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太平洋戦争開戦時、在米日本大使館が、暗号の翻訳とタイプに手間取り、
日米の外交を断絶する文書をハル国務長官に渡すのが、
予定の時刻より1時間遅れてしまった事は有名ですが、
イギリスに対してはどうだったのでしょうか。

同じ方法、つまり在英日本大使館から文書を手交したのでしょうか。
(あるいはラジオでの宣戦布告や在日イギリス大使への通知?)

また、マレー侵攻は真珠湾攻撃より早かったのですから、
宣戦布告はその時刻に間に合ったのでしょうか。

ご存知の方がおりましたら、よろしくお願いします。

A 回答 (10件)

 ハル国務長官に手交された「対米覚書」が「開戦に関する条約」第1条に定められた宣戦布告及び最後通牒のいずれの要件も満たしていないことは、すでに書かれているとおりです。

ただ、「日本の同盟国であるドイツが英国と開戦した時点で、日英間も事実上交戦状態に入っていました」という意見は噴飯もので、悪い冗談というより他はありません。

 さて、「対米覚書」が宣戦布告としての効果を持たず、しかも開戦前に手交しようとして結局失敗したとは言え、一応日本はアメリカに対してはこのような形での事前通告を試みてはいました。
 しかし、イギリスに対してはなんの通告も行われないまま戦闘行動に突入しています。(日本軍がマレー半島に上陸してイギリス軍と交戦状態に入ったのは真珠湾攻撃の1時間半前でした。)
 これについては以下のような解釈が試みられています。
 すなわち、太平洋戦争の開戦判断自体に「イギリスはまもなくドイツによって打倒される」という観測があり、対英戦については完勝が見込まれていた。(参謀本部が1941.9.6に作成した「帝国国策遂行要領ニ関スル御前会議ニ於ケル質疑応答資料」による)一方、アメリカに対しては誰も米本土を占領して戦争を終えられるとは思っておらず、「開戦初期に大打撃を与えて継戦意欲を喪失させ、和平」というシナリオを描いていたので、米国世論を刺激しないために完全無警告攻撃でなく、対米覚書によって事前通告のようなことをして配慮しようとした…というものです。
 アメリカとの間には長々と日米交渉が繰り広げられる一方で、イギリスとの間には特に何も無かったのは、イギリスはまもなく舞台から消えるという判断があったわけですが、ドイツはすでに対ソ戦に全力を注ぎ込んでおり、この誤判断が日本を危険な対米英戦に踏み切らせることになったわけです。

 太平洋戦争開戦経緯については、
・日本外交史<23>日米交渉(鹿島研究所出版会)
・真珠湾奇襲論争(講談社)
などを読まれるといいと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
私も「英独が戦争状態に入った時点で、日英も戦争状態に入った」
という意見にはちょっと違和感を感じていました。

それにしても日本はイギリスが滅亡すると思っていたのですね。
日本の第二次大戦参戦を聞いたチャーチルが、
「これで戦争に勝てる」と思ったのとは正反対ですね。
やはり当時の日本の首脳部は判断力が落ちていましたね。
(全員ではありませんが)

「真珠湾奇襲論争」は私も読んでいます。
「日本外交史<23>日米交渉」は難しそうですね。

お礼日時:2008/08/13 11:56

#4、6、9です。



回答に不充分な点があったので補足させて下さい。


昭和16(1941)年12月8日の日英開戦の時点では、日英間は既に事実上の戦争状態でした。

(1)昭和12年に始まった支那事変(日中戦争)において、英国は支那に”武器援助”をしており、日支関係における中立国ではありませんでした。日本の敵国でした。
(2)昭和16年7月に英国は、米蘭に歩調を合わせて在外日本資産を凍結しました。昭和16年8月に英国は、米蘭に歩調を合わせて対日石油輸出を停止しました。これら一連の経済封鎖は、事実上の戦争行為です(ABCD包囲陣)。

以上、英国は先に日本に戦争を仕掛けたのです。ゆえに、昭和16(1941)年12月8日における日本の対英戦闘開始(マレー半島上陸作戦)において、外交手続きとしての事前通告(宣戦布告)は不要なのです。

