プロが教えるわが家の防犯対策術!

 どのくらいいらっしゃるでしょうか。
 人数が知りたいのではなく どのようにその状態を捉えておられるのかをおしえてください。たとえば 実際であるかどうかを措くのですが ブッダは次のように語ったとされています。この境地について そういう内容なら おれは すでに達した / わたしは たしかに すでにこれを経験しているなどなど 感ずるところ・思うところを述べて お聞かせください。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
《さとり》の境地を示し 人々を教え導くために
余は巧妙な手段を語る。

そしてそのとき余は 《さとり》の境地に入ることなく
この世に教えを弘めるのだ。

その場合 余は霊妙は力によって みづからの姿を現わし
そしてすべての人々に加護を垂れるのだ。

人々は理性が転倒して愚かであり
余がそこに立っているにもかかわらず
余を見ることはない。

(《正しい教えの白蓮 Saddharma-pundariika 》十五 
 〈如来の寿命の長さ〉 岩本裕訳 岩波文庫《法華経》・下)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 また わたし自身は 経験済みだと臆面もなく言うのですが それは 大馬鹿者になるでしょうか。つまりむしろ このように語る人間(ブッダ)がいたと言って伝えながら その人を崇めるとすれば そのほうが 間抜けであることを免れないのではないでしょうか。《人を崇める》のであればです。つまり ブッディスム批判としての質問にもなるのですが いかがお考えになるでしょう。

A 回答 (33件中1~10件)

あー、少し分かった気がします。


ブッダ葬送とはいわゆる親離れ、ひとり立ちのことですね。
それは正しいし必然だと感じます。
自分が求めているものが真理なのか依存なのか、そこら辺が運命の分かれ道ですかね。

この回答への補足

 はづかしながら shift-2007さんは わたしにとって ソクラテスの産婆さんのようなのですね。こんなに多くのことばを費やして翻訳しないと 伝わらなかったとは 残念であり 恥づかしいです。

 そうです。ふつうの生活態度の問題として ふつうの思いやりのいとなみであると言えばよかった。つまり
★ ブッダ葬送とはいわゆる親離れ、ひとり立ちのことですね。

☆ ただ
★ それは正しいし必然だと感じます。 / 自分が求めているものが真理なのか依存なのか、そこら辺が運命の分かれ道ですかね。
☆ と書いてくださったということは かなり道が開けましたね。そして もしそうなら もっと《われはブッダなり》の問題を指摘して 広く明らかにしていきたいと思うのですが shift-2007さんにも その方向でお願いしたいと存じます。(なにか おかしな運動になってしまったようですが なお質問のかたちで 広く対話を求めていくのがよいと思います)。

 あれっ。それはそうと まだ 《補足要求》なのですか? どうしてでしょう?

★ 自分が求めているものが真理なのか依存なのか、そこら辺が運命の分かれ道ですかね。
☆ この問題は 一方で 個人個人がその考え方や生活態度の模索の上で突き当たるものであるでしょう。そして 他方では ブッディスムが 思想にとってあるいは理論としての構成の上で その性格や特徴が どのようになっているかにかかわっていると考えます。つまり わたしたちにとっては これら両面において 広く対話をすすめていくという務めがあるように思います。
 後者としては ブッディスムは あくまで実践思想であり そう言うほどに やはりあくまで 人為としての領域にとどまる理論であるということだと考えます。ということは 前者の生活態度の現場においても じっさいのところ なにかあの世のことであるとか 超能力のことであるとか そういう方面のことがらは まったく関係のないことだと言わなければならないはづです。
 このような将来を見越した(あるいは もともと仏教はそうだったかも知れないところの)問題について その具体的なあり方は こうなのだといった視点などをも回答してくださると ありがたいです。また とうぜん 反対という立ち場の方もいられることでしょうから そのご見解を寄せていただいて 回答を深めていただければと思います。どうぞよろしくお願い致したいと存じます。

補足日時:2008/03/09 20:22
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この回答へのお礼

