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ニュースでたびたび登場する靖国神社問題について質問です。
私の靖国神社の認識としましては、明治維新から太平洋戦争までで国のために命を捨てた人、空襲などで亡くなった人、軍の命令に従わなければならなかった兵士といった人たちに敬意を表すために明治天皇の意向で建てられたものだと考えています。特にこれらの亡くなった人たちを神として崇めているわけではなく、簡単に言えば特別なお墓だと考えています。
(1)まずこの認識はあっているでしょうか?

(2)さて次に聞きたいのが中国や韓国ではこの靖国神社が学校でどのように教わっているかです。聞くところによると靖国神社はA級戦犯を祀るために建てられた、軍国主義を賛美する建物だと教えられていると聞きます。実際には学校でどのように教えられているのでしょうか。

(3)日中戦争の南京やその他の地方での虐殺、韓国での皇民化政策(創氏改名、日本の天皇崇拝の強要、神社参拝の強要、日本語教育の強要)が行われていたことは事実だと思いますが、日本の教科書では詳しく載っていません。これは日本では事実を確認する記録などがあまりないからなのでしょうか?事実がいろいろ錯綜しているとも聞きますが、このあたりのことが詳しい方、是非教えていただきたいと思います。

(4)靖国神社はもともともともと東京招魂社という名前だっとそうですがなぜ神社に格上げされたのでしょうか。神社としてしまったのは海外からは誤解を招く要因になる思います。

(5)そもそもA級戦犯、BC級戦犯の戦争犯罪者はどうして靖国神社に祀られてしまったのでしょうか。

(6)中国、朝鮮の植民地時代は軍部が政府を無視して暴走して南京などで虐殺をしたということを聞いた気がします。(よくわかりませんが)
 もしそうだとすると確かに東条英機らの政府は悪いわけですが、諸悪の根源は日本軍を指揮していた軍幹部ということにならないでしょうか?

質問が多くて申し訳ありませんが、中国、韓国との歴史認識の違いという点でも大事なことだと思います。わかる項目のみでかまいませんからご回答よろしくお願いいたします。

A 回答 (12件中1~10件)

(6)


 直接原因は、日本の国力を無視した戦線拡大による補給の不足が根本原因と思います。捕虜や不審者を捕まえても食べさせていくだけの補給がなかったことが多発し、前線兵士の食糧の現地調達が常態化していました。 
 根本原因は、日本の政治システムに軍の暴走を止める機能が欠如していたことでしょう。

 日本の国益と言う視点から、軍事・外交を統合した『戦略』が必要ですが、各部門の中堅幹部が各部署での最善を求めて「観念的な行動」をとって戦争を拡大してしまい、当時の日本の国力で実現可能な範囲を逸脱した軍事行動を取り、国民を不幸のどん底に落としてしまいました。

・具体的に・・・細かく長くなりますが・・・
 満州事変と支那事変(日華事変・日中戦争)は、ある点で性格を全く異にしています。

<日本の政権構造と満州事変・日華事変・太平洋戦争(=対米戦争)の詳細経緯>

 戦前の政治体制では、軍(皇軍=天皇の軍隊。陸軍=参謀本部、海軍=軍令部)と内閣(=行政府)は同格の存在として、天皇の下に並立しています。(統帥権の独立)
 明治・大正時代までは、枢密院が天皇の補佐として実質的に日本の政治・軍事を統括した国政の主導機関として機能していましたから、並立する軍・内閣を統合するシステムが存在・機能していました。

 ところが、昭和になると枢密院の権威の低下と(枢密院は事実上、その構成員の個人的力によって動いていました。明治時代の枢密院のメンバーは、明治維新の立役者であり、倒幕軍の指揮官を経て新政府の高官となった人が多く、軍・政両方に幅広い人脈を持ち、両者を統括する力を持っていました。)、天皇自身のリベラルな考え方(美濃部達吉の天皇機関説とほぼ同じ考えを持っており、御前会議では、ほとんど異議を唱えませんでした。例外は2・26事件と終戦の決断の二つといわれています。)の結果、軍と行政を統合した国際的視野を持った政治判断が失われてていきます。

