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イエスの救いの本質は、キリスト教の言った方が良いのでしょうか。

私は余り賢くないものですから、難しい言葉は除いて頂き、判り易く10行以内に言って頂ければ幸いです、本質(要)でかまいません。

恐縮ですが、よろしく御願いします。

A 回答 (17件中1~10件)

 《イエスの救いの本質は》 人間の考える経験思想を超えているととってください。


 そうでなければ わざわざ十字架上に露と消える必要がありません。
 そうであるので 最高法院(サンへドリン)の大祭司たちに 神への冒涜という罪での死刑に値するというふうに 思わせました。これは キリストとしての神の貌です。
 人間の貌としては 《わが父 なにゆえ 我れを見捨てたまいしや》と述べて その文句にかかわらず自分の信仰を表明し しかも 大声をあげて泣きました。
 神でなかったなら わたしたちは 人間の能力と努力とで ある程度のことまでは出来るものだと思い それで おしまいになります。
 人間でなかったなら 神であるのだから そこまでのことも出来たのだとわたしたちが思って もう救いを問い求めることも 中途半端の努力で おしまいになります。
 けれども イエス・キリストは 神の貌と人間の貌とを備えていたのではないかと その後 うわさされるようになったとさ。
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四つの法則といわれるものがあります。


十行以内は無理なので参考URLをどうぞ。

参考URL:http://kgp.yotsunohousoku.com/
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この回答へのお礼

自分の中に十字架が有る、無い、あの図は興味深かったです


有り難うございました。

お礼日時:2008/04/25 00:44

極めて小さな罪でもあれば、地獄に行きます。

                                                                              神様が居られる楽園は罪が存在しないからです。罪が支払う代価は死「地獄」です。                                                                                         古い約束である旧約では、罪人の身代わりにおもに羊が殺される事によって、罪が赦されました。                                                                                     新しい約束である新約では、旧約で羊として予表されたイエスキリストがこの世に来られて、私たちの罪の身代わりになって処刑される事によって、私たちの罪を赦したのです。                                                                             これを心から疑いなく信じる人は、聖書が言われるキリストの人です。                                                                                                    キリスト人だと言いながらもこれを信じない人が殆んどです。                                                                                                                                 彼らは神様とは何の関係も無い人々です。                                                                                         彼らは表では宗教活動をする事によってキリスト人のように見えるので、聖書は彼らを羊と区別して山羊と言われます。                                                                                                   山羊は羊と似ているけど羊ではありません。彼らは全て地獄に行きます。マタイ福音25:31~46.
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この回答へのお礼

有り難うございました。

お礼日時:2008/04/20 22:08

まだ締め切られていないので独り言。



原理主義プロテスタント。
カトリックや他のプロテスタントすら生温いと
排斥する極右。聖書無謬主義。

私はその影響を受けているのですが、
そしてそこは有名どころなのですが
(私はカルトと呼びましたがね…。)

自分が間違っているということを自分自身が「知っている」
というのは苦痛ですね(笑)

偶像破壊。全ての破壊。理性の放棄。狂信。
全てを敵に回した人間の行き着く先は自己否定。

せっかく愛してくれた存在を、盲目によって殺すのが狂信です。
それでも狂信者は自分の正義を信じるでしょう。

もう誰もいないのに。
だから、弁証法でも空でも表裏一体でも何でもいいですが
狂信者は、何も信じていないのと同じことなんですよ。

私は色々語ったが、結局何も語らなかった。
滑稽ですよね。
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この回答へのお礼

有り難うございました。

お礼日時:2008/04/20 22:06

 No.3&6&10&12です。

質問者さんのおゆるしを乞いつつ 投稿いたします。

 山羊は イエスが自ら

   人の子(イエス・キリスト)は、栄光に輝いて天使たちを皆従え
  て来るとき、その栄光の座に着く。
   そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と
  山羊を分けるように、彼らをより分け、 羊を右に、山羊を左に置
  く。 (マタイ福音25:31-33)

と言うかたちで触れられていますが これは 将来すべきこととして臨むのが ただしいと考えます。《左に置く》のは その山羊たちが裁かれるためのようです。

   それから、王は左側にいる人たちにも言う。
    ――呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下の
     ために用意してある永遠の火に入れ。
       お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のど
     が渇いたときに飲ませず、 旅をしていたときに宿を貸さず、
     裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてく
     れなかったからだ。
    (マタイ25:41-43)

 こんなことは起こりません。人びとの悔しさを癒やそうとして 話をしています。《〈復讐は わたしがすることだ〉と主が言われる》という前提のもとに 傷ついた人びとのこころをなぐさめようとしています。

   すると、彼ら(=左側にいる山羊たち)も答える。
    ――主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、
     旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられた
     りするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。
   そこで、王は答える。
    ――はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかっ
     たのは、わたしにしてくれなかったことなのである。
   (マタイ25:44-45)



