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大阪に移り住んでまもなく、「文化住宅」なるものを初めて見て、びっくりしました。(カルチャーショックといってもいいかも)私は東京出身ですが、これの類のものは見たことありません。いわゆる木賃アパートでもなく、古いテラスハウスといったわけでもない・・・
 
~古い(並ではない!)木造の2k~3k、風呂なし(トイレは共同?)1階と2階はつながって一戸の単位らしい、洗濯機が玄関脇にズラッと並ぶ(圧巻!)、そこには、長屋にも通じる独特の濃密な人間カンケイがあるらしい、寝屋川とか京阪の沿線に多いのは、昔、松下サンが戦後それを沢山作って、社員の住宅に充てたから・・・~ ここまでが、私の知識です。(間違っていたら訂正してください)

他に、いくつかの都市でも生活してきましたが、大阪(あるいは関西?)でしかみたことないです。

びっくりするのは、あれだけ古いのならどんどん他に適当なアパートとかに取って代わられてもおかしくないのに、結構いっぱい残っている・・・(東京の実家に帰ると、しょっちゅう新しいアパートが建ってます。)不動産屋さんの広告も「文化住宅」「アパート」「マンション」別に分かれてます。(コーポというのがないような気がする・・・)需要と供給のバランスがとれているのか?吹田にいた時は、床が傾きかけているのに人が住んでるオソロシイ物件も見ました。

「文化住宅」って何なんでしょう?どうして、いまだに生き残っていられるのでしょうか?(もし、住んでいられる方がいらしてもお気を悪くなさらないでくださいね・・・)大阪を離れて久しい今でも、とっても不思議なのでお尋ねしたいのです。「文化住宅」についてなんでもいいので教えて下さい。お待ちしています。

A 回答 (4件)

 答えになるかどうか、ある経験談を。


 1958年頃大阪の設計事務所にいた頃、昔いた製図工の方が独立して文化住宅の設計施工していると言うので、好奇心もあって見学に行った事があります。

 場所は地下鉄が開通したかしないかの頃の、田辺の先の方で、京阪沿線には安い土地が少なくなり、それなりの安価な文化住宅を供給できなかったせいだと思います。

 文化住宅と書いても、関西以外の方にはどんなものか判らないと思いますが道路側(正面)から見ると、一世帯の占有間口は2間半(4.5m)総2階建てで、度肝を抜くのは小さな入り口一戸ずつに、小さな切妻屋根の形の庇が付いた一見間口の玄関が自己主張をして個性を発揮しているのです。

 これを[1ユニット]として、東西に長い敷地に土地の巾に入るだけ詰め込み、10世帯前後を1棟として、多くの場合南北方向に数棟、びっしりと配置するのです。
 今考えると、どんな用途地域だったのか判りませんが、中には違反建築もあったと思われます。

 名前の件ですが「文化住宅」というのは東京で関東大震災の後、特に流行りだした様式?または形式で、いわゆる間取りが「八・六・六・四半・三+洋風応接間」と言うもので、中の上クラスのサラリーマンの住まいで流行った形式なのです。

 洋風応接間は、玄関脇の道路からよく見える所に造られ
母屋は和風の瓦でも応接間だけはスレート葺きで、床は板の間または「リノリューム」「コルク」張りですが10~15畳と最も広く、見栄で子供に習わせるための「ピアノ」殆んど読まない「漱石全集」「百科事典」などを設えて、自分の所属する階級をソコソコもっともらしく見せるという大阪人の言う「イジマシイ」建物だったのです。

 大阪の輝かしい極端に狭い「文化住宅」の方の命名の由来は残念ながら知りませんが、私流の大坂文化に対する理解では「吉本的パロディ」から、狭い長屋を「文化住宅」と愛着と自嘲をこめて言ったのだと思います。

 私の見た間取りは製作者によると良心的な方なのだそうで1階は玄関・手洗い・6畳・押し入れ2階は4.5畳と3畳・・・1階の階高を基準法ギリギリに抑えると、四隅以外長い柱を節約し、階段の段数も2段減らし・・・と、
コストパフォーマンスを考えると、同業他社との競争に勝てるのだそうです・・・でした!

