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 ▲ (ヨハネ福音書15:18~19)~~~~~~~~~~~~
  ――・・・世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわた
   しを憎んでいたことを覚えなさい。
    あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内とし
   て愛したはずである。
    だが、あなたがたは世に属していない。
    わたしがあなたがたを世から選び出した。
    だから、世はあなたがたを憎むのである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは かのイエスの言葉です。《イエスに属する者は この世に寄留して 人生をおくり まっとうする》という意味合いになると考えるのですが 果たして それで よいでしょうか?
 あるいは つまり
 ▲ (ヨハネ福音書1:10-11) ~~~~~~~~~~~~
 彼(神の独り子=キリスト・イエス)は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とあります。でしたら この世界は 《わたしたちのところ》なのではないでしょうか?
 《寄留》という思想は 旧いのではありませんか? どうかおしえてください。

A 回答 (8件)

オコリザルです。


情としての愛、純粋な愛、人間存在、生命全体、などに代表すればこの世界は(本来なら)私たちのものとは当たり前すぎるのですが。
そのような代表なり代理なりを想定して、この世界で我が物顔をしている簒奪者の説得に当たるとして、簒奪者とはどのような存在なのか、それは、もはや存在ではない幻であることが私の認識ですが、未だに欲望、悪、死の予感なり恐怖、など色々な側面があり集約し切れません。対処もまた言葉で縛っていいのか雲散霧消するの任せてほっておいていいのかわかりません。おそらくそれぞれの人生経験に基づいて様々でいいのでしょう。この問題の様々な対処法について、無意識のみの水面下の葛藤を推奨しているのが私です。幻相手なので意識上は無頓着でいいと思います。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。
 primeapeさん こういっちゃ むしろ自分の馬鹿な《簒奪者》ぶりを余計に発揮するはめに陥りますが まさしく正面から きわめて正統なご見解を述べてくださいましたね。

 ★ 無意識のみの水面下の葛藤を推奨しているのが私です。
 ☆ わたしも 《何もしないたたかい》と言っております。無意識や精神分析の手法は 性に合いませんで よく分からないですし そういう表現を使いませんが まづは そのような――ただし――《水面上の観察と分析と対話》を 実践しております。
 そうして 《悪は 存在しない》という言い方で 同じように悪は《幻》であると認識しているわけですが その反面で それらが 現象していることも 実際です。
 ★ 我が物顔をしている簒奪者
 ☆ に近い事例は あるというのも 実際です。

 このようにして――ちょっと 乱雑なお応えしか出来ていませんが―― 
 ★ この世界は(本来なら)私たちのものとは当たり前すぎるのですが
 ☆ という見方に賛成の方がたからのご回答を期待したいと思います。むろん 批判の側のご見解をも うけたまわりたいのは いつものとおりです。

 焦点は 人びとが 《寄留》という概念を心に持って 一歩 この世界から腰が引けているのではないか ここにあります。 

お礼日時:2009/01/17 07:14

 brageloneさん


 ○ あはっ! のお話はbrageloneさんの別のところでのご回答で拝読しました。
 あはっ! とても面白いですね。
 ヒンドゥの思想の中には、唯一者(意識)が段階を経ながら、創造の意識と為り、創造の父となっていく、プロセスが詳細に説明されます。
 その一番人間に近い存在者との境界あたりで、宇宙のvibrationという光を発します。宇宙を超越しながら内在する意識ですね。
 そのvibrationは音でもありますから、ガンガの音にも、チベットのフムにも、真言のオン、阿吽、オーム、お寺の梵鐘などにイミテートされています。
 あはっ!は多分、それに近い最初の発声かもしれませんね。
 ともかう振動であり、光であり、音なんですね。

