真理は価値、論理は記号(操作)、道理は事実(自然)に属すると私は考えていますが、この中で最も大切なものはどれでしょうか。
一般的には真理が重要とされていますが、現象の背後に本質(真理とか実在)は無いと思います(「真理とは、それがなくてはある種の生物が生きていけないような、一種の誤謬である」ニーチェ)。真理は、実在や論理といった記号世界(それぞれの人の心と呼んでいいでしょう)の最大公約数にすぎないのではないでしょうか。
私は「真理より道理、実在より現象」と思うのですが、皆様、いかがでしょうか。
A 回答 (14件中1~10件)
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No.14
- 回答日時:
最も重要なのは「真理」ですが、最も有益なのは「道理」もっとも、やっかいなのは「論理」です。
真理とは、ニーチェさんが言うとおり、それだけは確かに存在すると主観が仮定したものでしょう。
無いと困るわけですから、その主観にとっては、最重要ということです。
一方、世の中は他の人の思惑や、屁理屈の間をかいくぐって生きていくことも多く、その場合
「道理」をわきまえ、駆使できることは、社会的調和という点で生き安い。
道理を論理と履き違えると、真理というベースで互いに価値観や定義が食い違い論争が絶えません。
道理とは事ほど左様に、コモンセンスとも呼ぶべき、共通のコミュニケーションベースなのだと思います。
ある集団が用いうる共同幻想というか共通の価値体系だと思うのです。
No.13
- 回答日時:
No.10&11&12です。
《かみ / ゴッド / ディユー / ヤハウェー / アッラーフ / 無神 などなど》は 《ことば》として 《記号》であり 《人間のことば》として いわば《人間が想定したもの》です。
その人工的な《想定》の以前に 想定しうる領域が もともと あるかも知れないし ないかも知れない(つまり あるかないか分からないし それが 分かるか分からないかが分からない)という人間の置かれた条件が 認められるはづですが。
つまりは この想定にもとづけば その同じ人間の条件からは 選択が求められているというのも おそらく現実です。《信じるという信仰》と 《信じないという無信仰(言いかえると 無神として信じるという大きくは信仰)》とが帰結されるでしょう。
この《神 もしくは それと互いに対等な 無神》のことを《真理》とよぶべきだという考えが 妥当なように思いますが いかがでしょうか。経験的な思想である《道理》を超えているものです。あるいはつまり 《非在》のものであり 《非在》としての《現実》です。
これを 無理に想定することもないではないか / また 選択を迫られているというものでもないだろう と思われるでしょうが それが 人間にとって いわば論証以前の公理として 《良心と信教の自由》なのだと考えますが どうでしょう。
くどいように申し添えれば 無信仰が まったくの自由であれば 狭義の信仰も 自由だという意味であり 両者は 互いに対応する生活態度(その信じるという部分領域)なのであり また対等であるということ しかも どのような信仰であろうと 互いの差異を それこそ絶対的に認め合わなければいけないということ ここまで その前提内容が伸びると思います。
No.11
- 回答日時:
No.10です。
★ そこで、真理をどのように捉えていらっしゃるのかお聞きしたくなりました。「この世の経験的な思想」以外の何かしら超越的な事柄を想定していらっしゃるのでしょうか。
☆ 次の文章に示すように 《真理》を《考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと》と想定します。よろしかったら どうぞご検討ください。なお その全体は 《Q:信仰はどうやって決まるのか?(近代的自我とキリスト教の神との関係) http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3621072.html 》のANo.11です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
――考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと――
世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。
Y=考えれば分かること。
(いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行
為によって分かるようになると考えられること)。
(科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する
場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明
しうることがら。)
X=考えても分からないこと。
(いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。
(人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ
のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。
(もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ
とがら。 )
ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。Xは 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。
経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは 外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて
