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気分のいい話ではないですが お尋ねします。

口減らしのため 生まれた途端に間引きされた子は こけし人形を生まれしめ そのあと座敷わらしを語りつがしめました。
 堕胎のばあいの水子は 河童となって自らの霊をこの世にただよわせたと言います。

(ちなみに 座敷わらしの場合は ほんものの幼児が家の中で育てられていて そこにいる気配がするという事例も 別様にあるそうです。村で決められた間引きをしなかった・それでひそかに育てていたという場合です)。

一種の社会政策として 食い扶持を減らしたという場合は ゆるされませんが 咎められないかも知れません。
 けれども 妊娠中絶という子殺しは 認められるでしょうか。これまでの事実を認められないと言おうとするのではなく 何かいい方法はないものかと考え合いませんかという質問です。

日本人は これからも世界の隅々まで さらに出て行って そのよさを発揮する機会が多くありそうに思います。われわれの社会生活の仕方といったことの歴史的な伝統を誇ってもよいし そのよさを伝えて行ってよいと考えます。

そのとき ふと この水子すなわち河童の話しが われわれの前に立ちはだかっているのではないかと思いました。
 世界に出ると言えば 共生という意味で 人を愛し得ることは 不可欠の条件であるはづです。それには 水子のような習慣を 平気で たずさえていては 生存の基礎がゆるがせになっており これでは 人を愛し得るか はなはだ疑問になります。

このような点について みなさんの忌憚のないご意見をうかがわせていただきたいと思いました。よろしくどうぞ。

A 回答 (6件)

妊娠中絶という子殺しは 認められるでしょうか。

事実を認められないと言おうとするのではなく 何かいい方法はないものかと考え合いませんかという質問です

ですね、中絶しないで済む方法はあります。養子です。育てられないというだけで見殺しするのは辛いのならそういう手段もあります。
事情があってどうしても生めない子供を宿しても産婦人科に行き、妊娠が確定しても「育てられません」と相談します。何らかのルートで「養子コーディネーター」を紹介してくれます。出産までコーディネーターから養生費は渡されます。しかし、産んでから我子を抱くことはできません。「やっぱり他人に渡したくない、私の子供です」なんて情が湧いたらいけないからです。戸籍のない幼児のパスポートというのも実はあって外国へ渡ることもあります。人身売買がましなのか中絶か…悩ましい問題ですが。そういう知識は学校では教わりません。知らずにやってしまうと知っていて犯すことより遥かに危険です。教育現場でそこまで突っ込んだ性教育をするべきですね。

以前読んだ朝日新聞出版「海を渡る赤ちゃん」からの情報
実は日本人の子供というのは最も高値で取引されています。色も白く、薬物や病気のリスクが少なく性質も穏やかで育てやすいと信じられているからです。韓国は養子に出すことが多いので有名ですね。アメリカは養子受け入れ大国ですが「自由の国」というはすでに幻想で、犯罪、差別、格差、控訴、自己責任と社会が冷い反動で庶民の個人レベルでのボランティアが盛んなのですよ。日本は人的なボランティアより社会の体制を整えることで誰でも自由に行きたいところへ行き話せるよう政治が動いています。だから日本は今でも充分根明だと思っていますよ。

昔は日本も家庭の事情で子供を家庭に養子に出したり奉公に出したりしましたが、行政の支援が整っていなかったから庶民の間で助け合いは当然のこと。今は血の繋がりや戸籍が違うと相続で揉めるとか、世間や家族にも気にしてしまいますが、昔の大衆は根明でもっと大きな連帯感があったのです。価値観が大らかでしたね。

昔の口減らしにされた赤ちゃんは最も弱者です。しかし親も強くあれなかったのです。弱いものがもっと弱いものを助けては共倒れるばかり。弱者不存在という世界は理想のようで、無理です。知識や経験や利己心を使って人を傷付けないという大衆が権威ある強い国に必要な人だからです。

