A 回答 (22件中1~10件)
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No.22
- 回答日時:
ANo.18へのお応えを承けて 限りなく雑談に近い投稿になります。
★ (No.18お礼欄)~~~~~~~~~~~~~~~~~
私には心の中の『私』という存在がいわゆる良い者へと変貌していくようには思えないのです。『私』は常に自己中心的に思考していますので、常にあるパターンと限界があるように思えるのです。そういう意味では望みはないと感じます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 一説によると 《〈仏性〉などはない》というのが ブッダの真説だそうです。《〈仏性〉という実体がある》とすると 諸法無我ないし空観に反するからだそうです。その意味でのブッディスムに立っていらっしゃると――あなたが そう意識なさっている・いないにかかわらず―― 理解しました。
言いかえると――つまりあるいは ただし―― 次のようにお話を続けておられます。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ただ、『私』という存在がこころの全てではなく、ある種の機能のようなものかもしれないと感じます。いわゆる魂という存在が心の本性といえるのかもしれませんが今の私には分かりません。
逆の言い方をすれば魂の弱さが『私』をより強く損ねるといえるかもしれません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ここからは 或る種の仕方で 趣味の問題にもなります。
たとえばわたしは チェスよりは 日本の将棋のほうが まだましだと思います。喰われた駒が また生き返ります。(ほんとうは 王将などというのは 民主主義に似つかわしくなく 戦争をなんでしなければならないかが 分かりません)。
あるいは言いかえると 《心》にかんして 《自己中心的で限界を持つ〈私〉》や《その機能としての〈私〉の基礎(?)としての魂》を捉えるということは そのように《認識している〈わたし〉》が さらに いるということのように感じました。つまり 《心》のことでしょうか。
そうしますと 《自我》とも言うべき《私》は 心の機能の一部として 将棋の駒のように 生き返ることもあり となりますでしょうか? あるいは 《〈私〉は どこまでも弱く 視野が狭いのだが そして その奥の〈魂〉も 決して強いものではなく 〈私〉を支えられるかどうか 心許無いのだが 〈心〉の全体としては なお その奥に 何ものかのはたらきがあるらしい》 となりましょうか?
そうした場合 このような《心の奥のこころ》は 傷つくのかどうか そういう問いになると思ってよいのでしょうか?
すでに わたしの中では 収束を迎えていたのですが えげつない付け足しをおこなったがために こう延長してしまって ごめんなさい。
> 《自我》とも言うべき《私》は 心の機能の一部として 将棋の駒のように 生き返ることもあり となりますでしょうか?
睡眠中は死んでいて、朝に生き返るというのが近いでしょうか。
私というのは恐らく記憶によって作られていると思いますのでパソコンの電源を入切するのと大差ないようにも思います。
>〈心〉の全体としては なお その奥に 何ものかのはたらきがあるらしい》 となりましょうか?
自我のほかに何かあるとは思います。
恐らく・・・神・・・・
>《心の奥のこころ》は 傷つくのかどうか そういう問いになると思ってよいのでしょうか?
質問の心の傷は恐らく自我にとっての傷でしょう。
この世では魂の存在さえ否定的ですので、心の奥のこころは恐らく不可侵(自我にとっても)じゃないでしょうか。
ご回答ありがとうございました。
No.21
- 回答日時:
No.17
です。そうだと思います。
言われてわかりましたが、
面子がつぶれるということも≒社会性を獲得できなかった
ということらしいですね。
何でもかんでも社会性っていう固定観念強迫観念みたいなものが、ある程度は本能的に必要としても、過剰に人々を縛っていないでしょうかね。それが、子供のころからの原始的な心に容易にい宿ってしまうという風潮が怖いです。
ご回答ありがとうございます。
確かにそうですね。
ただ仏教ではこの世界を修行の場としているようなので、
他者や社会の不合理さもトレーニングの道具といえるのかもしれません。
あるいはそう思うことによってそれを越えて行けという方便かもしれませんが。
No.19
- 回答日時:
自分の期待していた通りにならなかった、自分が起きて欲しくない
あるいは起きるはずがないと思っていたことが起きてしまった時に傷つ
いたと感じるかもしれません。
その時に何が傷ついたのかはわかりませんが,自分がそれを許すことが
できていないことには気が付いていると思います。
許すことができた時には傷ついたことも消えているのではないかと思います。
ですから、傷ついたという言葉を使うのは自分の未熟さを隠すために
使うのではないかと思います。
ご回答ありがとうございます。
意識的、或いは無意識に想定している世界観のようなものが壊れることがいやなのかもしれませんね。
自分の世界観が絶対ではないという度量が許すということなのかもしれません。
No.18
- 回答日時:
No.16です。
少々えげつないつけたしを行ないます。
★ たぶん / 結局のところ、自分のことを『私』と自覚したその瞬間に自己過信や自己欺瞞が始まるということですかね。
☆ この一文を吟味します。かのルウソは こう言っています。
▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが 人間の手にうつるとすべてが悪くなる。
(J.-J.ルウソ:《エミール または教育について》冒頭)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《わたしが わたしである》とき 自動的に わたしの自然本性を損ね始めるかどうかです。
いわゆる《原罪》は そういう考え方に立つと思われます。それはそれとして 新しい視点に立てないかです。
損ねてしまいがちである本性の弱さと言いますか あるいは 損ねてでもわたしを主張したいというわたしの自我の過剰 あるいは そのことを知りつつも なお過剰なる自己意識に手を焼くわたし・・・このような どこから見ても 弱いわたしにとどまるでしょうか。
ただ――ただ です ただ―― そのように損ね始めるときにも その損傷からの帰還を こころは みづからの奥底で ひそかに 辛抱強く 期しているかも知れません。もし 心は傷つくことはないと主張するのであれば このもともとの心のあり方を 推し進めていこうという方向も 夢見てもよいかも知れません。むしろ 根拠がないゆえに のぞみがあるかも知れません。
そこのところを わたしたちは さらに 細かく 忍耐強く 心を大事にしつつ 分析して行っても よいのかも知れません。いかがでしょうか?
