アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

仏性というのでしょうか それは 絶対の境地なのでしょうか。

それとも 人間であるかぎり ゴータマ・ブッダとて 絶対だとは言えないでしょうか。

あるいは 生命だとか慈悲というのでしょうか そのような普遍的な力とそのはたらきとしてのブッダは 絶対の存在なのでしょうか。

仏教は 絶対という概念をめぐっては どういう立ち場なのでしょう。是非とも知りたいと存じます。ご教授ください。

A 回答 (14件中1~10件)

bragelone様 いつもお世話になります。

恥ずかしながら私は「添削」をするほどの者ではありません。寧ろ、自分の内奥を確かめるように投稿させて頂いていますので、(毎度申し上げますが)参考程度にご覧になって下されば幸甚です。当然、ツッコミどころ満載だと思います(笑)のでお手柔らかにお願い致します。それでは宜しくお願い申し上げます。

> 今回の質問は まったく単純なものなのです。《〔世界が世界の〕「全一」に帰す》とき――おそらく個人としても 即身成仏を得たとき―― これは 絶対者の信仰としてあるのか それとも 経験存在としての瞑想と思考〔のみ〕によって実現するものなのか これでした。

○まず、ご質問の【 絶対者の信仰としてあるのか 】 それとも 【 経験存在としての瞑想と思考〔のみ〕によって実現するものなのか 】 につきましてです。失礼を承知でご質問をもう少し噛み砕かさせて頂くとすれば、「絶対」は 【 信仰の先にあるのか 】 それとも 【 瞑想と思考の先にあるのか 】 …と理解して宜しいでしょうか?

私は「絶対」は仏教だけのものではないと考えています。先の投稿に【 絶対 … 対(つい)を絶する 】とさせて頂きました。ビッグバン理論に於いては「宇宙の大火事」とされる状況下に「粒子」と「反粒子」の対発生とその同時消滅(生滅)によるエネルギー変換(光子、電磁波やガンマ線などに変化されると言う)の中で、10億分の1の割合で「粒子」の方が多く発生するそうです。この余った「粒子」の離合集散の成れの果てがこの現実世界です。つまり我々が「物質としての大宇宙(21世紀に生きる我々がどの程度 大宇宙の総てを認識出来ているか かなり不透明ですが)」と認識している世界が「絶対」の揺らぎが作り出した「10億分の1の滓(カス)」でしかないと言う「現実」がココに横たわっていると思います。また、恐らくビッグバンの特異点以前が「絶対」の状態ではないかと私は想像しています。つまりどんなに足掻こうが 我々の世界は「絶対が蠢き(この時点で絶対ではありませんが…)対発生した「粒子」と「反粒子」が同時生滅したエネルギーのスープに漂う10億分の1の滓(カス)の成れの果ての成れの果て…という程度です(笑)。――― (1)

話が逸れたようで申し訳ありませんが、序でにもう一つ。「水」に「馬鹿野郎!死んでしまえ!」…と罵詈雑言を投げ掛けると「水」の結晶が歪むそうですね。反対に「お水さんいつもありがとう!」…と嬉しさや感謝の言葉を投げ掛けると綺麗な結晶になるそうです。これは我々の想念のエネルギーが「水」に影響を及ぼしたと言う好例だと思います。何が言いたいのかと申しますと、我々は想う(※敢えて「思う」とは書きません。理由は後述します。)だけで物質に影響を及ぼすことが出来ることをあまり認知していないと言うことです。――― (2)

さて、「絶対」は 【 信仰の先にあるのか 】 それとも 【 瞑想と思考の先にあるのか 】に戻ります。これから先は私の自論であって正誤は定かではありません。いつも申し上げますが参考程度にされてください。私は「絶対」については先の投稿の通り【 絶対 … 対(つい)を絶する 】の状態をさすだけのことで、それ以上それ以下でもないと考えます。つまり、本来「絶対」は「絶対」であって「絶対」以外の何者でも無いと言う事。仮に「絶対」≒「空」とした時に補足として【 「空」を「空」と名付けば「空」 】で無し…を以って、究極のエネルギー状態を幾らかでも垣間見ることが出来れば…と、淡い期待を持っています(苦笑)。瞑想と思考の先にその境地(感覚と体解)があると思いますが、恐らくそれだけでは足りないとも思います。因みに修行の入り口として、何も知らない時分には「信仰(仏教的には「信心」でしょうか?)」は当事者にとって「行」の推進力にはなるとは思います。大事な事は体験を伴った「結果」を積む事だと思います。