超経験の領域= X
超自然・非経験・絶対・無限・永遠・
〔そしてこのような意味での〕神・
〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空
たとえば 経験領域における未知のことがらは はっきりと非経験 X ではない。あくまで理性の考える対象に属する。
人間の精神は 人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり 経験領域 Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談あるいは文学的表現でない限り―― 間違いである。
さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
No.10
- 回答日時:
概念の整理をします。
それに対して異議をとなえてくださると 話がすすみます。道路の通行は クルマが右か左かは どうでもよいことです。価値観に決まったものはありません。したがって 社会的な取り決めによって 規定します。
人と人との交通も 同じことです。ことばの規定や交通の整理で 意思疎通がはかられ それとして 秩序が保たれます。
すなわち もし《本質は現象に先行しない》(実存主義)ですとか《現象の背後に本質(真理とか実在)は無い》という考え方に立つのであれば 上のように帰結されると考えます。
環界の自然や社会的な自然といった《事実》のうえに立って これらの交通整理や秩序の築き方について なるほどそれは妥当であると 人びとに共通して認められた内容は 《道理》です。
けれども その社会的な共同性の範囲や質によって この道理も それほど普遍的・絶対的なものだとは 見なされがたいようです。もし 誰にも当てはまり 歴史を通じて変わらない道理があるとすれば それは 《真理》だと想定されるようです。もしそれが 認められれば 貴いものであり 《価値》の高いものです。
《論理》は このように推論するときの思考上の筋道のことです。ことばという《記号》を《操作》して考え その筋道を表現するもののようです。
★《「真理とは、それがなくてはある種の生物が生きていけないような、一種の誤謬である」ニーチェ》
――《誤謬である》という判断は それが あたかも《真理》であるぞと言っているようですが もしそう言いたいのなら 《誤謬であるかどうか 分からないが どうも一般に想定されているものだ》と言えばよいでしょう。ですから 同時に 《それがなくてはある種の生物が生きていけないような》という表現は 想定したくない人にとっては 無用のものです。
★《真理は、実在や論理といった記号世界(それぞれの人の心と呼んでいいでしょう)の最大公約数にすぎないのではないでしょうか。》
――これは まったく まちがいです。《記号世界の最大公約数》の問題であるのなら この世の経験的な思想の中の至純のものといったことであり 大きくは現象に基づく《道理》のことです。同じくまた《こころ》が 永遠不変の《真理》をみづからの能力によって得ているということになります。つまり人間が 神だということになります。が いかがでしょう。
概念の整理、ありがとうございました。異論はありません。
そして結論「つまり人間が 神だということになります」は、神は人間の心が作り出した記号という意味で愚考と一致します。
そこで、真理をどのように捉えていらっしゃるのかお聞きしたくなりました。「この世の経験的な思想」以外の何かしら超越的な事柄を想定していらっしゃるのでしょうか。
No.9
- 回答日時:
ん~、なんとなくですが「客観主義」と「主観主義」の綱引きという感じがしますね。
言い換えると、イギリス経験主義と大陸合理主義の対決というか、、、。
>実在や論理といった記号世界(それぞれの人の心と呼んでいいでしょう)の最大公約数にすぎないのではないでしょうか。
これは、大陸合理主義(主観主義)ですね。
デカルトの「我思う、故に我あり(コギト命題)」が究極で有名ですね。
この世界をどんなに議論しつくしても、絶対に存在している=真理と言える物は無い。
でも、「考えている私」は疑えないという事ですね。
これを、質問者さまの「実在や論理といった記号世界(それぞれの人の心と呼んでいいでしょう)の最大公約数」という命題に言い直すと、、、
一切は「主観」である。
しかし、「主観」はしばし「他人の主観」と対立します。
その対立を超えて「共有」した時、それが「真理」になるのではないかと。
一方、イギリス経験主義(客観主義)は、真理は我々の外に有るという考え方ですね。
そして、人はその真理を「経験」によって知りうるのだと。
こちらは、ジョン・ロックの「タブラ・ラーサ(赤子は白紙で生まれる)」という論理ですね。
なんで、「真理」は私たちの心の外にあるのだと。
昨今では、「科学革命」によって「自然科学」が発達した結果、やたらと「客観・客観でなければ」と叫ばれていますね。
これは、イギリス経験主義の影響が大きい気がしますね。
さて、この二つの対立に終止符を打った(と思われている)人にイマヌエル・カントがいます。
彼は、「人は、時間と空間の概念上でしか認識できない」とし、「それを超えた形而上学的なもの(神の存在など)はけっして認識出来ない」と考えました。
さて、私の考えですが、doyoubi777さんに近いですね。
人間が得られる「客観=真理」とは、「主観」と不可分であり、言い換えれば「主観と他人の主観の共有」が「真理」だと思うのです。
特に、「歴史学」なんかではそういったことが多いと感じます。
↓のQ&AのNO2を参照にしてもらえると幸いです。
http://okwave.jp/qa3672975.html
とはいえ、「主観の共有としての真理」以外は存在しないかというと「分らない」としか言えないと思います。(カントに合意)
つまり、「絶対的な真理」と「人間にとっての真理(主観としての共有)」は別な概念ではないかな~と。
>真理と論理と道理の中で重視するのはどれ?