ご回答ありがとうございます。
>《わたしが わたしである》とき 自動的に わたしの自然本性を損ね始めるかどうかです。
私には心の中の『私』という存在がいわゆる良い者へと変貌していくようには思えないのです。『私』は常に自己中心的に思考していますので、常にあるパターンと限界があるように思えるのです。そういう意味では望みはないと感じます。
ただ、『私』という存在がこころの全てではなく、ある種の機能のようなものかもしれないと感じます。いわゆる魂という存在が心の本性といえるのかもしれませんが今の私には分かりません。
逆の言い方をすれば魂の弱さが『私』をより強く損ねるといえるかもしれません。
No.16
- 回答日時:
No.6&10&14です。
★(A) 質問していてなんですが、心の傷と善悪は無関係だと思うんです。 / 体の傷と同じように傷自体には善も悪もないと思うのです。
★(B) 虐待を受けた子供が心に傷を負ったのは自己過信や自己欺瞞だということですか?
☆ 《傷自体》という意味が よく分かりませんが たとえば (B)の傷について その傷だけを取り出して来て 《傷自体には善も悪もない》ということでしょうか? それは 《傷を受ける》ことには 善悪がかかわっているが 《傷自体には善も悪もない》ということでしょうか? もしそうだとすれば そのように分けることの意味は どこにあるのでしょう?
☆ (B)は おおむね その解釈のとおりです。
《子どもが虐待を受けて 心が傷つくか》ですが それは 《生まれたままの純真無垢》であれば 傷つかないという意味です。真実の心のままでありつづけるとすれば いつまでも どこまでも その子どもは 疑問を持ちづつけるということであり それだけだという意味です。
多少とも 傷つくのは みづからの心に あたかもその虐待をする相手と同じように おのれを頼む膨れ上がりや 同様のおこないを持って 抵抗し 仕返しをしてやろうという根性が動き出すことからです。
そのように 自然本性を みづからが 曲げ始めるところから つまりは 善悪にかかわるところから 傷つくという事件が 起こります。つまりは そもそも心が傷つくことのない人間の自由という自然本性は その自由を曲げて用いるという自由をも宿しています。純真無垢の心でも 同じことです。
そのようなへそ曲がりから その一たん自分で自分を傷つけた形になるへそ曲がりの状態を 弁証法的に さらに傷つけるという事態が起こるのです。
悪を つまり 善の欠如を つまりたとえば人間存在のその自然本性の欠如を 欠如させるという事態が 必然的に 起こります。欠如を欠如させようとすることが 弁証法的な必然です。それに伴なって 心が傷つくと感じる事件が起こります。
そもそもの心は もともと 傷つくことはありません。虐待によって 傷つくのではありません。虐待によっては いっさい 心が傷つくということはありません。
人類は 社会的な動物です。人間は その意味で 連帯責任です。虐待したがる人間の それまでに傷ついた心を 癒すために その虐待に遭ってやって しかるべき忍耐をしなければならない人生を送る人もいます。そのために心が傷つくということは ないわけです。
なるほど、人権保護団体がこれを読んだらカンカンになると思いますがなんとなく分かります。たぶん
結局のところ、自分のことを『私』と自覚したその瞬間に自己過信や自己欺瞞が始まるということですかね。
>そのように分けることの意味は どこにあるのでしょう?
