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以前、精神科の先生の講演に行った時、生きるエネルギーが少ない人がなる鬱病(なんとなく一般イメージに近い)とパワフルな人がキャパを越えてなる鬱病があるという話を聞きました。
今の彼女と女性の友人が鬱病なのですが、二人ともパワフルで能力が高い(彼女は国費で留学をし、女友達は20代で年収一千万を越えている)ので、パワフルな人がなる鬱病だと思います。専門家の方に質問をさせていただきたいのですが、このような鬱病の種類の概要とパワフルな人がなる鬱病の場合特に留意すべき事をご教授ください。よろしくお願いいたします

A 回答 (4件)

私は素人ですが興味ある話なので参加させてください。

私は神経症というものを完治した者です。その事で判った事を言ってみます。神経症というものがあります。これは心の矛盾から『症状』がでて来ます。是はパワフルと言う事が原因でも有ります。それは「自我」が強い事と本人が持っている『生命力』が強いことによると考えられます。

神経症の元となっているものは「人生に対する恐れ」と云っても良いかと思います。これは『宗教家』にも通じています。『死』を恐れている事が原点かもしれません。そうして『不安』に苛まれるようになります。そうして悩み苦しみます。

その『悩み苦しみ』というものを神経症が完治した立場、経験から云いますと、精神疾患の症状は『心の対立と矛盾』の産物と言えます。心が対立と矛盾を起こしていると言う事から推し量っていただきたいのですが、一つ目の心とは『自我意識』の事です。もう一つの心とは『無意識の意識』の事です。是は『命そのものの意思』と云っても良いものです。

どんな動物でも何も教えなくても全て備わっています。何も教えなくても生きてゆけます。元々人間にも備わっているものが有ります。そうしてこの意識にも人格が有ります。そうして考えが有ります。

心の矛盾によって考え方の違いを『自我意識』に教えようとする事が『精神疾患の症状』とも云えます。自我意識には何の事か判りません。それは罪悪感として違和感として又生き難い想いであったりします。

是は人間の生活や考え方が『論理的に』偏っているとも云えます。論理的に行きて行こうとするときに『行きずまりや限界』が有ると言う事を教えようとしています。心がいきずまる状態と言えます。心が晴れない感じと言う事です。その感じから『精神疾患』『一切皆苦』ということになります。

悩みが有って直ぐに乗り越えられる人もいます。これは『健常者』と一般に言われている人達です。ですがこの事が意識から離れられなくなってしまう人達が居ます。後者が「精神疾患」になった人と言う事になります。

心の対立と矛盾の「最大なものは」自分の死を意識する事と言えます。そのときの自我意識は『最大の危機を迎えた』ともいえます。これほどの事は他に無いからです。その時の自我意識が感じる『症状』が精神疾患の最大の症状とも云えます。

この事が起こる訳は『自我意識は死にたくない、生きていたい』という事です。言葉を替えたならば『永遠の命が欲しい』とも云えます。その時のもう一つの意識は『人間の肉体は滅びても魂は永遠に滅びないのだよ』と言う事を教えようとしていたのです。

その手を遮っている事が苦しみです。『自我意識』が『自分を捨てる事が出来たなら』それが大死一番です。悟りです。自我意識と生命の源の意思との対立と矛盾を『苦しみ』として感じていました。是で『対立と矛盾』は解消されました。是が『涅槃』と言われている所の『絶対の心の静寂』です。仏教も禅も『精神疾患』から完全に開放させてくれる『精神療法』といえます。

この事は強すぎる自我と強すぎる生命力との対立と矛盾が生み出したものと言えます。悩みの少ない人はその強さが丁度良いともいえます。かつての宗教家達は『不安を感じやすい』人とも云えます。また自我の働きと生命力の働きが強かったともいえるかと思います。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。非常に崇高な文章で意味のすべてとらえることは難しかったです。何点か自分の状況に即した等身大なところで質問をさせてください。「心の矛盾」という点で言葉の意味そのものが違うかもしれませんが私も感じるところがあります。誤解を恐れず発言すると彼女たちは自我が強く、一般で言うわがままなのではないかと(当然その点を含めて私は彼女たちを愛しています) その性格とままならぬ社会との間で消耗するのではないか。tumaritou1さんはどうお考えでしょうか。話は変わり私の個人的興味ですが、私は死を恐れる気持ちというのが実ははわかりません。幼少の頃より死は必ず来る生の一部のような存在です。死があるから、限りある時間だからがんばろうと思い自分を鼓舞してきました。有限な時間だからこそ生きてこれたようにも思います。生命力の高い方は全く違う感覚なのでしょうか?またその点で矛盾に苦しまれている方は多いのでしょうか?なにかお話をお聞かせいただけたら幸いです