以前、真言密教のお坊様に「行」とはどんな事をされるのですか?…と尋ねた時、さらりと「加持祈祷だね…」と言われた事がありました。その時は「何だぁ、座ってムニャムニャやるのが修行かよ~(失敬)」と半ば呆れた感覚があったものでした。しかし、かなり端折って言いますと「――― (2)」の見解からすると「想い」をある次第に沿ってキチンと行じる事で現象界に何某の影響を及ぼすことがある(出来る)のは事実だと認識する事が私にはありました。その後、幾度か似たような体験をさせて頂く中で「神仏」の実在を認識しだして来ている状態です。これは体験から来る「認識」なので、実の所「神仏」を「信じる」という状態にありません。寧ろ、畏れ多いかも知れませんが「信頼(神秘の実在として確かにソコにいらっしゃる!)」の状態です。ですから、常に「神仏」の眼があると思うと日頃の行いも自然と襟を正そう(どだい知れてますが…汗)とも思えるものです。出来得れば、我々は眼に見えない世界が実在として我々の日常と直結し、影で支えていると言うことを良く知る必要があると思います。その過程に於いて「絶対」の何たるかを知る事は重要ですが、所詮は一通過点に過ぎないと思います。初めは信仰(信心)を推進力としても、「行」(利他行による体験と結果の積み重ね・瞑想による内観・妄想に走らないよう教理を修める)を積むことで神秘の実在を掴み、しかもその総てすらも自らが作り出した所業(かなりブッ飛びますが)に過ぎない…と体験を持って知る事が涵養と考えます。

> すべては――人間存在のあり方としては―― 対の関係なる両極の世界での経験行為〔のみ〕だということでしょうか。

○先の「自由意志について(http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3286135.html?ans_cou …)」でも述べさせて頂きましたが、総ては自内証の顕現として「自己の内外を整える」と言う事に尽きると私は思います。(これは世界平和にも繋がると思いますが如何でしょうか?)

> 《「仏陀」は「絶対」では無い》と見ておられることは 信仰ではなく あくまで 修行であり学問であり いわゆる自力であるという理解でよろしいでしょうか。(自力を 依他起性に還元したあとの自力でしょうか?)

○うる覚えですが「自力」と言う言葉は元々無かった…かと。末法思想が蔓延った平安末期~鎌倉期に民衆救済の為の「他力(ひたすらにすがれ)」に対しての「自力」として記憶しています(違ったらゴメンナサイ)。仮にこの場合に於いて「他力=信仰」とした時には「自力=修行・学問」と映ると思います。しかし神仏と加持が為される場合には「自力」であり「他力」であると申し添える必要があると思います。これは神仏の「加」と行者の「持」、そして祈願者の共同作業であると聞いているからです。

> 難行・易行でよろしいのでしょうか。

○気付きはゴロゴロ転がっていると考えます。「行」に優劣もないと思います。ご自分に合った「行」を為さるのが宜しいと思います。大事な事は独りよがりにならないことかも知れませんね。

※『想う』と『思う』について。『想う』は唯識的には現行(げんぎょう)の「眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識」により醸し出されたものと思います。『思う』は遠くは「阿頼耶識」の発露であるが「末那識」的インスピレーションの萌芽だと思います。是により『想う』は『思う』より周波数は粗く、より肉体的感覚に縛られた物だと理解しています。『想い』を整えて「阿頼耶識」へ より周波数の細かい「種子」を植えつけたいものです。

以上、長々と失礼致しました。どうぞ宜しくお願い申し上げます。(謝)

この回答への補足

bonnnou03さん 今回は特に 自分の単純さを知らされました。

わたしの言う信仰とは――単純なところをさらに極端にしますが―― ブッダ あるいは キリストという名(名字)を聞くならば 即 信仰が与えられ 自己還帰する(わたしが わたしである / わたしが わたしする)というその発端と力とそしてその後の持続過程です。つまり 文字通り 即身成仏です。名字即=究竟即です。

