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「となる」と「になる」の違いが分かりません。実際には殆ど区別せずに使っていますが、下記の最初の例文で「と」を用いた場合には「季節」が「春」と同格で、「に」の場合には「春」が到達点のように感じます。そのためか、「と」を使った方が強く感じるのですが、最後の二例の場合(な形容詞)には「と」が使えるの分かりません。どのように使い分けたらよろしいのでしょうか。
<記>
季節が春となる/季節が春になる
首となる/首になる
子供の目となって生きる/子供の目になって生きる
綺麗となる/綺麗になる
真剣となる/真剣になる

A 回答 (8件)

「に」と「と」はどちらも使える場合があるので、正確な区別はなかなか難しいです。

しかし外国人に日本語を教えるときは次の様に教えているようです。

「と」:相互的な動作の相手に対して使います。
例:昨日レストランで山田君と会いました。
この場合は話し手(私)と山田君は多分会う約束をしていたのでしょう。

「に」:相互的ではなく、一方的な動作の場合に使います。
例:昨日レストランで山田君に会いました。
この場合は話し手は偶然山田君に会ったのでしょう。動作が相互的な意味がないので「に」が自然です。。

上記の使い方の区別は厳密なものでないことは、直ぐ分かります。従ってこれは絶対に「に」あるいは「と」であると言い切ることはできないでしょう。最初に書きましたようにどちらにも使える場合があります。

上記の区別でご質問の例文についてどちらかを選べば次の様になると思います。

季節が春になる。(相互的な意味がない)
クビ(馘首)になる。(同上)
子供の目となって生きる。(この場合は話し手と子供の相互関係がある)
綺麗になる。(相互的な意味がない)
真剣になる。(同上)
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この回答へのお礼

早々にご回答を頂きまして有難う御座いました。
「「と」:相互的な動作の相手に対して使います」に納得しました。例文の「(母親が盲目になった)子供の目となって生きる」には母親の容易ならぬ決心と、子供との強い相互関係が感じられるからです。

お礼日時:2008/11/23 21:47

> この文の場合「と」よりも「に」の方が語呂が良さそうです。



よい点に気付かれましたね。
つまり、「になった」と「とになった」の使い分けは、必ずしも意味的な面から選択されるわけではなく、文章を通して読んだ場合の滑らかさで決められることがあります。実際にはむしろそちらが重視されるケースが多いでしょう。

次の二つの文は、評論家大宅壮一のノンフィクション作品『日本のいちばん長い日』の序文からの引用です。

-----------------------------------
「いまから二十年前の八月十五日、幕末と同じような "激震" が日本を襲った。これが近世日本における何度目かの民族的 "平衡感覚" のテストケース【と】なった」

「こうしてできた本書は、『炎は流れる』のなかで、わたくしが追い求めてきた日本的特性に対する一つの回答をあたえてくれ、それと同時に、敗戦を契機として大きく変わりつつある日本民族の新しい歴史の最初の一ページを描き出した、とはいえないまでも、そのいとぐち【に】なったと思っている」
-----------------------------------

後の文では「になった」が使われていますが、その理由は恐らく「そのいとぐち【と】なった【と】思っている」と書いた場合「と」が続いて響きがよくないからです。意味的には、どちらの文も「となる」でも「になる」でもまったく差支えないはずです。

以上ご参考までに ( ^^
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この回答へのお礼

ご意見を頂きまして有難う御座います。
引用された「いとぐちになった」の「に」の母音は、直前の「ち」の母音「i」と同じなのでやや発音しにくくなりますが、(聞く方にとっては)響きが良くなるからであろうというご指摘には同感で、日本語の表現の微妙さを改めて知った次第です。