 この、政治=外交と軍事を統合する視野を欠いたまま、満州事変・支那事変(日華事変・日中戦争)が起こっていきます。
 ですから、中国本土への介入が日本と言う国家にプラスであると言う判断なしに、支那事変が起こり継続されたと考えています。

・満州事変
 「石原莞爾」という特異な才能の元で、演出されました。

 上に述べたような政治状況の中で、政府・参謀本部ともに「満州では、張学良と極力事を構えない。」方針でした。(満州の軍閥、張学良の兵力は、満州に駐留している日本軍の10倍あるといわれていたからです。)
 ところが、満州派遣日本軍(=関東軍)の参謀であった石原莞爾・板垣征四郎が、この方針を無視して軍事行動を起こし、張学良軍を電撃作戦で圧倒、軍事作戦としては大成功をおさめ、満州を占領してしまったのです。
 この大戦果に、参謀本部・日本政府ともに関東軍の軍事行動を追認し、満州国建国に至ったのです。(ここまでは、石原莞爾の戦略通りの展開となりました。)

 その結果、石原は陸軍同期の中で最も早く大佐となり、陸軍内部で「軍参謀は中央の方針に反しても、作戦で戦果を挙げれば、出世する。」という認識が生まれることとなりました。

 石原莞爾は、満州を取って「日本・朝鮮・台湾・満州を日本の経済圏として開発することに専念すれば、アメリカに対抗できる。」との見方を持っており、そのための戦略として、満州を勢力下に置いた後は、他国との軍事衝突は外交力を総動員して回避し、軍事費を抑え経済開発に専念するというものでした。

 国際連盟では、リットン調査団の報告にもかかわらず、常任理事国である日本の行動を容認する意見も強く(第一次大戦後の国際的な厭戦気分が影響しています。当初、ドイツもこの傾向を利用して、英・仏と戦うことなく国土の拡大を行ないました。)、石原莞爾の思惑通り事態は進むかと思えました。
 ところが、国際連盟で討議している最中に、日本軍が満州から中国に侵攻を開始(熱河作戦)し、面子をつぶされた国際連盟の諸国の態度が一変します。

・支那事変(日華事変・日中戦争)
 石原莞爾は、1937年の日中戦争開始時には参謀本部作戦部長となり、内蒙古での戦線拡大(熱河作戦以後)に作戦本部長として、中央の統制に服するよう現地にまで出かけていって現地軍指揮官の説得に勤めましたが、かえって現地参謀であった武藤章に「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と嘲笑される結果となりました。
 戦線が泥沼化することを予見して、石原は不拡大方針を唱え戦線の拡大を抑えようとしましたが、当時関東軍司令長官東條英機ら陸軍中枢と対立し、1937年9月には参謀本部から関東軍に左遷され、支那事変は継続していきます。

 日中戦争を開始した中国派遣軍参謀を評して、石原は「鵜の真似をする烏」と言ったらしのですが、過去の自分の行動が影響を与え、石原の戦略は崩壊することとなって行きます。

・満州事変の性格と支那事変の性格
 高校の日本史の資料・年表程度のものに目を通せば、その実態が分かります。

 満州事変(1931年)当時の日本陸軍の総兵力は45万程度で、「電撃戦での勝利」であったため、兵力・日本経済には大きな影響を与えていません。

 支那事変が、1937年7月に起こり、在留邦人保護と言う名目で継続され、1941年12月には、真珠湾攻撃を行い、アメリカとの戦いに入っていくのですが、それらの時点での主な統計数字を見れば実態が見えてきます。