そして この自己到来が実現したとき (1)上の場合のように 信仰によるとするならば 絶対者のはたらきだと 自己に説明するでしょうし (2)もしそうでないとするならば 人間の能力によるという場合だろうと見るものです。

たとえば こうであるはづです。すなわち 信仰の場合には すでに信仰を得ていて 宇宙発生の特異点以前は ああ これは 絶対であるなと捉えますし そのとき 今回述べられたところとの違いとしては こうだと思います。すなわち この絶対が ゆらぎをもって 宇宙として物質として生成し始めたというのではなく そうではなく 絶対は そのまま この経験世界としての宇宙を超えて 存在すると表現するかたちです。絶対者に 時間的な初めや終りはなく 空間的なかたちもなく それを超えているのだと。

そうなると かなり 違って来るようですね。印象としては 唯識は 自然科学を飲み込んだこころの学問と映ります。同時に 全一への帰一に実践が伴われているのですね。

わたしの信仰に 修行は 究極において いっさいありません。即身成仏ゆえです。それで 永遠の現在と言っていました。《信仰の先に絶対がある》のではなく 《ある日ある時 目覚め わたしがわたしする。そのあと 経験思考が あらたに 始まり 生活してゆく》です。そこに 強いて説明をつけるとすれば 絶対者のちからがはたらいているというものです。たぶんと言いますか 表現としては 虚構です。

きわめて単純です。その単純さを知らされましたし こんなにちがいがあるとは 思いもしませんでした。おそらく 唯識では 難行・易行を合わせての道だとおっしゃっているのだと思いますが こちらは まったくの易行です。名誉のために付け加えるとしますと 難行は 一般的に言ってこれをしますが すべて経験世界での行為であり 経験領域の問題だと捉えています。その意味は 絶対者への帰一というような内容を 実践としての帰一かどうかではなく 信じているかどうか〔だけ〕によって捉えるようです。今回のご講義を聴いて こちらは なんと ぐうたらかと思ってしまいます。

と言っても とうぜん努力はします。たとえば 《肉体的感覚に縛られた〔ような〕『想い』を整えて「阿頼耶識」へ より周波数の細かい「種子」を植えつけたいものです》とおっしゃるような努力を 行ないます。わたしたちも 走ります。即身成仏は 相対の世界での実現ですから さらに完成へと進めます。ただ つねに心にあることは その実現は 自己の力によるのではなく 絶対者からの恩恵としてであるという虚構です。というよりも 永遠の現在が ずっと 続いていくわけですし 前進があれば そのつど恩恵だということになります。

わたしのことばかり つづってまいりましたが いかに ぐうたらかの告白であると同時に このぐうたらとしてでも――易行門ですので―― 聖道門の立派さに ついて行こうという心づもりをあらたにしたというような事情です。

《初めは信仰(信心)を推進力としても、「行」(利他行による体験と結果の積み重ね・瞑想による内観・妄想に走らないよう教理を修める)を積むことで神秘の実在を掴み》とおっしゃっているので その初期の段階かなと思ったりしますが この前もそうだったと記憶しますが ちがいといえるようなことが少しあると思います。こちらは 永遠の現在として生きていく それだけであるのに対して 《自内証の顕現として「自己の内外を整える」》というように 〔平和建設としても〕検証していく過程があると思われることです。

《「想い」をある次第に沿ってキチンと行じる事で現象界に何某の影響を及ぼすことがある(出来る)》といった新しい視点をも提出されているのですが こういった努力がかかわるとき 基本的にわたしは この今にとどまります。その点では 一つの思想を形成するのではないかと思う次第で いまのところ ちがいを留保して進むとは考えました。

けっこう 違いを認識しようとしつつ なにか議論を挑んでいるようなかたちにもなっていると 思われます。こころは 差異を知り 認め合うという方針をも持っていますが そこにあるものです。

もう愛想が尽きたとおっしゃらないようにと祈っています。みなさんのためにも いい講義が聴けてよかったと思います。ありがとうございます。

補足日時:2007/10/15 22:18
    • good
    • 0
この回答へのお礼

bonnnou03さん こんにちは。2007・11・29(木)の記です。このお礼欄は 締め切りのあとでも 投稿できるようです。

例の《我れ》は有る? ない?の質問が 現実を少しでも見すえるところまで来ることができたように思っております。そのさらに肉付けやむしろ現実に出るためにこそさらに瞑想によって智慧(あるいは 判断力)を深めることが要請されるようにも思っておりますが ひとまづの目標に達したと言っていいと思います。