弱いものを助けるなら強くなければいけない。そういう道理があるので個人で出来ないことは行政が、行政が動かなければ大衆からの革命家を待つしかないのかもしれません。

この回答への補足

《中絶からの心の回復/体験談集》を全部よみましたが この件で 声をかけようという希望は失せました。考えていくかもわかりませんが そして 社会政策は 必要でしょうが わたしの努力は あきらめました。
 みなさん ありがとうございました。

補足日時:2007/12/05 13:48
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この回答へのお礼

mido-desiさん ご回答をありがとうございます。

何もしない革命家を自認してから もう久しいですが 行政は 動かないのでしょうかねぇ。

昔の日本人大衆は 立派だとなりますね。

中絶か人身売買としての養子かでは困ったものですね。ひとごとみたいで つまり何も知らなくて 申し訳ないですが。

なにか施策というよりは いい考え方がありそうに思うのですが。

あと 行政がだめなら 民間で 金持ちから寄金を募って 大々的に 生活援助と養子縁組みを実現させることも 考えられそうですが。

・そうですか アメリカはひどいですか。関係ないけれど やはりメートル法を実施しなきゃだめだと思うのですが。それで 少しは謙虚になるかもと。

・男の意見をも巻きこんで 新しい思想へと進めることも大事かと。

・弱いものを助けるという感覚はありません。誇るなら 弱さを誇ろうと言って進みます。

お礼日時:2007/12/04 20:52

質問のお礼が滞っているにも関わらず、宜しくお願いします。


質問も回答もお礼も好意あってのことで頂いた善意に報いたいのですよ。そんなに丁寧な仕事は出来ないものの、時間だけ過ぎていって…いつかその気になるはずですので…(悪気ない変な奴だから)お許しを。

人の一生が死を持って「お終い」にしないのが人間ですね。自然は生きているものの味方というけれど、死者にとって人間がいなければ人生は完全に無になります。肉体は自然から一時的な借り物で還元されるばかりですが、人は唯一の存在を保存してくれますから。

人生の意義というのがあるなら、「どう生きて何を愛し守った人か」という能動的な側面と「どれだけ生かさせようとされたか、愛され守られた人か」という受動的な側面があります。

生を受けると誰もが何時か死ぬので、人生に残される問題は「個として能動的な生き方」より「種として受動的な生かされ方」の側面が命を尊重させているものと思うのですよ。極悪人でもずっと想われてしまう人もいれば、資産や子孫を多く残しながら記憶力の乏しい人ばかりにしか会えなかった人もいるでしょう。あ~無駄に生きてしまってすみません(太宰治風)

例え一世紀の寿命が与えられていても、誰にも愛されず生きる気力もなくなり「死に損ない」呼ばわりされるなら死んでいいはずなのに死んでも人生に後悔が残りそう。

死に児の年を数える人が居て、小さな未熟な容も消え、恩返しも何も出来ないままなのにずっと想われてしまうわれる水子の人生というのは無駄なものすら得られなかった、自分より強いものを生かそうとし死んでもいく儚さ。親がそう感じるのも水子にとっての人生ではないかと。そんな関係を責めてもしょうがないですし、なかったことにして忘れてしまえるほどなら「想われる」受動的な人生はなくなります。死からの逃避が芸術などの執着に現れるとして、存在の消えた死からの出発が「想い、祈り」なのかも。

水はES細胞とか考えますね。何にでも成長する可能性がある。水子も可能性一杯ありましたもの。胎児の内に胎内で手術するとアポトーシス(細胞死)しながら成長しているので傷が残らないそう。

娘は胎内記憶があったのですが2歳当時お腹の中の様子を覚えてましたよ。進化と五感が分離する過程の途中だったので視覚や聴覚、嗅覚、触角が混沌とした世界で光りも音も全身で感じどこもかしこも見ていたようなことを言ってました。これは難産だったので出産の時に出るホルモン不足による難産(微弱陣痛)だったので胎内の記憶を消す(普通は出産時のショックで消える)作用も弱まってるせいなのだそう。割とよく覚えている子はいます。でも3,4歳になると忘れるそう。もったいない?