 もし――もしもです もしも――それでも 慰められ得ない人たちがいるとするなら のちになって安易に復讐に燃えた人たちのことも 少しは その気持ちをわかってやれるのでは?というのは やはり勇み足でしょうかねぇ。その人たちは

  (1)人間によって神が殺される

とは考えずに

  人間によって 人間が殺された

と採ったのです。つまり 神を自分の心の中に 勝手に 想像し形作ってしまったのだと思います。それは 神ではなくて まちがって思い描いた神であり ただの・少し殊勝な人間としての像を あやまって 思い抱いていたのだったという問題ではないでしょうか。
 もし――もしもです もしも―― 神が何であるか あるいは 少なくとも 神は何でないか これが分かる人は 和解の方向へ向かってください。その代わり 言論では どこまでも 重箱の隅をつついて ありとあらゆる塵芥までを掃き出し 批判してください。批判し尽くしてまいりましょう。
 ローマよ おごるなかれ。
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この回答へのお礼

沢山アドバイスを頂、感謝します、折々思案したいと思います、色々勉強に成りました
沢山書き込んだ頂いたのに短文のお礼で申し訳ありません。有り難うございました。

お礼日時:2008/04/09 22:45

羊のほうは生贄で話が済んだと思うので


山羊の話を。

神を殺した人たちがいますよね。
その人たちは、後でキリスト教徒によって迫害されました。

(1)人間によって神が殺される
(2)殺した人間を追放する
(3)自分たちは文句なく救われる。

これがキリスト教です。
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この回答へのお礼

有り難うございました。

お礼日時:2008/04/09 22:40

 No.3&6&10です。


 一方的に投稿をつづけますが よろしくお願いします。十行を超えますが。

 《救いの本質》は 次に言う《恩恵の上に恩恵を受けた》だと思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 私たちはみな、この方(イエス・キリスト)の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みと真理はイエス・キリストによって実現したからである。
  (ヨハネ福音1:16-17) 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 《いけにえ》と紛らわしい事態については 次のようなパウロの文章を参照するべきだと思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ば
  れるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるた
  めに洗礼を受けたことを。
   わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあず
  かるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死
  者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きる
  ためなのです。
   もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやか
  るならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。
   わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたの
  は、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないため
  であると知っています。
   死んだ者は、罪から解放されています。
   わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生
  きることにもなると信じます。
   そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬこと
  がない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。
   キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであ
  り、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
   このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリ
  スト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさ
  い。 (ローマ書6:3-11)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ここで 《罪から解放されています》が 初めの《恵み》です。あとの《恵み》は 復活です。つまり 《わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます》。

 飽くまで・死ぬまで・いえ 死んでも うたがうという精神はいるものです。ところが 悪魔は 最終の死の淵にまでは よう来なかったのです。それで 打ち負かされたとも考えられます。
 どうしようもない嫌疑をかけられ どこまでも疑い続けられるとき わたしたちは そのような人びとの欠陥を憎み その存在を愛します。
 アウグスティヌスによると 欠陥を憎み人を愛するのであって 欠陥ゆえに人を憎んではならず 人ゆえに欠陥を愛してもならないと言います。
 疑いの晴れないまま そのあと この世の不条理の掟に対して イエスは なおも真理のことばを与えつつ抵抗もしながら 人びとの疑いを憎みとおして 存在としては人びとを愛しつづけた。死を甘んじて受けたとき 悪魔は 退散せざるを得なかったと考えられます。
 そこで悪魔は それまで捕らえていたわたしたちを 解放したという物語です。罪は死の棘であり その棘が抜かれたと言われます。そのあと

  最後の敵として、死が滅ぼされます。
   (コリント前書15:26)

この回答への補足

>No.3&6&10です。一方的に投稿をつづけますが よろしくお願>いします。十行を超えますが。

有り難うございます、いくら書き込んで頂いても良いですよ。一様読ませて頂いています他の方のもですが。キリスト教の事はほとんど知りませんので、中々理解するのは難しいですが。

補足日時:2008/04/04 22:34
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おたくです。



「あわれみは好むが、いけにえは好まない」は、
形骸化した祭儀に対する愛と赦しの優越性というテーマで
しばしば引っ張り出されて氾濫している有名な言葉だけど、

ただねえ。生贄のマニュアル本まで発行する聖書で、
生贄はいらん言われてもなあ。

思うにホセア…というかホセア書の記者の気に食わなかったのは、
ヤハウェ信仰を圧倒するまで混交して
もはや区別されなくなってしまったカナン色の祭儀じゃないの?

