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ニコ動の政治の50位くらいの所にある「お金の作り方」(48分もの)を見て、半分はあっていると思っているものですが、お金の価値の本質、人間にとってどうあるべきとかじゃないですよ、どう付き合っていくべきたとかじゃないですよ、お金の価値そのものですよ。
お金の価値とはなんぞやってことですよ。
もうちょっと限定すると「預金通称の残高」とか、破産する人や倒産する法人にとって実在する「借金の金額」って何って問いかけです。
それについて哲学したことがある人がいれば、何か聞かせてもらえればと思います。
哲学者は科学できないのはわかってますから、期待はしてませんが。
自分の好き勝手にならない概念については、哲学でいじるのが難しいとは思っていますが。
ちなみに、上記ビデオでは、「負債debt」がお金だといってます。
お金について無知な人である、全世界の99.99%の人はお金の奴隷といっています。古代の邪神の様に、無知な人の迷信によって絶対的ともいえる地位を確保しているらしいです。
銀行家はお金という支配者に仕える役人というか軍隊というか、そういうものだとすると、仕事しないで高給とっていたり、万一の時は国が救ってくれたりするのも納得できます。国といってもお金から見れば奴隷である人間の作った法人なんで、奴隷と同じですから。

A 回答 (16件中1~10件)

A NO.10です。

何度もすみません。


私の「素人が聞いたら納得しそうになる表現」でお金を表すと
すでに2回書いたとおり「相対的である」という表現になります。
でも「相対的」では納得していただけないんですよね。
少し言葉を変えます。



お金とは社会が用いる道具である。



と言えると思います。すべての道具はもちろん一義的な意味を持ちますが
「何とかとハサミは使い様」という言葉があるように常に別の側面と
別の使い道があるのです。一方でドライバーをハンマー代わりに使うことは
許容されますが、ドライバーは懐中電灯の代わりにはなりません。
そしてこの道具を用いることができるのは、社会においてのみであり
同時にその定義に大多数の合意を得る必要がある以上、
社会という集合意識のみが運用可能なのです。




・・・と素人だましっぽく書いておいてなんですが、
これって何も言ってないのと同義ですよ?たとえば質問者さんの最初の質問
「実在の借金」の定義は現在では
債務弁済の義務であり将来の現金減少要素、過去の現金創造能力の結果である
同時に資金調達能力の証明である。という法や会計を学んでいない人には
非常に解りにくい言葉にならざるをえません。真の意味で理解するには
多くの前提が必要です。やはり素人だましじゃ足りないのではないですか?





さて、後段についてです。
未来に生まれるお金を使っているの?というと実はその通りです。
ただし、動画にもあるようにこれは一定の制限が政府(中央銀行)によって
設けられています。中央銀行は銀行への金貸しだけじゃなく、
こうした通貨の価値を調整するお仕事もしてるんですよ。
ですが、銀行はなんて悪い奴らなんだ!という話にはなりません。
あなたが今持っているお金も投資することによって将来的にはお金を生むのです。


借金の基準は「投資によって得られる将来的な収益」と
「借金によって生じる利息(金融費用)」を比較して、これがプラスになる
ようであれば「借金をして設備投資する」ことが許容されるのです。
これが経営の基礎です。

銀行は支配関係に居るわけではなく、我々もお金を借金して何かを買ったり
学んだりすることで将来的にプラスにすることができます。
ただし、無制限に借りれるわけではないですよね。つまりこのケースでは
借金は現金を調達する「能力である」とも言えます。



また新しい定義になってしまいましたよね。
このようにお金は常に定義を変えられる便利な社会の道具なのです。

この回答への補足

後段については、感謝申し上げます。
「未来に生まれるお金を今使っている」というのが本当というのは、驚きでした。
前段についてですが、お金の価値の本質は××である、かつ、××はお金の価値の本質である。という文章を希望しています。
確かに、お金の価値の本質は相対的なものでありますが、相対的なものというのは、お金の価値の本質じゃないとおもいます。他にも無限にありますよね。相対的なものというのは、例えばお金の価値の本質であるという文章なら成り立ちますが、それじゃ私は満足しないわけです。お金の価値の本質はAであり、Bであり、Cでもあり、Dでもあり、って続くと、よくわかってないんじゃないのって、少なくとも面接試験でこういう回答をする受験生は、そう評価されると思います。
××はお金の価値の本質というものただひとつだけを特定する言葉であって欲しいわけです

補足日時:2008/11/09 17:10
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「お金の価値」の本質を「哲学」したことは、ありませんが、経済学の貨幣について、まじめに考えたことがある人間です。