補足日時:2008/07/16 00:47
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NO2です。

おはようございます。

>私などは眩しいくらい生きる力に満ちています。二人とも社交的で話がとてもうまく友人も多い。彼女が、友人が鬱病になるに至ったのだろう病因はなんだろうと思い質問させていただきました。

彼女達は、うつ病(と診断されているのですよね?)になってからどのくらいの日数が経っているのでしょうか?あなたのおっしゃる上記のような方達がかかる病気に、うつ病とは似て非なる病気(?)が存在します。本人が努力をすればするほど症状の悪化が危ぶまれる状態が生じます。
そして、元気になる。また調子が悪くなる。これの繰り返しで、結果として、数年前の彼女より、人間的にも、技術的にも数段UPしているという現象があります。
彼女達の過去を振り返ってみられて、どのように感じていらっしゃいますか?
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この回答へのお礼

友人の事は詳しくはわかりませんが、彼女に関しては海外留学中に発病。自分が怠けていると思い病院に行かず、診察を受けた時には酷い状況で、その後2年程度家で引きこもり状態。その期間に自分で勉強し著名な先生と出会い回復。今は睡眠薬程度といった状況です。ただ、まだまだ端から見ていると波があり危うさを感じます。病気になる前の段階でテレビで少し取り上げられる程度のその分野では名が少し世に出ている存在でした。当時の映像を見ると若いこともあり今より快活で影がなく幸福そうに見えます。鬱病が遺伝的な要因がないとすればそんな彼女の病因はなんだろうか?と思います。もちろん苦しみは本人にしかわからない事ですが何が彼女を苦しめたのかなと思います。そして有能な大学時代からのつきあいで性格をよく知り、様々な面で彼女とよく似ている友人が同じように鬱になった事で疑問を持ちました

お礼日時:2008/07/17 21:40

誤解を恐れず発言すると彼女たちは自我が強く、一般で言うわがままなのではないかと(当然その点を含めて私は彼女たちを愛しています) その性格とままならぬ社会との間で消耗するのではないか。

tumaritou1さんはどうお考えでしょうか


>>>お釈迦様は王様の子供です。当然我儘に育てられたと考えられます。道元も貴族の出です。我儘に育てられても、自分の中に『このままではやってゆけない』と言う風に教えている者が居ます。仏教では『仏性』と言います。キリスト教では『神』と言います。

悟りを開くと言う事は、自分で自分でも知らない自分に会うと言う事です。仏教徒なら『仏』に会うという事です、キリスト者なら「神と和解する』という事になります。

神仏とは人間の右脳に在る人格の事です。自我意識は左脳に在る人格です。人間が自我意識だけで世の中を渡ってゆく事は無理が在ります。神、仏と言われるように、是は完全な存在です。先の見通しなども立てることが出来る者です。

例えば『結婚』を決めるのは右脳です。直感です。論理的にこの人と結婚した場合はどうか?と考えて決める訳では有りません。絶えず二つの意識は相談しあって暮らしています。貴方の場合は二つの意識が矛盾し難くなっているのでしょうか。是は『子供の時に我慢して、泣きながら大人になった人』と言えます。

彼女達は子供の時に『泣きながら』大人になった経験が少なかったと思います。そうした場合に『大人に成ってから泣く事が多くなるとも言えます』是は私の想像です本当かどうかは判りませんが。

少なくとも私の場合はそうでした。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。深いお話で参考になります。右脳左脳はちまたで言われる顕在意識と潜在意識に置き換えられるでしょうか?お話はとても理解できます。賛意の上でお話しますと、「子供の頃我慢して泣いていないから大人になって泣く」それは一つの事実だと思います。それをふまえた上で彼女を見てみると「親に対してよい子を演じてきた子」というようなところがあります。子供の精神衛生上良いハズはないですが少なくとも我慢をし、泣いた経験は多いのでは?と思ってしまいます。それともこの場合は親と一心同体になってしまい、そのような経験も取り上げられてしまうのでしょうかね。なんだか当然ですが心は難しいですね