マタイの記者が厳密にどういった派閥に属していたのかは
少ない史料から推測するしかしようががないけど、
パリサイ派や律法学者らの政権側とは明らかに距離をおいてたわけでしょ?
いわば政敵である祭儀集団とは一線を画していたわけだよね。

ノアやカインの時代には家長が勝手にできてたことになっているはずの、
しかも権威付けのみならず、活動資金や袖の下にもなる生贄を、
専業化してばんばんとりおこなう他派や異教徒を目にして、
そりゃ忸怩たる思いはあるだろうさ。

しかし伝統的なキリスト教ではパリサイ派や律法学者というと、
「律法の形骸化に陥った堕落集団」の代名詞として
聖書中ではすっかり悪者にされちゃうけど、
実際の彼らの神殿崩壊後の生き残りへの執念と情熱といったら、
一概に手本にならないとは言えないと思うよ。

荒野のクムランから発せられた訴追は、
犠牲を真剣に受け止めようとしない権力を糾弾し、
むしろ生贄の重要性と有効性を強調しようとする真摯な態度に基づいているんじゃないの?

ホセア書にせよ福音書にせよ、彼らが批判したのは「形骸化し腐敗した犠牲」であって、
信仰の結晶としての犠牲そのもののコンテキストは
陳腐なまでに相変わらず聖書の基底(ベース)に
ドーンと横たわっていると思うよ。

マタイ記者はその辺のところ割とさらっと通り抜けてるけど、
根暗のヨハネにいたってはもう、イエスの「贖いの子羊」像を
これでもかというほどじめじめと印象付けるしさあ。

そして何より結局はイエス、というかキリスト?(ま、どっちでもいいか)
自身が磔刑を嫌々ながらも受け入れましたって話になってるしさ。

ああ、そうそう、余談だけど
「神(イエスのことでよろしいかな?)が自分勝手に 十字架上に登って 死に就いた」
というのは明らかに間違いだよ。
聖書中の物語にはイエスを告発しようとする企みが度々出てくるし、、
凶悪犯を無罪放免にして「イエスを十字架につけろ」と叫んだ群衆がそこにはいた。
そして何より、「イエスを十字架につけろ」は、
果たして究極的にはだれの告発かということを聖書は突きつけていると思うね。
「罪人とは果たして誰のことか」なんてことになるだろうね。

生贄には、「供犠」という形態のほかにも、
「迫害」という形態もあるんだな。
聖書の中のイエスという珍妙な登場人物は
そのどちらも満たしているかもしれないよ。

まあ、議論するなというサイトだからもう〆るけどさ、それにしても
イエスの誕生日に、死体の防臭剤を献上されるくだりを読まされた日にゃ、
薬だけに、よく錬り合わされた話だと関心しちゃうんだな。俺なんか。
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 No.3&6です。

何度もお邪魔します。

 《いけにえ》は 旧約聖書の時代には いやというほど出てきます。イエスの時代にも その長い歴史的な慣習に沿って 表現する場合もあります。
 ですが イエスという名の人間としてなら いざ知らず キリストと呼ばれる神の貌としてなら まったく問題にはなりません。
 神が 自分勝手に 十字架上に登って 死に就いたのです。そうでなければ 神と言えません。
 人間がやったのなら――そして仮りに いけにえとなって 人びとの罪のほどを償ったとするのなら―― ああ そうかいと言っておしまいです。その心は 貴いことだが――イエスに対して わたしなら こう問いかけるでしょう―― また 人間の罪が償われずに溜まってきた時には 志しある人よ われに続けと言っているのかいな?と。そういう問題ではないのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
     わたしが求めるのは憐れみであって、
     いけにえではない。
     (ホセア書6:6)

   とはどういう意味か、行って学びなさい。
   (=イエスの発言:マタイによる福音9:13)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
たしかに 重要な主題であるのですが 神がわれわれのために 自らいけにえになったというのは 《イエスの救いの本質》ではありません。《ために》というところが 問題です。十字架上の死が起こる前にも わたしたちは 神の子です。(十行を超えてすみません)。
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わかりやすくはないです。

宗教においては、救いの本質は、救いの約束にあります。

イエスの救いは、生贄ですね。命を神のものと思って、身を投げ出す姿勢です。
サクリファイス、というものですが、日本語に存在しないのでしょうがない。

キリスト教徒に流れる血は、契約によって、イエスの血となります。
かれらは迷える罪深い凡人でありながらも、
すでに犠牲を引き受けた方の 血縁の子供たち となります。

旧約聖書の時代に、人間が、命を神のものと思ってないので、神はかんかんに怒りました。
偶然か必然か、そのころ、イエスの処刑がありました。

この事件について、当時の人々だか、後日のキリスト教だかは、自分たちの血が流れたも同然と考えました。
そして、イエスの失われた命が神のもの、キリスト教徒の命も失われたも同然で神のもの、ということになりました。

おかげで神は人間を許し、人間は救われました。または救われることに約束されました。
したがって、救われるのはキリスト教徒です。
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この回答へのお礼

貴重なご意見有り難うございました。勉強に成りました。

お礼日時:2008/04/04 22:32

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