プロが教えるわが家の防犯対策術!

マクタガートのA系列(過去・現在・未来)の三様相のうち、特に、未来という時間概念を論理的に探究する前に、そもそも未来は、存在していると証明できているのでしょうか?と思ってしまいます。僕たちが日常生活している現在とは断絶していて、決して現在の側からはその中に飛び込めない未来という「あの世」のような概念は、語り得ない、記述し得ない、親近感のない、超体験であるがゆえに、つかみどころがないように思うのです。未来という想定の確かさについて、教えてください。

A 回答 (73件中1~10件)

 No.64です。



 かんたんですよ。
 ★ 非現実・虚構としての《ゲーム・遊戯・劇》であって、〈絶対〉としての《ゲーム・遊戯・劇》ではないようです。
 ☆☆  《〈絶対〉のもとで夢見る非現実ないし未来》
 ☆ これが 《迂回路》を含んでいるからです。
 ○ 《〈絶対〉 ≫という無根拠≪ のもとで ≫一人ひとりが それぞれ 主観として≪ 夢見る非現実ないし未来》
 ☆ と読んでください。そうすれば 次のごとく 各自が それぞれ自由に アンガージュマンをおこなうというのが 基本になっています。
 ★ ・・・「所与の絶対的な規範」に基づくのではなく、未来の現実の状況に向けて各自がアンガーシュ(拘束)されている「行為者」「役者」であると読み解く
 ☆ ですよね?

 ★ 各自が過去を反省し、現在の自己を否定し、未来に対して自己をプロジェ(投企-投げ入れ)する。
 ☆ 《自己否定》は 一時 流行りましたが――そして それとして 自省は大事ですが―― この文では 《現在の自己》に対して 《否定》だけをおこなうかに見えますので その点だけが 気になりました。
  
 科学哲学としては こちらは 相変わらずで 進展しませんが 大きく 《言語ゲーム》としての 未来論は その基本が見えて来たようですね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

一般的に、企業の採用人事担当職が、面接で応募者の採用を決定する重要な要素の一つとして、「当社における将来的な貢献度」をその応募者の言葉と行動から、今実感できるかどうかという点があると思います。

「未来に対して自己をプロジェ(投企-投げ入れ)する」その応募者の状況が、その言葉と行動から想像でき、面接者がそれを納得できるかどうかが重要であろうと思われます。

「まだない未来」だけれども、そうなる努力(たとえば資格取得)、資質向上方策の実践、業界や経済情勢などの情報収集・現状認識・応募者独自の判断から、応募者の将来像がイメージできるかどうか次第で、合否が決すると思うわけです。

>《〈絶対〉のもとで夢見る非現実ないし未来》 これが 《迂回路》を含んでいる
> ○ 《〈絶対〉 ≫という無根拠≪ のもとで ≫一人ひとりが それぞれ 主観として≪ 夢見る非現実ないし未来》
 ☆ と読んでください。

このような《言語ゲーム》としての「未来論」を持つ人物では、採用人事担当職としては、全く、その応募者に魅力を感じません。夢見るだけでは弱すぎます。「所与の絶対的な」模範解答のような借り物を持ち出してもだめです。自分の言葉で語り、自分の能力に対するできるだけ客観的な現状認識に基づき、何ができ何ができないのか、明確に理解した上で、会社や社会にどのように貢献できるのかを熱く語り、「未来に対して自己をプロジェ(投企-投げ入れ)」した将来像がイメージできるような応募者でないと合格にしません。

その意味で、現実味を帯びた未来を熱く語れるかどうかは、その応募者の人間力に通じると思うのです。

そろそろ未来論を総括できる時期が近づいたようです。ここ数日、どのような例示がいいか悩みましたが、分かりやくいものにできたと思います。そして、「未来という想定の確かさ」は現時点(幅のある今)における個々人の言葉と行動・実践の差異によって、それぞれ全く違うと分かりました。自信のない人の未来は、全く確かではないようです。また、根拠のない自信過剰の未来は、完全なる虚構になっていると思います。根拠のある、実行・実践の事実の裏づけのある、未来の想定は、説得力があり、確かなものだと言っていいと思うのでした。これが結論になると思います。長い間、ありがとうございました。

お礼日時:2008/11/22 10:03

物理学のカテの方がいいかもしれないですが、、、



昔、<モモ>を書いたエンデがナビゲーターしていた<アインシュタイン・ロマン>をビデオで観た事があるんですね。

ちなみに、モモって小説は、時間泥棒から時間を取り戻すという物語。

現在、光より早いものは見つかっていません。
この一番早い光を越した時、時空がゆがんで? 例えば電車のこっち側と、向こう側が同時に見えるとか、なんとか 説明されていました。