 庶民なんていうと、思い上がりですが、普通の爺さんとしての日常の中に埋没しております。それだけなんですよ。

 宇宙を超えた何ものって、どこかの場所でもありませんしね。
 結局、全体になっている自分の、在り方ですよね。
 
 いや、実はね、ここのサイトの管理者というのか設置者に連絡するかどうか、今も迷っているのですが、
 こうして私が書いていることをそのまま、自分の気づいたこと、考えたこと、何時に考えたとか、付言して講演というかスピーチをする方がおられましてね。
 まぁ普遍のことであるから、どなたも同じだろうと解釈はしましたが。
 使用していることばから、ことばの順序も話の順序もまったく、ここでこ書いたとおりの話でしてね。
 私としてはネタを知りましたので、敢えては注意はしませんでしたが、そういう方もおられますよ。
 そんなことを気にしていたら、お互いに何もお話できませんけれども。
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この回答へのお礼

 krya1998さん ご回答をありがとうございます。

 ★ ○ あはっ! のお話はbrageloneさんの別のところでのご回答で拝読しました。
 ☆ そうでしたか。
 ★  あはっ!は多分、それに近い最初の発声かもしれませんね。 / ともかく振動であり、光であり、音なんですね。
 ☆ ということは 《あはっ!》は 人間が発する声ですから 人間の側からの窓のようなものかも知れません。

 ★ 庶民
 ☆ 庶民・常民あるいは《現(うつ)しき青人草(あをひとくさ)》とも言いましたね。《蒼生》。市民ですね。
 そう言えば 
 ○ 市民主権 / 民主主義
 ☆ の代わりに もっと いい言葉はないでしょうかねぇ。

 ★ いや、実はね、ここのサイトの管理者というのか設置者に連絡するかどうか、今も迷っているのですが、・・・
 ☆ 話の筋から同じであれば そして そういうことが続くようであれば 少し細かくなりますが 確認のためにでも 管理者に知らせることも しておくべきかも知れませんね。

 ありがとうございました。

お礼日時:2009/01/20 10:21

 brageloneさん


 本当にいろいろ、補足でのお教えをありがとう御座いました。
 う~ん。やはり何か西洋の、そして人の業の深浅を感じました。
 大塚久雄の図書は、図書館勤務時代に数冊受け入れた記憶を持っています。
 結構学生たちも読んではいました。私はむしろ日本庶民の思いの範囲です。
 そういうわけなのか、ここまでは考えていなくて、一面としてはもっと単純です。
 今はもう、日本庶民をもう出ての通用性は考えないで、単に自分はどうか、くらいで自分日常の中での普遍を思うだけです。
 でもとても参考になりました。
 ありがとう御座いました。
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この回答へのお礼

 krya1998さん ご回答をありがとうございます。

 ★ 日本庶民の思い / 生活日常
 ☆ といえば どうなんでしょう。情感あるいはこころの問題なのでしょうか。情感の共同性としての世の中 これを 基盤として 社会が・世界が広がるという描像でしょうか。
 ○ あはっ!
 ☆ という言葉が その表出するときに すべてが 圧縮されたように みなもととなっていて 人びとは 分かり合えるということなのでしょうか。
 そこから
 ○ あは‐れ そしてまた もののあはれ
 ☆ が捉えられて来ていて これは
 ○ あっぱれ(天晴れ) にも 哀れ
 ☆ にもなって 流れ出ていくと捉えたことがありました。ここから あらためて 世界を超えてのごとく 眺めるならば 人びとのあいだに そして 人びとのあいだにこそ
 ○ 憐れみ
 ☆ が 見られるかに思われる。そういう社会のあり方が ひとつの側面として 考えられるのではないかと捉えたことがありました。
 これよりあとは すすめていません。

 宇宙を超えた何ものかからの憐れみも この現実の世界に及ぼされてこそ ほんとうだとも思われますので 経済体制やら権力闘争やらを やはり 超えて 人びとの日常生活から しっかりと固めてまいりたいと思います。
 (ちょっと まとめすぎかも知れません)。

お礼日時:2009/01/19 21:25

 回答番号:No.5


 お礼欄でのお教えに感謝申し上げます。
 聖典の意味のとり方は、対するものの心理や経験、或いは究極者との関係状況でいろんな位相として現れてまいりますね。
 私自身はお教えのことと、心理的には、世俗(少々用語はここではなじみにくいですが)的なる常人と、精進にアスピレートしている宗教デヴォーティとの世界の違い、無思考習慣の生活送りびとと、変人・奇人の違いなども感じました。
 万物、宇宙は究極者の現れ以外ではないということで、それと異なるものとして受け取るなら、受け取る側に、利己やエゴの勝手性とか、迷妄による、もゃっとしてもののかもし(醸し)出しがあるからなのでしょう。
 創造自体はどんな世界も完璧で、清らか、純粋、美、優しさだと存じます。それをそのまま見られないことは、見る側に八雲立ちがあるのだと存じます。
 教えてもらいたいのは、エデンを出され、自ら出て行く人類の祖。
 この二人のの着物とか、覆いというのは、私の勉強のコーシャ(魂が入ってしまう鞘、覆い)に該当するかもしれませんが、言葉もそうかもしれないし、勝手な心理的捉われ、執着、欲望、所持欲などでもあるのではないでしょうか?
 どこも私たちの創造界であると存じます。 
 仰せの位相では、お教えの通りであると存じます。
 ありがとう御座いました。