体の傷も他人からのものであれば善悪はかかわりますが、体(細胞)にとって傷は善悪には無関係という意味でした。ゆえに心の傷もそれがつけられたプロセスに善悪には無関係ではないですが、とりあえず心についた傷という症状(現象)だけを見て、その傷の構造を知る必要があるとおもったわけです。
ご回答ありがとうございました。
No.15
- 回答日時:
こんばんは。
心では漠然としすぎているということですが、
#1さまがおっしゃっているように、
やはり「漠然とした何か」かなあと思います。
その「何か」について、ですよね。
その「何か」というのは、そうですね、
「安心」とか「満足」とか「幸福」とか、
ニンゲンが作った概念たちなんじゃないかなあと思います。
で、その「安心」とか「満足」とか「幸福」なんかに付けられた傷から
スルスルっと侵入してくるのが「恐怖・不安」「不満」「絶望」
のようなものだと思います。
「絶対的」な「安心」「満足」「幸福」というのが存在するのか、
わたしは確認したことがないのですが、
というか忘れてしまったのかもしれませんが、
存在するとしたらそれは宗教に求めるようなものたちですね。
「安心」「満足」「幸福」というのは、すべて相対的なもので、
最も「傷つけられていない状態」というのが
母親の子宮の中にいるとき。
外部との接触を避け、擬似的に
子宮の中で生活しているかのような人も少なくないですね。
で、最も大きな傷を受けるのが、出生のとき。
今まで「安心」して「満足」して「幸福」に住んでいた宇宙が、
すごい勢いで振動し、
今まで当たり前にそこにあった体温ぐらいの水が逃げて行き、
いつまで続くのか分からない狭くて暗い産道を通って、
通り切ったところで、訳の分からないまま
光とか酸素なんかの攻撃を受ける、
赤ん坊は、これを「傷」と名づけることができないのですが
(ところで「傷」というのもまたニンゲンが作った概念ですよね)、
実はこれ、すごい傷だよなあと思います。
子宮の中で外部からの刺激をまるで受けないで生きているのでなければ、
傷は、絶え間なく、どんどん増え続けているのじゃないかと思います。
しかし、傷を受けるたびに、
だんだん、これぐらいの細かい傷で自分が壊れることはない、
ということが分かるようになったり、
少し気になるような大きな傷を受けたときの手当ての方法を覚えたり、
また手当てをすることに器用にスピーディになったりして、
傷とお付き合いするスキルも上達してくる、
そういうのも、成熟(≒腐敗?)のひとつじゃないかなあと思います。
たしかに「傷ついた!」という言葉は、
「迷惑だ!」という言葉と同じぐらい、
都合よく便利に使われる言葉だなあと、ときどき思います。
ではでは。
>「安心」とか「満足」とか「幸福」とか、
人は自然と、別の言い方をすれば無意識に安心で満足で幸福なのかもしれません。
まぁそうでなければ生きてはいけないでしょうね。
ご回答ありがとうございました。
No.14
- 回答日時:
No.6&10です。
★★ (No.6お礼欄) 確かに過信という意思や、先の回答にも出たような自尊心などが痛みの原因はあるようです。
☆ 自尊心は 自らを尊ぶのであれば 《過ちては則ち改むるに憚ること勿れ》を促すように はたらくのではないでしょうか。
傷つくのは 過剰な・必要以上の自尊心 つまり あやまった自信ですよ。それは すでに 自らが自らを傷つけていたのです。その傷を癒すのは ふつうの自尊心であり 存在の愛という心です。
純真無垢の子どもが やがて 社会環境からの影響を受けることも然ることながら 自ら そのような自己過信や自己欺瞞に陥ることがあるのではないでしょうか。
ご回答ありがとうございます。
kigurumiさんの回答にもあるように虐待を受けた子供が心に傷を負ったのは自己過信や自己欺瞞だということですか?
質問していてなんですが、心の傷と善悪は無関係だと思うんです。
体の傷と同じように傷自体には善も悪もないと思うのです。
No.13
- 回答日時:
クオリアがあるってことじゃないでしょうか。
正体は、なかなか消えないクオリアというか表象でしょうね。
心はこの表象の存在に反応しているだけで、
肉体に傷が付くというのとは相当イメージが違うと思います。
♪からだの傷ならなおせるけれど
心のいたではいやせはしない
小指に食い込む指輪を見つめ
あなたは昔を思って泣いた
時の過ぎゆぐままにこの身をまかせ
男と女がただよいながら
もしも二人が愛せるならば
窓の景色もかわってゆくだろう
レモンのクオリアだと思います。
思い出すとつばが出る・・・・・・
忘れられないんですね。
一度も食べたことのない人には決して分からない
ずっと残る心の傷・・・
クオリアという言葉をはじめて聴きました。
辞書では質感とありましたが、痛みの質感とでも言ったらいいのでしょうか。
ご回答ありがとうございます。
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