カッパは梅田の「かっぱ横丁」のカッパのほのぼの親子ぐらいしか知らなかったです。勉強になりました。

この回答への補足

ANo.1の方の参考URLからの情報(*)について考えたことですが この最新欄に述べさせてもらいます。

*《中絶からの心の回復体験談集》
http://www.556health.com/voicemessage/recovery_f …

不倫・浮気をめぐって 同じ言葉で嫉妬すると言う場合 それでも 男は一般に やめてくれというものです。(嫉妬が起きるかぎりで)。  女は どうも 第三者として割り込んで来た女のほうに目を向けて まづ自分と比較をし始め 競争心を抱いたり あるいは 怒りを燃やしたりするのではないかと思われます。

怒りのばあいには これは 容易には治まりません。極端にまで行きがちです。自分が(つまり 《自分も》という感覚なのでしょうか) 取り返しのつかないあやまちを犯して初めて 納めようというこころづもりになるらしい。

それも 相手の男や あるいは 第三者の女に対して たとえば直接的な行動を取るのではなく――どういうわけか そうでないとしたら―― 自分の力の及ぶ範囲の中で めちゃめちゃなことを仕出かしたいと思うのでしょうか。その一つに 二人の愛(!?)の結晶であるわが子(胎児)に白羽の矢を立てる。これの堕胎へと。・・・

それが証拠に 多くの場合 この今は亡き子に ママを見守っていてね ママに力を与えてちょうだいと言って話しかけています。わが物であれば わが生命の産物であれば 自分に対して 魔法の力を与えることができるはづだとなるのでしょうか。

・まったくの臆測です。そしてこの問題に対する とうぜん 一般論です。

男が手をこまねいていていい法もありませんし こう言ったからといって 性差を問題にしているものでもありません。同じ人間存在であるとするゆえ どちらの性に対しても 問題点は明らかにしていきたいと考えます。

わが子よ 不死であれ 河童となって生きていてくれというほうが まだ 共感を抱けます。

補足日時:2007/12/04 14:39
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この回答へのお礼

miko-desiさん ご回答をありがとうございます。

気分のいい質問ではなかったですね。

No.1のかたの回答を読んだとき これは 問題にすることはなかったようだと 一たん思って お礼を書いていくと それはそれで わたしの関心のあり方が 少し別の角度からのものとして あらためて 浮かび上がって来たのでした。

問題がないとは やはり言えない。さりとて むつかしい。・・・
 《人の一生が〔→を〕死を持って「お終い」にしないのが人間ですね》――これは まだ生きている側の人間が言うことですね。と思います。といったことを きちんと考えておきたいです。そうしないと 日本に誇りを持てないと思いました。〔ほかと比べてではありません〕。

お礼日時:2007/12/04 00:06

昔の倫理観と現代の倫理観は同一ではない。


倫理観は社会の変化により変化する。

と考えないと、理解不能に陥ると思うんですね。


日本史を書いたフロイスは、日本女性が産んだ子供を海に沈め、殺しているのにショックを受けたそうです。

子供を生かすも殺すも、生んだ人次第だった時代があったということが、ここからわかります。


儒学だったと思いますが、年老いた親と自分の子供。
餓死寸前の状態ではどっちを殺すか。
儒教だと子供を殺して親を救う となる。
そして殺された子供は、孝行者だとなる。

優性保護法だと、母体が危険な状態にあり、母体を救うために、中絶をすることを許可していますよね。

では胎児は人間じゃないのか。
生んだ直後なら、生んだばかりの子供を殺した場合、殺人となります。
じゃあ 胎児の場合は。


かっぱが水子とされたということは聞いたことがありませんが、流産した場合、水子供養とかしますよね。
つまり流産して死んでしまった子供は水子と呼ぶケースもある。
でも本来は、幼児が死亡してしまった場合も水子とされたようです。

いくつの時に認められたかというと、、、
753ってのがあって、それの7歳か7歳で、一人の人間として社会で認められたようです。
恐らく自分で自力で食べ物をとってきて食べれる歳が、そのくらいだったからじゃないかと。


