚嘆する人々に一層偉大なものを教え そして時間的な奇蹟によって心奪われた者 また不安な状態におかれている者を永遠的なもの 内的なものへ向き変えるためである。それゆえ 主はつづいて

   されば汝らは 憩いを見出さん。

と言いたまう。なぜなら 

   愛は驕らず(コリント前書13:4)

   神は愛である(ヨハネ第一書4:8)

 そして外にある喧噪から静かなる歓喜へとよび戻されている

   信ずる人々は愛によってかれと共に憩うであろう(知恵の書3:9)

からである。視よ 

   神は愛である。

もし私たちが〔この〕神の御許にあることを欲するなら 自分たちのもとに居られるお方を問い求める私たちが どうして天の高みと地の低きへ走り行くであろうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このように 
 ○ いま・ここ・わたし
 ☆ なのですね。偉大な思想は。つまり 偉大な思想をもたらす信仰は です。どうでしょう。

 * また 情欲は罪であると言っていても 結婚は善であるなのですね。この場合。
 むろん 足して二で割る方式で答えを出すわけには行きませんが もう少し考えを伸ばしてみたい欲望にかられます。wiz0621さんは いかがですか。

補足日時:2009/01/30 03:39
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  ☆ 前回のわたしのお礼欄では その後半は 生活そして子孫繁栄へ向けての積極的な姿勢として その一側面として 情欲が 一枚 噛んでいると 一般に 考えられているのではないか。

こういう角度から――ほぼ 一方的に――述べたものです。
 そのつてでは 今回も もし 《積極的》=《 agressive 》だとしますと ややもすると krya1998さんのご議論では 他方の極に 振り子が 振れているかも知れないとは感じます。率直な これは 感触です。
 ★ aggressiveが、brageloneさんの言われる、情欲であり、邪悪の質だと存じます。
 ☆ このような見方に接したばあい まづは 上のような感触が起こるのが 一般ではないでしょうか。つまり わたしとしましては まだ 結論が いづこにあるとも 分からないからには 視野を広く 意識的に ゆるく 持つことも 必要かなと思っております。

 はぁい:《 agressive 》はないわけにはいきません。その自覚とその超克の企図は必要なのかと存じます。性も《 agressive 》性の脱色もありうるようですよ。
 
  ☆ 《ida》は、いわゆるpingala(陽)、ida(陰)のことで、http://en.wikipedia.org/wiki/Nadi_(yoga)をご参照いただけませんでしょうか?
 ルナは太陰でして、葉隠れと同一視しておりますが、やはり私は《無》ですね。太陽と、表裏一体の本源たる《無》ですね。
 あの周恩来さんをルナとすれば、毛沢東氏は陽でしょうね。俗物的側面を見せている。太陽ですね。
 一流はルナ、亜流が毛さんではないでしょうか。第二の席はすごいですね。山岡の鉄あにぃと周恩来は尊敬しております。

 その他のお書き込みはとても私には難しいですので、コメントはもてません。老人の我侭をどうかお許しください。

 ★ 白馬蘆花に入る / 白鳥蘆花に入る
 ☆ その謙(へりくだ)るさまについて 格言のごとき意味合いは 検索して ひととおり 勉強しました。どうでしょう。ですが どうでしょう? これは ひとにあまり みづからの手柄を吹聴しないといったことを言っていませんか。つまり 手柄となるような社会的な貢献としてのおこない自体は おこなっているわけです。武士道の葉隠れと同じかなと存じています。

 はぁい:その通りと存じますが、私の言い方への転用も可能、というか、地続きと存じます。実践段階のことでして。これは個人がそう思うだけですから、brageloneさんがそう思わなければそれでも結構でして、口角に泡でのお話のことではありません。
 特にあの禅の本来の意味を、湖人は考えていたと私は思います。もう 中学から高校と湖人のことだけ読んでいたような気もします。


 ★情欲は 一般に 隠れた場にあります。
 はぁい:そういう見かたもあるのですね。隣人愛は私としては、情欲の問題ではないのです。
 
 ★蘆の群れに入って その蘆と見紛うほどにのみ身を処すことによって 派手な活躍として見えるさまを慎むということは どうも 社会的な行為にかかわるように思えるのです。一般のいわゆる人間関係としての その意味での隣人愛にとっての 場であります。

 えぇ:蘆花の中に入るのは白鳥ですものね。そしてそれって神という存在の意識、意志、光ですよね。

 ▲ (スサノヲの歌) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 八雲立つ 出雲八重垣
 妻籠みに 八重垣つくる
 その八重垣を
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
はい:これ以降もよく理解できます。
   私たちの性だと存じます。ありがとう御座いました。

 すみません、これにて失礼申し上げます。もう私には何も申し上げることがないもんでして。
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この回答へのお礼

 krya1998さん ご回答をありがとうございます。

 わたしのほうから 二点 確認できて よかったと思うことを覚え書きしておきたいと思います。

 スサノヲの歌が 対(つい)の関係を含む一般の人間関係 つまりあるいは そのような共同自治のあり方 これをうたっていると確認できてうれしい限りです。

 《 Nadi 》は そうしますと 経絡のことですよね。そして やはり 二項対立 もしくは 双対の概念の むろん どちらも含む総合的な見方に立つということ これの確認も出来て よかったです。