※パリ不戦条約を起草したケロッグ米国務長官は、「経済封鎖は戦争である」と言っております。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
(1)ですが、う~ん、英国が中国に武器援助をする事と、
直接交戦する事は違うと思いますが…。
そもそも中国とも正式な交戦状態ではなかったわけですし。

(2)は、日本が仏領インドシナに進駐したからではないでしょうか。
日本が北朝鮮に対して経済制裁をとったように、
無法な相手に対して程度経済制裁を行うのは認められているはずです。

経済封鎖は戦争を誘発する事はあるけれども、
戦争ではないと思います。

お礼日時:2008/08/19 09:52

#4です。



>アメリカはシナ事変後も日本への輸出を続けていました。

その通りです。しかし、アメリカは日本へ、鉄屑や石油などの経済物資は輸出しましたが、軍需物資(武器)は輸出しませんでした。一方、アメリカは支那に対しては軍需物資(武器)を輸出しましたから、中立国ではないのです。

ところで、英語の「Declaration of war」は、一方の国が他方の国に対して戦争を開始する意思を表明する通告であり宣言です。和訳すれば、「宣戦布告」、「開戦宣言」、あるいは「戦争宣言」です。ここには、戦争状態を第三国に知らせる意味などありません。戦争しているかどうかは、(第三国が)見れば分かる事なのですから。( フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に、「宣戦布告」の意味が説明されていますが、誤りが多いので信用しないように。)
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

確かに中国側に対して軍事物資の輸出が偏っていましたね。
ヨーロッパでイギリスに肩入れしていたのと同じ様に、
アジアでは中国に肩入れしていたという事でしょうか。

英語だと、また宣戦布告の意味が違ってきますね。
他の回答にある、開戦通知の意味でしょうか。
言葉の意味だけでも奥が深いですね。

お礼日時:2008/08/15 17:08

No.3です。

 相変わらず誤解に基づく回答がなされているので、我慢できなくなり、再度投稿します。「開戦の詔書」こそが、まさに国際法で義務付けられた「宣戦布告」です。 先の回答でも書きましたが、「宣戦布告」というのは、開戦する相手国ではなく、自国の国民及び第三国に対して、「わが国はXXX国と、戦争を始める(始めた)」と知らしめる布告です。 他の回答者さんが、間違った意味で使っている相手国に対する「宣戦布告=開戦告知」は、国際法で義務付けられてもおらず、斯かる開戦の通知が無いまま引き起こされた戦争は、近・現代においても数多あります。 
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この回答へのお礼

私も今回の質問で、第三国に対する宣戦布告と
相手国に対する開戦通知が違うとはっきり分かりました。
本当にありがとうございました。

宣戦布告はだいたいラジオを使用するのでしょうか。
全ての国の在日大使にいちいち言ってまわるのは面倒ですよね。

お礼日時:2008/08/13 11:49

#4です。

回答に補足します。

私は『文藝春秋』2006年7月号の佐藤元英の記事「外務官僚たちの真珠湾攻撃―消された最後通牒の謎」を読みました。記事の筆者は、昭和天皇の「開戦の詔書」が米英に対する開戦宣言の通告とみなされるべきものであると主張します。しかし、筆者はとんでもない大間違いを犯しております。

昭和天皇が煥発した昭和16年12月8日付「開戦の詔書」の冒頭には次のように書かれています。
「天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス。
  朕茲ニ米國及英國ニ対シテ戦ヲ宣ス。
  朕ガ陸海将兵ハ全力ヲ奮テ交戦ニ従事シ、朕ガ百僚有司ハ励精職務ヲ奉行シ、朕ガ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ尽シ、億兆一心國家ノ総力ヲ挙ゲテ征戦ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ・・」