で、フロイスの記述を読んだ人が「日本は子供を養育できないと、生んですぐ殺す野蛮な国である」と思ったとしたら、「それは昔のことで、生きるか死ぬかの壮絶な時代の話で、今は行われておらず、それをやった場合は、刑罰に処せられています。」と答えるべきだと思うんですね。


日本の文化の一つに妖怪文化がありますが、各地で細々と伝えられていた妖怪伝説を、ちゃんとした妖怪文化として確立したのは、日本人じゃない。

小泉八雲氏。


今でも水子供養というものが存在しますが、それは子供を失った人の悲しみを軽減するためにあると思うんですね。

ところが、それを霊感商法として悪用して稼ぐ業者が現れだし、人の不幸を食い物にするようになった。
本来は慰めのための供養が、金を払って供養しないと水子に祟られるとうそぶいた。


河童は閻魔大王と同じように、大陸の河童の文化が日本に入ってきたからだと思うんですね。

河童にシッポを抜かれるとされた理由も、死ぬと、、、なのでシッポを抜かれたように形がなるので、川で溺れた子供はかっぱに尻尾を抜かれたとなったのではないかと思います。
それだけ水死が多かったのではないかと。
だから子供達にあまり川に近づいてもらいたくなかったので、そうやって子供の恐怖心を利用して、子供が不注意に川に近づいて溺れないように保護していたんじゃないかと。


座敷童子は、東北で昔新生児を間引いていたということから関連づけられているようですが、間引きていたのは東北地方だけではない。
なのに、東北地方に座敷童子の話があるのは、何か呪術的なものと関係があるような気がします。


いずれにせよ、キリスト教がキリスト教以外の人々を平気で殺していた時代があったように、宣教師が奴隷を買って使っていたように、昔の倫理感と今の倫理感は違う ということを前提に外国の人に質問されたら答えなければならないと思うんですね。

暖かい部屋で3度の食事を取っている人にとっては、間引くなどむごいことですが、草さえ食べつくして、食べるものが無い情況で、子供が徐々に餓死するのを、ただ待つしかない状態より、それほど地獄をかわいい子供に味合わせたくない という心理も働いたのではないかと思います。

じゃあ セックスするな と言いたいところですが、、、、
避妊の方法は考え出されたようですが、うまくいかなかったようです。
今でも避妊をやっていても、できてしまう人も多く、既婚者のかなりの数が中絶の経験者だそうです。
60%だったか70%だったか忘れましたが、過半数以上だったと思います。
で、結局 子供を産んで育てるのは母親で、子供のことは母親の判断次第だったという時代があったのも理解できます。

夫が「なんとかするから」という後押しをしてくれたら、海に沈めて殺すということもしなかったのではないかと。
もしくは女性に相続権があった時代では、女性が生まれる子供の生死を決定する権利があったのかもしれません。


タブーとして語られない類のものですが、恐らくこれは日本だけではなく、諸外国でも女性が子供の生死を決める権限があり、弔いの風習もあったのではないかと思います。

とにかく、昔は生まれたものが、人として社会の構成要因として認められる年齢は、生まれてすぐじゃあなかった というのがポイントです。


日本に慰安婦問題でも、女性に売春させるなんてひどい という現代のモラルではとうてい理解できませんよね。
戦時中は娼婦を買うことは悪いことだという考えはあまりなかった。
現地業者が農村から娘達を買いあげてきて、日本軍に慰安所を提供していた。
売られた娘達たちはどこまで理解していたのか不明ですが、親が娘を金に買えていた。
それでサービスを提供されて悪いことじゃないという価値観で日本兵は買った。

日本だって何度も農村の娘達が、貧困のために口減らしとして売られていましたよね。
それをキリスト教は買い上げて、諸外国に売り飛ばして稼いでいた。
だから現代のキリスト教も売春組織かというと、違いますよね。