 こういったところでしょうか。ありがとうございました。それでは 今回は これにて わたくしも 失礼申し上げます。

お礼日時:2009/01/29 19:51

[情欲は罪だと言おうとしたのは なぜか]


この命題はかなり根が深い問題ですね。理性や知識だけでは答えが出ないかもしれませんね。

「もともと 悪でも罪でもなかったのか。」というのが正しいことは創世記にも『生めよ増やせよ」とあることからも明らかなように思います。
どこからおかしくなったかといえば、はるか歴史を遡って「アダムとエバのりんごの木」の話からですね。比喩的な話ですが、これは額面どおりの智恵の話ではなく、性的な乱れ、快楽にのめり込むことをサタンが薦めたという話が元のようですね。このあたりから「情欲」は罪という話が出てきているようです。その後もソドムとゴモラや歴史に残るポンペイなどの消滅なども性的な乱れが原因といわれてますね。
ところが、キリスト教以前のどの宗教指導者の戒律を読んでも「情欲」が悪いとはいってませんね。例えば、4000年以上前の、モーゼの十戒にも「姦淫してはならない。」 「隣人の妻を欲してはならない。」とあるだけですし、2500年前の仏教の在家五戒にも「不邪淫」・・夫婦関係以外の淫らな情事をしないことをいっているだけですね。
つまり、どの大宗教でも夫婦間の「情欲」は肯定しているのですね。そういう意味で「情欲はもともと悪でも罪でもなかった」し、むしろ夫婦間で多くの子をなすことは「善」であったのでしょうね。
豊かな時代に性的乱れが起き、それを戒めるということが必要になり、一部の宗教指導者がそれを逆手に取ったというのが原罪の出何処ではないかと思います。
面白いことに、釈迦仏教の時代は、修行僧が情欲でおかしくなると、墓につれて行き、腐乱死体を見せて落ち着かせたそうです。ここでも悪とはいってないのですね。それ以上の場合は一度還俗させて、子をもうけてから再度出家するなどということもあったそうです。
さて、キリスト教で情欲が悪などと言うとすれば、おそらくパウロからでしょうね。聖職者足らんとしての戒めだったのでしょうが、ローマの時代も豊かになって性風俗の乱れがひどくなったので、パウロの意志は引き継がれたのでしょうね。
「性風俗の乱れ」に対する戒めの行き過ぎというのが長い歴史の真実ではないでしょうか。
それ故:
☆ 情欲は、中性の生命力〔の一側面〕である。 が正しい見方思いますね。
参考程度に

この回答への補足

 mmkyさん ご回答をありがとうございます。

 吟味すべき事項として 重ねて 参照文章を掲げてみます。
 ▲ (創世記1:28) 《生めよ 増えよ 地に満ちよ》
 ▲ (創世記3:1-7) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」

 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。 ・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これらの間に起こったことは そうしますと 中性の《性欲≒生殖欲》が 《どこか恥づかしさをともなう情欲》となって現われたということでしょうか。
 ★ 性的な乱れ、快楽にのめり込むこと
 ☆ これらに対して 乱れのない性 のめり込まない快楽の享受といったことが 最初の欲求だったでしょうか。

 ▼ (出エジプト記20:14&17)~~~~~~~~~~~~
 姦淫してはならない。
 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない(=むさぼってはならない)。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 姦淫については 辞書では
 ○ 姦淫 : 男女が不倫な肉体関係を結ぶこと。
 ☆ と漠然としていますが
 ○ 姦淫罪 : 個人の性的自由を侵害する犯罪。強制猥褻(わいせつ)罪・強姦罪・準強姦罪などの総称。
 ☆ となると はっきりしますね。そうすると ここでも
 ○ 倫理にもとづく性欲(=中性)と そして 反する情欲(=むさぼり)
 ☆ という区別でしょうか。

 ○ 仏教の説く情欲論 また 実際の修行僧の持った思想の内容
 ☆ については 明るくありませんので さらに 専門的な見解をおしえていただけるとよいと思います。

 ▲ (パウロ:ローマ書7:5-12) ~~~~~~~~~~~
 わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。
 しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。
 では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。
 ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。
 わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。
 罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。
 こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。 ・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 途中で切っていますが このパウロの見解については どうも 一筋縄では 捉えきれないようには思います。

 ☆☆ 情欲は、中性の生命力〔の一側面〕である。
 ☆ これを 次のように言い替えたいのですが。
 ○ 生命力に付属する力ないし欲求として 性欲がある。これは 生活するに際して 付随してくるようになる。

 どうなんでしょう。ありがとうございます。感謝申し上げているのですが まだ どうも あいまいであるようには感じています。どうなんでしょう。

補足日時:2009/01/29 13:20
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