多重空間だったか量子だったか忘れましたが、ブルーバックスのある本の中では、地球自体がブラックホールだとかなんとか書かれていた。

簡単に言えば、我々が立っていたとして、頭のところと、足のところの時間の流れは違うのだとか。

実際 そうなのか 実験をやった人がいました。
ビルの何階だったか忘れましたが、そこに時計を置いて、地上に時計を置いて、時が経過して、二つの時計に誤差が出れば、地球はブラックホールだとなるとして、実験したところ、時差があったらしい。

私は、単純にどうやって同時に二つの時計を計測したのか想像がつきませんし、「そりゃ どんな精巧な時計でも、狂いは出てきて、全く同じ時を刻む時計なんて2個も無いだろう とか いろいろ思ったのですが、その疑いを解決した上で、何度もやって 同じ結果が出たから、そう言っているんじゃないかと。

ともかく差が出た。
確か高層ビルの上にある時計の方が、早かったんだったと思います。


ってことは、、、頭の部分の方が足の部分より早く時間が流れるってことになる。


じゃあ しゃがんだら、未来から来たってことになるかというと、、、、

確かにそうなのかもしれませんが、なんたって、人間の知覚で認識できる時差じゃないんです。

時間は連続しているし、差よりづっと遅い速度で人間はしゃがむ。


ボールを上に放り投げて

<ボールは未来に向かっていって、未来から今の時にボールが戻ってきた。戻ってきたってことは未来はある>

とはわたしゃ到底思うことはできない。

数秒後の未来はあるとわかったとして、明日は? あさっては? 1月後は、1年後は?


うーーーーん。
どっかの星に行って1年後に地球に戻ってきてみる。

地球では100年たっていたりして、、、、、

この場合、宇宙船に乗った人は、何歳ってことになるんだ?
地球上では100歳を超えていることになるが、時の流れが違う空間にいたので、、、まだ100才になっていないことになり、、、、、

地球の人からみれば、宇宙船に乗ってはるかかなたに行ってた人は、あの世にいってたってこと?

「あの世じゃ 年とらんのかい」のうらしま太郎状態。

うーーん わ、わ わからない。

物理のカテの人なら、どう答えるでしょうね。

この回答への補足

>時間は連続しているし

ここが違うかもしれません。連続なんかしていないのではないか。

>宇宙船に乗って「はるか」かなたに行ってた人は、あの世にいってたってこと?

異なった慣性系にある時空は、相互に断絶した時間経過をしているのではないか。高速移動体(ジェット飛行機)の乗客でも、地上の人々よりも短い時間経過で済んでいるはずです。

補足日時:2008/11/27 12:18
    • good
    • 0

こんにちは、qsxdrfvgyhさん。



歴史のカテで織田信長云々の話をつらつら遡ってみてたのね。
で、みてくうちにふいっと目に入ったのが
【〔質問番号:4489472〕どうして歴史を勉強するのですか?】の質問。

PCの画面見ながらものおもい。
理系と関係する事柄と絡めてみていけばいいんじゃないのかな?と。


たとえば、織田信長が本能寺でなんで焼き討ちにあって亡くなったんだろう?と。本能寺の変が起きたのは…天正10年6月2日(1582年6月21日)。ねえ、ねえ、よくみてみて日付が違うでしょ。さてさて、これはなんじゃ?和暦と西暦。1582年といえば、天正10年9月19日(1582年10月15日)ユリウス暦が改定されグレゴリオ暦が制定された年。織田信長が亡くなって3ヶ月余り過ぎたあたりでグレゴリオ暦制定。織田信長ー明智光秀ー豊臣秀吉。明智光秀,三日天下と。織田信長が亡くなってからグレゴリオ暦へ換わるまでの期間は3ヶ月余り、“3”という奇妙な数の符合。ちょこっとミステリーぽくなってきた?あっ!?そうそう、グレゴリオ暦考案に際して、数学者のクリストフェル・クラヴィウスと天文学者のアロイシウス・リリウスがかかわってたんだって。クリストフェル・クラヴィウスさんは“ユークリッド原論”の注解書を記した人物とか。http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC% …
同年(天正10年旧暦1月28日:1582年2月20日)天正遣欧少年使節団がローマへ向けて出立してるのよね。織田信長って、キリスト教を保護しつつ南蛮貿易を通じて海外の情報・情勢を収集・把握してたみたいね。世界に目を向ければ、日本は小国。いつ、何処かの国の植民地になるやもしれない。それだけに危機意識も高かったんだろうね。はやくから世界に目を向けてたのも危機感のあらわれだったかもしれないね。

『海外貿易から読む戦国時代』武光 誠 (著) PHP研究所
http://www.amazon.co.jp/%E6%B5%B7%E5%A4%96%E8%B2 …

【なぜグレゴリオ暦では100で割り切れる年に閏年をやめることになったのですか。西...】
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …

歴史ミステリー。織田信長は本能寺でなんで焼き討ちにあって亡くなったんだろう?“(第六天)魔王”と人に畏れられるような人物が何故?あっけなく死ぬかね???疑問だ。“自作自演”の「死」の演出だったんじゃないのかな?何のため?小国をまもるためととは考えられやしないか?日本って国にはめっぽう恐ろしい“魔王”織田信長という者がいると噂が海を越え伝わっていたとする。中には、腕っし試しに侵略を練る者も、そんなご時世の中にあって織田信長は討たれ、それを討ったのが日本国内の者、その者もまた三日とたたないうちに討たれるとなれば、日本にはどれだけ猛者がいるのかと迂闊に手出しできなくなる。“本能寺の変”火柱上がったことだろう。
【安土城復元案】
http://www1.asitaka.com/
http://www1.asitaka.com/ihs/index.htm


【国会から見た経済協力・ODA(1)】
http://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/kounyu/2 …

この回答への補足

時事的に村山談話を出したせいで、関心が歴史や賠償に脱線してしまっていますが、大変面白く読ませていただきました。ありがとうございました。でも、歴史的な事件の解釈も元事務次官殺害事件の解釈も深読みはだめでしょう。用意周到であったとしても、動機はもっと単純だと思います。気に食わない者を抹殺したいという動機でしょう。

ところで、暦も面白いですね。128年に一度閏年にしない新暦法も、なかなかいいと思いました。ただ、暦法と未来とは、あまり関係ないようです。未来に関して、その周辺・近接領域からアプローチしていきたいだけです。

マクタガートのA・B・C系列やホーキングの虚時間やウィットゲンシュタインの言語ゲーム/劇という迂回路を試みてきました。劇については、大変有意義なリンク先を教えていただき、感謝しています。おかげで、ひとつのルートを発見できたように思います。まだ、別のルートがあればいいなあと思います。

補足日時:2008/11/25 17:02
    • good
    • 0

 国家の時代を 現在過程として その以前が過去 以後が未来 こういう歴史観をご存じないですか?

この回答への補足

未来に関して考察し、探究し、多くの方々から様々な指摘やアドバイスをいただいてきたわけです。歴史観は主題ではありません。いろいろの歴史観があっていいので、それはそれでいいのです。ある種の歴史観だけを否定しているわけではありません。主題に直接的な関係がないだけです。未来に関心の中心があるのです。その一つのルートは判明しました。別の有望なルートがあれば、歓迎します。それだけです。

補足日時:2008/11/25 16:30
    • good
    • 0

 新しい社会へ向けて インタムラ(村)イスムを提唱します。



§1 《スサノヲ(S)-アマテラス(A)》連関

人間は 《スサノヲーアマテラス》連関主体であると思います。
《スサノヲ(S)》とは 《市民》を言い 《わたくし》の領域です。
《アマテラス(A)》は 《公民》《おほやけ》の領域です。

強いて分ければ S者(S領域)は 《精神》なるA者(A領域)に対して 《身体》です。S者なるわたくしの身体の運動は 一般に社会的な生活の中で 自己のA者なる精神によって 記憶され知解(了解・意識)されまた 記憶にもとづき 知解されたものごとを 人はこの身体の運動とともに 意志する。

《S-A》連関は 《身体‐精神》および《市民‐公民》のそれぞれ連関構造となります。

わたしたち一人ひとりが 市民であることにおいて 公民の領域を兼ね 公民としての役割を普通に果たすのですが 社会のなかで 外形的に・職務として 公民の役割を担う者も 制度として 存在します。いわゆる公務員として《もっぱらのA者》でありこれは 《アマテラス社会科学主体》のことです。

これに対する概念は 《スサノヲ社会主体》です。一般の市民としてのスサノヲ社会主体は むろんそのままでA者・公民の役割を自己のもとに留保します。ここで 差し支えない限り 一般の市民を 単にスサノヲと言ったり 従って もっぱらの公民のことを アマテラスと簡略に呼ぶこともあろうかと思います。 

次に初めに帰って S者が 身体の運動をその基礎とし A者が特には S者に対するかたちで 精神を表わすとすると このA者は S者〔のさまざまな運動過程つまり一般に社会生活〕の中から抽象されて ある種の普遍的な概念をかたちづくるものと見られます。これを わたしたちは アマテラス概念 A概念・A語・A語客観などと呼ぶことができ これに対する意味では S者は 主観であり 人間語です。

§2 主観としての《S‐A連関》から出発する

主観というとき わたくしなる存在が 身体(S)を基体とし 一般にその身体と連動する精神(A)を伴っていると思われます。十全な意味での主観ないし主体とは やはり《S者ーA者連関》なる一個の存在です。

すでにここで 客観は 主観に対立すべきものではなく 主観の中にあって主観により把握されたものであり 主観から表現(=外化=疎外)されたときにも それを主観・主体が 用いるべき概念だということに注目しておくことができます。