だから、それを問うときは、あくまでその当時のキリスト教のモラルのありかたについて問うわけで、即現代のキリスト教は売春組織だ 思い込むのは正しくない。

といっても、ポルノや麻薬組織の株を買って儲けていたのがバレてしまい、10年ほど前にひと騒動あったようですが、シッポ切りをして、バチカン自体が直接ポルノや麻薬で金を儲けているわけじゃないと逃げ切りましたよね。
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この回答へのお礼

kigurumiさん ご回答をありがとうございます。

昔と今では 生活情況が違っていますし 倫理観も変わって来ました。

生まれるとすぐ産湯につかるのではなく水の中に沈めたというように間引きした場合も 水子というようですね。

河童は――Wikiでは―― 日本でも 西と東とで起源が違うと言い それぞれ猿だったり 人形だったりとしています。必ずしも はっきりと しっかりわかる起源ではないように感じます。また 水子との関連については 触れていますが 抑えているようですね。

この問題で いくらか考えて来て 一つ思えることは やはりまづ 何が何でも 胎児を死なせるという行為だと認めなければならないし 自覚することから始まるというようなことです。
 まだよくわかりませんが そのことを省いたりあいまいにしたりすると 話しは始まらないように思います。

お礼日時:2007/12/03 17:03

河童=水子 というのはある種のイメージ的な捉え方であって、


歴史的(科学的)な考察とは異なるものではないでしょうか。

私の考えている河童とは、農耕の治水工事に携わった朝鮮半島からの来日集団のイメージが元になった農村信仰のように感じています。
おそらく人里から少し離れた場所に居住集落をつくり、時々は村人との交流もあったはずです。

なにしろ言葉や習慣が異なるので、胡瓜(きむち材料?)が好きだったり馬の扱いに長けていたり(騎馬術?)、
なにより治水工事の技能集団なので村の収穫に貢献するという意味では「少し怖いがバカにすべきではない」存在だったと想像できます。

こうした集団は河童だけでなく、さらに古くは製鉄技術をもったタタラというのも存在しました。
屈強な肉体&炉を覗いて痛めた片目、などは鉱山のある山間部に集落を構えていた彼らに出会った人が妖怪伝説としてもイメージしました。
同様に「少し怖いが尊重すべき存在」だったはずです。

日本は古来から、新しい技術を取り入れるときに来日集団を利用してきました。
古くからの八百万の神信仰ですら、各地の集落の神々を尊重した結果でもあります。
(そういう点はインドのカースト制やヒンドゥー教にも当てはまりますが)

皇族制度が確立した時代も権力の中枢にあったのは来日集団ですから、
日本の人の神に対する畏怖心は土着的な妖怪伝承にも反映されていると感じます。
河童=水子 のイメージがあるとしたら、やはりそういった非業の死に対しての畏怖の念(懺悔の念)が河童に重なったものではないでしょうか。

民俗学的な考察に興味が無いような欧米人に「怖いが尊重すべき存在」の意味を説明するのは手間が掛かるように思います。
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この回答へのお礼

o-saiさん ご回答をありがとうございます。

民俗学はおもしろいと思います。谷川健一につきあっていると もう時間が 一生では足りません。(だから 途中で 止めました)。

河童=《農耕の治水工事に携わった朝鮮半島からの来日集団》というのは そのかれらが 《人里から少し離れた場所に居住集落をつくり》というところが 腑に落ちない感じがしますが――なぜなら 国が招聘したのなら そんな所に住んでいないように思われるので―― これも 面白いでしょうね。

おそらく よく言われるように 《稲と鉄》がやってきた。このような渡来によって開けたのでしょう。(縄文を低く見るつもりもないですが)。

ただ このような民俗学の問題は いま 別だと考えます。河童が 水子とはかかわりないとなれば それはそれで 堕胎の問題が続きますから。と思いますが いかがでしょうか。

お礼日時:2007/12/01 19:24

日本文化の和の精神に限らず、多神教の世界には西洋的な観点から視すると、生も死もどこに境界線を置けばいいのかよくわからない、交ぜにされたドロドロした世界に見える部分がありますね。

水子をもカミにして済ましている、ジャパニーズホラー(?)をどう解決するかですが、、、

ただ、西洋史観で進んできた近代への投石として、東洋文化が混じると考えればよいのではないでしょうか。東洋と西洋が合わさって別の思想が生まれることを建設的に考えていけば良いのであって、バランスのとれた世界共生の思想を生み出せばよく、自らのアイデンティティが持つ(世界的な共生という視点から伺える)負の遺産は、それはそれで受け入れるしかありません。