回答:お金の価値の本質は、人間労働です。
お金は、商品です。特別な商品です。何でも買える。そうです。何でも買うことができる商品です。そういう商品を一般的等価物といいます。
商品を売って、お金を手に入れることを、販売といいます。商品を買って、お金を払うことを購入といいます。ふつう、持っている商品を売って、お金を手に入れて、それで、自分のほしいものを購入します。
商品・・お金・・商品。これが、商品流通です。交換できる商品には何か人間の生活に役に立つ有用性があります。それを使用価値といいます。使用価値を生産するのは、人間の具体的な労働です。
ところが、商品流通には、もうひとつの側面があります。
お金・・商品・・お金。売るために買う。ここで、最初の「お金」と最後の「お金」が同額だったら、だれもこんなことをしません。あきらかに最後の「お金」は、はじめの「お金」よりも多くなっています。価値が増殖しています。この増殖した価値を剰余価値といいます。
商品流通は、すべて、等価交換が原則です。剰余価値は、商品流通で発生します。???等価交換なのに、途中でふえている。剰余価値の発見は、マルクスの仕事でした。

この回答への補足


補足日時:2008/11/10 14:36
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この回答へのお礼

一番たくさん回答してくれた方と、最初にビデオの出展を教えてくれた方に点数上げて締め切ります。
ありがとうございました。

お礼日時:2008/11/11 21:50

>形式的ないい回答<という、そちらが期待している回答とは、 それぞれが本質的にきちっとした筋がとおってる理論であれば質よりその量を今は求めているということなのでしょうか?



そちらにとっての「いい回答」を書くには、無学な人間からは難しいことなのかもしれませんが、 お金の本質に関わる質問にはつい、回答したくなってしまうところがあります。  ついというよりどうしてもそういう気持ちになってしまうという感じです。



>例文<の中の《お金の本質は、「モノの交換時の経済的価値をコピーしたもの」》という定義は 厳密でかつ解かりやすいですね。 もちろんわたしも そのような取り決めであることはある程度は理解していたつもりです。  あたりまえかもしれませんけどね。

でも、そういう取り決めであるとしても同じ事であり、私はそれを人の一生の中の価値との比較で常に考えますし、 そこがわたしにとっての切実な哲学となっているわけです。

一億円の名画は、その対価として交換時に一億円という値段が付けられたことで一億円の経済価値として計算できる価値の世界に移行した価値をそこに付け加える形になるのでしょうが、 その値段のコピーであるお金自体はその名画が無くなってしまった時点で 経済価値として計算できなくなるわけですが、  その名画が名画であるならば、記憶の中には残り、それはいつ、どこでその人の人生の価値の中にどれだけ深く大きな価値なるか 計算できない価値とはいえ、 この経済価値と 実際の効果の価値との対比は どうしても私には哲学しないではいられない思索領域なのです。

ほんとうは、 そのことの切実さをより多くの人に解かってもらうためには、 こうした例示をよりたくさん掲げたほうがいいのでしょう。  

しかし、回答の紙数が限られている以上、また質問者様の興味がどこにあるのか、その例示は質問者様の人生や思索にもフィットする例示なのか、その辺は 迷いつつ書くしかないところと思います。

そこで、すでにいくつか出ている問題について、私の方からのその「どうしても回答したくなる」観点と絡めて、 同じ観点からの私の主張(哲学)ですが、回答の筆を進めていってみたいと思います。

たとえばサブプライム問題。

サブプライム問題が、証券を同時にセットで売ったため、それで資産のプラス・マイナスが解からなくなり、 それが世界の投資家を混乱させ、実際にはそれなりに利子回収は出来た(つじつまを合わせることが出来た)問題、あるいは20%にすぎないそのような問題であると聞いていますが、にもかかわらず、

実際にたとえば その証券とかを買ったわけでなない日本の銀行が貸し渋りとかをせざるを得ないような実態経済の混乱にまで発展してしまったこの問題にしても同じ問題の渦中ということです。

投資ということが、 あくまで《“もの”と“もの”の交換時においてすでに、半分以上は計算できない価値取り決めの世界でもあり、ニーズの奥の価値の世界とも関わっている世界が見えてこない限り、安定した予測とかが出来ない世界》と関わる経済世界であるために、 それがゆえに今回 その計算不能な世界が混ざってしまったことで、  利子の問題を越えて大きな危機的に見える事態を生んでしまった ということです。