このA語客観が 自己からまさに疎外されたかたちの概念は ことに《観念》であると見ます。もしくは それが初めに一応 客観であったことより 《共同の観念》であると見ます。

主体的な生きたA語客観は 主観として殊に 《共同主観(common sense=常識)》と考えます。より正確には この常識=共同主観は 生活ないし行為そのものを言うほうがふさわしく これをA語客観でとらえたものは その何らかの思想的な形態または理論というほどの意味です。

主観が 社会的に共同化されて 共同主観となるばあいには このように S者がA者(A語・A概念)をとおして 生活の共同性を見ている・築いているということであり この共同性が 協働性を含むことは 言うまでもありません。

§3 共同主観と共同観念

さらに このA者(A語・A概念・A語客観)は それだけが取り出されるときには 精神をちょうど言葉によってのみ捉えたというように 単なる観念ないし観念的な現実というまでのものになりえます。

たとえば 《和(やわらか)》とは まず肉眼でとらえられうる・そして感性で理解されうるモノ(質料)や身体(質料より成る)のそのような一つの属性である。しかるに 《和を以って貴しと為す》というときの《和》は すでに 観念であり共同観念であります。それは S者・身体の運動から切り離しても 語られたり論じられたりするからです。つまり 抽象的でもあります。

したがって 初めに 素朴にあたかもムラ(村)イスムなる共同の生活において この《和》が 主体的に・つまり《S者ーA者連関存在》おのおのの行為をとおして 過程的・現実的に見られるとき それは すでに言った共同主観であります。

これが ある種の仕方でこれらの現実から切り離されて 掟・道徳・律法などとして 論じられ規範的にも訴えられるとき それは 共同の観念 観念の共同性 つまり 共同観念をつくりあげることが 可能です。

この別種の《常識》は あたかも第二次的な・仮象的な共同主観であり たとえば《ムライスム》と名づけられる以前に存在する常識が 感性的で・かつ主体的な共同主観であったとするなら このムライスムと名づけられた語・概念・客観じたいが 共同観念ということになるでしょう。

共同主観は より一層 S者市民的であり これに対して共同観念は A語客観的であることによって ムライスム(《和》)あるいは ナシオナリスム(《大和=やまと》)といった次元で 社会的です。

しかも 必ずしも感性的でないことによって 観念的であり 時に幻想的となりえます。観念的・幻想的な共同性が 感性的でないと言っても あたかも慣性の法則によってのように 情緒的・情念的となりえないとは言えません。もともとは S者・スサノヲ語に発しているのですから。

もっとも 第一次的な・生活日常的なスサノヲ者の寄り集まるムラ〔イスム〕の次元での 感性的なつながりと そして 第二次的でより多く非日常性の機会に接するナシオン(ナシオナリスム)の次元でのそれとは 基本的に異なる。

つまり 後者での感性的なつながり(たとえば愛国心)は むしろ スサノヲ者の感性とは 一旦 基本的に切れているから そのナシオナリスムといった共同の観念が すでに外から・または上から 一人ひとりのスサノヲ者に おおいかぶさっているというようなしろものです。

また 第一次の共同主観を その第二次的なものである共同の観念の中で 理念的に――つまり A語客観精神においてということですが――保ち これを表現したものが 憲法をはじめとする法律であるかとも思います。これは 共同観念である限り やはりおおいかぶさって来るものにちがいないのですが 理性的に――経験合理的に――スサノヲ者の内面において ほぼそのまま 見出されるそれであるということになるでしょうか。

§4  記憶・知解・意志(愛)

身体の運動なるS者に対する A者=精神のうちの《記憶〔行為〕》は 言わばわれわれの精神の秩序であり 存在の内なる組織であります。

同じく《知解行為》は 記憶に基づいてのように ものごとを知解する すなわちそれはそのまま 労働・生産行為へとつながってゆくものと思います。社会的な生活のなかで これらが働くとまず初めに見たのですから。

何を・どのように生産するかそして生活するかは 同じく第三の行為能力である《意志》に基づくでしょう。

精神の秩序たる記憶行為に基づいて 意志はまず 自己の愛ないし他者の愛(愛とは 自治・共同自治)であり 労働・協働の場においては それぞれの《自己の愛》の意志共同というほどに 経営行為につながるでしょう。また《記憶》の共同性は この生産・経営の態勢(会社)における組織行為にかかわります。

記憶し知解し意志する《S-A連関主体》は――もし経済活動が 現実の生活の土台であるという限りでは―― このように《組織-生産-経営》の共同(協働)性の場で 先の共同主観を形成しつつ生きることになります。

また 第二次的に〔あたかも この初発の共同主観の古くなったものの残像であるとか それらの社会なる鏡に映ったA語概念としての古い掟であるとかといったように つまりはいわゆる前例・先例としてのように〕観念の共同を ある種 不可避的に持ちつつ やはり生活を送ります。