お礼日時:2008/07/17 08:00

>このような鬱病の種類の概要とパワフルな人がなる鬱病の場合特に留意すべき事


私もうつ病等、精神疾患経験者で、現在、完治しました。
あくまでも、ひとつの意見としてご判断頂ければ、幸いです。分かりやすく説明してみます。

一般的に、精神疾患にかかりやすい方は、「心の想い(自己の意思など)」を言葉として対峙する相手に伝えることが出来ず、葛藤(さまざまな想いが心の中でからみあう状態)が生じます。その葛藤を抑圧(不快な感情などを無意識のうちに心の中に押し込めて意識しないようにすること)することで発症する方が多いようです。具体的に、葛藤とは、本音の部分で「俺は、こう考えているのにあいつは何だ!」、「いったい何様のつもりだ!」「どうしてだ!」、「畜生!」、「いい加減にしろ!」などです。よくある顕著な例として、不仲な上司と部下の関係、また、不仲な夫婦関係もそうですね。このような想いは、顔や言葉として表面に出すと業務や日常生活に支障をきたすので、不快な感情を抑圧して何事もなかったかのごとくに(建て前で)振る舞います。ここに本音と建て前のギャップが生じます。

現代は、いろんな意味でストレスという言葉が独り歩きをしています。どこへ行ってもストレスだらけです。でも、ほとんどの方が、何がストレスなのかが分からないようです。家庭や職場でも、誰にでも生じる「不快な感情」を「心の缶詰」に押し込め、封印をします。押し込めば押し込むほどその缶詰はバンバンに膨れ上がり、いつ爆発してもおかしくない状態になります。つまり、別の言い方をすると、一時休止している活火山と同じ状態なのです。

一般的に言われている神経症にかかりやすい人というのは、責任感が強い人、几帳面で真面目な人、気が優しい人、神経質な人、内気の人、感情的な人などがあげられます。つまり、これらの性格を持った方というのは、「物事に対して敏感な人」だからといえるでしょう。他方、「こだわりや思い込み」の激しい方も上げられるでしょう。真面目で責任感が強く敏感だから、真剣に悩み、真剣にこだわるのです。そして、これが抑圧につながるのです。パワフルであろうとなかろうと、結果として、葛藤の抑圧が生じるから精神疾患にかかるようです。

私が感じている精神疾患の発症原因は、広義として、基本は同じ(葛藤の抑圧)だということです。ただ、その葛藤が生じる要因は個々様々ですが、結果として、葛藤が生じている訳ですよね。どこに目を向けるかだと認識しています。その葛藤の要因(怒りや不快感の強弱等)によって、どこにどんな症状が出てくるかが違ってくるようです。

(1)パワフルであろうとなかろうと、まず、自分の置かれた立場を見つめること。つまり、資本主義社会では、必ず、主と従の関係が発生します。どこの企業であろうとも同様です。経営者でない限り、命令は守らなければなりません。そのことを強く意識してください。そうすることで、自分の置かれた立場が理解でき、また、反省が生まれます。(それが嫌ならば、自分がオーナーになってください。)
(2)誰もが経験しているはずです。嫌な感情を親しい知人等に吐き出すと楽になります。
(3)スポーツマンにうつ病の方はほとんど見かけないようです。それは、仮にストレスがあっても体を動かすことでイライラをうまく発散できているからと思われます。適度な運動は、ストレスを発散させてくれるようです。

自分の置かれた立場が理解できないと、後悔の念(強いマイナスの想い=これが精神疾患発症の源)で溢れることになります。「あーでもない」、「こーでもない」など、不平・不満、不安、怒り、後悔など。つまり、「馬鹿やろう」であり、「なんであいつばかりが…」であり、「もう嫌だ」なのです。そこが理解できれば、反省が生まれ、前進(強いプラスの想い)につながります。

心と身体は、密接につながっているというのが持論です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。ご指摘な点が鬱病のほとんどの原因だと私も理解できます。ただ、彼女と友人の二人に共通して「思考の言語化」が非常にうまいのです。必要な言葉を最適な形で人に伝えることができます。そこが私が一番に尊敬する点でもあります。また彼女については告白は彼女からしていただいたのですが「気持ちを伝えることは悪い事とは思わないから…」ととても自然体でつきあってみたいなと私が思った部分です。そして私などは眩しいくらい生きる力に満ちています。二人とも社交的で話がとてもうまく友人も多い。彼女が、友人が鬱病になるに至ったのだろう病因はなんだろうと思い質問させていただきました。

お礼日時:2008/07/16 21:45

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