その問題こそ これまた、今回の問題の哲学すべき本質だと思うのですが、  これが哲学したうちに入らないとするならば、 哲学って何なのでしょう。

いや、学問の世界とか アカデミックな哲学の世界は、もっと悠長な論理の積み重ねを必要とする世界なのかもしれませんね。  私は何かあせってるだけなのかもしれません。   私のような考えの者は、学問の世界よりもまず 事業家の道に身を置くべき者であるべきなのかもしれません。

老体に鞭打ってでも 私こそそんな方向で玉砕でもすべきところなのでしょう。

例示は それなりに無学ながらもまだまだたくさん掲げることはできますが、私の方からは形式的にうまく書けそうにも無いですし、 あとそちらがコメントくださった「コピー」と価値の問題について、私の方から書きたくなったことだけ書いておきます。

小室さんは、人間として「わざと失敗した」のかもしれませんね。 誰にも家族にさへも黙ってです。

私は音楽産業は、その功罪の奥から再出発をするべき時を迎えてると思っています。 いわゆるデタラメな歌自体には遊びとしての価値すらないと仮定して話ますが、 そうではない歌の価値の幅は ある決められた範囲の形式の枠内での完成の世界(現時点のプロ達の追いかけてる世界)に押し込められる世界ではありません。   いわばうまい下手を越えた 音声の躍動の世界と その価値の深さ 切実な創造価値とかの世界からは、今までの音楽産業の世界は 功罪両面があると言えます。  

その詳しいことはここではともかく、 だからそこにコピー文化としても機能する面があったということです。  そこをうまく活用して一時代を築いたのが小室さんという方です。  おそらく最初からピエロを演じていた孤独なプロデューサーなのだと思うのです。

音楽が全面的に虚構ということはありえないですからね。 たとえ経済価値に主導権を明け渡しても (というよりそう見えるように持っていったとしても)です。

情報化時代、PC時代、 価値自体は、コピーされてもいい新しい時代が来ています。 来ようとしています。  

わたしは、そのへんの理解をあなたが、 さらに拡大して考えているのかなとかってに思っていました^^。

量は質へと変換される時が来ます。  きちっとした考察を積み重ねられてください。   結果 もしお金の哲学に解答があるのならば、 私たちは、結局この人間の生涯の中の 今の生活感を越えた価値の世界にいきつくはずだと私は思ってますが。   

そちらの質問の意図にそぐえなかったかもしれませんが、私の方からの回答の筆は ここまでは伸ばさせていただいたしだいです。   

この回答への補足

arayata333さんの哲学は人生哲学の哲学ですよね。
私の好きな哲学は(当たり前に思えるようなことを)「ちゃんと考える」というか、正確にいうと「ちゃんと考えたつもりになる」哲学なので、話はかみ合わないと思いますが、
コピーについての認識は似ていると心強くなりました。
海賊版を野放しにしろとまでは主張しませんが、今の著作権という権利はかなり行き過ぎている権利だと思っております。
お金が実体の価値のコピーなら、コピー自体に価値があることになりますから。
まあ、違うことなんでしょうが、写真なんか、あからさまなコピーですけど、写真自体にも著作権ありますからね。
コピーを肯定的に考えるにしても、コピーのコピーは、利息にさらに利息をつけるのが悪なように(まあ、元本組入れという儀式を行うと罪は浄化されてしまいますが)、否定すべきものだと感じます。
今回の経済危機は、お金そのものじゃなくって、債権、証券、株券、金融商品っていうもっとあやふやなもの達のせいで起きています。
自分の今回の驚きは、お金って適当に印刷していいものだったんだって所です。

補足日時:2008/11/09 16:54
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質問は、「お金の価値の本質を哲学した人いますか?」ですよね。


「お金の価値とはなんぞやってことですよ。」ですよね。
「もうちょっと限定すると「預金通称の残高」とか、破産する人や倒産する法人にとって実在する「借金の金額」って何って問いかけです。
」これって、現実の経済活動のなかの、社会科学としての経済学の貨幣のことですよね。
「それについて哲学したことがある人がいれば、何か聞かせてもらえればと思います。」
こういう質問を読んで、回答者のみなさんが、みなさん経済学の貨幣のことという理解で回答しているのに、いや、経済学の貨幣ではない。
「お金の価値」なんだ、といわれると、質問というより、何を聞きたいのか理解に苦しみます。
法律学では、・・・。哲学では・・・。学問が違えば、同じことを言っている日本語の意味が変わるのですか?
たしかに、法律の用語は、わかりにくいし、理解できないこともたくさんあります。だれがかんがえても、無実のひとを有罪にしてみたり、最近の裁判は、素人がみても、まちがいだらけで、よくもまあ、金をもらって、裁判をやっているね、というまちがいだらけですね。「正義」なんて、どこにいったのですか。
日本語で書かれた文章の意味が、学問の世界が変わると、そのたびに変化するということは、納得できません。
質問者の質問の後半部分、「お金について無知な人である、全世界の99.99%の人はお金の奴隷といっています。古代の邪神の様に、無知な人の迷信によって絶対的ともいえる地位を確保しているらしいです。
銀行家はお金という支配者に仕える役人というか軍隊というか、そういうものだとすると、仕事しないで高給とっていたり、万一の時は国が救ってくれたりするのも納得できます。国といってもお金から見れば奴隷である人間の作った法人なんで、奴隷と同じですから。」については、
ひとこと、「商品の物神的性格とその秘密」という言葉を贈ります。
現実の経済の話と、質問者の哲学的おとぎばなしが、同じことばを使用することによって、混乱をひきおこしているようです。

