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この件につき調べてみて、ジェンダーとは生物学的でなく、社会的、歴史的に作られた男女の性差のことで、これをなくしていき、男女共同して住みよい社会を作ろうというのがジェンダーフリーの考え方だと自分なりにまとめてみました。

一方、調べていくうちにジェンダーフリーに強硬に反対する勢力があることに気付きました。大抵は保守派のようですが、彼らはなぜああも反対するのでしょうか?
ご教示願います。

A 回答 (3件)

無論、ジェンダーフリーも保守も、カテゴリカルに2つに分かれているわけではなくて、多くの場合は強調する足場の置き具合、という程度問題であるのは事実でしょうが、大きく言えば、根底で人間観に相違があります。

つまり個人と社会、歴史、共通善といった問題への態度の違いがここに現れるわけです。

ジェンダーフリーの考え方は広くはリベラル思想に根ざすもので、それは原則的には結構なことですが、あくまで程度問題であって、彼らが原則を強調し過ぎる時に軋轢が起こります。

ジェンダーフリーの考え方の原則を整理すると、まず個人の重視にあります。
社会は個人の選択の集積として存在する、といういわば社会契約論的なスタンスで、男であれ女であれ、個人はその社会が培ってきた歴史、伝統一切の系譜とは無関係に、独立した色のつかない無漂白な「主体」として成り立つ、ということを意味します。
次に、共通善に対する相対主義。
男であれ女であれ、どんなライフスタイルを選択するかは個人の「選択の自由」であって、社会が干渉すべきではない、従ってどういう善を選択するかに客観的な優劣をつけることはできない、というのがジェンダーフリーの基本スタンスです。

しかしよく考えてみれば、そのような「主体としての個人」が果たして存在しうるのかどうか、ということが深刻で大きな問題になります。いわゆる保守層がジェンダーフリーの行き過ぎに警戒するのも、この意味で彼らの価値観に反するものだからです。

保守層とすれば、人間は現実にある社会に属し、そこに伝統として受け継がれる習慣的な行動様式を習得することを通じて、はじめて物事の意味を理解できるのです。そもそも、一定の徳や善というものを共有していない相対主義の社会で、果たして社会が瓦解せずに成り立っていくことができるのかどうか、社会的な高次元の善は担保されるのかどうか…これら全ては歴史上かつて経験されていないわけで、それを掲げることは思想というよりむしろイデオロギーに近いと感じられるからです。
例えば、ジェンダーフリーの考えは、国家を希薄化して“自立した主体の結合による地球市民を”といったスローガンと親和性が高いのですが、これに対する素朴な疑問、「日本人でないものが果たして国際人になり得るのか」というアナロジカルな疑問がはしなくもその問題点を象徴しています。

別な言い方をすれば保守とは、「ある価値観の中で生きることを主体的に選択する、という価値観」とも言えるのであって、極端なジェンダーフリーが言う「いかなる社会的価値観からも脱却したところに主体の可能性が開ける」とする価値観とは全く相入れないのです。
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この回答へのお礼

詳細な解説をありがとうございました。なかなか難しい問題なのですね。大変勉強になりました。ありがとうございます。

お礼日時:2003/02/07 11:07

男も家事を手伝うとかそういった作業分担レベルのことから


男用のスカートがあってもいいんじゃないか?という発想や
セクシャルマイノリティにおけるジェンダーフリー思想まで
一口にジェンダーフリーといっても扱う範囲が広すぎますね。

人の考え方は様々だとは思います。「男子厨房に立ち入らず」
という言葉があるように女性の領分に立ち入らない、または
女性の仕事として尊重し見守ることを美徳とする考え方も
ありますので。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。なかなか結婚できない独身男性が増加している現状では「男子厨房に立ち入らず」はパラサイトシングルの勧めになりかねませんね。そもそも妻が家庭料理を作るものだという考え自体、もはや美徳とは言えますまい。

お礼日時:2003/02/07 08:50

現実の生理学的な性差があります。

これは、概念や価値観の問題ではありません。
完全なジェンダーフリーという思想が生理学的な性差を無視することになると、却って不都合・不公正な結果を生じてしまうことがあります。

社会的・歴史的な性差とは、生物学的な性差と必ずしも無関係ではなく、生物学的な性差があるからこそ社会的・歴史的な性差を形作ってきた側面があります。このことを看過して、表面的な事実だけを殊更に取り上げてしまうことによる弊害を懸念するのだと思います。

また、男性と女性という性別の存在は、生物学的な繁殖行動と密接な関係がありますから、概念や理念で繁殖衝動を抑制しきれるという発想自体は非現実的だと思いますし、繁殖衝動に関係する情動が合理的判断、客観的判断を誤らせることも空想の世界のことではないため、客観性・合理性・安定性を考慮すれば、性差の認識を踏まえて社会構造を捉える必要があるものと思います(もちろん、不合理な性差別を是とするものではありません)。

反対の内容にもよりますが、全く的外れなものばかりではないでしょうし、絵空事で性差を無視しても社会的な利益には必ずしもならないものと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。ジェンダーフリーの運動家もさすがに生理学的な性差を無視して運動を勧めようとしているとは思いませんが、どうでしょうね?
ありがとうございました。

お礼日時:2003/02/07 11:10

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