 如来寿量品の一節が 評判が悪いようですが その前後をも掲げておきます。(20080310記)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
考えられないほどの幾千万億劫の昔・・・
そのとき余は最勝の《さとり》に達し それ以来いつも余は教えを説いている。
多くの求法者たちを鼓舞し 《さとり》の智慧に安住させた。・・・
〔《さとり》の境地を示し・・・の一節が入る。〕
かれらは余の肉身が完全に滅したと考え 遺骨にさまざまの供養をする。
余を見ることなく 渇望を生じ かくてかれらに正しい心が生じる。
この世の人々が心ただしく おだやかで 愛欲を離れた者となったとき
そこで余は弟子の集団を集め ここグリドゥラ=クータ(霊鷲山)に余は姿を現わす。
そして そののちに 余はかれらに このように話すのだ。
《あのとき この世で余は入滅したのではない。僧たちよ。
あれは余の巧妙な手段なのだ。余は繰り返し繰り返し人間の世界にいるのだ。》
他の国土の人々から崇め尊ばれたときには 余はかれらにも余の最勝の教えを弘めるのだ。
・・・(中略)・・・
余の智慧の力はこのように光り輝き その際限はない。余の寿命も長く
無限の劫のあいだ続く。余は前世の所行を果たして この寿命を得たのだ。
賢き人々よ この点について疑うではない。疑う心を残らず捨てよ。
余はこの真実の言葉を語る。余の言葉は未だかつて偽りではないのだ。
・・・
余は世間の父 みずから存在して 一切の人間の庇護者であり医者である。
愚かな者たちの意識が転倒して 判断力を失ったことを知り
入滅しないで入滅したと見せるのだ。
それは 何故か。余がいつも姿を現わしていることにより 理性なく無知な人々は
信じなくなり 愛欲に狂い 快楽のために不幸な境遇に落ちるであろう。
しかし 余は絶えず世間の人々のあれこれの行為を知り
《どのようにして かれらを〈さとり〉に導こうか。どのようにして
かれらに仏の教えを得させようか》と考えて 世間の人々にそれぞれ語るのだ。(岩本裕訳)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2008/03/10 10:23

どうも。



退会したんですが
名無しで、あたかもタヌキにだまされるように
騙られるのもなんなので

戻ってきました。

私が疑問だったのはなんだって、
法華経を引用したのかってことです。

法華経は扱うには人間が面倒です。
というか大乗仏典の場合はみんなそうですが…。

仏教徒はきちんと仏典の内容知っていますか?
知った上で仏教徒やってるんですよね。

あの上座仏教徒なら
教典の内容で批判しあえたから有意義だったですがね…。

理性は必要ですねぇ。

でも、批判不可能と言うのが、まさに宗教なんですけどね。
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この回答へのお礼

 そうですね。
 別の目的にあてはめるなら ラクダを針の穴に通そうとしているようなものですかね。
 直前のお礼欄に書いたように さらに 考えが進みました。深まったと思っています。と言っても けっきょく 思想や信仰についての 枠組みを 明らかにする作業におさまるようなことですが。(それは そうです。良心・信教は自由ですから)。

 法華経を引き出してきたのは 案外 信仰の要素もあるということ その確認です。つまり いい意味でも わるい意味でも 経験思想を超えるところもあるようです。
 つまり いい意味でというのは ふつうの信仰一般に通じると言えるようですから。
 わるい意味というのは 人や物など経験事物をも貴いものとし これを崇めるようにならないとも限らない。信仰ではなく 単なる思い込みなのですが。つまりたとえば ブッダの遺骨あるいは経文におけるその文字観念 これを あたかも 超経験の力のあるものとして頭に頂くあり方です。(まぁ 人びとは 霊験あらたかなら 崇め そうでなければ どうでもよいものと思っているでしょうが)。

 思考あるいは志向の方向性やその構造的な枠組み これを 明らかにして 共通の認識としておくこと。これを目指しています。

お礼日時:2008/03/16 10:05

似たか寄ったかが


言いあっとる
同質でしょ
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この回答へのお礼

 法然の登場によって 《例外無く皆が 称名念仏によって またその自力を超えた他力によってこそ 平等に 救われる》という革命が――しかも それは まったく 思想にとって ふつうのことであるというべきなのだが―― 起こったあと ブッディスムの変容が決まった。

 その結果 二つの姿が――論理的な仮想としてでも―― 見られる。
 ひとつは 日常普通の生活態度におさまる。
 ひとつは ふつうの信仰一般という姿勢に行きつく。

 前者は 江戸時代の鈴木正三の変革をとおったもの。山本七平が言い出したことだが きわめて簡単に拡げて言えば 人生かつ生活の全般が 仏道修行であるというもの。つまり ブッディスムは 生活態度や日常茶飯事の振る舞いへと 発展的に解消していった。

 後者は 親鸞の革新をとおったもの。わたしは 以前は 親鸞ですでに 絶対他力のもとに 信仰一般の立ち場が表わされたと思っていたが かれにおいても まだ 自力が残っているとの説も聞いた。いづれにしても これを推し進めれば 経験思想を超えるところの信仰一般である。