この回答への補足

「お金の価値」の後に「本質」ってことばと「哲学」って言葉がついていて、しかも「哲学カテ」で質問しているのに「経済学の貨幣のことという理解で回答」するのは、明らかに勘違いだとは思いませんか?

ちょっと法律の事をいうと、
「正義」なんてどこにあるっていうことは、ちゃんというとHANANOKEIJさんの納得するような判決ではないってことです。
HANANOKEIJさんの納得することがすなわち正義であれば、その批判は正当ですが、それは、HANANOKEIJさんが行政のみならず立法(思いが正義なら立法という成文化は必要ないですが)司法を独占する独裁者国家についてだけいえる正論です。
そう感じる人が多いと最高裁が考えると、その裁量の範囲内で裁判結果を変更したりすることはあります。
「日本語で書かれた文章の意味が、学問の世界が変わると、そのたびに変化するということ」は、HANANOKEIJさんが納得しなくても当たり前の事なんじゃないかと思います。
よくある言葉で王手をかけるというのが、例えばおととい日本シリーズで巨人が3-2として王手をかけたといいますが、将棋を知っている人には、詰めろをかけたというほうがピッタリきますし、昨日西武が勝って逆王手をかけたなんていいますが、将棋で逆王手をかけたというのは、相手の王手を防いでなおかつ王手することなんですが(王手を防がないで王手したら王手見逃しで、次には王様取られちゃいますから負けです)、「王手」と表現された後「1敗すれば負ける状態」からは脱していないので、将棋的には変なことばです。
なので、哲学カテでは哲学の言葉を使って欲しいと思います。

補足日時:2008/11/09 16:23
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お金の価値の本質ですか?


ちょっと動画を見る余裕もありませんし、そもそも経済学に関しては、もうひとつ信用できないぞ、と考えています。そんな素人の私が、色々な本を読んで、考え、選択した基準で、現在の結論を申し上げますと、

「貨幣は貨幣であるから貨幣である」(岩井克人)

「貨幣は、人々が貨幣だと思うから貨幣でありうる、集合表象だということである。・・・貨幣は人間社会とともにあったし、またありつづける。貨幣はどこからも生まれなかったし、どこへも消えて無くなりはしない。人間は貨幣からは逃げられないのである。」(『貨幣と象徴』吉沢英成)

「すでに以上で述べたことをもう一度強調することは価値があろう。すなわち『流動性』と『持越費用』とはともに程度の問題であること、そして『貨幣』の特質は後者に比して高い前者をもっている点に存在するにすぎないことがそれである。」(『雇用・利子および貨幣の一般理論』ケインズ)

マルクスの「商品貨幣説」バタイユの「余計なもの」フーコーの「記号」・・・数えだしたらきりが無いですね、最後に極めつけ、

「あきらかに不可能なひとつの退行を一瞬想像していただきたい。つまり、産業社会のある段階で、生産者たちが消費者たちに、支払いのかわりとして、感覚の対象物を要求することができたらどうかということを。その場合の対象物とは、生きた人間である。」(『生きた貨幣』クロソウスキー)

さて、ご質問者様におきましては、以上の結論の中から、どれでもお好きなものを選択して、成る程と膝を打ったり、そんな馬鹿なと、批判することもできます。ここから、お金に関する「哲学」が始まるのですね。
過去にお金について考えた人々の歴史に関しては、内山節の『貨幣の思想史』入門書です。上に挙げた、吉沢英成の『貨幣と象徴』も経済学以外の色々な分野のお金に関する考察が含まれていますが、ちょっと難解です。