従って言いかえると 一般に 新しい共同主観と旧い共同観念との葛藤のなかで 人は 生きることになります。

新しい共同主観は 一般に S者・市民の中から生起します。共同観念を保守しようとするのは 一般に公民たるA者です。それぞれそのように生活しています。

そこで この区別のかぎりでは 社会形態(国家のことです)は S者の共同体である市民社会と A者の共存圏である狭義の社会形態とから成り立つと考えられます。それぞれを S圏(スサノヲシャフト)とA圏(アマテラストゥーム)というふうに呼ぶことにしたいと思います。

いま《スサノヲ-アマテラス連関主体》たる人間について考えてきて 社会としては S者共同体である市民社会が 基礎であり あたかも身体(S)の上に精神(A)が 乗っているように S圏の上にもA圏が乗って 全体としてちょうど二階建ての家を形成しています。

次に これらの分析用語を整理します。

§5 概念・用語の整理(1)

《スサノヲ--------アマテラス》 連関主体
Susanowo・・・・・・・・・・・・・・Amaterasu
S者・S語(人間語)・・・・・・・・A者・A語・A語概念
身体・感性・・・・・・・・・・・・・精神(記憶-知解-意志)
《わたくし》・・・・・・・・・・・・・・《おほやけ》
市民(homme/bourgeois)・・・・・公民(citoyen)
社会主体・・・・・・・・・・・・・・・・社会科学主体
政治経済主体・・・・・・・・・・・・政治経済学主体
   * 象徴としての国王・元首はアマテラシテAmaterasite; Amaterasity; Amaterasitaet

§6 概念整理(2)

《 スサノヲ--------アマテラス 》連関形態
スサノヲシャフト------アマテラストゥーム
Susanowoschaft--------Amaterasutum
S圏------------A圏
市民社会---------〔狭義の〕社会形態
《まつり》---------《まつりごと》
ヤシロ Yasiro-------スーパーヤシロ Superyasiro
自治態勢および生産態勢---行政府・立法府・司法府
ムラ mura----------国家:イエ・ナシオナルihe national
エクレシアecclesia(eglise)---- 社会形態;キュリアコンkuriakon(church) 

§7 概念整理(3)

スサノヲ( S )・・・アマテラス( A )
身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)
・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・(↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)
[S者/S圏]
個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)
社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)
経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )
政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ 
[A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓
社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )
 〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )

§8  スサノヲイスム(インタスサノヲイスム)およびインタムライスムへ向けて

スサノヲイスム: 自治(個体の自己経営・愛)を基礎とする社会
インタスサノヲイスム: 愛=共同自治  ;A圏主導支配ではなく S圏主導(民主主義)による《S圏-A圏》連関の社会
インタムライスム: 国境を超えたスサノヲイスト市民社会連合。(たとえば 南京と名古屋とが 相互に議員を選出し 送り合う。むろん 市民相互の経済的および文化的な交流も)。これによって やがて 国家を揚棄する。

 中身は たしかに おっしゃるように
 ★ ただし、《現在としての未来》と《過去としての現在》との《断絶》は、《未来を孕む現在》と《過去を想起している現在》との《断絶》と《混在》の相互転換的・動態的な様相とでも言うべきかなと勝手に解釈してしまいました。
 ☆ このとおりだと思います。そのつど 具体的な共生と そのための政策・施策を考え 実施していくという単純な方針です。無根拠に基づきますから 特別に固定的な描像はありません。常識(共同主観)にもとづいて行ってよいと考えます。

 数々の《余計》を投稿しましたが 大目に見てやってください。

この回答への補足

たくさん書いていただきましたが、「国境無き共同体社会の提唱」で通じます。プレゼンの基本は、A4一枚です。それにしても、「説得力のない、根拠のない、口先だけの言動」のように感じました。理想なのかもしれませんが、実現可能な未来指針にはまだなっていません。採用人事の言語ゲーム/劇とも通じますが、「事実として行為・実践の裏付けのある、説得力のある言動」ここに、実現可能な未来指針なのかどうかが関係しています。もっと単純に言えば、どのような「行為・実践」をしているのか次第です。それにしても、国家の消滅は穏やかではありません。ですから、次善の策として、国家は維持されるべきと共通認識されているのでしょう。この質疑は、未来論なので、国家論は不必要です。以後、書き込まないでください。