 真珠湾攻撃をする直前の、日本本土・満州・中国大陸にある兵力は約190万(支那事変後に急激に増え、満州事変前の4倍になっています。参考:現在の日本=人口12000万の陸上自衛隊約16万、中国=人口13億の人民解放軍陸上兵力170万{誤差は大きいかもしれません}程度。)は、とんでもない数字なのです。
 対米、南方作戦のために、その後も更に兵員の数だけは増えていき、終戦時には、更に増え650万だったそうです。女性・子供・老人を除外した成年男子に対する軍人の割合を考えれば、国家経済が維持できるはずもありません。

 これだけの兵士を、生産を行わない「軍人」として動員したため、日本の戦前の各種工業生産力は1937年をピークに減少・横ばいを始めます。
 さらに、1938年には国家総動員法・1940年には食料の配給制が国内で始まります。

 アメリカとの戦いを始める以前に、中国との泥沼の戦争で、国力の大きな消耗が起き、顕著に国民生活を圧迫しているのです。

 政治が「軍」をコントロールしていれば、工業生産力を低下させてまで長期に戦いを続けることは考えられません。国益に明らかに反していて、無意味な消耗ですから。

 そして、中国側の焦土戦術(決戦をしないでどんどん内陸部に主力を交代させる戦略)によって、 中国側は「負けなければ勝ち」なのに対し、日本側は「勝たなければ負け」という、抗戦側の理論と侵攻側の理論のギャップで、戦闘を中止して撤退すれば『負け』という状況となっていました。
 
 『負け』ないためには、戦い続けるほかに方法はなく、アメリカから石油禁輸をされた日本(当時の日本産業の動力源は石炭。輸入石油の半分は軍が艦船・飛行機・車両の燃料として消費していました。)は、結局、中国からの撤退か、西太平洋の制海権を手に入れて、オランダ(既にドイツによって占領され、独立国家として機能していませんでした)の支配する領インドシナの石油を手に入れるかの選択となったのです。

 戦場では弱者に被害が続出します。欧米に比べて補給の能力が十分でない日本軍・中国軍と中国民間人が混在した戦場では、民間人に被害が多くなったということなのです。
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この回答へのお礼

物凄くくわしく書いていただき大変感謝しております。とても参考になります。

お礼日時:2008/06/24 03:19

(3)について。


 ナショナリズムは、民族を統一してまとめ上げる段階では、重要な道具となりますが、民族国家が成立し成熟した段階では、更なる発展を阻害する要因となりかねません。

 日本は、明治維新以後にナショナリズムを鼓舞し、薩摩・長州など藩の枠を破壊し民族国家として成長しました。
 ヨーロッパは、現在民族国家の枠を超えて、ユーロ経済圏を育てようとしています。
 それに対して、中国・韓国はナショナリズムの成長は、実質的に日本より80年送れた戦後の教育から始まり、未だに地域の意識格差が存在します。
 また、韓国・中国共に冷戦の名残によって、同じ言語を使う二国が並立していますから、統一に向けたナショナリズムの鼓舞をやめるわけにはいきません。

 韓国の場合、歴史を客観的に見て記述すれば、韓国文化・経済・社会を破壊した最悪のものは、「朝鮮戦争」と言うことになります。また中国も日本軍の撤退後、国共内戦を戦っています。

 しかし、民族統一を悲願とする以上、同じ民族同士が戦った記憶を封印するために、北朝鮮と韓国が同じ立場を取れる、中国本土と台湾が同じ立場を取れる、直近の「敵」をクローズアップすることが一番簡単なのです。

 現在の政治的必要性から、「ナショナリズム」を扱う以上、日本と戦った・日本に支配されたと言う出来事を過去のものとし、客観的に扱うことは出来ません。
 もし客観的に扱うなら、韓国にとって北朝鮮が最悪の敵ということになり、民族統一がありえなくなってしまいます。
 朝鮮戦争を過去のものとし、日本の支配を最近まであった生々しいものとすることで、「民族統一」が可能となる事情が朝鮮側にあります。