 残念ながら住んだ事がないのですが、これに似た大きさのアパートは東京にもたくさんありますが、連続集合住宅の形式は関西独特のものでした。

 序でながら、若者憧れの代官山にあった「同潤会アパート」の一戸あたりの大きさは、風呂ナシの6・4半・3畳
程度の狭いもので、現代のマンションから考えると小さいものでした。
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この回答へのお礼

非常に詳しい回答をありがとうございました。読ませて頂いて思い出しました!フツウの集合住宅に感じない違和感は「入り口の切妻屋根」のせいだったんだと(笑)
確かに、「文化住宅」には大阪人の独特のたくましさ、エネルギーを感じますね。
もうちょっと時間がたって、さらに数が少なくなると東京の「同潤会アパート」のような”文化財的なもの”になるのでしょうか?本当にありがとうございました。

お礼日時:2001/01/30 09:46

昔住んでました! といっても20年ほど前の小学生時代ですが、それも恐ろしいことに、文化住宅の2階を間借りしてたんです。

要はその住宅の店子がうちの大家さんってわけです。

なぜ残っているか? というと、「家賃が死ぬほど安いから」に尽きると思うんですが・・・。そういえば風呂もなくて銭湯に行ってたなあ。この間通ったらまだ残ってました。
小さいころは、町内会組織も堅固でこども会なんかもあったり、町内の旅行や親睦会が腐るほどあって、月に一回消毒の日とかいって、パラチオン(ねずみや害虫殺しの農薬)を撒きにきてましたが・・・。ちなみに大阪市内なんですけど。

でも、バブル期を迎えて、大阪市内でも地価が急に上がったところは一斉に無くなりましたね。まさに「地上げ屋」が荒らしまくって、その後バブルがはじけて・・・。
今ごろになって急にマンションが建ち始めてます。アパートや文化住宅が多かったところが。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。初めて、住んでいらした方の生の声を聞かせていただいて、うれしいです。「家賃が死ぬほど安いから」→それも、立派な理由ですよね!
しかし、古いのはいいとして、まったくメンテされてない様子なのが気になる・・・(笑)消防署とか、見て見ぬフリしてるのでしょうか?さすがに平成の今はマンションが建ち始めているのですね。

お礼日時:2001/01/31 22:30

木造の賃貸住宅のことを文化住宅と呼び、木造の集合賃貸住宅をアパートと呼ぶことが多いです。

できたときは、電気もガスもあり、文化的だったのです。鉄筋コンクリート造りのアパート(マンションかな)に比べると家賃は半額以下です。バブルの時に、随分なくなりましたが、立て替えようと思っても、住民が出ていってくれないので、地上げ屋が活躍したのは記憶に新しいところです。それができなかったところは、そのまま残っています。不況の今、お金を貸してくれる銀行もありません。
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この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございました。考えてみたら、私が大阪にいた頃はまさに、バブルの真っ只中でした。減りつつあったんですね。現在は、出て行きたくても出て行けない人ばかりという現実があるようです。

お礼日時:2001/01/30 09:35

狭義の文化住宅は大正時代、生活の洋風化に従がい、従来の伝統的な木造和風住宅から、台所とき居室の一部を板張りにして、椅子やテーブルを使ったガス・電気対応の生活に合うように、作られ、全国の大都市の郊外に建てれるようになりました。

「文化」とは「新しい」という意味のはやり言葉で、他に文化包丁、文化なべというのもあります。当然、戸建て、共同住宅共にありますが、現在関西で使われているのは、共同が多い様です。
 現在ここに居住している方は老人世帯が圧倒的に多いです。昭和50年代までは、学生とか収入の少ない若い人も、たくさん暮らしていましたが、しかし、それらの人達は高度成長のため、ある程度の収入が確保され、プライバシィーに難がある文化住宅から、コーポとかワンルームマンションに移りました。しかし、老人世帯、それも年金ぐらいしかあてのない人にとっては、新しいアパートは、家賃・敷金の確保が大変ですし、大家も、老人世帯をいやがります(何時なくなるかわからない。回転しないなど)。また、老人は環境に対する適応力がないため、移転をいやがります。そのために、現在でも、存在しているのです。
下のURLは、関東にある戸建ての文化住宅です。 

参考URL:http://www.yokohama-haikara.com/bunka.html
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この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございました。もとの意味の「文化住宅」のページは勉強になりました。古い文化住宅が現存する事実のウラに、現在の日本が抱える老後の問題があったなんて・・・なんだか、胸が痛くなります。私が大阪にいたのは昭和59年から平成2年まででしたので、まだお年よりばかりになる前だったのかもしれません・・・

お礼日時:2001/01/30 09:29

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