補足日時:2008/11/25 09:45
    • good
    • 0
この回答へのお礼

質問に関係のない「自説披露」的な回答は、書き込まないでください。という意味です。質問に関係があれば、もちろんいいのですが。

お礼日時:2008/11/25 10:14

 No.68です。



 ★ 「未来論の舞台」の一例を設定しましたので、ここでどのように「絶対」が関係してくるのか記述し易くなったと思うのですが。いかがでしょうか。
 ☆ 《絶対》は 人間にとっては 人間のおこないとしては 非思考という態度です。そのように受け容れられることになる想定です。ですから 舞台のための脚本やその演技には 直接には かかわりません。
 ★ 非現実・虚構たる「絶対」の出る幕はないと思いませんか。
 ☆ ですから 舞台の土台として 縁の下の力持ちであると同時に 登場人物としては 名を連ねてはいません。(土台であることが 広くは 登場者であることになるなら 別になります。要するに キリストのキの字も言わないという意味です)。

 この基礎が――つまり 石工たちが捨ててしまった《隅の親石》としての基礎が――あれば 井戸端会議で いいのです。津津浦浦にまで伸びた民主自主会議が 名のある人も名もない人も 中身で勝負する話し合いとして 自由に参加するかたちで 生きていれば それでいいのです。
 ★ 説得力のない、根拠のない、口先だけの言動では虚無・虚構の未来になってしまっていると感じるわけです。
 ☆ これでいいのです。そこから出発します。規範・道徳律・禁忌・やがて権威や権力など いっさい 要りません。それらの過去からの伝統にのっとったところの
 ★ 事実として行為・実践の裏付けのある、説得力のある言動
 ☆ からは 完全に 自由になってください。そのための土台です。その土台たる舞台の上でおこなう劇なのです。この《現在としての未来》は 《過去としての現在》とは 《断絶》しているとも言えます。要するに 弁証法過程であって すべての過去は 未来の舞台へと 揚げて棄てられていきます。
 そのことだけを述べてきたのです。

この回答への補足

(お礼欄に書ききれませんでしたので、こちらに書きました。)

度重なる丁寧なご回答に感謝します。なるほど、よく分かりました。

非現実・虚構たる「絶対」が、《言語ゲーム》/劇の舞台の土台・基礎という喩えは、分かりやすい表現ですね。「縁の下の力持ちであると同時に 登場人物としては 名を連ねてはいません。」という部分もそのとおりだと思います。僕が気に入っている表現の「無為なる絶対」も有為なる相対世界の土台・基礎だと思います。

★ 説得力のない、根拠のない、口先だけの言動では虚無・虚構の未来になってしまっていると感じるわけです。
☆ これでいいのです。そこから出発します。規範・道徳律・禁忌・やがて権威や権力など いっさい 要りません。

一般社会生活では、「説得力のない、根拠のない、口先だけの言動」で溢れていて、そんな人も多いのですが、一般論に論点をずらさずに、直球で返してもらいたかったのです。採用人事の《言語ゲーム》/劇では通用しません。

★ 事実として行為・実践の裏付けのある、説得力のある言動
☆ からは 完全に 自由になってください。そのための土台です。その土台たる舞台の上でおこなう劇なのです。この《現在としての未来》は 《過去としての現在》とは 《断絶》しているとも言えます。要するに 弁証法過程であって すべての過去は 未来の舞台へと 揚げて棄てられていきます。

ここも、採用人事の《言語ゲーム》/劇を避けた一般論になっていますが、一般論としては良く分かります。ただし、《現在としての未来》と《過去としての現在》との《断絶》は、《未来を孕む現在》と《過去を想起している現在》との《断絶》と《混在》の相互転換的・動態的な様相とでも言うべきかなと勝手に解釈してしまいました。意味合いが変わったかな?

これで「未来の想定の確かさ」は、充分検討できました。「事実として行為・実践の裏付けのある、説得力のある言動」の採用応募者からは、企業への将来貢献という想定の確かさを実感できるので、採用人事の《言語ゲーム》/劇においては、自信を持って内定を出せるわけです。ここに、「未来の想定の確かさ」の実例を見ることができます。「説得力のない、根拠のない、口先だけの言動」の採用応募者からは、企業への将来貢献という想定の確かさを実感できません。結局、人物次第で未来や将来の確かさはあったりなかったりです。近日中に締め切りにしたいと思います。皆様ありがとうございました。

補足日時:2008/11/23 17:09
    • good
    • 0
この回答へのお礼

(上の補足欄からの追加です。)

最近、「絶対・確実な未来」と「自由意志」の質問が立っていますが、意思だけで未来は語れませんし、絶対・確実な未来なんて、この有為なる相対世界にあるはずがないと、先々分かる時も来るでありましょうとだけ書いておきたいと思いました。

お礼日時:2008/11/23 17:21

 ANo.66で


 ☆☆ 大きく 《言語ゲーム》としての 未来論は その基本が見えて来たようですね。
 ☆ と言ったのは 
 ○ 未来論の 舞台
 ☆ のことです。終始一貫して そのように投稿して来ています。
 
 つねに的を外すわざにたくみな方だとお見受けしました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>つねに的を外すわざにたくみな方だとお見受けしました。

