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和歌山県の中3です。

脳死は治療したら治るのですか?

アメリカで脳死状態で心臓移植中に意識が回復した例が
あるのですが、それはやっぱり誤診なのでしょうか?

ディベートで「脳死は人の死である」を否定するのですが、なにかねじ伏せることができる意見はありませんか?

どうぞよろしくお願いします。

A 回答 (6件)

ディベートをするのによいサイトをお教えしますのでそちらでやる方がいいと思います。


ところで...あなたは脳死をどう思っているのですか?死とおもっているのですか?それとも死じゃないと?

参考URL:http://www.taiketsu.com/
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○ 死は遺族のためのものでもある。



肉体は本人のものかもしれないが、死とは、本人のものであると同時に、遺族が死を納得することによって、本当の死といえるのではないか。

つまり、医者という専門家が脳死という形式によって、死と宣言したとしても、それを生活者が死として実感するまでにはへだたりがある。



○ 現代の自然科学は死を研究対象にしていない。

現代の科学では、死後の霊魂の存続について研究対象としない。
それは、我思う故に我あり。というデカルトの名言によってあきらかだ。

輪廻転生やキリストの昇天など諸説があるが、百歩ゆずったとしても、人間がどうなるかについては、定かではない。
つまり、死について自然科学では研究対象にされていないのだ。
いま、死者がよみがえったりというような事象がいくつか経験されている。また、幽体離脱を経験したなどということを言う人もいる。

ことの真偽はともかくも、そういう人がいる以上、死の定義。生死の境目の研究はもっと進められるべきだ。
このように死の定義についての研究がじゅうぶんになされていない今、人の死を脳死で断定するというのは、早計ではないか。

○ 肉体は滅びても、魂は永遠。人を人たらしめるのは、肉体ではなく魂。
  だから、障害者も平等。

こわれたバイクから部品を抜き取るために、こわれたバイクが修復不可能ときめつける。
この態度が浅薄だといえないのだろうか。

世の中には健常者も障害者もいる。
健常者と障害者がひとしく尊ばれた人生を歩む。それが社会の理想である。
こわれたバイクのたとえ話を、障害者で考えて見るのは軽率だが、それと同じような思想を、脳死に見る事はできないだろうか。

健常者と障害者がひとしくいきる。その理由は、健常者も障害者も等しい魂、命をもっているからだ。
ボディ&ソウル。肉体と霊魂。
人間とは肉体と精神だけで生きているのではなく、肉体と魂で生きている。
もし、魂というのが、人間がつくりあげた虚妄というのであれば、世の中にあふれかえる死者の魂の安逸を願う儀式が、生きているものの感傷にすぎないことになる。
文明未開の民族から先進国まで、はたして霊魂の存在を否定することができるのだろうか。ニューヨークのグランドゼロで、死者の魂などなくなったのだから、追悼儀式など無用と公言することができるのだろうか。

肉体と霊魂。その2元論をないがしろにして、脳死の是非をうんぬんするのはあさはかではないか。

○ 人間は死ぬまで生きることがつとめである。

死ぬまで生きる。そのことが人間の人生の最低限のつとめである。
たとえ、その死で助けられる人がいたとしても、個の死とは尊厳あるもの。ご都合主義にとらわれるべきではないものだとおもう。

基本的には、生と死の違いはあるが、向井亜紀が挑んだ代理出産と同じ背景があると思う。

生きることと、死ぬこと。
そのことを真摯に考えて生きるべき。

○ 臓器提供と脳死の判定は、別の次元の話。臓器提供をしたい人に死ぬ権利を。

そして、本当に、臓器移植をして社会に貢献したいというのであれば、脳死などを待つべくもなく、生体移植をすればいいのだ。
そこまでの意志がないのなら、脳死などによって、臓器移植などすべきではない。

なぜなら、いらなくなったものをあげるのをプレゼントとはいわないからだ。
もし、脳死という死を代償に、臓器提供を受けることが明言されたら、
果たして臓器提供を喜んで受ける人がいるのだろうか。

脳死させたという十字架を背負って生きる。それに足る人生を果たして過ごせるのだろうか。



付記:

わたしは質問者よりも馬齢を重ねたものです。
私の意見の多くは、義母を無くした経験から、つむぎ出されたものであることを付け加えておきます。

勿論、私の意見はひとつの意見にすぎません。
ディベートで他人をうちまかすことも重要なテクニックの習得ですが、
多用な意見をつつみこむことも、日本の社会では求められることだと思います。
まさに、国際社会では、宗教やイデオロギー、生活、習慣など決定的に違う意見の人たちとつきあっていくが求められます。

さまざまな角度から社会を見つめながら成長していってください。



あと、日本人にありがちなのですが、意見と個人は違うことを見失いがち。
激論を交わした友達を、休み時間でフォローすることも重要です。

日本人にとっての発言は、全人格そのものだったりもする。
人は人、意見は意見。そのように分けて考えられるといいのですよね。
でないと、議論のあとにしこりがのこる。
気をつけてください。
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人は精神だけの生き物なのか?



と問えばどうでしょう?
精神と肉体とはよく対比させられ,とかく精神は尊重されがちですが,
両者は共に貴重で尊厳あるものだと思います.
(例えば恋愛で,精神的な関係は肉体的な関係より尊重されますが,
 私は,どちらかに偏重するのは共に良くないのでは?と疑問を感じます.)

つまり「脳死」によって人間の「精神活動」が停止した場合,
その人の物質的な価値は0なのか?・・・と言うことです.
仏教では,親鸞でしたっけ?「肉体には価値がない」とか何とか言っていた
と思いますが,その後弟子たちが死体を尊んだように,やはり一意に価値を
求めることは出来ない「何か」があるように思えます.
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ディベートで自分が優位に立ちたいのだったら、まずは情報収集から始めるべきです。



yukky99さんの場合、脳死の定義を知ることから始めます。その後、脳死を認める学会や団体の理由や主張を調べて内容を理解する。そうしたら自分の言葉で説明できるようにする。この時に気をつけないといけないのは、データや雑誌記事などの出典を明らかにすることができるように準備すること。

これだけだと優位には立てません。相手の動きを予想できるようにしなければいけません。相手がどんなことを言ってくるかを、上でやったのと同じ方法で調べて予測を立てます。そうすると、相手に何を言われても、反論できる下地ができるのです。

学校の授業の一環でしょうか、ディベートの仕方を勉強しているのだったら、柔軟な思考ができることも学習の目的になると思います。それからデータの集め方も勉強になります。

ネットでおおよその見当をつけたら、図書館に行き具体的なデータを集める、こういう地道な努力がディベートで自分を優位に持っていく為には必要です。
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こんにちは 最近では中学生でデベートをされるのですね?


もう何度もデベートは経験されて居るのでしょうか?

なにやら「ねじ伏せる」方法を・・・・という事ですが、デベートは
勝った 負けたの闘いの場ではありません。
善し悪しでは無く沢山の意見や考え方を短時間に出そう!が趣旨だと
私は理解しています。

だからねじ伏せてもしようがないのですが・・・・・・。

脳死に関してのデベートではアメリカ人などの西欧文化な考え方と
日本との文化の違いもあって、気持ちの上でもズレはあると思います。

過去に人の死を脳死とするか、心臓死とするかで議論されました。
せいぜい この辺が切り口では無いでしょうか?
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こんにちは。


ディベートとは、討論の形を取ったゲームです。
当然、相手の立論を予測し、崩す必要があります。
ただがむしゃらに「脳死は死じゃない!」と言っても軽くかわされます。
どちらの立場でも大丈夫なくらい突き詰めた理論立てをすると、
自然に双方の弱点も見えます。

今回の場合は、医者の間でも学術的な見解は分かれますので、
下手すると平行線になりかねません。
ですから無理に生態学的な「死」を扱わず、精神論で攻めますね。
つまり、患者や家族の意志です。
「死んでいるかどうか」ではなく、「死として扱うかどうか」ですね。
そして、どちらの方が本人や家族のためになるか、を論じます。
脳死に対する意識調査のデータは図書館で探せば見つかるでしょう。
「厚生省」のホームページでも良いかも知れません。

余談ですが、僕は競技ディベートの時には、敢えて「隙」を作ります。
おそらく時間制限があるでしょうから、向こうにそのばかり攻めさせて、
後半で一気に資料を提出して全て覆します。
あとはもう、こっちのペース。焦ってる敵を後目に悠々と攻めます。

以上、黎明期の競技ディベート経験者より。
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