これからのことは さらに考えるかとも思いますが ひとまづ bonnnou03さんに ご挨拶をさせていただこうと存じました。もちろん そのアートマン論のところにも さらにご投稿くだされば幸いに存じます。広い視野をおっしゃっていたからには 共にさらに前へ歩んでまいりたいと思います。――bragelone

お礼日時:2007/11/29 10:28

>ところで henokuappaさんも 他の回答での mmkyさんと同じように 


。。。。

はっきり言ってこういう返され方は好みでないのです。。。
というのは
何を見てそう思うのか解らないですが、
似ていると思ったことなど一度たりともないですね。

むしろ貴方とよく似ていたと見ています。
自分の質問に回答していただいたとき意外
読もうとはあまり思わないですが(失礼)本心です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

そうでしたか henokuappaというお名前は 一度聞いたら忘れないですから 覚えているのですが わたしの回答歴を見てみても 見つからなかったのですが・・・。

法意識という語は――いまごろ言うのも 遅いですが―― 聞いたことがなかったものですから(辞典にも 見出し項目としてはないようですし) そして ちょうどこれを使われたお二人目だったので その方の名をも挙げて お訊きしてみました。 

わたくしも 血の気が多いほうですので そのあたり 何を問題にして どう論じているかのほうに 注目をしていただければと 虫のいいお願いですが 思ったりします。どしどしご意見をお寄せください。

お礼日時:2007/10/15 13:45

国家を超越し仮面をかぶって根をはるものもありますから


同一文化圏という枠組みとしての国家をあえて超える必要性を感じません
まして理念もなく国家を超越する理由が解りませんね。

これ以上議論をする気はありませし
海のものとも山のものともつかない
裏を返せばすぐに犯罪組織の在り方と同じようなものになりえるものに
耳を傾けるつもりはありません
警察関係の方にでも説いたらいかがですか?

以上。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

《同一文化圏という枠組みとしての国家をあえて超える必要性を感じません。》
わかりました。ありがとうございました。

お礼日時:2007/10/15 12:19

mmkyです。


・・・心温まるコメントありがとう。・・・
「ただの葬式宗教だと言われても 仕方がありません。」現状は葬式宗教に成り下がっている点もご指摘の通りですね。本来の仏教には葬式などなかったのですね。生き残るために中国で道教が複雑に入りこんでいますからしょうがないですね。でも仏教の「復権」を志す者は仏教の真実で回答するしかないのですね。仏教は絶対の存在する「宗教」であって哲学程度のものではないとね。付け加えると護摩焚きというのも仏教ではないですね。釈尊は早い段階で拝火教徒を事火外道(道を外れたもの)と呼んで折伏しているのですがね。
釈尊(仏陀)がだめだめといったのばかりまねてどうして仏教というのか理解に苦しむところですね。キリスト教やユダヤ教、イスラム教のようにシンプルで、異端裁判がないのが欠点かもしれないですね。でもそれが仏教のいいところでもあるからね。かってエルサレムの嘆きの壁を訪れたとき、ユダヤ教徒たちをみてその愚かさに涙を禁じえなかったですからね。ゴルゴダの丘教会でも同じでしたね。宗教も「復権」の時代が来ないとね。
お言葉に甘えた追伸程度に
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

わたくしも うすうすは 現行仏教は いったいどうなっているのかと思うところも ありました。まづは 基本的な思想についてですけれど。

葬式仏教でよいのだと居直った人も たしか いましたね。その種の言説に対しては 批評も何もできません。こんにゃく問答 うなぎの問答〔とか言いましたね〕とはよく言ったものです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
釈尊(仏陀)がだめだめといったのばかりまねてどうして仏教というのか理解に苦しむところですね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
まあ ここでは その一いちを挙げる場ではありませんが。