この回答への補足

 krya1998さん お早う(遅よう)ございます。ご回答をありがとうございます。

 今回のお話に接して 前回に ふと 記憶から引き出されて来た《涙の谷》という言葉を用いていた人 すなわち 大塚久雄のことが  さらに 思い浮かびました。
 項目として 二点 あります。《呪術からの解放》と《近代人の合理性》で 或る意味で 互いに交わります。
 大塚は 自身 クリスチャンで 専門は 西洋経済史ですが M.ヱ゛ーバーとK.マルクスの研究者です。
 ヱ゛ーバーから 《呪術(魔術)からの解放 Entzauberung 》という概念を取り出してきて 近代人とその経験合理性のことを説明します。
 もはや端折りますが わたしは《原始心性》と言っているのですが 何ものにも取り憑き その憑依の赴くままに生きるというその《魔法の園 Zaubergarten 》での心性から脱出することが 主題です。
 もともとは このような合理性以前の知性(眠れる知性)の目を覚ましたのは むしろ非合理的ないわゆる世界宗教だったと言います。さらに端折りまして ヨーロッパ近代においても まづは 神の摂理を経験合理性によっても探究するところから そろそろ 社会一般として 《呪術からの解放》が成るという軌道に乗ったうんぬんです。
 
 ところが そのときの新しいクリスチアニスムは この世でも神の覚え目出度からんためには 経済活動に精を出し その成果によって決まるとさえ考え始めたと言います。
 魔法の園から脱出した合理的人間は 神の栄光のためにこそ 言わずと知れた資本主義の社会を築いてきたのだと。しかもその社会は みなが 合理的であろうとするとき 社会的な自然淘汰がおこなわれるようになったし そう成るものなのだという見方も出ました。そこで 一般的には この現世は 天の国に召されるまでの《涙の谷》であるというのだそうです。
 資本主義のほうは その後 はじめの《倫理と精神》を忘れ もはや蝉の抜け殻となって しかも 人びとにとっては 鉄の檻のごとく 迫って来ているとか何とかだそうです。
 
 そこで 《この世界は わたしたちの家であり庭ではないのか》に関してですが けっきょく 
 ○ 現世に対する蔑視
 ☆ が 激しいのではないでしょうか。エデンを追われたといっても 自分で耕作して生きていけと言われただけのようなものですし 弟殺しのカインにしたって かれを殺すなら七倍の復讐を受けるであろうとさえ言われています。欲望に満ちたこの世界も それでも めぐみの園ではないでしょうか。《わたしたちのところ》であるはづです。
 《鉄の檻》が 何なんですか。もともと 人間の理性で始めたのなら 人間の知性をもってして 解決できないことはないでしょう。

 ★ 八雲立つ
 ☆ は 例のスサノヲのイヅモ共同体のことで むしろ 人びとの湧き立つ生きる息吹きのことだと思っていましたが それは ともかく 《呪術の園からの解放》は もう理論的には成ったわけですから 雲よ湧きあがれ しかも それを突き抜けて 空に舞いあがれです。

 わぁーっ krya1998さんの絶妙のおことばに まんまと乗せられてしまいました。ううーんん。(まぁ そういうことを思い浮かべましたというお応えです)。

補足日時:2009/01/18 12:04
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 タイトルの翻訳を聖書とした翻訳の聖典は非常に人生と、人、世界を洞察した書物であると、癒しと慰め、元気つけられておりまう。


 正にこのとおりであると、私は聖書という本とともに考えます。

 《寄留》という言葉はあまり釈然とはしないことば表現ですし、理解を助けるものとは存じません。
 それに思想という言葉を繋げても、私の理解するこの聖典のいうこととはあまり関係ないような感じがしております。