つまり、易しく言えば、

「私、大日本帝国天皇は、国民に対して次のように告げる。
  ここに私は、米国及び英国に対して戦いを宣言するものである。
  軍の将兵は敵国との戦闘に全力を尽せ。役人たちはその職務に励み勤め、銃後の国民もそれぞれの本分を尽くせ。全日本人は心を一つにし、戦争目的を達成するために国家の総力を挙げて”勝利”を期して欲しい・・」

この開戦詔書のどこをどのように読めば、外国に対する「開戦の通告」(=外交文書)になるのでしょうか。前記の筆者の国語力を疑います。明治以後、昭和初期までに天皇が煥発した詔勅とか詔書というのは、国内向けのものであって外交文書ではないのです。筆者(○○大学教授?)は、このような基礎知識さえ持っていないのです。
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この回答へのお礼

補足をありがとうございます。

外国向けの宣言ではなかったのですね。
結局「宣戦布告」はアメリカに対してもイギリスに対しても行わず、
事前(予定では)通告と事後通告を行っただけなのでしょうか。

やはりいくつかの回答である様に、中国を巡って、あるいは
ドイツと同盟していたため、既に対立、実質的に戦争状態
だったために宣戦布告の必要性を認めなかったのでしょうか。

お礼日時:2008/08/11 11:37

『文藝春秋』2006年7月号の「外務官僚たちの真珠湾攻撃―消された最後通牒の謎」


中央大学教授・佐藤元英氏の投稿記事に詳しく解説されています。
私は、この記事に納得していますが、異論や反論の有無は存じません。

以下、記事の要約です。
東郷茂徳外相は、12月8日、朝7時半になって、ジョセフ・C・グルー米大使
およびロバート・クレーギー英大使をそれぞれ外務省に呼び、ワシントンで
ハル国務長官に手渡したのと同文の対米「覚書」(英文)の写しを手渡した。
東郷自身、終戦後、これは「宣戦の通告を手交する為めではなかった」と述べている。

さらに記事の要約です。
 国際的にも国内的にも認められた日本の宣戦布告は、11時40分に渙発された
「詔書」となり、日本政府はそれ以前になんらの国際的開戦宣言を行っていない。
「詔書」には明確に「朕茲ニ米國及英國ニ對シテ戦ヲ宣ス」という文言がある。
「詔書」こそ開戦宣言の通告とみなされるべきものである。

この記事は、ハルに手渡された「覚書」が、国際法上、宣戦布告の意を含む最後通牒
だと言えるのだろうかという疑問から始まっています。
執筆者は、12月3日付の「覚書」原案には、当初、宣戦布告を含む文面が盛り込まれていたが、5日付文書では宣戦布告の文面は消え、さらに6日付最終文書では、単なる交渉打切りの対米「覚書」に修正されていること、さらに、形式的にも閣議決定、上奏、裁可の手続きを経ることのない異例のものであるとし、この「覚書」が最後通牒とは言えないとしています。

そして、最初から無通告開戦を企図していたのだから、ハルへの「覚書」手交が遅れたことなど、外務官僚にとってはさしたる問題ではなかったはずだと結論しています。
そう言えば、戦後、この「手交の遅れ」の責任を追及した人がいましたが、不問ということで決着したと、何かの本で読みました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

私が無知だったために区別がついていなかったのですが、
昭和天皇陛下の詔書こそが宣戦布告だったのですね。
(この詔書はラジオ放送でしょうか)

在米日本大使館がハル長官に手渡したのが事前(予定では)通告、
東郷大臣が在日英米両大使に手渡したのは事後通告となるのでしょうか。

外務省は奇襲を完全に成功させるために事前通告をしたくなかったのでしょうか。
しかし開戦前に手渡す予定だった文書をあらかじめ読んでいた
アメリカ側は「これで戦争になる」と認識していたようです。
外交断絶だから、実質上の事前通告にはなったと思います。

ハルノートが形式的には最後通牒ではなくても、
ハルが「これで戦争になる」と認識していたので、
やはりこれも実質的には最後通牒になったと思います。

お礼日時:2008/08/11 11:33

この問題に関する私の見解は次の通りです。



日本と支那(中国)は昭和12年7月以来、戦争をしていました(支那事変)。当時の日本の軍事力は5大国の一角を占めており、支那の軍事力などものの数ではなく、支那事変は短期間で日本勝利のうちに終るはずでした。