かつて 批判仏教ということを掲げて 言論を張った学者がいました。壁を超えてはいなかったようです。

そんなこんなです。

お礼日時:2007/10/15 12:16

農民全てという言い方には語弊がある


農民一人ひとりと言うべきであった。
特に絶対神とか唯一神に囚われている人対しては

農業を機械化による工業と捉える人にも認識しにくいことかもしれない。
しかしそれも人間を含む動物が他の生物を食べることによって生きていることは紛れもない事実で
絶滅種や絶滅危惧種が増えている現状を正しく認識すれば
このまま自然破壊が進めば人類を含む生物種の存続の危機が想定され
半ば強制的に法の眼は開かれていく。

この地球上で子供を産み育てている以上
啓かれていかなければならないのだ。

この回答への補足

ご回答をありがとうございます。

次の天つ罪を制定したのは だれでしょう?農民自身でしょうか?つまり 農民の 農民による 農民のための法律だったでしょうか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
天つ罪
畔放(あはなち) - 田の畔を壊すこと
溝埋(みぞうめ) - 田に水を引くために設けた溝を埋めること
樋放(ひはなち) - 田に水を引くために設けた樋を壊すこと
頻播(しきまき) - 他の人が種を蒔いた所に重ねて種を蒔いて作物の生長を妨げること(種を蒔く事で耕作権を奪うこととする説もある)
串刺(くしさし) - 他人の田畑に自分の土地であることを示す杭を立てること
生剥(いきはぎ) - 生きている馬の皮を剥ぐこと
逆剥(さかはぎ) - 馬の皮を尻の方から剥ぐこと
糞戸(くそへ) - 祭場を糞などの汚物で汚すこと
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E3%81%A4% …
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
もし農民じしんが この制度を作り守ろうとしていたのなら かのスサノヲは なにゆえ 溝を離し やしろに糞をしたのでしょうか?

仏教は――現行の仏教は―― スサノヲ農民たちの共同自治のもとに 自治共同のために 行なわれているでしょうか。どの点がよく どの点がわるいでしょう。その原因は どこにあるでしょう。

一つには 絶対をどう見ているのか――加賀などの一向一揆では ふつうのスサノヲ市民が ふつうの絶対観に立ったように見えますが―― このあいまいさが 大きく原因となって 公民の人びとの独走をゆるしているでしょうか。

《特に絶対神とか唯一神に囚われている人〔に〕対しては》というような一種の敵対感を持つ市民が 多数を占めている限りで 公民天国は 安泰ですよね? 一神教の排他的な性格を非難するのは よいと思います。けれども 石山本願寺も 信長にとっては 統治しがたいと思ったかも知れません。自分が 何の付託と権限とを持ってなのか 農民たちの土地に勝手に 《串刺(くしさし)》をして 税を貢げと言っている。

多神教という一神教 そしてその繭の中にぬくぬくと生きているとしたら その仏教の責任は いかほどのものか。・・・農民をそれほどに讃えるのなら この程度のわれらが社会の共同自治についても ひとふしぶってからにしてください。と思います。

わが日本では 隠れキリシタンがやっとだった。もはや 隠れもいなければ 顕われは 仏教と同じようなありさま?

環境保護に向けて 何も触れられなくて ごめんなさい。勉強していないのです。

補足日時:2007/10/15 11:57
    • good
    • 0

どの宗教に属するかなど


どうでもいいのです。
敢えて言えば
自然崇拝
自然賛歌
    • good
    • 0
この回答へのお礼

   よんではいけないよ
   よまれてもいけない

   まじっく・みらーのように
   並んで立つとき
   奇妙なふたご座が
   わたしたち遊星のあいだに
   気の遠くなる時間が
   翔び交う夢をゆめみるものだ
   夢があたかも現実であるように
   この鏡にすがたを映す者は
   交差点をよぎるとき
   げんうんを感じるだろうか
   五万と一日を生きるために

         (人間讃歌) 

お礼日時:2007/10/15 11:14

法意識というのは種の集合意識


生まれでた種を調和の元に絶滅することなく生かそうとする

ザリガニのように同じ水槽に沢山入れておくと同種間で共食いする現象に嫌悪する
人間が人間を食うことや
戦争で同じ種同士が殺し合いをすることを嫌悪する

人間の英知により解決する努力をする

自然の生物種の調和の中で生かされていること
自分も自然を構成する一部であること
自然を相手に種を蒔き収穫することで生きる農民はそれを身に沁みて自覚する
稲と共に生き
自分を稲と同化する