ところで、蛇足ながら、私見を付け加えておきます。
現在のお金に関する考察だけでなく、すべての事物に対して「本質」と言うものが存在するのか、と言うことが問題になっています。この考え方は、プラトンでしたか、イデアがあってわたしたちはその影を見ることしかできない、とか、カントの物自体や現象学の形式から、人間の認識の奥になにやら「本質」があるという考え方です。これが単なるドクマではないのか、そうなると、冒頭の岩井克人のトートロジーも単純に否定するだけでは収まらないのですね。
いやはや困った問題です。

この回答への補足

揚げ足を取って「貨幣は貨幣である」じゃあ、単なる思考停止で回答にも何もならないっていうのも大人気ないので
善意に補足解釈して「貨幣の価値の本質は、それが貨幣であると人々が絶対的に思うこと」とでもなるんでしょうか?
まあ、ですね。金貨銀貨なら、これでもいいですが、質問が「お金」って言っているのに「貨幣」って書いちゃう所が未熟だと思います。
お金といっても、金貨銀貨と紙切れの銀行券とはまるで違います。
金貨は溶かしても金としての価値がありますが、銀行券は溶かして紙の原料として再生しても、コスト割れで、リサイクル業者の集める紙以下の価値ですから、まるで違います。

補足日時:2008/11/09 16:07
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経済学のところで、質問してください。


「お金の価値の本質を哲学した人いますか?」
答えは、経済学者です。経済学の研究をしたひとは、古代のアリストテレスから、アメリカ合衆国の大統領のフランクリン・ルーズベルト、アダム・スミス、マルクス、そのほか経済学者で、貨幣について研究しなかった人はいないでしょう。経済学は、社会科学です。「お金」「価値」という日常語で語られる問題ではすみません。
「資本主義的生産様式が支配している諸社会の富は、『商品の巨大な集まり』として現われ、個々の商品はその富の要素形態として現われる。それゆえ、われわれの研究は、商品の分析から始まる。」
商品の二つの要因・・・使用価値と価値(価値の実体、価値の大きさ)
商品の使用価値と交換価値、また交換価値の本質である価値について。
価値形態または交換価値。・・・一般的価値形態から貨幣形態への移行
商品の物々交換からはじまり、歴史的に貨幣ができてくる過程をふりかえってみれば、貨幣が登場するまでは、一般的等価物(どんな商品とも交換できる商品)というものはなかったのです。
20年前の古い社会科学辞典によると、「貨幣とは、他のすべての商品によって等価物という役割をあてがわれ、一般的等価物となった特別の一商品。・・・貨幣は、価値尺度、流通手段、蓄蔵手段、支払手段、世界貨幣として機能する。」社会科学です。それなりの覚悟が必要かと思います。

この回答への補足

お金の価値について正確に知りたいというんじゃないです。
お金の価値の本質について哲学したいんです。
下にも書きましたが「お金の価値の本質とは××である」っていう言葉が得られてとしても、経済学のスペヤリストさんから見れば、笑っちゃうような文章になると思います。
でも、それで哲学的にはかまわないんです。
哲学には専門知識は不要だからです(入門書の大家の池田晶子さんがいってたので多分本当だとはおもいますが)。
哲学者の常識で納得できる文章であればそれで十分です。

例、死は、私以外の人には訪れるが、私には訪れないということばはお医者さんが聞けば笑っちゃう言葉ですが、哲学的には正しい言葉です。

なので、経済学の所では質問しません。
ちょっとかじっているのは法律なんですが、法律書的だと、××とはというのがまず書いてあって、その次に××の要件、効果等々が書かれます。
で、××とはって所だけ完璧に覚えても、その人に法律知識はゼロに等しいです。
また、××とはって定義が書いてあるのに、次に要件効果に進まず、「じゃあ××の本質ってなんですか」って方向に行っちゃう人は、法律の勉強に向いていない人です。
で、聞いているのは哲学のカテで、××の本質の方ですから、お金の価値というのは如何に経済学的要素がいっぱいつまっているとしても、経済学とは全く方向的に逸れていていいんだと思っています。

補足日時:2008/11/08 15:07
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A NO.8です。




まあ、哲学者もお互いに失望していそうですが
その問題を指定してもらわないと回答を用意できないということなんです。
その上で典型的議論とされるものを挙げよ、ということですよね?
「信用創造」における定義が負債であり
ケインズ一般理論における定義が交換価値であり国家の制限対象で
あることはすでに書いたとおりです。
他に一応人類史において議論されてきたお金の定義は
以下のようなものになります。