これは、それぞれであり、どれか一つを重視するモノでは無い気がします。
・真理・・・、「絶対的な真理=人の外の事で、あるかないか分からないもの」と「人間にとっての真理=主観としての共有されるモノ」
・論理・・・「人間の共通としての主観」を説明し、他人と共有(真理に)しようとする為の技術。また行為。
・道理・・・人が人との繋がりの上で、共有しなければならないルールや理。
というのが、私の認識でしょうか。
どれも重要であり、どれか一つといのは選べませんね。
参考になりましたら、幸いです。
>「客観主義」と「主観主義」の綱引き
というのは私の言いたい点をうまく衝いて頂いています。というのは実は私、「俺は現象、全ては主観」をキャッチにしているからです。事実(正確には事実の記号化)でさえも複数個ある(円柱は上から見れば円、横から見れば長方形)、ましてや事実の解釈(価値)となると価値観によって様々になって当然と思っています。
そこで、世界を三つの層に分けて
価値世界 記号世界 事実世界
真理 論理 道理(スピノザの神)
構成 実在 運動(生成消滅)
真理、論理、道理を上記三層に振り分けたら、今回の質問につながりました。
あ、自分の主張ばっかり書いてますね。実は上の三層世界論とかネタ本(木田元「マッハとニーチェ」、荒谷大輔「西田幾多郎~歴史の論理学」)とかをブログ記事に書いてそのリンクを質問に貼っていたのですが、個人特定につながる情報とみなされて削除されてしまいました(ちょっぴり立腹です)。
上の事実世界はカントの物自体と同じ位置づけです(エラソーですね)。ただ、カントは現象の背後に真理を位置づけていますが(と思います)私は(木田さんから頂戴して)現象の背後には何も無いと考えています(更にエラソーですね)。現象のこちら側に記号世界(現象の記号モデル化)と価値世界(価値観による構造化)とがある、だから全ては主観、でもこれでは事実でさえも共有できないので「人間にとっての真理=主観としての共有されるモノ」として道理と論理と真理が(発見されるのではなく)構成されると考えるのです。
道理(自然の摂理=人が人との繋がりの上で、共有しなければならないルールや理)だけは共有してその上に多様な価値観が共存する多元主義につながればいいなあと思っています。自分の主張ばかりで申し訳ありませんでした。今後ともよろしくお願いします。
No.8
- 回答日時:
>「ヴェールに隠された密理がなければ行為事象は形骸にすぎません」というあたり、「超越的にしか構成されえぬもの」「否定弁証法的」と関係しているのでしょうか、<
そうですね。行為や事象は、運動であることによって生き生きしたものとなることができます。
真理、ここでは密理とよびましたが、その届かないものを支点にして、
振り子のように運動するイメージです。
このような運動は、生におけるコミュニケーションと考えてもよいし、色即是空、空即是色、禅的に一切が無と考えてもよいし、
存在自体が、背反を抱き合わせながらの運動体であるということです。
もしも、何処か、何か、が支点でないことがはっきりしてしまうと、
この儚い現象が、虚無の海に呑み込まれます。
虚無のほうに目をこらさず、運動のほうに目をこらす、という知恵が、
真理や密理を仮置きすることになるともいえるでしょうか。
「その届かないものを支点にして、振り子のように運動するイメージ」でなんとなく映像が浮かびました。価値にせよ論理にせよ更には道理でさえも生成変化消滅という運動が無ければ構成されないものということかなあと思っております。
No.7
- 回答日時:
門前でもない門外の者が容喙して、またどやされるかもしれませんが。
気持ちのいい土曜日のホーム・ページを訪問できて感謝と報告を兼ねて、とんでもない所からのご参考を。真理(価値)、論理(記号・操作)、道理(事実・自然)に属する。
最初に確認なのですが、≪属する≫とはつまりイコールではなく、その中に一定の関係(上下とか、原理支配とかの関係)を以って、入る、所属するということですね。一応確認しておいて。
私(達)は、
真理=価値=当為=自己内から目指すもの(目指しても、それとの自分との、違い意識は永遠にある。認識であるから個別的自分、それが存在している全体はある)、
論理=記号=操作=精進、行(行法 ぎょうぼう)
道理=事実=自然=対象客体=紡ぎ・編集・現象=真理・価値・当為自体である。
現象・自然そして存在とは、力、フォースであり、これは当為・原理・思想である。その全体こそがいわゆるカントの物自体に相当する。イコールである。