日本文化をすべて受け入れて貰おうとせず、ジャパニーズホラーは西洋的な死生観から世界的に非難すべきなのかもしれません。つまり、それぞれの文化が持つ共生に不便な思想を切り捨てて(一神教原理主義にそれが可能かどうかはともかく)、混合した文化から生み出せばよいと思います。

それが和の精神ですよねぇ(たぶん

この回答への補足

《和の精神》ですが これは言うまでもなく 《排除の論理》ではないわけです。

ところが 《親の責任をきちんと果たしたいので 家族構成をなるべく希望するかたちにしたい》 ここまでは わかります。そしてバース・コントロールをすることも わかります。これが 一転して 望まれて生まれてくるのではない場合には やむなくだが 中途で排除するという考え方になるんですよね。

口減らしではないですが これ以上は育てられないということであれば これも 昔と同じように 社会政策の問題になるかも分かりません。これも 共生のための幅広い社会的な見方が必要なのかもわかりません。

中絶反対の人は 何が何でものようですが そしてその目的を達するためには手段を選ばずのようですが 案外 妥協の余地は見出せるのではないでしょうか。その点でも 和の日本人が 世界に出ていってもいいように思いますが。そのためには まづ みづからの社会の問題として もう一度考え直しておくといいでしょう。

・《日本人は》という言い方は 《〔まづ〕日本において日本人として》という意味です。

・《生も死もどこに境界線を置けばいいのかよくわからない》ということはないと思います。あいまいにしておくというのは 《よくわかっている》ことですから。

・《ジャパニーズホラー(?)》のことは よくわかりません。映画・アニメ・TVドラマなど これから 少しは意識して 見ていこう(知るようにしよう)と思います。

・《多神教》というのは その数だけまとまり一定した《一神教》です。そうでなければ 世の中には 《多神なる一神》の人と《唯一神》の人とそして《無神》の人とがいるという意味で共生の状態にあるはづです。つまり 日本人の言う多神教は その多神の中の一つに《唯一神》の神も入る・入らなければこの国に住むなというものです。和の精神のようでいて 排除の論理がはたらいています。《ちがいはゆるさない》ようになっています。

補足日時:2007/12/01 19:12
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この回答へのお礼

adaypajimyさん ご回答をありがとうございます。

時間が 午後三時半あたりから 取れるのですが いま お礼を申し述べて あとで 少し細かくお応えいたしたいと存じます。

★《東洋と西洋が合わさって別の思想が生まれることを建設的に考えていけば良いのであって、バランスのとれた世界共生の思想を生み出せばよく・・・》
――まさにこの方向をねらっております。しかも その仕事を いま 具体的に 考え方の上で そしてつまりこの質疑応答をとおして おこなっていければというのが わたしの偽らざる魂胆です。

★《負の遺産は、それはそれで受け入れるしかありません》
――そして しかも 前向きに それこそ《和の精神》で 考えていこうというものです。
 それによれば 過去の負の遺産に対してでも――こけし作りをとおして 福をもたらすという座敷わらしの思想を生み 前向きの生へと転換したような歴史に見るように―― 考え方の上で あたらしい思想を編むことができるかも知れない。こう思います。
 それには 《和の精神》じたいについても 掘り下げて 追究する余地があるように思います。
 不一にて。

お礼日時:2007/12/01 12:12

えーっと・・・すいませんがひょっとして堕胎とか中絶とかは日本独特の風習だと思われているのでしょうか?? しかも水子というのは行為ではなく、死生観や魂に対する宗教的な価値観の話ですよ。



中絶というとで言えば、日本でもそれは仏教的価値観でもタブー視されています。イスラム教はより厳格に禁止で、キリスト教だとカトリックは非常に厳格よりで、プロテスタントは緩やかです。ただカトリックの原理主義派だと中絶を行う病院を爆破したりなど、より別の意味で暴力主義的で過激だったりします。
※こういった宗教観の話で言えば、例えば家畜に対してはキリスト教の方がより残酷というか身勝手で人間中心主義的ですし(牛や馬を殺すのがよくてクジラがダメなのは神様がそう決めたからです)、仏教の方が何でも魂というものを認めてしまいます(非生物にすら認めますから)。