 まとめると ブッディスムは その説くところが 性格内容として あいまいである。経験思想として ふつうの生活態度に還元される行き方が ひとつ。はっきりと言っていないけれど 究極ではあくまで 信仰が そもそもの基礎であるという立ち場。それ以外には ありえないように思われる。いかがでしょうか。

お礼日時:2008/03/16 09:50

もう一度言いますね,仏法はあくまで実証主義(勝つか負けるかの勝負)ですから貴方がいくら屁理屈な種々設問されてもそんなものは枝葉の問題で取るに足らないものであるということです。

以前私がお答えしましたように日蓮大聖人御書全集に貴方が問われていることがらについては全て解答され,破釈されておりますので,勉強してください。勉強されてから問いをされてくださいね。時間の無駄ですから,無知な人には仏法の本質は到底理解はできませんから。末法の御本仏は日蓮大聖人のみであり,これは歴史が証明している事柄です勉強してください。人本尊開顕の書である「開目抄」の最も大切な請願の部分を参考に記載しておきますね。貴方には到底理解はできないでしょうけれども貴方を救済する意味で書かせていただきます。「詮ずるところは天も捨てたまえ諸難にも会え身命を期とせん,身子が六十功の菩薩の行を退せし・乞眼の婆羅門の責めに耐えざるゆえ,久遠大通の者の三五の塵をふる・悪知識に会えるゆえなり,善につけ悪につけ法華経(南無妙法蓮華経)を捨つるは地獄の業なるべし,大願を立てん日本国の位を譲らむ,法華経を捨てて勧行等について後生を期せよ,父母の頸を刎ねん念仏申さずば,なんどの種々の大難出来すとも智者に我義破られずば用いじとなり,その他の大難風の前の塵なるべし,我日本の柱とならむ・我日本の眼目とならむ・我日本の大船とならむ(主師親の三徳)等と誓いし願い破るべからず」,貴方が可哀想ですから再度言いますね,理論の遊びをしていないで,実践をしてください。今のままでは貴方は無限地獄に堕ちますよ。
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この回答へのお礼

 あなたとのあいだに 《自他の隔意を立て》ないで 善悪を飲み込んで 対話をしようと思ったわたしが あさはかでした。

 わたしは 可哀そうだとは思わないので もう何も言いません。

お礼日時:2008/03/15 23:35

多くの菩薩・仏師等の言はその時々の衆生の機根に併せ説いていますので,現代には通じなくその功力も当然あるわけはありません。

凡夫はそれに惑わされ理論ばかりに振り回され,自分が唯一のブッダなんという輩も出てきます。全てが自分の命のなかにある元品の無命(第六天の魔王)のなせる力なのです。これについては一念三千の生命論に詳しく説明されていますので読まれたらいいと思います。釈迦の出世の本懐については,崇峻天皇御書に「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり,不軽菩薩(釈迦の過去世の姿)の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞いにて候けるぞ,穴賢・穴賢,賢きを人と云いはかなきを畜という。」さらに,付け加えておきますね,御義口伝・常不軽品三十箇の大事第二十三無明礼拝住処の事「御義口伝に云く自他の隔意を立て上慢の四衆・我は不軽と云う,不軽は善人・上慢は悪人と善悪を立つるは無明なり,此に立って礼拝の行を成す時善悪不二・邪正一如の南無妙法蓮華経と礼拝するなり云云。」

この回答への補足

★ 多くの菩薩・仏師等の言はその時々の衆生の機根に併せ説いていますので,現代には通じなくその功力も当然あるわけはありません。
☆ だとすると 現在 あなた自身のブッディスムを説いているあなたは 《菩薩・仏師等》に入らないのですか。入るなら その《言》も 対機説法で また 時代情況に合わせたものでしょうか。

★ 凡夫はそれに惑わされ理論ばかりに振り回され,自分が唯一のブッダなんという輩も出てきます。
☆ 《自分が唯一のブッダである》と言う輩が 二人以上出てくるとおもしろいですね。

★ 全てが自分の命のなかにある元品の無命〔* 無明?〕(第六天の魔王)のなせる力なのです。これについては一念三千の生命論に詳しく説明されていますので読まれたらいいと思います。
☆ 《元品の》という修飾語と《第六天の魔王》という言い替え説明がついていますが ブッディスムなら 《無明》が 根本の原因だということは 前提にしてご回答を寄せてください。