背後もヴェールもない。全部がそこにある。その一部である人間というありようである限り、そのありようにいる限りは、ヴェールとか背後とかがあるように捉えがちである。
ということです。
だから、みな同じですが、現実生活では道理というプラクチカルでプラグマチカルなものが大事です。そしてそれが存在しております。
論理という操作や何かは生き方、精進、生活に相当するので、それは大事にするのですが、道理という厳粛なる眼前の世界が大事で動かせない現実だからという意味においてなのです。
よく真理とか絶対とか、客観とかがマジック・ターム的に頭に置かれがちで、多分創造の世界の外にはあるかもしれませんが、創造の中の私達には、日日はこの世界の道理が大事です。
でも自然界は別にして、人間の生活と歴史においては、事実が全てとか、勝てば官軍とか、どんなことも現状が正しいのだ、という結論ではありません。
私達の会は、非常に世慣れているのか、処世が長けているのか、白鳥葦花に入るのか、まぁ現状にあまり真っ向から対決することはしておりません。
そういうこと、次元は、自分の日日の精進とは一線を画しているのだということでいかないと、インターナショナルはむずかしいでしょうからね。これは会員としては慎むべき悪口ですが。
訪問した、今後も覗き見をします。という挨拶としてのコメントです。お目を煩わせました。
>背後もヴェールもない。全部がそこにある。その一部である人間というありようである限り、そのありようにいる限りは、ヴェールとか背後とかがあるように捉えがちである。
というのは全く同感です。人間であるという事実は世界の内にある。世界の外にあって高みから見ているのではない、ただ、世界を理解するためには記号化(モデル化)しなければならず、そこで論理が必要となり論理と価値によって構造化されたものを真理と称したくなると考えています。
ご紹介頂いたURL(削除されてしまいました。お節介ですね)拝見しましたが言語の壁で(申し訳ありません)即Uターンしました。今後ともよろしくお願いいたします。
No.6
- 回答日時:
真理とは超越的にしか構成されえぬものです。
否定弁証法的に。
フランクフルト学派において、遙かな遠さのなかに仮象としてあらわれたときには、うまい表れかたでした。
思惟が近づこうとし、必ず遠ざかるという運動のなかに据え置かれました。
誤謬としての重要度はじゅうぶん認められます。
つまりヴェールを脱ぐことがないというのがその本質となります。
論理とは主体の確立からはじまる思考の筋道ですが、
主観の劇場のうちで、いわば地と図の塗り分けができないと、自己を他者との関係性において造形できず、
自己の認識が錯綜すると同時に、思路の異常がおこります。
仮設たる劇場の、仮設たる図の把握のうえに、どぶ溜めのような記号を取捨選択しながら、
思路をつむぐことが可能になりますが、
これは事物の実在という概念と触れ合うことはなく、
つねに関係性の参照を必要とし、また主体の実在の直観を必要としています。
つまり、論理は現象の糸目 となります。論理によって現象は像をむすびます。
道理のことはよくわかりませんが、
もっとも最大公約数を反映しているものかと思います。
というのも、人定率にせよ自然率にせよ、条理とは、統合を志向する理性にもとづきますから、
相対的なコミュニケーションの調和において生じるものと言えるかと思います。
エティック(日本では倫理学という造語があてられましたが厳密には日本には存在しない哲学)にとって、
真理も論理も道理も重要ですね。
ヴェールに隠された密理がなければ行為事象は形骸にすぎません。
思路のもつ記号取捨がなければ行為事象は存在となりません。
行為事象が形骸にすぎず、存在を暗黙に合意できなければ、
道理も説くことができません。人間のコミュニケーションは破綻するでしょう。
ナチスのユダヤ人大量虐殺においては、この運びとなっています。
示唆に富んだ回答を頂きありがとうございました。ただ、「ヴェールに隠された密理がなければ行為事象は形骸にすぎません」というあたり、「超越的にしか構成されえぬもの」「否定弁証法的」と関係しているのでしょうか、よくわかりませんでした。
けれども、道理も一筋縄ではつかめぬものだということも想像します。そして、人と人のつながりの糸がどこにあるのか、更に考えたいと思いました。
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