ところが4年経ってもどうにもなりませんでした。最大の原因は、米英が支那(中国国民党政府、蒋介石政権)に大量の武器援助を行ったからです。米国は支那への軍事顧問の派遣も行いました。つまり、米国も英国も中立国ではなかったのです。

その場合、国際法上は、日本が米国や英国に戦争を仕掛けるに先だって宣戦布告(=事前通告)する必要はないのです。いつ、攻撃を開始しても良いのです。

ところで昭和16年12月8日(日本時間)、日本はアメリカに真珠湾攻撃開始30分前に宣戦布告する予定でした。予定通りに行かなかった事情は皆さんがご存知の通りです。(前日夜、ワシントン市内の中華料理店で、大使館員らが総出で同僚の寺崎英成の転勤送別会を夜更けまで行ったので、本省(外務省)から入電した電信に気づくのが何時間も遅れた!!だから、日本人のタイプの速度では間に合わなかった!)

米国への事前通告が不要なのになぜ、アメリカに事前通告しようとしたのかというと、連合艦隊司令長官の山本五十六(元帥)がアメリカへの事前通告を主張したのです。事前通告の準備をしていなければ「通告遅れ」という問題も発生しなかったのに、と思うと、山本という人は不愉快です。

なお、イギリスに対しては事前通告はしておりません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

日本が中国に宣戦布告をせず、戦争と名づけずに
「シナ事変」としたのは、アメリカの中立を
守らせるためではなかったでしょうか?

事実、アメリカはシナ事変後も日本への輸出を続けていました。
つまりアメリカは確かに中国への軍事援助もしていましたが、
必ずしも日本と戦争状態にはなかったと思います。

お礼日時:2008/08/11 10:59

「宣戦布告」と言う言葉が一般的に間違って使われていますが、「宣戦布告」の正しい意味は、「わが国はXXX国との外交において、国際法で認められた手段である戦争を開始する(開始した)」と、自国民や第三国に告げることです。

 一般的に戦争相手国に開戦する旨伝えることと誤解されていますが、それは「開戦通知」と言う言葉の方が正確でしょう。 正しい意味の「宣戦布告」は国際法で義務付けられていますが、「開戦通知」は国際法上の義務では有りません。 歴史上もこの「開戦通知」無くして始められた戦争は多々あります。 よって、真珠湾はだまし討ちだと言うのは、米国の難癖でしかありません。 又、日本人自身が、真珠湾攻撃以前に開戦の通知が米国に届かなかったことを恥じるのは、マッカーサによる日本人貶め政策の成果です。 ところで、ご質問の、英国への開戦通知の件ですが、日本は英国に通知を行ってはいません。 日本の同盟国であるドイツが英国と開戦した時点で、日英間も事実上交戦状態に入っていました。 
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
日本は1940年から英国と戦争状態だったのでしょうか。
戦争状態といっても、1941年までは在日イギリス大使は
日本にいたんですよね。確かそうだと思ったのですが…。

事実上戦争状態にありながら、1940年のうちにシンガポールを
攻めなかったのは、結局アメリカを気にしていたんですね。
だから真珠湾攻撃とマレー攻略が同時になったのですね。

お礼日時:2008/08/06 14:08

事前の宣戦布告はなかったようです。


過去に似たような質問がありましたので、参考になるかもしれません。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2510454.html

今手元にないのではっきりとは確かめることができず申し訳ないのですが、半藤一利氏の「真珠湾の日」では、
(もともと開戦後の宣戦布告の予定で)開戦後に英国に文書を手交した
という記述があったように記憶しています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。半藤氏の本は何冊か持っているのですが、
その本は持ってないですね。今度書店で見てみます。

お礼日時:2008/08/06 13:51

過去の質問例です


http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2510454.html
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
英国への宣戦布告はなかったようですね。

お礼日時:2008/08/06 13:48

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