★ 釈迦の出世の本懐については,崇峻天皇御書に「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり,不軽菩薩(釈迦の過去世の姿)の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞いにて候けるぞ,穴賢・穴賢,賢きを人と云いはかなきを畜という。」
☆ 《欺かれても 〈われ 汝を軽んぜず。むしろ敬いましょう〉と言って生きることが 〈出世の本懐〉である》ということでしょうか。

★ さらに,付け加えておきますね,御義口伝・常不軽品三十箇の大事第二十三無明礼拝住処の事「御義口伝に云く自他の隔意を立て上慢の四衆・我は不軽と云う,不軽は善人・上慢は悪人と善悪を立つるは無明なり,此に立って礼拝の行を成す時善悪不二・邪正一如の南無妙法蓮華経と礼拝するなり云云。」
☆ 直前の《ブッダの出世の本懐》を揚げて棄てたかっこうでしょうか。つまり 《不軽は善人・上慢は悪人と善悪を立つるは無明なり》というからにはです。つまり 《此に立って礼拝の行を成す時 善悪不二・邪正一如》の境地が開けるということでしょうか。
 ただいま新しい質問として《Q:何が正しくて何が悪いか》が出されていて そこでは 《殺生とて 絶対悪だとは思えない。これは まちがいでしょうか》と問うています。そういう疑問の行き着く先といった意味での《善悪不二・邪正一如》ではないでしょう。とすると まだこの説明だけでは 誤解が生じると思うのですが いかがでしょうか。
 《自他の隔意を立て》ないなら たとえば殺生は どういうふうに捉えられるのか 是非知りたいところです。《本有無作の三身》なら どう振る舞うのかです。

補足日時:2008/03/15 19:03
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注意。



今回のこの質問での私の回答は
過去、いろいろな仏教徒及びそれ以外の宗教及び
無宗教者、無神論者に受けた非難を

そのまま仏教に当てはめて
回答しています。

いろいろ申し訳ありません。

この回答への補足

 末木文美士著『日本宗教史』をめくっていて 思いついたことです。
 あくまで 思いつきです。

 《我れはブッダなり》と宣言したあと これを止揚した独立主観として 《第一の道》が現われるだろうと考えていましたが これに至る道筋を ふと 思いつきました。
 まづ《第一の道》としては
 
 ・ ブッダからおそわったのだけれど もうブッダのそのおしえを揚げて
 棄てている。実質的に保っているが そのありようは すでに別の思想と
 して わたしの中に 生きている。ふつうの経験思想 あるいはまた ふ
 つうの生活態度の問題となっている。

(1) つまりこれに至るブッディスムの中における変革の兆しとして まづ 末法の到来がからんでいるのでしょうか 《本覚思想》という考えが出ます。

   もともと本覚は内在的な原理 または目標としての悟りであり 現実
  をそのまま肯定するものではなかった。ところが その本覚がすでに実
  現していると考えられるとき 現実がそのまま究極的な真理の実現とみ
  なされることになる。
  (末木文美士:『日本宗教史』p.71)

(2) 私度僧というのでしょうか 聖(ひじり)としての仏教者も出たあと 法然の根源的な変革が現われました。

   口称による称名念仏こどが阿弥陀仏の本願によって選択されたもので
  あると説いて 仏を観想する観念念仏や念仏以外の諸行による往生は困
  難とした。・・・
  また 富貴・貧賤 智慧・愚癡 多門・少聞 持戒・破戒を問わず 阿
  弥陀仏は平等に救済するという説は 多くの人々の共感を呼び 聖たち
  をはじめとして多くの信者が集まった。・・・(p.74)

(3) 行き過ぎとして 《どのような悪もなし放題という造悪無礙といわれる主張をなすものも現われた》(p.74)というところまでくれば 貴重な中核をなす思想は 保ちつつ あとは ブッディスムの看板を不要とするひとり立ちの別様の思想が現われても おかしくないというようにです。
 ちょっと乱暴だったでしょうか。

補足日時:2008/03/13 22:53
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この回答へのお礼

 さらにこういうことを考えました。思い浮かんで来たことがらです。

 つまり もし大きな池の傍らの田を作る人が 組織を挙げて わたしたちに 

   わたしたちは最大限の努力をもって 生まれ変わる。
   どうぞ見守ってください。
    そして 日本のため・世界のため また 一人ひとりのために 共に
  力を合わせて 社会をよくしていきましょう。

と声をかけて来たばあい どうするかです。その問いかけの場面が わたしの頭に 前からの続きとしてのように 浮かんだのです。すぐに答えを要求している様子ではなく その一場面だけが浮かんだのです。
 拒む姿勢は取り難い。・・・!?