仏陀はそうした中から生まれる
農民全てがそういう意識を共有する仏陀である
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

《 Everyone is a buddha. 》=インタスサノヲイスム。

   かれ自身
   求めていた
   無門の門を
   さまよえる湖が
   漿液を浸して
   楼蘭の祈りを
   朝露に映す
   陽が至点に向かう
   回鶻(ウィグル)のかなた
   はるかな灼熱のみちを
   海市が逃げる
   帚木が枯れる
   おお シャカムニ
   セソンが枯れる
   かれは
   みらあじゅの消えたとき
   みらあじゅを見たのだ
   砂の海を航く〈わたし〉を
   翻したのだ〈明日〉へ

   (ほんとかなぁ)。

   *   *   *

ところで henokuappaさんも 他の回答での mmkyさんと同じように  《法意識》を 絶対者としてよろしいですか。

法意識とは 聞き慣れないと思うのですが 法は ダルマとして 意識は 唯識として これらが つなげられているのでしょうか。 

お礼日時:2007/10/15 11:27

「仏教は どうも信仰ではないような感触を得ていたのですが また 振り出しに戻りました。

絶対者であるブッダと人間との関係として捉えなければいけないかも知れないと 思いました。」
参考の追伸程度に
仏教ほどの信仰はないですね。他の宗教は予言者(救世主もある)による間接宗教ですが仏教は絶対神(法意識)に対する直接信仰宗教ですね。
・・仏教は釈尊が仏陀意識に目覚めて後、入滅するまで約50年間の教えが元になっています。
{仏陀意識に目覚めてその感覚に浸っていたとき、梵天勧請があります、この梵天というのが高級霊ですね。その他の大霊ということです。全ての神々が従う存在が真の仏陀ですね。釈尊は、私は神々さえ超えた存在とも言っていますね。}
釈尊は教育者としても秀でた才能の持ち主であったようで初期から弟子を養成していますが、初期の時点では釈尊は高度な教えや真の姿を如実には現していないですね。弟子に修行の重要性を示しているだけですね。多くの仏教宗派のスタイルはこの初期の教えにとどまっているようです。{最近千日の荒行もニュースになっていますが、ゴータマが実践した荒行、それが悟れる方法ではないと捨てた方法を真似ていますね。今だ、苦楽の中道さえ理解していないですね。荒行して正しい知識は得られるのですかね。何を悟るのだろうか?と思ってしまいます。}
この時期の弟子も釈尊を悟った人間(当時のインドではブッダの一人という意味)としか認識していなかったようですね。釈尊は、弟子の意識が十分になった晩年に釈尊の真の姿、久遠実情の仏陀の姿を明らかにしています。霊鷲山での説法ですね。その一部は法華経などに見られますね。つまり晩年に信仰の対象である永遠の仏陀(絶対)を明らかにしているのですね。釈尊の50年に渡る時系列的な教育方法により多くの教えも残したが、それを全体として捕らえることが後世の弟子には難しかったということだけですね。初期の段階の修行形態は凡人には受け入れやすかったが久遠実情の仏陀の姿にいたってはちんぷんかんぷんということだったのでしょうね。いまだにその傾向は各宗派で顕著ですね。これは弟子の不徳ですね。しかし奈良の大仏など信仰としての対象としての仏陀は面々と続いてきたことも事実ですね。
仏教は、永遠の仏陀を信仰の対象とするものですね。仏陀はかねがね「我は法であり、法を見るは我を見る」といっています。この意味が「法意識=絶対(=天上天下唯我独尊)の意味」ですね。

この回答への補足

mmkyさん さらに詳しい内容をおしえていただきありがとうございます。

一つ前の方のご回答で 仏教が 一筋縄でくくれるものではないと分かりました。今度は 少なくとも現象としては 仏教は 一枚岩ではないと分かったように思いました。

もちろん 自由が大前提です。ということは 自由に その基本的な性格を それぞれのブッディストの方がたが 明らかにするということが あってもいいし むしろ 明らかにするべきだと思われてきますが いかがでしょうか。そうでなければ ただの葬式宗教だと言われても 仕方がありません。思想と修行の営為は 過去(いつ頃までなのでしょうか)あったという実績は 別なのでしょうが。