 中国の場合、国共内戦は日本の侵攻に比べれば、比較的ましなものでしょうが、中国としての特殊事情、「一党独裁の正当化」教育が存在します。
 現在も一党独裁を続けている以上、その根拠である「本気で日本と戦ったのは中国共産党」と言うプロパガンダを、子供が如何に生々しく感じ取るかが重要になります。

 つまり、中国・韓国ともに、現在のところ、「大日本帝国」を過去のものとして客観的に国民に教育することが出来ない国内事情があるということです。 

 
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この回答へのお礼

とてもわかりやすいです。投稿ありがとうございました。

お礼日時:2008/06/24 03:21

 いくつかの回答についての訂正と確認。



・南京大虐殺について中国側が挙げている数字は、3万人ではなくその10倍の30万人です。
・正力松太郎氏が内務官僚をやめたのちは、朝日新聞ではなく読売新聞の社主となりました。

 このネットの回答など「南京大虐殺」の状況について独り歩きしていると最近感じています。

 まず事実認識として、「南京大虐殺」というのは、数日間という短期間に殺しまくったのではなく、日本軍の占領下で「長期に渡って、中国人捕虜・民間人が殺された。」という状況を言っています。

 南京を占領した一部隊指揮官の手記(日本の陸軍士官学校では、日々記録をとることを重視・教育しました。各部隊指揮官が上位の組織・指揮官に報告する場合の基礎資料とするためです。ですから、現場指揮官の戦場手記というのは、報告書よりも資料性が高いと思われます。)によると、連隊約3000人が一日警備をして不審者を数十人~十数人、便衣兵ではないかと捕まえる日々が続き、そして約3ヶ月の間に千数百人を処置(処刑というような直接的表現ではなかった。)したという記載でした。

 秦郁彦教授(元は日本政府官僚)は、このような原資料・それに近い資料を精査して、総計数万の死者と結論しています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E9%83%81% …

-付記-
 中国人が日本軍占領下で、当時としては珍しい高価なカメラを所持して外を出歩いていればいれば、間違いなく不審者・スパイとして捕まります。中国人の撮った南京大虐殺の写真というものがあるはずがありません。南京大虐殺の写真というものは、虐殺があったかなかったかにかかわらず、でっち上げです。
 『写真のでっち上げ』は一党独裁を続ける「中国共産党」が、その独裁の正当性を国民に植えつけるために、「日本軍と戦ったのは、共産党だけ」というプロパガンダを視覚的に印象付けるものが欲しかったからです。(文章より遥かに効果的。子供でも分かります。)
 
 このでっち上げの揚げ足をとって、虐殺そのものもなかったというでっち上げをしている日本人でてくる始末で、どっちもどっち。

 理由なしに殺された人も、補給物資が不足する中で長期に大勢の外国人の中で占領地を警備する兵士の苦悩・恐怖(イラクからの帰還米兵の約3割が精神的後遺症があり、アメリカに戻っても回りの人がみんな敵に思える人もいる。アメリカのように補給・軍事力が圧倒的であってもこのざま。当時の日本兵の心情は想像できる。)も、まるで無視されています。
 戦争の教訓を我々が汲み取らなければ、彼らの流した血と汗は無駄になってしまいます。

<参考>
 私は軍事独裁国家に企業から派遣されているとき、休日に空港で事件があった所に出くわしましたが、自動小銃の安全装置を外した警備の兵士の前で、その事件の写真を撮る勇気はありませんでした。
 命を取られる事はないでしょうが、最低でもカメラの没収は覚悟しなければなりませんし、ビザの停止・強制送還の可能性もあり、日本に帰れば上司に馬鹿よばわりされ、左遷されかねません。