ただこれらはあくまでも建前的な話しでしかないので実数でどれだけ中絶が行われているかというとアメリカは日本の数倍以上です。
http://blogpal.seesaa.net/article/5264766.html
http://japan-lifeissues.net/writers/war/war_01cr …

宗教が建前になるのは特に先進国であれば当然でしょう。そもそも宗教というのは非科学的なものですから、宗教的価値観が生活レベルにまで強い規範をもつのは後進国となってしまいます。つまりこれには女性の権利や地位の問題もからみます。イスラムが厳しいのは単に女性の権利が低いからですし、アメリカはプロテスタントが主流ですが、プロテスタントだから規範が緩いというよりは女性の地位が高いからです。

で水子というのは、また中絶や堕胎とは全く別の価値観からでてくるものです。これは仏教的なもの。イスラム教にはあまり無いようです(そもそも中絶が厳禁)が、キリスト教ではそのまま天国に直行するという解釈と洗礼を受けていないので幼児用の地獄行き、あるいはもう少し緩やかな地獄に行くという解釈もできます。
こういうのは死生観や霊魂に対する価値観の話なので、特に何が問題というものでも無いと思うのですが。宗教の違いがあるというぐらいで。水子みたいなものが存在するという考えで何が問題と思われているのかが良く分かりません。
欧米礼賛主義の人には向こうと違うというだけで何か間違っていることをしていると思われてしまうのかもしれませんが、もう少し自国の文化なり価値観なりがどういう成り立ちがされているのかというところから考え直された方がよいかと思います。
例えば水子思想というのはアメリカ人には好意的に見られているという話もあります。
http://d.hatena.ne.jp/okumi/20060509

この回答への補足

popesyuさん ご回答をありがとうございます。
 お見通しだったように 中絶問題には素人です。全体観と研究蓄積に基づいて 参考意見を寄せていただき 感謝申し上げます。参考URLについても勉強しました。

けっして 他国との比較だけから 日本の中絶をめぐる事情が 悪くないというのではなく この問題じたいに即して 現在の日本のあり方は 人間の為しうる範囲で よくやっているということになるでしょうか。広く社会政策・文化施策として 家族の適性な規模の形成・親としての責任をまっとうする仕方において 妥当なあり方であると。
 また その事態をめぐる価値観のあり方については 多様でもありえて また 別の問題である。そこに議論はあまり成り立たないと。

  自分たちの勝手で この世に生きられなくなってしまい本当にごめんなさ
  い。本当に生むことが出来なくてごめんなさい。どうか私達二人のことを
  いつまでも守っていてください。一生このことは忘れません。

この絵馬に書かれた思いが すべてを語っていると受け取るべきでしょうか。既成事実となったあとでは このような祈りで歩むことになるでしょうか。
 ということは 事前の事情や事態をこそ問題とすべきでしょうか。
 わたしが関心を持ったのは こちらの方面ではなくて 水子思想のほうです。

河童を物語として持ったことは 《忘れない》という祈りを表わしていると思います。それでいいと受け取るべきかも知れません。
 酷な言い方でしょうけれど 供養というのは 後ろ向きの文化だと思います。河童は きちんと丁寧に思いつづけた結果だと思います。そして もっと 前向きで心の晴れる文化はないものかというのが わたしを質問へと促した問題です。
 ちょっときびしい問題のあり方になってまいりました。こけし制作と座敷わらし伝説は――もう間引き問題を 解決したので さらに 晴れ晴れしくなったと思いますが それ以上に―― 自分たちで 克服する文化もしくは物語を編み出した結果だと思ったのでした。それに匹敵する水子の物語がないだろうかというものでした。
 中途半端ですが ここまでをお礼のことばとさせていただきます。

補足日時:2007/12/01 01:59
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