お礼日時:2008/03/13 11:47

「人を崇めるのであるならば」



いやそれは無駄なんです。

仏・法・僧これを独立させて考えると
仏教徒の都合のいいようにやられます。

ほんとうに。

法が存在するから構わないや、
教団が存在するからなどやられます。

なぜ、誰も言わないのでしょう。

神も人間が作ったというのなら

法を作ったのも人間だと言うことに。

仏法など、人間が作り出したものに過ぎないことを。

どうして誰も言わないのでしょう。
勝手に仏教というファンタジーの世界で
ブッダ・凡夫とやっているだけです。

夢から「覚める」なら
何もなかったことに気づくでしょう。

裸の王様だったことに気づくでしょう。
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この回答へのお礼

 わたしの内で変化したことがらを 記します。

 (1) 《第三の道》と言いましたが どうも厳密な概念規定ではなかったようです。
 それは やはり いづれにしても 《親離れ》し《ひとり立ち》する姿でしかないと考えました。つまり そのまま ブッディスムを揚げて棄てる・つまり棄てて揚げて保った別個の思想としての第一の道に吸収されるか。それとも たしかに別様に 一定の信仰の立ち場として立つかです。

 (2) ブッダ宣言うんぬんという問題を ブッディスム全体の中からそのブッダという人間のことだけ取り出して 論じても 始まらない。つまり
★ 仏・法・僧これを独立させて考えると
 仏教徒の都合のいいようにやられます。
☆ ということのようです。
 もっとも わたしが教わったところでは サンガは 専門の出家した僧侶のそれだけではなく 一般の人びとの集まりとしての《四方サンガ》もあると言います。つまり 社会一般のことです。
 そうすると けっきょく 法も 社会の人びと一般・人類の歴史一般として とうぜん 拡がっているはづです。つまり けっきょくは どうしても《ブッダ》と言いたいのであれば 《目覚める》人――あるいは たしかパウロのことばだったですか 《目からうろこが落ちる》という体験をする人―― これは 実際のことなのですから すべての人について 《人はブッダである》と言えばいいんですよ。と思います。
 サンガ(僧・集まり)も社会一般としてあり 法(ダルマ)も とうぜん 世界普遍としてあり ブッダも 人間一般としてある こうであれば 確かに
★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
なぜ、誰も言わないのでしょう。

神も人間が作ったというのなら

法を〔*少数の悟れる人々に限るかたちで*〕作ったのも人間だと言うこと〔を〕。

仏法など、人間が作り出したものに過ぎないことを。

どうして誰も言わないのでしょう。
勝手に仏教というファンタジーの世界で
ブッダ・凡夫とやっているだけです。

夢から「覚める」なら
何もなかったことに気づくでしょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ということこそ むべなるかな です。こころの《開け》の問題でもあるようです。

お礼日時:2008/03/13 11:37

法と社会


http://www.path.ne.jp/~millnm/idoltry.html

ここを見てきました。

*******************************************************************************
どのような形であっても、親切心や愛情を御言葉よりも優先させることは偶像崇拝なのです。人を裁き非難する傾向の強い人もいれば、何でも許してしまう人もいます。しかし、どちらも信仰の人と言うことはできません。どちらも神の御言葉よりも人間的気質に支配されているからです。偶像崇拝はこのような気質から生まれるのです。第一と第二の戒めは偶像崇拝を禁じています。偶像崇拝を文字通りの偶像脆拝行為に限定してしまう人は、聖書を誤解しています。私たちは、パウロが貪欲を第一の偶像崇拝と定義したことを忘れてはならないのです(ガラテヤ3:5)。
********************************************************************************

お返事いただいてから、ここを読んでみたのですが、?????ハテナが飛びます。

親切心や愛情を/御言葉よりも/優先させることは/偶像崇拝なのです。

言葉(法律)を原則とおくと、原則に従うことは偶像崇拝(絶対)であるともとれなくないですか?
法律の下におかれた人においては。

で、裁量として情状酌量という計らいがあるのは、親切心や愛情やらを
こととものにおいて鑑みられるからなのですよね?