 日本側が取ったものでなければ、虐殺の写真が簡単に手に入るものではないということは、明らかでしょう。

<参考>中国の公的な南京虐殺研究者の論:かなり冷静と思います。
(政府の面子に配慮した論ではありますが。)
http://www.pekinshuho.com/yzds/txt/2007-12/14/co …
<<・・・現在、大虐殺の受難者が30万人であることを認めない人が一部にいますが、これについてはどうお考えですか。

張教授 先ず、数字はこの事件では最も重要な問題ではありません。・・・・・それを正確に統計できるいかなる文字資料も残っていないのです。・・・・>>
 
 長いので省略しました。原文に当たられることをお勧めします。
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この回答へのお礼

参考になります。投稿ありがとうございました。

お礼日時:2008/06/24 03:20

 日本人数百万が死んで国土が焼け野原になった戦争について、どういう性質の戦争であったか知ることは、日本の将来に対する選択に大きく関係しますし、亡くなった日本人・他国の方々に対する鎮魂の意味もあります。


 長くなるので3回に分けて記載します。

(1)について。
・国家神道の成立とその歴史的経緯
 江戸時代、神道と仏教はかなり一体化していて(神仏混合)、日本の神と仏の本質は同一という考え方がかなり普及していました。

 ところが、明治維新で欧米列強と対等の国家運営を目指したとき、明治の指導者は欧米において「キリスト教」が、その進んだ国家運営の倫理・価値観の根幹を成しており、『宗教観の統一』が必要であると考えました。
 そこで、仏教と神道を分離し、神道を国家の宗教的価値観の中心にすえることにしました。
 その国家神道の中でも特異な位置を占める神社として「靖国神社」が成立したわけですから、『墓』という仏教的な位置づけのものとは、異質なものとして取り扱われました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%83%E4%BB%8F

・靖国神社問題の韓国・中国での意味。
 政治的な本質だけを言いますと、対韓国と対中国では少し異なります。

・韓国の場合:参拝そのものが問題
 戦前、日本に併合されていた時期には、朝鮮半島にも靖国神社(ごこくじんじゃ:やすくにじんじゃの分社)があり、朝鮮総督などが参拝する公式行事が行なわれていて、日本による朝鮮統治の一部でした。
 そのような過去があるため、日本政府高官が今も靖国神社に参拝することは、日本政府が現在も日韓併合時代を肯定していると韓国人は認識し、反感が表に出てきます。
 
 これは、韓国人の個人的ナショナリズムに根ざしているので、根本解決は困難です。


・中国の場合:A級戦犯合祀が問題→A級戦犯の分祀で解決可能。
 日中国交回復の交渉において、日本と中国は
「日中戦争の責任はA級戦犯にあり、日本国民に戦争責任はない。日本国民もまた戦争の被害者である。」という論理を使うことにより、中国の戦争賠償請求の放棄を妥当なものとし、国交回復に至りました。

 ところが、靖国神社にA級戦犯が合祀されていることが明らかになり、日本の政府高官が靖国神社に参拝したのでは、日中国交回復の前提となった理論が破綻するので、中国政府が内政的に問題を生じてしまうという形になっています。

 中国政府の内政的問題
 中国は共産党の一党独裁政権で、「日中戦争時に日本と本当に戦ったのは共産党だけ」というものを、子供のときから教育することにより、独裁政権の成立根拠としてきています。
 日本政府高官がA級戦犯の合祀されている靖国神社参拝をすることは問題ないと認めたならば、『一党独裁』の根拠をみずから否定したことになり、ただでさえ長期政権の結果腐敗して、国民の潜在的不満を抱えている共産党政権が崩壊しかねません。

 中国共産党のA級戦犯肯定=一党独裁の否定で、国民の民主化要求をコントロールできなくなります。

参考:靖国神社参拝は日本の強力な外交カード
・日本の政権トップは、参拝する・しないの選択が可能。
  参拝をしても、しなくても政権を失うことはない。
・中国・韓国のトップは、選択の余地がない。=外交カードとならない。
  靖国神社参拝をした日本の政権トップに対して、抗議するしかない。
  日本のトップの靖国参拝を認めたら、失脚・政権崩壊に直結する。