お礼日時:2008/11/30 13:22

>「に」は流れるように読めますが、「と」の場合には一寸立ち止まって強調するかのように感じます。



大野先生のご高説と同じ感じ方だと思います。
このような感性は大事にされた方がよろしいと存じます。
質問者さんは、普段から質の良い文を読まれているから、自然に身に付いたのではないでしょうか。
現在、インターネットを通じ、素人の上等と言いかねる文章が氾濫しています(この回答文も含めです(^-^ )。
また、印刷物にしても同様です。
文庫本といえば、昔は名作と称されるものしかありませんでしたが、今は何でも文庫本になっています。
このように大量に出回っている種々雑多な文章の全てに、先ほどの「に」と「と」の区別を求めるのは無理だと思いますし、また、上等と言いかねる文の洪水にドップリ浸かってしまいますと、そのような感性を身に付けるのは難しいと思います。

文法や語法が生まれるはるか前から、人は大量の言葉をしゃべくっていました。
その大量のしゃべくりの中から、一定の法則性を見出し整理してできたものが、文法や語法であろうかと存じます。まあ、後付の理屈です。ですから、文法や語法を勉強してそれに基づいて文を書くのよりも、「普段から程度の良い文章に接していて、その結果正しい語法が身に付いた」ということのほうが自然なわけです。

今回のご質問で、質問者さんが普段からの読書などを通じて、日頃お感じになっていたことと、日本語学の権威、大野晋先生のご高説とが、はからずも一致したわけです。
そのような感性を大事にされたらよろしいと思います(^-^ )。
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この回答へのお礼

ご意見とご助言を頂きまして有難う御座いました。
言葉は生き物のようで、私は最近の若い人の言葉について行くことができません。外国人は「と」と「に」の違いを気にしますが、この違いは失われつつあるのかも知れません。

お礼日時:2008/11/25 22:48

> 場合によっては「と」に著者とか話し手の思いが込められていることを


> 知った次第です。

なるほど‥。
前回「“重み” を感じさせる表現」とお話ししましたが、そういう語感の違いを利用して強い気持ちを込める場合に「となる」を使うケースも中にはあると思います。

もう故人ですが、梶原一騎という小説家・劇画作家がいました。彼の代表作『巨人の星』の中で主人公に対して父親がこう語る場面があります。

「巨人軍という星座のど真ん中で、一際輝くでっかい明星 “と” なれ!」

これなどは「となる」が思いの強さを表す好例だと言われれば、そうかなという気もします。しかし、彼の別の作品『タイガーマスク』には次のような有名なフレーズが登場します。

「虎だ虎だ、お前は虎 “に” なるのだ!」

この二つの例を比べて「となれ」と言っている前者の方が「になるのだ」の後者より思いが強いかと尋ねられた場合、正直「うーん、どうだろうか・・・?」と悩みます。そればかりか、両者の「となる」と「になる」は各々もう一方に差替えても何等差支えありません。
もちろん、その辺の感じ方に個人差があることは言うまでもありませんが、やはり両者の間にそれほど歴然とした差があるとは言えないような気がします。
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この回答へのお礼

ご意見を頂きまして有難う御座います。
確かに差を感じ取れないケースが多いようです。「虎になるのだ」では「のだ」に強い主張を感じます。この文の場合「と」よりも「に」の方が語呂が良さそうです。

お礼日時:2008/11/25 22:22

識者No.3さんに続いて、先日亡くなったばかりの日本語学の権威、大野晋先生のご高説を紹介します(週刊朝日日本語相談より)。



「となる」→明確な主張、積極的な意思表現。
「になる」→自然の成り行きの結果としての状態。

日本人は、自然の成り行きに従うことを美徳としてきた。つまり、「となる」よりも「になる」を、美しい謙抑な表現として重んじてきた。
しかし、その考え方も、物事を明確に主張するような風潮に変ってきたので、今後は「となる」の形式が増えるだろう。

以上のようなことです。私もそのように思います。
質問者さんの提示された例文をあてはめて見るとその辺が理解できると思います。
ただし、綺麗と真剣の例文につきましては、形容動詞を認めない有力な学説があり、日本の代表的な辞書「広辞苑」も認めていませんので、回答を控えさせていただきます。

形容動詞ウィキペディア記事
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A2%E5%AE%B9% …
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この回答へのお礼