んでも、上記の文の中では

親切心や愛情を御言葉よりも優先させることは偶像崇拝なのです。とある。

人を裁き非難する傾向の強い人もいれば、何でも許してしまう人もいます。
しかし、どちらも信仰の人と言うことはできません。


信仰の人と言うことはできません。ということは、信仰の人と言うのは親切心や愛情(感情)を優先させる者であって、親切心や愛情(感情)の希薄若しくは二の次にする者は偶像崇拝者とは認められないとも言っているようにもとれませんか。先の文言、御言葉を法に当てはめた場合、偶像崇拝者は御言葉(法)を優先させた者となってくる。?????と、頭がこんがりそうになる。後に続く文を読めば読むほどに、第一と第二の戒めは偶像崇拝を禁じています。とある。

「智に働けば角が立つ、情に掉させば流される、
意地を通せば窮屈だ、とかく人の世は住みにくい」

頭がこんがらかってくるので、ここで一旦あげます。

この回答への補足

 littlekissさん まだ試運転ですよ。

 いちばんの問題は こうです。神の貌(かお)を わたしたちは この生身のからだで生きるかぎりでは 見ていません。それが 社会や歴史という鏡にうっすらと映ったかたちで 見ているだけです。
 というよりも もっと精確に言えば しかもなお それを謎において見ています。――ということは その鏡に映った像も じつは 神の貌そのものではありません。《謎》とは不明瞭な寓喩だそうです。明らかな形でないだけではなく なお譬えなんだそうです。その謎において われらが神を見ようとしています。《たとえ》だというのなら そのことば通りに取ってはいけないということになります。《不明瞭》だというのなら しかしながら 明らかに見るというのぞみも あるということです。
 ということは 全体として 社会のなかで人の為すこと考えることのいろんな姿としての鏡の像をとおして――あくまで その像を譬えとして その文字通りの像を超えたところに―― 神の声を聞くという寸法だそうです。
 鏡の像を神そのものだと見なすことは たしかに偶像崇拝なのです。

 《親切心や愛情》は そのものとして 鏡に映った像です。この世のわたしたち人間がおこなったり考えたり思ったりするその姿であるにほかなりません。
 敵をも愛するどれだけ深い愛情であっても 人間の為すおこないとしては 仮りの像であって 神の貌ではありません。(この神の貌のことを 《御言葉》と言っています)。と同時に その鏡の像の向こうに わたしたちが こんなにも熱き心でその奥底から喘ぎつつ呻きつつ いつか見られると俟ちのぞむ我れらがふるさとが いま非在のかたちで その非在ゆえにこそ現在すると これまでの信仰の教師たちは 説いて来ました。その《いまが めぐみの時 いまが すくいの日》(コリント後書6:2) だという法螺さえ吹いています。わたしも 吹くのですが どうでしょうか。

★ 第一と第二の戒めは偶像崇拝を禁じています
☆ これは モーセの十戒のはじめの二つを言っているようです。

 宣教のようになってしまいました。つまり このようにキリスト信仰の場合には 仮りに《われはキリストなり》と宣言したとしても あくまで 仮りの像だということが 分かります。しかも はじめに《神は 人間を 自分の姿にかたどって 造った》というのですから 謎において むしろ偶像のごとくあるということかも知れません。
 それに対して ブッダの場合は――その人間としてのブッダのほかに その法則であるとか あるいは その求道者らの集まりであるとかを含めて―― その像(とくに おしえとしての概念・理念・観念など)がきわめて あいまいな形の位置づけになっていると考えられます。(この点は すでに 次のご回答の内容を わたしが勝手に 採り入れて 述べています)。つまり 神か 神の貌か その偶像か 単なる鏡の像かなどです。

補足日時:2008/03/13 11:09
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こんばんは、brageloneさん。



先に理をひとつ、宗教のことよう知らんのです。
よう知らんもんの回答としてお読みいたたければと。
あっ!知らんかったら回答するな!との突っ込みは勘弁 m(_ _)m

《われはブッダなり》と宣言する人は

今回の質問の《        》が付いているのは何でかな?と、
《        》の中の言葉を置き換えてもよいのかなー?
ぼへーと質問文を眺めつつ、どっかから借りてきた新約聖書の本をめくり中をぱらぱら。
読み慣れないお話だけに何が何やらサッパリ。しばらく、読み込みに聖書と格闘。読み込み中、
ん?と留ったのが マタイによる福音書 第26章

第26章の中で、

……大祭司は言った「あなたは神の子キリストなのかどうか、
生ける神に誓ってわれわれに答えよ」。

と、問うている、で、その問いに対して問われた者は答えている


「あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。
あなたがたは、間もなく、人の子が力のある者の右に座し、
天の雲に乗って来るのを見るであろう」。