 まして、中国・韓国の政権トップが自国側の譲歩を条件に、日本から靖国問題にからんで経済的・金銭的見返りを求めることはありえない。
 そんなことをしたら100%失脚し、政治的に過去の人となってしまいます。つまり外交カードとして使えないのです。

 BSE問題でアメリカに譲歩したというだけで、政権崩壊になりかねない韓国の世論の過激さを忘れてはいけません。 
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この回答へのお礼

くわしく書いていただきありがとうございました。とても参考になります。

お礼日時:2008/06/24 03:22

額賀氏と出生から大学、就職まで


まるっきりタイプで打ったみたいに同じのプロフィールを持つ
額賀氏も旧姓は橋本氏だったようです、、、

じつは¥・・・
この橋本登美三郎氏こそが
1936~37年8月、内務省から社長として転勤してきた正力松太郎が君臨してる朝日新聞の
南京支局勤務、南京通信局長を務めていて、
12月、南京を日本軍が占領した際、
まるで予想していたように!?
15人もの部下の記者を引き連れ、一番乗りしたことで有名だそうです。
橋本氏は南京大虐殺については、否定的な証言をしているものの
 正力松太郎のしてきた関東大震災時の朝鮮人により放火は実際に
 あったことのようですが、
 これを理由に日本人が朝鮮人虐殺したとしていますが、
 実際の手記などでは、
 陸軍皇軍派(東督部)が
 戦争反対の学者一家や
 アヘン勢力に反対して日本で活動している朝鮮人朴と言う人を
 冤罪逮捕してるようです・・
 また
 このときに王希天という薬学博士も虐殺されたこととして
 実は、上原陸相の指示の元で
 牛タンソ菌の大量生産など生物兵器開発に努めることになります・・

 これは扱いが簡単だそうで
 張学良などもともに日本で落ち合っているようです

 これはやがて731部隊で石川四郎氏が使うことになります
橋本登美三郎氏は、
 外信部長、
元朝日新聞社東亜部長を歴任
 敗戦とともに、退社し、政界入りし、
 佐藤内閣で官房長官をしている:パチンコ勢力の石井一氏が労働政務次官になった三木内閣で
 橋本登美三郎元運輸相・自民党元幹事長、
 収賄容疑で逮捕
 ソ連のミグ亡命事件、毛沢東の暗殺、統一教会の活発なテロ活動、
 山口組が松田組会長を射殺事件、ベラミ事件、
 大韓航空機事件、ベトナム南北統一、イスラエル軍のウガンダ攻撃
 ロッキード事件が仕組まれ
 ポルポト政権が成立し、
 藤林益三氏が第7代最高裁判所長官になり、
 堀田力、ロッキード事件の担当検事になり、
 周恩来追悼に天安門事件、
 共産党宮本顕治のスパイリンチ査問事件の質問で
 唐由来の満州?中国人だか韓国人が応答する
 
大変な政権でした・・


S55(1980)、額賀氏、第36回衆議院議員総選挙で
     落選した橋本登美三郎の後継者となる
東力&渡辺親子
額賀(橋本登美三郎)、正力松太郎、
二橋正弘、斉藤明が目をつけた福田一族と同出身
吹田あきら(娘婿=西村康稔;町村派明石市淡路島)
河野一郎(鳩山一郎の工作員)
中川一郎のあとを石原新太郎が盗る
S53年(1978)2/1、額賀氏、産経新聞を退職
12月、橋本登美三郎の支援で
   茨城県議会議員選挙に行方郡選挙区から立候補し、初当選
当選後は、橋本の系列県議として活躍する
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この回答へのお礼