 質問タイトルでの≪わたしたちのもの≫、質問本文での《わたしたちのところ》というのも、この聖典が一生懸命、渾身の思いで往っていることとは繋がらないように存じます。
 ≪わたしたちのものとは違う≫、質問本文での《わたしたちのところではない》ということなのでしょうが、世界ということばが、不適切かと存じました。
 聖典にそう書いてあるなら、それは理解をわざと求め、自分で解説するように、という筆記者のご意図だと存じます。
 《人生をおくり まっとうする》のは結構ですが、その内容をいっている、透徹した厳しいことばなのだと存じます。
 私が人生と宗教、そして世界のことを考えていたことと、正に一致していると、今更ながら思いを深くさせていただきました。
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この回答へのお礼

 krya1998さん ご回答をありがとうございます。

 ★ 癒しと慰め、元気つけられております。
 ☆ この箇所に 意を強くするみなもとに触れたかの感を持ちました。
 ただし 賛成と異見との入り交じったご投稿でありましょうか。 
 ★ 《寄留》
 ☆ に関しましては 
 ☆☆ (No.1お礼欄) 《人生は いくつかの寄港地を経めぐりつつ たどりつくべきところへ歩み到る巡礼の旅である》
 ☆ といった意味合いで用いられているようです。
 要しますに どうも そういう概念で この世界を捉えているなら 腰が引けているのではないかと 思えたところからの質問です。
 ひと昔ふた昔前は
 ○ 生まれてから天の国に召されるまでのこの世の人生を 《涙の谷》とも呼んでいました。
 ☆ これも どこか上品なのでしょうが 消極的である側面をも 持っています。
 おそらく 神の国は 神の国で こころのふるさとでしょうが この地上の国が ふるさとでないという理屈は 通りません。もともと この地上の国において 神の国が実現するとは まだ 思っていないわけですから そのかたちのない希望において生きるという姿を現わすなら すでに この世界は ふるさとであると見ていくべきであるように思います。かたちのない希望があるなら すでに 現実です。
 そういう意味で すでに この世界は あたかも最終の目的地であり 到達地でもあると考えても まちがっていないのではないでしょうか。

 ★ わたしたちのもの
 ☆ というよりは 《わたしたちのところ》でしょうか。さらに よい言葉があるといいのですが。あぁ 《世界》も 適切でないですか。なにかほかに考えましょう。――まっ でも 《世界》は ごくふつうの言葉であるようにも思うのですが どうですかねぇ。

 ご趣旨を どこか 理解し得ていないかにも思えて その点 おそれますが 不都合なところなど ありましたら ご指摘ください。

お礼日時:2009/01/17 18:30

世といってもその場合場合で少し違うニュアンスで使っています。



第15章でいえば、「世」というのは地上の世界の価値観、また、その価値観に沿って生きる人たちであり、本来は神が作ったものであるが、今は悪魔に支配されている世界であることを暗示しています。

1章のほうはイエスの神性を宣言した文であり、創世記の世界創造の記述に対応しています。創世記では、唯一の神が世界を創造したことがはっきり書かれています。

しかし、ヨハネはここで言うのです。「イエスが世界を作ったのだ。しかし人々はそのことを知らないし、彼がその人であることを知らない。また、そのことを言っても受け入れはしなかった」と。

つまり、質問に答えると、この世界は「私たちのところ」です。が、今は悪魔に支配されているということを間接的に暗示しています。
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この回答へのお礼

 hhitujiさん ご回答をありがとうございます。

 たぶん――という言い方は 失礼になりますが―― 
 ★ 世 
 ☆ の解釈は おっしゃるとおりだと思います。したがって
 ★ つまり、質問に答えると、この世界は「私たちのところ」です。

 その上でですが 二点 疑問があります。
 ★ が、今は悪魔に支配されているということを間接的に暗示しています。
 ☆(1) 今は 十字架の死とその後の復活とで 悪魔は 征服されたのとちがいますか?
 (2) あとは 《寄留》という概念をめぐってです。上の(1)が 成り立つなら もはや 《寄留》というのは 旧いと思われます。
 ★ この世界は「私たちのところ」です。
 ☆ ならば かりそめの寄留地であるはづはありません。ふるさとです。
 ただし この故郷が いまだに いくらかの者たちの有能な手と優秀な頭脳とによって あたかも奪われてしまっている状態が 後遺症としてのごとく つづいています。
 この奪還については ここでは 先送りしますが ともかく
 ○ 寄留
 ☆ という概念については あらためて 見直さなねばならないのとちがうでしょうか?
 このような問いです。いかがでしょう。  