絶対観を明らかにすること これが もっともわかり易い入り口ではないかと考えます。

このところ このgoo欄でも 仏教にかんする問いが多く出され 詳しい内容を伴なった回答が見られます。ただ そもそも どういう思想で信仰なのか なかなか よく分かりません。こう言っては はなはだ失礼ですが mmkyさんのお考えも 仏教とはに関する定説であるかとあえて問うならば さらに多くの方のお考えをお訊きしてからになるかも分かりません。その点 ご宥恕のほどをお願いしておきたいと思います。

もし信仰の その構えあるいは形態ないし構造 そういった一般的な事柄で みなさんにも伝えたいと思っておられることがありましたなら ほかのわたくしの質問でなりと ご投稿いただけるなら幸いです。

補足日時:2007/10/15 08:44
    • good
    • 0

いつもお世話になります。

bragelone様のご自身が質問をしつつも、その補足欄やお礼欄での博覧強記ぶり(決して嫌味ではありません!)にかなり私自身が勉強になっております。此度も手前勝手な自論ではありますが、どうぞ宜しくお願い申し上げます。

さて、絶対とは「対(つい)」を「絶する」と書きますね。この世界は両極の世界のように感じます。男と女、陰と陽、表と裏、右と左、西と東・・・現象界における森羅万象は「対(つい)」である事を以って存在しているように思いますし、事実 このような事例は枚挙に暇がありませんよね。

私はお坊様ではありませんので専門的な事は解りかねますが、この【絶対…「対(つい)」を「絶する」】と言う事は現象界の営みが終局を向え、存在するもの総てが一旦「全一」に帰す状態を言うのではないかと私は思います。そして「全一」帰したエネルギーは再びうねりを生じ始め、恰も太極図が示すような大宇宙の巨大な営みを生成しているのではないかと…。

この「全一」の状態を「空(くう)」と名付けるのは強引かもしれませんが、エネルギーが変化し究極帰りつく「ある一点」(全く揺らぎの無いエネルギー状態)を「絶対」としても良いのではないかと言うのが自論であり、ほぼ「空(くう)」と同義語ではないかと私は思います。この辺りに付きましては先の bragelone様との遣り取り【自由意志について(http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3286135.html)】に述べさせて頂いていますのでご参照頂けますと幸甚です。

さて、翻って【ブッダは絶対ですか】との問いには、仏陀とは「目覚めた人」の意味から我々の対象として存在する以上「絶対」とは言い難いと思いますし、ゴータマ・シッダールタ(仏陀は1人ではありませんので)と言えども「絶対」とは言えないと私は思います。つまり「絶対」は「絶対」であって「絶対」以外の何者でもないのではないかと…。

確かに我々1人1人が与えられた「命」も「生命」に違いありません。しかしそれ以上に宇宙全体が「生命」その物ではないかと私は思います。仮に大宇宙が「絶対」と「両極」を行き来するライフサイクルを持っているとすれば、そこに「生命」の息吹を感じますし、我々の身の程が解ると言う物です。そして「絶対」と言うエネルギーが揺らぎ始め大宇宙が大きくうねり出すその中に我々の存在があるとしたら、大宇宙という存在自体が「慈悲」に他ならないのでは?…とも思います。

インドではゴータマ・シッダールタが現れる(仏教の発生)以前から「真理は常住である」と言われているそうです。意識の内奥に向き合い自分自身を知る作業(修行と思索)と 呪術的な行為による不可思議な結実(現世利益)の積み重ねから、当時の僧侶達は大宇宙の何たるかを知識の積み重ねだけではなく「肌」で実感していたのでないかと私は推測しています。

少し逸れましたが、纏めますと「仏陀」は「絶対」では無いと思いますし、「絶対」の「存在」と言う言い回しも上記のような理由から少し違和感を覚えます。私としましてはかなり強引な表現になると思いますが【 絶対 ≒ 全一 ≒ 空(くう) 】を方便として受け入れています。しかし、実のところ仏教と言う枠の中での「絶対」という概念をお坊様に伺ってみたいという気持ちもあります。…という事で、今回も「どうしょうもない無学な輩の放言(苦笑)」程度に受け止めて頂けますと有り難いです。(謝)