貴重な投稿本当にありがとうございました。

お礼日時:2008/06/16 08:48

>学習参考書などを見ると南京大虐殺は2万人(中国側は3万人と主張)などと書かれています。



書くつもりじゃなかったんだけど、南京事件の話になると熱くなっちゃうんだな。断っておきますが、私達のご先祖が大陸でしたことは間違いです。二度と繰り返すべきではありません。だからといって、してもいないことまで認めるべきではありません。かの悪名高いナチスドイツでさえカチンの森の虐殺は断固否定して結局それはソ連の仕業であることが判明したのです。
南京事件の確認された犠牲者は一人だけです。その根拠を述べます。

米軍は東京裁判において原爆投下によって多数の非戦闘員を殺戮したことで大きな大きな良心の呵責があった。なんとしてでも対日戦を正義の戦いとしたかった。対独戦はそれが容易だった。ユダヤ人600万の非人道的殺戮があったからである。日本の場合はそれがなかった。しかし、そこに「南京で大量虐殺」の噂が流れてきた。
「こいつはいいぞ! 使える!」と米軍は小躍りしました。そして早速目撃者をさがしました。しかし、あるのは噂ばかりで一人も目撃者がいません。で、仕方なく「大量虐殺の噂を信じているアメリカ人」を証人として採用しました。証人はあたかも見たかのように日本軍の非道ぶりを述べました。しかし日本側の弁護士だって馬鹿ではありません。法廷でするどく詰問しました。
「あなたご自身の目であなたは何人の虐殺を見ましたか?」
証人は答えに詰まり、恥ずかしそうに「一人です」と答えました。これが根拠であります!
さらにもう一つ付け加えます。
日本軍は強かった。中国軍は負けていました。劣勢な中国軍の武器はなんでしょうか? 国際世論です。国際世論を味方につければ千輌の戦車にも優ります。もしわたしが中国人であれば虐殺の写真を撮りまくりそれをタイムズ誌などに掲載してもらい日本軍の非道ぶりを訴えていたでしょう。もし中国の言う30万人が真実であればあたり一面死体の山です。だれだって写真を撮れます。外国人だって住んでいました。外国人ならカメラをもっていた人も多くいたでしょう。ところが一枚もないんです。どういうことですか? あたり一面死体の山なのにだれも写真を撮らなかったのですか? 
虐殺がなかったからなんですよ。誰にだって容易にわかることなんです。日本人の皆さん! われわれのご先祖が大陸でしたことは過ちです。二度と繰り返してはなりません。しかし、南京事件は真っ赤な嘘です。南京事件についてだけは断固認めてはなりません!
 
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この回答へのお礼

熱く語っていただきありがとうございました。
特に中国、韓国で日中戦争、日本の東アジア侵略に関してどのような教育が行われていたかについてもわかる方、投稿お願いいたします。

お礼日時:2008/06/14 13:04

わかる項目だけ...ということで



(1)違います。うぃきぺでぃあを見れば明確にかかれていますが,純粋な民間人の被災者は祀られていないはずです。そして,お墓でもない,,,と思います。(4)と関わりがあると思いますが,”招魂”の意はカミ,あるいは霊の依り代を意味しますから,祀られたモノの象徴となる施設ということです。この場合,天皇のために命を捨てて戦ったものたちの”行為”そのものが,祀られていると考えてよいでしょう。。。ですから,遺骨や遺品を納めた”お墓”はみな別にあるわけです。

うぃきによれば,合祀に際してはもともと天皇によって祭祀が行われているようですね。そうだとすると天神様,すなわち菅原道真と同じに,天皇によって正式に神に祀られたわけです。。ただ,”名簿”そのものが御神体に相当するもののようで(御神体はない),生前の”個”として神々に名を連ねるわけではないようですね。維新後の軍部によって,”護国の英雄行為”を抽出し濃縮された”エキス”が,,靖国の御神体というわけです。。


(2)は(5)と関わりがあって,,そもそも戦犯かどうかなど靖国のカミの資格とは関係がなかったのです。。というか,敗戦国ですから戦犯が”護国の英雄”として祀られて当然というところでしょう。。A級戦犯は必然的に祀られることになりますよね。一方で軍国主義を称えているのではなく,”護国の英雄”を記念しているのです。。