お礼日時:2009/01/17 11:43

オコリザルです。


残念ながら私たちとは具体的に誰なのか、どのような派閥に属する人々なのか、そんな批判そのものと言っていい意見が押し寄せるのではないかと思います。
帰属意識を捨てた人間全ての連帯を想定するならスムーズですが、、イデア界には普遍的人間性への合意が無い前提では人知なり鬼神なりからこの問題を解決する智慧を借りることは出来ません。
信仰の言葉を借りた今回のご質問の出だしでは、既に派閥闘争への肩入れのような意見しか出せないとも言いえます。
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この回答へのお礼

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。

 めづらしく(失礼!)正面から お答えをいただきました。それも いいものですね。

 それに対するわたしのお応えは 《それで いいのです》です。
 ★ 信仰の言葉を借りた今回のご質問の出だしでは、既に派閥闘争への肩入れのような意見しか出せないとも言いえます。
 ☆ この見方から行けば
 ★ 私たちとは具体的に誰なのか、どのような派閥に属する人々なのか、そんな批判 
 ☆ は 出て来ないんです。それで いいんです。
 このような狭い入口を設定しております。

お礼日時:2009/01/17 06:59

イエスが生きた紀元前4~7世紀頃の中東・ヨーロッパはローマ帝国の時代です。

従って、「世」、「この世界」とはローマ帝国とその民を指しています。そのような時代背景の中で、イエスと彼に属する者たちは、ユダヤの地において皇帝の権威を認めず、「神の国」を主張したのでした。そのような彼等は当然当時の社会からは受け入れられず、それでも暮らして行くためには、周囲の住民と何とか折り合いをつけてやって行くしかなかったでしょう。彼等の暮らしは、マイホーム感に溢れるようなものではあり得ず、疎外感を持ちながらの生活だったはずです。まさに「寄留」と呼ぶにふさわしい生活だったのです。それは「思想」等ではなく、彼等にとて「現実」の問題だったでしょう。「ヨハネ」は思想書ではなく、歴史書として読むもべきものと考えます。
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この回答へのお礼

 phyoncoさん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 (1) まづ 歴史上の人物であるときのイエスの言動を伝えているとすれば とうぜん その時の社会情況が 反映していると捉えなければならない。まづ この視点が来るでしょうね。
 (2) つぎに そのイエスの死後(つまり むろん 紀元後ですが) 百年くらいでしょうか その幅を持って やはり 聖書が書かれたというその時代情況を 捉えて読む必要があるのでしょうね。この点では
 (2-1) 《神のものは神へ カエサルのものはカエサルへ》ですから
 ★ イエスと彼に属する者たちは、ユダヤの地において ≫皇帝の権威を認めず≪、 「神の国」を主張したのでした。
 ☆ というのは 精確ではないでしょうね。そうして 
(2-2)
 ★ 当時の社会からは受け入れられず
 ☆ というのは たとえば 初めには パウロの事例にあるように ユダヤ教から迫害を受けましたね。けれども このように《世がキリスト者らを憎む》のは
 ▲ あなたがたは世に属していない。わたし(=イエス)があなたがたを世から選び出した。
 ☆ からだということですよね。これら《光の子ら》は 《疎外感》などを突き抜けて 良き知らせ(福音)によろこびを見出していたのでしょうね。《キリストを かれをはりつけの刑に就かせたほど 憎む世は 同じく この光の子らをも 憎む》という趣旨でしょうから したがって この《世にあるときは 寄留である》というのではないでしょうか?
 (3) しかも 現代に到るまでの歴史において この《寄留》という考えは 《人生は いくつかの寄港地を経つつ たどりつくべきところへ歩み到る巡礼の旅である》という捉え方のもとに ひとつの思想にもなっていると思いますが どうでしょうか?

 けれども
 ☆☆ (質問の趣旨説明)~~~~~~~~~~~~~~~~~
 この世界は 《わたしたちのところ》なのではないでしょうか?
 《寄留》という思想は 〔もう 今では〕旧いのではありませんか? どうかおしえてください。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というのが この質問です。いかがでしょうか?

お礼日時:2009/01/16 11:14

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