前提3:
物の購入するための対価としてのお金の価値は上下する。
これを説明するためのお金の定義は何か

回答3:(労働価値説)
物の価値はコスト(生産にかかった費用)により決定される。
コストを定義するのは、生産にかかった時間であり
この場合のお金とは労働者の拘束時間の数的表現であると言える。



前提4:
お金によってもたらされる効果は常に一定ではない。
これを説明するためのお金の定義は何か

回答4:(限界効用説)
限られた財産による影響力は限定的である。消費の知恵とは
その限られた購入資源の対価であり購入対象の財の種類と数量を限定
することである。すなわち、もっとも効果的なお金の量に関しては
算術的に最大公約数を求めることによって行われる。この社会に
流通する物品の価値効果を最大とするのが最適な貨幣流通量であり
同時にお金そのものであるということができる。



まあ経済学的アプローチで有名なのは前述も含め
以上の4点じゃないでしょうか。もちろん現代はさらに多様化しています。

その他に会計学的アプローチを行うとすると
貨幣とは物品の購入対価と価値表示であるという前提の上で
現在の「お金」は容易に換金可能なもの・お金そのものとして流通可能なもの
例えば当座預金・普通預金などの「要求払預金」
3ヶ月未満のコマーシャルペーパー・公社債投資信託などの「現金同等物」も
資金(お金)としています。
また古典会計学の基礎中の基礎として以下のような議論もありますね。




前提5:
債権者を保護するという観点から資産・負債の価値表示を最適とする基準は何か?

回答5:
債務弁済能力の表示である。つまり、売却した場合実質的に所持できる
金額(売却時価)により表示を行うべきであり、同時に損益は結果実在面から
評価されるべきである。この場合のお金とは対価としての支払額の表示である。



前提6:
投資家を保護するという観点から資産・負債の価値表示を最適とする基準は何か?

回答6:
収益力の正常表示により、投資対象の決定を誤らせないことが重要であるため
収益力の計算上は物を買った値段(取得原価)により表示を行うべきである。



前提7:
会計上黒字であるにもかかわらず倒産が発生しうるのはなぜか?

回答7:
会社財産というものは法人税や配当などの形で短期に流出しえるものであるため。
その支払能力を担保するためにお金、すなわち支払いの実態となるものを
会社は確保するべきである。



いちおう典型中の典型として思いついた順番にまた長文を書いてしまいましたが
他にも題材となるテーマによってお金とは?という問題に対して
導かれる解答は異なり、お金の定義はまだまだありますよ。

この回答への補足

詳しくたくさんご存知の方に一言で説明しろというのは、知識がかえって邪魔をして、難しいことなんでしょう。
そもそも哲学者は経済学のスペシャリストでなくても、スペシャリストたりえますから、哲学的には、貴方と同じレベルの経済学の知識は不要です。
本質って言うのは、個々の具体的な大切な事々はわからなくてもなんとなくわかった気にさせるような言葉を指すと思います。
貴方様の正確な知識を全部伝えようというのは、徒労です。
なので、さまざまなケースを考えてみて、全てのケースに共通する部分を抜き出して、それを、多少の不正確さを伴って、素人が納得しそうな言葉で表現したものが、本質だと思います。
なので、もし、時間と意欲がおありでしたら、貴方様の知識を「哲学的」にまとめるという作業をして、「お金の価値の本質とは、××である」という文章で表現した頂いた上で、その後に多少の解説を頂くことができれば、とてもうれしいです。
きっと、その文章は経済学のスペシャリストさんが見ると笑っちゃうような文章になるでしょうが、笑って許せる程度の完成度があれば望外の喜びです。

補足日時:2008/11/08 14:11
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この回答へのお礼

ちょっと思ったんですが、例えば、銀行預金は、銀行には無くても、銀行が融資した会社にはあるので、ま、すぐにその会社から、いろんな人にばら撒かれるでしょうが、帳簿上のお金に相当する紙切れというか、紙幣は実在すると思っていたのですが。
上記ビデオでは、印刷さえもせずに、銀行のコンピュータのキーを押すだけで、お金が生まれるような感じの映像もあったのですが、
例えば、紙幣として存在するお金が、ドル換算で1000兆だとすると、紙幣に変えることのできないお金が、9000兆ドルくらいも、あるってことですか?
まあ、20年ローンというのは、20年後に実在するお金ともいえるので、ローンというのは将来のお金を今の銀行のコンピュータに打ち込んだものってことですか?
未来に生まれるだろうお金を今使っているってことなんでしょうか。
そうすると、お金=負債っていうのが、ピッタリきますが・・・・