>なぜ神社に格上げされたのでしょうか
天皇によって合祀される,,,なら,合祀されたモノを入れる器は神社としか位置付けようがなかったのでしょう(生成りの神社,あるいはだんだん神社に成っていく”途中のモノ”といったほうが良いか)。。そもそも,東京招魂社は明治維新までに倒れた志士を祀るために作られたのですが,,明治天皇というのはこの件で大変な”借り”を作ったのですね。国中の有志が命を捨てて王位につけてくれたわけですから。。。神に祀る,,,というのは天皇だけに許される(そして天皇にはこれしか出来ない)そういった類の借りの返し方だったのだと思います。
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この回答へのお礼

わかりやすく丁寧な回答ありがとうございました。
まだまだ詳しい方の書き込みお待ちしております。

お礼日時:2008/06/13 18:50

反日感情の研究は、ある意味大変興味深いものだと思います。


逆に、当時の日本人がなぜアジア、特に中国を敵視(蔑視)していたかも
研究に値すると思いますよ。

冷やかしでスミマセン。
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全て ご自分でお調べになるのがよろしいでしょう


ここでは 特定の思想の主張の場になるだけです(特に 3,5,6)

かなりの事実誤認も見受けられます

2は 政府の意向に沿った教育が行なわれているだけのことです(事実関係は問題にもなりません)

4 は単なる名称だけです 稲荷大社もあれば 稲荷神社も 稲荷社 もあるように  
 当時の信仰を 現時点の常識(?)で判断すると、本質を見失います

他国からの言いがかりに 右往左往するから付け込まれているだけです(その先棒を担いでいる マスコミや知識人がいることも認識すべきです)
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この回答へのお礼

はい。この手の質問は意見の応戦となることは承知の上でしております。ただ一方的に意見をいう人は信用しにくいですが、それはそれでその人の受けてきた教育やその人の思想も見えてきます。皆様の意見は鵜呑みにするのではなく参考とさせていただいております。

 学習参考書などを見ると南京大虐殺は2万人(中国側は3万人と主張)などと書かれています。一方上の方では南京大虐殺はなかったという方もいらっしゃいます。テレビの討論番組などでは中国人の方が祖父母が虐殺に遇ったといっていましたが、虐殺は南京で大量に行われたのではなく中国の広い範囲で行われたというのが正しいような気がします。

 そもそも反日感情の原因はどこにあるのかということが知りたかったのです。そのため事実はさておき中国や韓国での報道、教育がどういうものなのかが気になりました。
 特に在日の中国人、韓国人のかたの意見も聞きたいです。植民地時代の歴史に関してはどういう教育を受けてきたのか。一方的な考え方でもかまいませんからどんどん書き込みのほうお願いいたします。
 

お礼日時:2008/06/13 14:29

一点だけ、


“明治維新から太平洋戦争までで国のために命を捨てた人、空襲などで亡くなった人、軍の命令に従わなければならなかった兵士といった人たち”
まず、非軍人、非軍属であって“空襲などでなくなった人”は祭祀対象外です。
詳細は、“靖国神社”公式ページにありますが、リンク条件がややこしいので、とりあえずホームページを参照URLとしておきます。靖国神社の由来、もっと詳しく、あたりに書かれています。

また、“明治維新”付近については所謂“官軍”に属する人物のみであり、賊軍(つまり幕府方)及び、明治政府に反抗した者(例として、西郷隆盛)は祭祀対象になっていません。

祭祀対象者のソースの確認は行っていませんが、概要については
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%96%E5%9B%BD% …
を参照してはいかがでしょう。

参考URL:http://www.yasukuni.or.jp/sitemap.html
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この回答へのお礼

ご指摘ありがとうございました。

お礼日時:2008/06/13 14:06

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