ご回答を頂きまして有難う御座いました。
大野晋先生の説を紹介して頂き勉強になりました。「に」が日本人の美意識に関係するとは驚きです。「に」は流れるように読めますが、「と」の場合には一寸立ち止まって強調するかのように感じます。形容動詞についてはサイトを紹介して頂き、お礼申し上げます。

お礼日時:2008/11/24 23:35

こんにちは。



「~なる」の前の「に」と「と」は共に結果を表し、意味上の差はありません。ただし、「となる」は話し言葉で使われることは少ないので、 “重み” を感じさせる表現であることは確かですね。

文章上で両者をどう使い分けるかですが、実際のところ統一ルールのようなものはありません。例えば下記の2つのページは共に総務省が公開している文書ですが、「可能になる」と「可能となる」の使い分けの仕方が(1)と(2)ではまったく異なっています。

(1) 市町村合併のメリット(総務省)
http://www.soumu.go.jp/gapei/d2.html

(2) 報道資料(総務省)
http://www.soumu.go.jp/s-news/2008/080610_4.html

(1)の文書では、文の途中で使う場合は「可能となり、‥」で、文の終わりでは「可能になります」を使うという分け方をしています。
(2)の文書では、見出しでは「可能になりました」を使い、本文中では「可能となりました」を使うという分け方をしています。

つまり、使い分けの基準は書く人次第と考えて差支えないと思います。もちろん、一つの文書の中に理由もなく「になり」と「となり」を混在させることは避けるべきです。


なお、「綺麗になる」と「真剣になる」の「に」は形容動詞の活用語尾(連用形)で、格助詞の「に」ではありません。したがってこれを「と」に置き換えることはできません。
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この回答へのお礼

ご回答を寄せて頂き有難う御座います。確かに仰るように意味上の違いはないと思いますが、場合によっては「と」に著者とか話し手の思いが込められていることを知った次第です。引用して頂いた公文書では論理と正確さが重視されるので、「と」とか「に」は形式だけが考慮されて使われていると思いました。形容動詞についてもご指摘頂き感謝しております。

お礼日時:2008/11/24 19:26

「と」と「に」の使い分けについては、



  http://www2g.biglobe.ne.jp/~aviation/ame.html

にもあるように、雑誌「図書」(2000年1月号、岩波書店)の大野晋先生の一文が参考になると思います。つまり、

 「と」を使う場合 ⇒ 特別な思いを含む。結果を重視する場合など
 「に」を使う場合 ⇒ 日常茶飯事で特別な思いは含まない

というニュアンスです。実際の会話などでは区分はあいまいですが。あなたが感じられたように、「と」を使った方が強く感じるというのは間違った感覚ではありません。

なお、「綺麗な」⇒「綺麗に」「真剣な」⇒「真剣に」は形容詞の通常の語尾変化で「なる」に接続するのですが、「綺麗と」「真剣と」の場合は、名詞+格助詞「と」の形ですから、通常は不自然な形になってしまうと思います。
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この回答へのお礼

ご回答を寄せて頂きまして有難う御座いました。引用文献も興味深く拝見しました。「と」については、場合によっては気を付けて使わなければならないと思った次第です。「形容詞の場合には「と」を使うと通常は不自然な形になる」に納得しました。

お礼日時:2008/11/23 22:20

以前、日本語文法の授業で留学生が同様の疑問を投げかけていました。


私は「物や事が転じる」という意味に捉えていますが、
「~になる」は過程を経たのち、「~となる」はその結果のみ、
さらに、前者は口語的、後者は文語的な印象を受けます。

また、疑問形の文体では使い分けが出来ない場合もあります。
例えば、「あなたは大きくなったら何になりたいですか」という文。
決して「何『と』なりたいですか」とは言えません。
同様に、形容詞を伴うと使い分けが出来ない例もあるのかもしれません。
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この回答へのお礼

早々にご回答を寄せて頂きまして有難う御座いました。大層判りやすいご回答で感謝しております。学生には、たとえば
さなぎ「になった」後に蝶「となる」のように説明しようかと思います。また疑問文についてもコメントを頂きまして勉強になりました。

お礼日時:2008/11/23 21:23

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