この回答への補足

bonnnou03さん ご回答をありがとうございます。

《空のゆらぎ(再生)》からの――つまりわたしの理解では《還相》での――ご発言と承りました。

即身成仏への修行過程またその方向から すでに還って来られて――それでも 修行であることに変わりはないと存じますが―― ボディサトヴァを生きておられる。

(ちなみに 重箱の隅をほじくりますが 《無学》とは 《もうそれ以上学ぶ必要の無いブッダの状態》だという記憶をよみがえらせたのですが そうですよね? 冗談(?)・・・が下手ですかね。)

今回の質問は まったく単純なものなのです。
《〔世界が世界の〕「全一」に帰す》とき――おそらく個人としても 即身成仏を得たとき―― これは 絶対者の信仰としてあるのか それとも 経験存在としての瞑想と思考〔のみ〕によって実現するものなのか これでした。

《円成実性》という概念(実践の)を 最近 得ましたが――要するに ブッダの状態だと思うのですが―― これは おそらく 広い意味での学問として 目指すとおっしゃるのだと思います。しかも この円成実性にあっては もはやそのまま いっさいの縁起であるかのごとく縁起の中にあり あたかも生命・慈悲・真理のエネルギーそのものの下に ありてあると読解させていただいたのですが それは 絶対者の信仰であるのでしょうか。つまりは逆に言いかえて すべては――人間存在のあり方としては―― 対の関係なる両極の世界での経験行為〔のみ〕だということでしょうか。

自由意志は マナ識であり 縁起の過程では まぼろしであるとおっしゃったのだと思います。暗い無明の状態を転換したアーラヤ識から 空に帰一し目覚めた者として生きるとき もし仮りにここで 親鸞であれば――自由意志を絶対者に帰したからには――信仰であると言うと思います。《「仏陀」は「絶対」では無い》と見ておられることは 信仰ではなく あくまで 修行であり学問であり いわゆる自力であるという理解でよろしいでしょうか。(自力を 依他起性に還元したあとの自力でしょうか?)

ということは 仏教が 一筋縄では捉えられないという意味のようですね。難行・易行でよろしいのでしょうか。是非とも 添削をお願いできますでしょうか。

補足日時:2007/10/15 07:35
    • good
    • 0

絶対という言葉や


絶対を探すことに執着して居られる様なのですが
ただ黙っているだけで
東洋には仏陀がたくさんいるんですよ。
仏陀が絶対とか思うところがあるのでしたら
絶対が仰山いるということでしょうね。
只管打座。
沈黙しただ座禅を組む僧。
ただ咲き乱れて人の心を和ますコスモスも
身の回りの生物も絶対かもしれない。
その存在が
絶対であるということや
絶対でないということが
解るのでしょうか。
言葉に頼りすぎてあまりにも一面的な見方をされているようで
自らをも言葉で規定し尽くされないことをすでに感じているのではありませんか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

絶対の問題が重要だと言う者に対して
《絶対という言葉や
絶対を探す者》だと規定し そこには執着があるのみだとやはり規定し
これを見つけたなら 
その執着を指摘することに執着して居られる様なのですが
ただ黙ってるだけで
東洋には仏陀がたくさんいるのなら 
その思想つまり生活態度は 絶対者の信仰に基づくものなのか 
それとも 学問であり実践であるのか 
これを きちんと分けて説明するのでなければ おかしいでしょうね。
《仏陀が絶対とか思うところがあるのでしたら
絶対が仰山いるということでしょうね。》と つねに あさっての方を向いてしゃべっているのなら 
なるほど 《只管打座》のセールスマンだったかということになるでしょうね。

もう ここでとめましょう。つまり 答えないということは 排他的な一神教だということです。いわゆるキリスト教も 答えすぎ問いかけすぎるそれのようですが 同じ穴の狢だというふうに理解されても仕方がないでしょう。

凹凸のちがいだけであって 多神教と言っていようが 不立文字と言って隠れ蓑を被ろうが それしかないと思い固まった宗教だということになります。多神教という一神教の中の仏道修行者。あたかも繭の中にいるごとく 安心立命しておられる。・・・そうではないでしょうか。

このように理解しました。

お礼日時:2007/10/15 00:02

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!