お礼日時:2008/11/08 14:40

「回答がないので自分でかんがえてみました。


読みました。
自分で質問して、自分で回答して、おしまいですか。
今、NHKで「なぜ金融危機は世界に拡大?」をみています。アメリカ合衆国発の金融危機の原因と、その世界中に対する影響の大きさを討論しています。
「お金の価値」について、問題意識をもつことは、大切なことです。問題意識をたいせつに、あたためて、研究してください。結論を急いでださないことです。もちろん、納得する理論に出会えたときには、解決するのでしょうが。
「錬金術」を規制する話題になっていますが、「錬金術」とは、ギャンブルです。みんながあたる宝くじは、ありません。みんなが10パーセントの配当をもらえる投資なんて、ありえません。
「お金の価値の本質を哲学した人いますか?」
答えは、マルクスです。
マルクスの貨幣についての考えを説明する力をもっていません。
質問をいくつかにわけて、経済学の質問で質問してみてください。
「貨幣の発生について」「貨幣も商品か?」「商品の富(価値の総和)と貨幣の富(価値の総和)は、足し算をしてもよいのか、それとも等号で結ばれるものか」「不換紙幣、信用、地代、利子について教えてください」などのように、質問を分割して、回答者が答えられる程度の質問にすることをおすすめします。高校社会科の一問一答の問題集か、社会科の用語集を念頭においています。

参考URL:http://www.nhk.or.jp/kokokoza/radio/r2_syakai/

この回答への補足

まず、今の金融危機で問題になっているのは債権です。
あなたにとっては、お金もどきというか、お金の親戚でしょうが、「お金」と「お金をもらえる権利」というのは違います。
その道では破産者の1000万円の債権が1000円で売られるなんて日常です。
だから、誰と約束したかが、重要です。
サブプライムローンでは、約束したのは概ね貧乏人です。
なので、担保を取っていました。
住宅です。万一の場合は、住宅をうっぱらって強制回収のはずでした。
この、住宅価格が下がって、担保価値が下落したのがきっかけです。
それプラス、債権を証券化して、全世界にばら撒いてしまったのが、大きな問題になっています。
なので、今の金融危機はお金そのものの問題ではありません。

「説明する力をもっていません」
という方は、回答しないのが普通じゃないでしょうか。

で、質問すると自分でもいろいろ考えるものです。
回答形式の例文として書きました。

補足日時:2008/11/08 12:02
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A NO.7です。

ちょっと長文過ぎて論点がボケてしまいましたね。
申し訳ないです。つまり、「相対的真実」を導くことは可能ですが
「絶対的真実」を導くことは不可能であるということです。




例えば物理学において、量子論と相対論の統合は未だに出来ていません。
ですが量子論が正しい場合、相対論が正しい場合両方の現象があることが
知られています。極端に言えば、日常生活ではニュートン物理学が正しい場合が
ほとんどです。ですがニュートン物理学では量子論や相対論の領域を説明できません。



なぜ、こういうことが起こるのかというと
我々が導く解は特定の命題に対するものであって、
特定の命題の条件下でしか成立しないのです。

これはお金の哲学=経済学においても同様です。
経済の規模を発展させるためには「お金は負債であり、政府が管理しない方がいい」
と定義し、金融取引を発展させるのが一番です。
ですが、この考え方は大恐慌という取り付け騒ぎを引き起こしました。
この結果を回避するには「お金は交換価値であり、政府が管理した方がいい」
ということになります。


個々の経済問題(あるいは宗教問題)についてお金の定義が変わりえるのです。
「全ての場合において正しいお金の本質」は、どの哲学者・科学者も導き出すことは
未だ出来ていません。ですが、「~の場合において、お金の本質とは?」という
質問ならば「お金の本質」を回答することが可能となる、ということです。

この回答への補足

なら、典型的な場合でいいですから、
「・・・」の場合において、お金の本質は「・・・」ですという回答を頂きたいです。
で、その回答を読んだ人が、哲学的に失望しないような「場合」でのご回答を希望します。
できますれば、主にでも良いですから、以上例えば5つの場合が主たる場合でって、総括的な回答が希望です。

補足日時:2008/11/08 11:00
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哲学者が科学が出来ない、と質問主さんはおっしゃいますけど


そもそも社会科学、つまり政治論と経済学とは哲学からの派生です。
哲学は「わけのわからん存在しないもの」を扱う学問ではないですよ。
前提としてまず経済学のおおまかな歴史の理解が必要となります。