そのような意図はないつもりでした。そう思わせたとしたら、申し訳ありません。

「未来論の舞台」が《言語ゲーム》/劇であるというように僕は読み取っているのですが、そのようなbrageloneさんの投稿内容については、全くそのとおりだと同意しますし、異論はありません。

ただ、非現実・虚構たる「絶対」と未来との関係について、異論があるわけです。未来が虚無でも虚構でもなく、意義を見出せる未来となるのは、採用面接の例で示したように、事実として行為・実践の裏付けのある、説得力のある言動をする応募者の場合だと思うわけです。企業への将来的な貢献に関して、説得力のない、根拠のない、口先だけの言動では虚無・虚構の未来になってしまっていると感じるわけです。非現実・虚構たる「絶対」の出る幕はないと思いませんか。採用人事担当者の《言語ゲーム》/劇においては、応募者の比較的に確かな可能性を実感したいという内容になると思うわけです。はっきりしない、ぼんやりとした可能性とか、虚構に過ぎない可能性では、合格にできないと思いませんか。「未来論の舞台」の一例を設定しましたので、ここでどのように「絶対」が関係してくるのか記述し易くなったと思うのですが。いかがでしょうか。

お礼日時:2008/11/22 14:28

これだけ沢山の方が回答なさっているのですから、これから私の言うことは何方かがもうすでに述べられているかもしれません。

全ての回答を読んではいませんので、重複してたら悪しからず。

質問者さんの

>決して現在の側からはその中に飛び込めない未来という「あの世」のような概念、

と言う立場からすると、未来ばかりでなく過去も「あの世」とような概念と言うことになりますね。過去は我々の記憶と言う形で脳が認識していますが、未来も将来の夢や予測としてやはり脳が認識しています。ですから
未来を、

>語り得ない、記述し得ない、親近感のない、

と言う主張は受け入れられません。質問者さんが自分の言質に対して自己矛盾に陥らないためには、未来ばかりではなく過去の存在も疑問にするべきです。

蛇足:
物理学の因果律では、過去は現在に影響を与えることができるが、未来は現在に影響できないと主張しています。しかし、それは極端に単純な現象に限った場合に限ります。事実、我々の行動は物と物の間の直接的な作用ばかりで次の行動を決めているわけではなく、脳の中で認識している過去についての記憶にも影響されます。それのみならず、未来についての予測にも影響されます。したがって、予測される未来の結果が現在の原因に影響し、その原因の変化がまた予測に影響しと、ぐるぐると回りながら過去、現在、未来が互いに影響しながら次の行動を決めています。そう言う意味で未来が現在に影響を及ぼすことができるのです。このようなグルグルと回りながら影響を及ぼす現象を「非線形現象」と言います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございました。
なるほど。No.7と同様の論点のようですね。
そのお礼欄で、未来と同様に過去もないと書きました。
「まだない未来」も「もうない過去」も、どちらも「ない」点においては同じなのは自明のことです。

ただ、>語り得ない、記述し得ない、親近感のない、と言う主張は受け入れられません。
という批判的な指摘部分は、そのとおりだと思います。

「まだない未来」を語り、記述し、親近感を抱き、「非線形現象」という影響下で、我々は行動しているのも事実ではないかと思いました。適確なご指摘に重ねて感謝いたします。

お礼日時:2008/11/22 09:16

こんにちは。



今、出先からです。
朝出かけに時間なくて、とりあえず夕べ目を通していたところの
参考URLを回答番号:No.63にあげたんです。
うーん、なんだかうまく開かなかったみたいで
お手数をおかけしてます。 m(_ _)m ども

他人の空似というあたりで

似て非なるもの 非なれど似るもの

“翠川”と“犀川”からひとつ

『θは遊んでくれたよ』 森博嗣著
http://blogs.dion.ne.jp/veniko_sezaimaru/archive …
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>うーん、なんだかうまく開かなかったみたいで

後から再度クリックしてみると開きました。なぜあの時、開かなかったのか?全く分かりません。

>似て非なるもの 非なれど似るもの
“翠川”と“犀川”からひとつ
『θは遊んでくれたよ』 森博嗣著

“翠川”さんによるサルトルの劇に関する分析は、大変参考になりました。ありがとうございました。
登場人物の“犀川”さんの方は、「幻想と虚構」がキーワードのようですね。こちらも、大変参考になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2008/11/18 16:18

 《対話化されたモラル》を読みました。

横からですが 回答の一環として投稿いたします。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 東北大学大学院文学研究科 / 博士学位論文