すると、大司祭はその衣を引き裂いて言った、

「彼は神を汚した。どうしてこれ以上、証人の必要があろう。
あなたがたは今この汚し言を聞いた。あなたがたの意見はどうか」。

すると、彼らは答えて言った、

「彼は死に当たるものだ」。

それから、彼らは、イエスの顔につばをはきかけて、
こぶしで打ち、またある人は手のひらでたたいて言った、

「キリストよ、言いあててみよ、打ったのはだれか」。



ここのくだりを読んでいたら、

人々は理性が転倒して愚かであり
余がそこに立っているにもかかわらず
余を見ることはない。

この言葉と何やら符合しやしませんか?
人が人を裁いているのは、目に見えるがそこに神はいない
神の名を冠された人はいるのだが…


人間(ブッダ)っていうのは、人の感情をさしてやしませんか?
ここでいうところの、ブッディスム批判っていうのは、
原則はあっても人は感情の生きもの時に感情に流される。
キリスト教徒は戒律を重んじると聞き及ぶ、そこからすれば
人間(ブッダ)は生ぬるいってことなのでしょうか?
見方を変えれば、幅があるとはおもえませんか?
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この回答へのお礼

 littlekissさん ご回答をありがとうございます。

 大きく見て 直前の方のご回答と同じ趣旨を捉えてその方向を見ようとしておられるように思います。話題は違っていますが 志向されているところは 同じであるように思います。

 つまり 《ブッダ宣言》にしろ《キリスト(神)宣言》にしろ 前者は 日本人の間では 慎みの無さを表わすでしょうし 後者は ユダヤ人の間では 神への冒涜だということのようです。後者は それでも――慎みをもって―― 真実については 真実を曲げないイエスがいるでしょうし 前者は けっきょく《ふつうの知恵をもったふつうの人間であると宣言する》ことであると思われるのにもかかわらず 《崇拝の対象》と見なされたり 《特別の修行や学習ないし経験を要して少数の者が成れる特別の人間の境地》だと思い込まれたりするようです。
 つまり 前者は 信仰にかかわるのか あるいは ふつうの経験的な生活態度の問題であるのか これが 千年・二千年と経っていても あいまいなままになっていると思います。これを はっきりさせて欲しいし させたいと思います。

★ キリスト教徒は戒律を重んじると聞き及ぶ
☆ 教団を作って そこで どういう規則を持っているのか 残念ながらわたしは 知らないのですが わたしの知っているキリスト者は 戒律は ありません。(神を愛せ。人を自分と同じように愛せ。これは 忘れるわけにはいきませんが)。

 というように受け取りました。いかがでしょうか。

お礼日時:2008/03/12 22:25

元々、ブッダというのは、サンスクリット語で、その意味するところは『目覚めた者』ということで、では、何に目覚めたかと言えば、この宇宙はある法則によって、すべては律せられていて、それに順ずれば常楽の境涯になり、それに反すれば苦悩に沈む境涯に陥る、というもので、その法則を『妙法』といい、それを最初に覚知(悟る)した者が、釈尊であって、それを説き明かしたものが『法華経』なのですが、それで仏法


ともいうのですが、今なら法則という概念は一般的で、法華経をいきなり説いても分かってもらえるでしょうが、釈尊当時の人々には、なかなか理解してもらえず、それで仕方なく妙法の持つ力をいろいろと分けて、また、その法力を人々に受け入れ易くするために擬人化して、~如来、~菩薩という形にして、目に見える、あるいは思い描き易いようにしたのです。確かに法則というものは、それを表現しようとしても、色も形もないので、擬人化するというのは、すばらしい手立て(巧妙な手段)かと思われます。それで、法華経以外に膨大な経典が存在しているのですが、それらは法華経のための一時的な手立て、つまり、仮に説いた教え(方便)でしかないので、それらをいくら拠り所にしても、決して法に順ずることもなく、まったく意味をなさないのです。
 前置きが長くなりましたが、それで妙法という法則の存在を確かなものとして把握すれば、その人は『目覚めた者=ブッダ=仏陀=仏』となるのです。本来は、仏とは上記のような意味なのに、いつの間にか仏教を金儲けの道具にしたり、坊主の食いぶちでしかない葬式仏教に堕して、仏という言葉を悪用、誤用するようになったのです。
 ともかく、法を悟った者を仏としても、別に崇めたり、拝んだりする必要もなく、その法自体にこそ畏敬の念を持つべきで、釈尊自身も「依法不依人(えほうふえにん)=法に依って、人に依らざれ)」とはっきり説いているのです。
 ですから、自ら仏だと言うのであれば「妙法についてどれほど知悉しているか」「妙法に順じて、どれほどすばらしい確証を得たか」等を自問自答してみたり、あるいは仏だ、ブッダだという者がいたら、「妙法とは何だ」「法華経の真髄を聞かせてくれ」「釈尊の真意はどこにある」など、いろいろと質問されては、どうでしょうか。
 いずれにしろ、妙法こそ最第一で、それを悟った者は仏とはいえ、その伝達者に過ぎないのです。