経済学はアダム・スミスが記した「道徳感情論」や「国富論」が
元になっています。つまり「国による取引制限をなくせば資本主義は
さらに発展する」という理屈です。その後、ワラルスらによる
「限界革命」が発生します。「資本主義の発展には最適となるポイントが
存在するので、単純な放任主義では効果が無い」という理論です。


その派生として質問者さんが動画で見たはずの「信用創造」
(シュンペーターらオーストリア学派)が誕生しています。
「経済規模は通貨発行によらないことができる。同時に景気は循環している」
という技術的見地からの分析が誕生します。
同時期に大恐慌による取り付け騒ぎの解決策として、彼らとは対を成す
「ケインズ革命」が発生します。「景気は国によって動かせる」という理論で
これが最近話題の政府による「景気対策」の元になっています。
ただし、先のオーストリア学派はこれに反対していますが。
このあたりが動画で語られている内容です。


そして注目すべきなのは、オイルショックで国の介入が無効化された世界が
導き出した「反ケインズ革命(新自由主義)」です。これは原典回帰の側面、
つまり「国による取引制限をなくせば資本主義はさらに発展する」
という理屈に戻っているのです。もちろん修正加筆されてはいますが。
結果として人類はオイルショックという未曾有の危機を脱しています。
一方で自由化は格差を生むので、国による制限を加えて平等な社会を目指す
べきだと主張する政党も現在においてはあります。



以上が20年くらい前までのいわゆる経済学の本流の歴史ですが
私の知る限りこういった対立は社会科学分野に限った話ではなく
理論物理のような自然科学分野でも発生しています。



なんで同じ時代でも違う意見があるの?
なんで昔の理論にもどっちゃうの?
と思われるかもしれません。


結論として、これらの理論は時代ごとに存在する個々の命題に対する答え
であって常に適用が可能な「絶対的な真実」ではなく、一時において
正しい「相対的な真実」に過ぎないことを示しているのです。
理論科学の分野とは提唱者が世界の形をどう捉えているかという哲学なのです。
人々がこう考えるはずだから、こういうシステムが有用であるとか
世界の形がこうだと定義すれば、こういう結果が導かれるとか
我々人類は、あくまで仮定に基づく議論しか出来ないのです。

経済学とはお金が介在したときの人間の心理・あるいは
介在するお金の本質を一定の仮定の下に探求したものですよね。
つまりお金の本質の哲学=経済学なのです。





ちなみに、本来、経済学者(お金の哲学者)ではない哲学者がお金について
言及した例は限りなくあります。古代哲学の殆どは自己を律するために
いわゆる清貧の生活を勧めていますし、多くの宗教家も否定的見解を示しています。
ですが、お金に関して口にしたくない、というのは経済学・会計学を
学んでいないために発生する誤解ではないでしょうか。


日本においては「学問のすすめ」で知られる福沢諭吉が
西洋学問の紹介として「帳合之法」を翻訳出版しています。
内容はアメリカの簿記の紹介です。この翻訳の理由が前文に書いてあるのですが
「学者は金儲けを馬鹿にして金に関することを学問と思っていない」
「金持ちは自分たちを卑下して学問を学ぼうとしない」
つまり、これじゃダメだという趣旨の文章を記しているのです。


一方「若きヴェルテルの悩み」で知られる哲学者ゲーテは
著書「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」の中で「簿記はこの世界で
最も中立的な視点を与えてくれる」と登場人物に代弁させています。
実際にドイツ(ワイマール共和制時代)に政治を主導したゲーテは
国民全てに簿記教育を義務化しています。



他の学問と同様に
哲学者に対する誤解(哲学者は科学のわからんバカ)も
お金に関する誤解(お金をことさらに取り上げるのは下品)も
それぞれを学ぶことでするすると解けると思いますよ。

この回答への補足

お金の哲学者が経済学者ってことですか。
で、その経済学者は「お金の価値の本質」についてどう哲学されているのでしょう。そこを教えてくださいという質問です。
勉強したらわかるっていうのは、例えそれが真実であっても回答にはならないことを理解されないのでしょうか?

傍論ですが、哲学を卑下してはいませんよ。
科学は、実験によって実証できる仮説を扱う学問ですから、実験によって実証することのできない哲学や経済学は別系統です。
特に哲学は「共感」ですから、まあ、宗教や芸術も文化も同じですが、「共感」できなきゃ始まりません。
哲学は科学的じゃないって言うのは、決して卑下しての言葉じゃありません。
共感できる人というか、同じタイプの人じゃないと伝わらないっていうことで、私と同じタイプの人は少ないことを予測しているので、共感は期待できないって言う意味です。

補足日時:2008/11/08 09:22
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