論文タイトル:対話化されたモラル
サルトルの演劇作品における「対話」を巡る考察

提出者:翠川 博之
http://209.85.175.104/search?q=cache:2SHhCDgVqLg …
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 横着にも わたしの結論のみを記します。
 ▲ (《3.結論》の最後の最後の箇所です)~~~~~~~~
 8.2. 「遊戯的対話」は世界直観に通じる( 原理 7.2.)が,しかし人間的理性を超越した「世界運動」そのものではなく,あくまでも世界内存在による内世界的活動であることによって,完全な不条理に還元されることはない.したがって,「遊戯的対話」は,現実的価値に依拠しないことによって「遊戯」的であるが,遊戯の枠組みにおいては,自律的な目的,意味といった「現実」とは別の次元での諸価値を必然的に創出しつつ展開される( 原理 4 「規則のある活動」 ).・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ と言っていますが そして サルトルの作品とその評論という形式においては そのとおりとして結論づけられるのだと思いますが 要するに 次のように 大胆に 言ってしまってよいのだと考えました。
 ○ 《遊戯的対話 dialogue de jeu 》は――《 jeu 》は《 game /play 》のことですから 《ゲーム / 劇》であり したがって―― 言語ゲームのことだ。
 ○ 《言語ゲーム》のほうから 《いわゆる現実》に迫るという行き方もあるだろうし その逆の方向での 思惟や理論の構築ということもあるだろうが 要するに これら《遊戯的対話=言語ゲーム》と《いわゆる現実=もしくは いわゆる現在という時空間》は 同じ概念だと言ってよいのではないか。
 ○ 論者も これら双方の相互交通ないし交錯関係を 次のように指摘している。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「遊戯的対話」において創出された諸価値は,「遊戯」と「現実」の相補性に基づき,現実的次元で遂行される現実の超出に向けた「行為」に一定の「契機」を提供する.したがって「遊戯的対話」は,定義により,それ自体現実的価値の生産によって規定されないが,現実の次元に留まっては到達されず,しかも,現実的行為の枠組みにも移行可能な,いわば遊戯的価値を創出する潜在性を内包している.
(承前)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ○ もし《遊戯・ゲーム・劇》が 《絶対》の想定という虚構から出てきたのであれば――サルトルを離れて あたかも ヰ゛トゲンシュタインのごとく そうだと見るとすれば―― 《語り得ぬ絶対》にとっての《移ろいゆく現在過程》は そのまま全体として それつまり《遊戯・ゲーム・劇》であるというふうに 導かれる。
 ☆ 要するに 《〈アンガージュマン〉として 巻き込まれたなら=つまり おのれの自由意志によって 巻きこまれていったなら》 その《現在過程》は そもそもとして《ゲーム・遊戯・劇》でありつつ 実際問題として《意識された現実》となると思われます。
 《現実》が 《〈絶対〉の非現実》に摂り込まれたとも言えるし 現実が 《〈絶対〉のもとで夢見る非現実ないし未来》を みづからの現在時に摂り込もうとしているのだとも言える このように考えます。
 横入りながら。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

大変、適確な解説をしていただき、ありがとうございます。

☆ 要するに 《〈アンガージュマン〉として 巻き込まれたなら=つまり おのれの自由意志によって 巻きこまれていったなら》 その《現在過程》は そもそもとして《ゲーム・遊戯・劇》でありつつ 実際問題として《意識された現実》となると思われます。
 《現実》が 《〈絶対〉の非現実》に摂り込まれたとも言えるし 現実が 《〈絶対〉のもとで夢見る非現実ないし未来》を みづからの現在時に摂り込もうとしているのだとも言える このように考えます。

なるほど、そのように要約してもいいようですね。
「共同の現在」における《ゲーム・遊戯・劇》
各自が巻き込まれたアンガーシュマン(拘束)の状況を自覚し、各自がその自由な選択によって「自己が果たすべき「役割」を他者との関わりにおいて明晰に自覚」し、「その「役割」を主体的に引き受け」、「所与の絶対的な規範」に基づくのではなく、「他者との対話を通じて創造される共同の価値によって律せられる」と論文から引用できます。この認識には異論ありません。共通の土台にできる表現だと思いました。

各自が過去を反省し、現在の自己を否定し、未来に対して自己をプロジェ(投企-投げ入れ)する。各自が未来を創造しようとする中で自らの本質を(変革的に)作り出すので、その意味で各自が現実の状況から解放されると同時に、「所与の絶対的な規範」に基づくのではなく、未来の現実の状況に向けて各自がアンガーシュ(拘束)されている「行為者」「役者」であると読み解くと、アンガーシュ(拘束)されている「行為者」「役者」が、brageloneさんの表現した「《〈絶対〉のもとで夢見る非現実ないし未来》を みづからの現在時に摂り込もうとしている」と解釈していいのかどうかは、微妙なようです。非現実・虚構としての《ゲーム・遊戯・劇》であって、〈絶対〉としての《ゲーム・遊戯・劇》ではないようです。

お礼日時:2008/11/18 17:33
1  2  3  4  5  6  7  8 次の回答→

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す