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吉原遊廓の昼見世と夜見世は、どちらも三味線を弾いたり、踊ったりと昼も夜も同じことをしていたのでしょうか。具体的には、昼と夜の見世の違いはどう違うのですか?どんなことをしていたのでしょうか教えてください。

A 回答 (1件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>吉原遊廓の昼見世と夜見世は、どちらも三味線を弾いたり、踊ったりと昼も夜も同じことをしていたのでしょうか。具体的には、昼と夜の見世の違いはどう違うのですか?どんなことをしていたのでしょうか教えてください。

吉原は「六つ半明け(午前7時頃)」といって、六つ半刻頃までには、一旦、客を全て帰します。
ちなみに、大門(おおもん)は、明け六ツ(午前6時)に開き、夜四ツ半(午後10時)には閉じられました。
しかし、廓では、その後1刻(2時間)は、客引きなどができましたので、お客は大門の横の木戸から出入りしました。

ただし、「連泊(れんぱく)」と言って、いわば、貸し切りになると、お客もそのまま居つづけます。

豪商紀伊国屋文左衛門が、1万両を持って、遊女屋を1軒貸し切りで、20日余り逗留したことは、有名な話です。
この紀文が居続けた時は、昼夜を問わず、酒や肴の接待がありました。
それは、あくまでも、酒食の接待で、「夜のこと」は、夜しかできませんでした。
酒食の接待は、花魁(おいらん)格などではない、格下の遊女が相手をしました。
そして、昼の接待は、夜ほど大げさではなく、唄や踊りの芸子たちも、つかの間の休息時間に入りました。
まあ、お客からの要求があれば、多少は、唄や踊りもしましたが、大概の場合は、売出し中の芸子などにその務めをさせました。

通常の場合は、遊女たちは、客を送り出した後、朝食をとり、格の上の遊女から順番に風呂に入ります。そして、髪を結いなおしたりして、夕方までは、いわば「自由時間」でした。
この「自由時間」の間に、書の練習をしたり、着物の手入れをしたりしました。

ただし、「昼商売」と言って、吉原が誕生した頃は武士の相手をする遊女もいましたし、昼間だけの商売という決まりもありました。
武士は、夜は、絶対的に自宅に居なければなりませんでしたので、そうした武士を中心にしての「昼商売」という制度ができました。

しかし、明暦3年(1657)の大火で、元吉原から新吉原に移転をしてからは、町人の需要が増加したため、仕事を終えた後の「夜商売」がもっぱらの盛んになりました。

従って、昼は割合静かな街でした。

(よもやま話)
(1)遊女の起源は、古くは、神社の巫女(みこ)が始まりでした。現代のようにディズニーランドのような遊び場のない時代でしたので、神社は格好な遊覧地でした。そこで、巫女が「春」を売って、「副業?」をしたのが始まりです。
江戸時代になっても、神社は寺社奉行の管轄に入りましたので、寺社奉行には「風俗」を取り締まる権限はなく、一種の「野放し状態」でした。
(2)吉原誕生まで。
慶長5(1600)年に徳川家康が、関ケ原の戦いに出陣したとき、東海道の鈴ケ森八幡の前に茶屋をつくり、揃いの赤ダスキに赤い手ぬぐいをかぶった遊女8人に茶を振舞った者がいた。
これが家康のお気に入りとなり、関ケ原の戦いののち、元和3(1617)年にこの男(=庄司甚右衛門)へ日本橋葦屋町(ふきやちょう)に公認の遊女屋の場所を与えたのがはじめ。そのあたりは、まだ一面の葦(よし)野原だつたことから、めでたくもじって「吉原」としました。
(3)遊女の格式では、「太夫」「格子」「散茶(さんちゃ)」「うめ茶」「五寸局(つぼね)」「三寸局」「なみ局」「次(つぎ)」の序列になります。
そして、「太夫」と「格子」に客がつくと、揚屋(あげや=出会い茶屋)まで向かう時は、いわゆる「花魁道中」をして、客のもとへ向かいました。
従って、「花魁道中」は、「太夫」と「格子」の特権でした。
(4)見世で格子戸の中から客を呼び込み、しやにむに二階に上がるのは、「散茶」以下の遊女たちです。「太夫」「格子」は、絶対に見世の格子戸の前には座りませんでした。
ちなみに、「散茶」の由来とは、煎茶をたてる方法として、振ってたてるものと、振らないでたてるお茶があり、振らない方を「散茶」と呼んでいて、どんなお客も振らないことから「散茶」と洒落て呼ぶようになりました。
(5)吉原の遊女は、幕府公認という「格式」をもっていたので、「女郎」とは決して呼ばせず「遊女」と呼ばせました。
ちなみに、私娼は「売女(ばいた)」と呼ばれました。
江戸では「夜鷹」・・・夜になるとゴザ一枚を小脇抱え、両国や柳橋、呉服橋、鎌倉河岸などに出没し、通りすがりの男の袖を引っ張って、川端に積んである材木の間などで「事」をすませた。
京都では「辻君(つじぎみ)」・・・何となく風情がありますね。
大阪では「惣嫁(そうか)」・・・何でも喰らいつくの意からとか。
(6)お寺にもあった売春。
お寺は・・・というと、諸国勧進の「尼」が、いつしか堕落して、娼婦に落ちた者もいた。尼僧姿の娼婦というと何か「変」だが、坊主頭にお色気を感じる「変態男」もいて、江戸時代はなかなかの人気があった。
「三ケ日待たず 比丘尼は見世を張り」
と狂歌にうたわれ・・・正月の三ケ日も休めないほど繁盛したという。
(7)江戸の四宿(品川、千住、板橋、内藤新宿)には、「飯盛り女」という宿場女郎が許可されていました。1軒つき2名という決まりでしたが、表に出て客を引くのは2名でしたが、一旦、宿へ引き込んだら、裏にまわれば、ぞろぞろ・・・。
(8)明暦3(1657)年の大火をきっかけに、葦原町から浅草日本堤へ移転しました。これには、人口の急増で江戸府内が手狭になったこと、浅草近辺の開発をめざしたこと、千代田城(江戸城)の近くに遊女屋があるのは風紀上よろしからず・・・等々の理由でした。
ちなみに、江戸時代は「江戸城」とは呼ばず、正式には「千代田城」、またの名を「舞鶴城(ぶかくじょう)」、庶民は、ただ単に「お城」と呼んでいました。
以後、「元吉原」「新吉原」と呼ばれるようになりました。
(9)第一級の娼家は「惣籬(そうまがき)」、「籬」とは、見世の正面と脇土間の横手にある格子のことで、「惣籬」は極端に言えば、家の裏手を除いては家全体が格子囲い。大見世。
次が「半籬」、籬の上1/4位が空けてある造りで、別名「交(ま)じり見世」とも呼ばれました。中見世。
そして、「惣半籬」で格子が下半分だけしかない。小見世。

あなたのお役に立てたでしょうか・・・。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。詳しく回答いただけてうれしいです。

お礼日時:2009/01/09 16:25

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