この回答への補足

 abc2008さん ご回答をありがとうございます。
 はじめましてですよね。brageloneと申します。よろしくお願いいたします。

 わかります。じゅうぶん分かります。一つひとつ おっしゃっていることは分かるのです。そして この質問の少しひねくれた趣旨とは 微妙に異なる・・・このようにまづ 総じて感じています。

 少し重箱の隅をつっつきますが どうなのでしょう。無明とその順転としての明知について わたしが 《Q:〈我れ〉はある?ない?》などで教わったところでは たとえば無知という状態があるとします。そのとき その状態のままで その状態つまり無知という自己のありさまが分かる / そしてそれによって ただちに知識を得るということでなくても ソクラテスではありませんが 無知の知を得たその境地が 目覚めだと言うと思うのです。ですから
★ ・・・宇宙はある法則によって、すべては律せられていて、それに順ずれば常楽の境涯になり、それに反すれば苦悩に沈む境涯に陥る、・・・
☆ というとき――ここから詭弁を弄しますが―― 目覚めへの回転が さとりであって わづかに そこに このような順境への転換があるとすれば たしかに《妙法》と呼ぶと思うのですが そこに何ものか 法則としての存在や力があるということではない 仏教はこう言っていませんか。
 というのも 無知の状態という《苦》も 無知を知っている状態になったからといって 必ずしも無くなるわけではないし 《楽》になると決まっているものでもない。むしろ《苦》のまま 回転している。わづかに 目覚めが そこに 起きている。通貨の裏表のごとく 苦と楽とが 空(無我)の法として 推移しているし 営まれている。
 以上は 理屈魔のからみでした。

 さて問題は ほんとうに微妙なのですが ともかく 何はともあれ はじめに《われはブッダなり》という宣言があったということから この質問は姿を現わしています。そうして 自分はこの宣言をするか否か / あるいはその宣言について どう思うか / する・しないにかかわらず その宣言の内容は どうなっているか などを問います。
 ですから たとえば目覚めの内容が 《依法不依人》ということであるとすれば そのとき あなたは 《われはブッダなり》と宣言しますかと問うています。
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 ですから、自ら仏だと言うのであれば「妙法についてどれほど知悉しているか」「妙法に順じて、どれほどすばらしい確証を得たか」等を自問自答してみたり、あるいは仏だ、ブッダだという者がいたら、「妙法とは何だ」「法華経の真髄を聞かせてくれ」「釈尊の真意はどこにある」など、いろいろと質問されては、どうでしょうか。
 いずれにしろ、妙法こそ最第一で、それを悟った者は仏とはいえ、その伝達者に過ぎないのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この最後のあたりなど 最高に胸に迫るものを持っていますが たぶん 質問の趣旨とは 方向が逆のようだと感じます。つまり 一たん《ブッダ宣言》をするか否かを明らかにしてからでないと――そのあとに さとりの内容を吟味するという順序と方向でないと―― どこまでも 相対的な悪い無限(切りのない議論)に陥るように思うのです。
 こちらも《ブッダ宣言》をするというのは たしかにお見通しのように 方便です。目的は 一つに 経験思想かあるいはそれを超えた信仰の問題か これを明らかにすることです。
 というような魂胆を この質問は持っています。いかがでしょうか。

 つまり――まだ 単なるいいがかりをつけただけですよね―― ブッダを宣言するしないは問題ではなく ブッダだと自認するならそのさとりとしての妙法が問題なのだから そのことを大事にしていけばよろしいと おっしゃっていると思います。(これまでここで言って来た《第三の道》を志向しておられると考えます)。このとき この妙法が たとえば たしかに人間ではなく(従って ブッダ崇拝にはならないのだけれど) 仮りに《仏性》というふうに言いかえたとするなら どうなるかではないでしょうか。
 つまり こうです。もし信仰だとするなら この仏性は 宇宙の根源的な法則とも言えるように けっきょく《絶対》のことです。もしそのように超自然や超経験のことは扱わないとするなら 仏性も法則も空も無我も すべては 日常生活の中のふつうの人間の知恵のようなものだとなります。どちらなのだ?という問いになっているのですが いかがでしょうか。 

補足日時:2008/03/12 22:05
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