プロが教えるわが家の防犯対策術!

1)檻の中で生まれた猿にとって、檻とは、自然でしょうか。
そもそも、猿には言語がありませんので、よい言葉が見つかりません、
表現は悪いのですが、檻の外と檻の中を意味的に区別できるでしょうか。

2)ほにゃらか島に、仮定の機械が有ります。大昔に、太陽光線や潮位の変動を動力として、半永久的に動いているとします、その動きの過程は単純な入力と出力のくり返しではなく、入力に対する分岐や出力までの過程が、膨大なパターン別れていて、何が入力で、どれが出力かも外見ではさっぱりわかりません。ただし、海水を真水にして、滾々と流れ出てきます。ほにゃらか島は、いつしか無人島になりましたが、其処へ、丸太舟で漂流してきた、弥生人がいたとします。弥生人にとって、この機械は、機械と理解するでしょうか、自然の恵だと思うでしょうか。

今回の質問も、解り難くなってしまいましたが、ゴーギャンの三つ質問の前に、
われわれは、何を知ることができ、何を知ることができないのか、かの三つの質問は、答えることが出来るかどうか、せめて其れ位は知りたいですね。
1)と2)の例を検討しながら、何を知ることが出来るのか、宜しくお願いします。


われわれはどこから来たのか
われわれは何であるのか
われわれはどこへ行くのか



以下余白

A 回答 (30件中1~10件)

お邪魔しすぎですが 議論の経過からいけば必然的ですので・・・。



一点のみです。貨幣にかんするお話しが 前回(No.28)では欠けていましたので 補います。ただし わたし自身のではありません。今村仁司が 簡略にまとめているところを紹介します。

   物と物との《交換》は直接的には不可能である。だからこそ 
  貨幣という特別の第三者を迂回しなくてはならない。

と切り出して この《特別の第三者》として 

  (1) 個人の独語を超えた《聖なる言葉》
  (2) 社会秩序(政治)の場面でも・・・人と人との敵対状態を
     解消するために 《聖なる権力》
  (2‐a )一人の人間を《排除された第三項》として立てる場合の
     《聖なる存在》
  (3) そして商品交換関係の条件としての《聖なる貨幣》

これらを想定しています。(1)の問題を――言語の場合をも その言語の場面では 《第三の言葉》が《予見できる》というかたちで ごく簡単に触れた部分を含めて―― 整理しているところを 引用しておきます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  直接的交通関係の原理的不可能性は 人と人との関係を暴力的にする。ホッブズの《万人に対する万人の闘い》《人間は互いに狼である》という指摘は理論的には直接的関係の原理的不可能性を言い当てたものである。
  近代の社会哲学はホッブズからヘーゲルまでこの《不可能性》を克服する思想的企てであった。また言語的交通の面でも 例えばワルター・ベンヤミンの《純粋言語》は暴力的人間関係を克服しうる第三項としての《聖なる言葉》を言い当てようとした。
  いっさいの宗教現象の根源には 教義的信仰体系の差異を超えて 人と人との連帯を可能にする条件の模索がある。かつて人びとはそれを《神》とよんだ。《神》観念の成立メカニズムと貨幣の成立メカニズムとは深いところで通底している。真実の意味で深く貨幣を理解することは 《神》観念を中心とする《宗教的なもの》を理解することに通ずる(逆も真なり)。
  言語でも 構造言語学上のラング / パロールでは処理できない《第三の言葉》の問題がここで予見できる。
  貨幣とはまことに深い思想を包みこんでいるのである。
  (今村仁司:貨幣――今村編著『現代思想を読む事典』1988)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・一点と言いましたが 添付事項があります。
ちなみにですが 帰納法( induction )と演繹法( deduction )のほかに 仮説法( abduction )もあって はじめから結論を掲げて述べていく場合も 経験科学に属するものですよ。アプリオリの問題あるいは信仰内容を直(ぢか)に述べる文章とは 少し違います。

・《交換の起源に信頼をおくのは、腑に落ちません》とのこと。
――まづ 信頼あるいは信用という関係 これが 互いの対立を含む人間の関係の中で ともかくも 篩にかけられて 歴史的に落ち着くところとしてのように 残ったのだと見ています。そしてその結果を すでにはじめに 確かに 結論として持って来ているということです。その論法のことは 上の註解に触れました。

・《交換の結果が満足のいくものでありそのくり返しが信頼を生むとも言えます》――という段階の前のことを 言おうとしていました。
交換行為の始まる前に たとえば戦争の結果としてなりあるいは冒険としてなり 異族と接触する機会を得ていくと 身内と同じように 互いに信頼関係が築けると感じた場合があるだろうという推測です。つまり そういう場合が淘汰されて残り やがて 商品交換関係の基軸となっていったろうという見方です。

・ちなみに 《絶対者の存在証明》などしたことないですし するつもりもないですし それが出来るとも思っていません。(精確には 出来るか出来ないか分かるものではないと思っています)。絶対者はこれを《想定する》ものです。ひとつの概念装置です。あくまで 経験科学の話しですから そこのところ――これまで 何にも反論せずに来ましたが―― 個人の信条とは別にして扱ってもらえるなら幸いです。

・このたび すこし 話しがかみあうようになりました。これまでは そうでなかったので 細かいところは すべて 捨てるか保留して来ました。何も触れずに来ています。

・論争するのも いただけないことなので どうなるか分かりませんが 今回 焦点は 日を見るよりはっきりしています。類(全体)と個との関係です。
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この回答へのお礼

「自分の身体は、人間の現実存在(生存)にとってはじめから自分のものとして前提されている。身体は「自己」に帰属するかぎりで、「我」は身体に対してわがものとして関係し、そのように関係することで身体を「わが身体」として所有する。「我」は身体を所有しつつ現実存在する。身体において「我」は存在し、身体の所有と「我」の存在は不可分で一体である。同様に、生産条件は「延長されたわが身体」であるからだ、生産条件への関係は自分の身体への関係と同じである。所有とは二つの身体への関係である。自分の有機的身体と自分の外にありながら自分の身体の延長である非有機的身体への二重の関係、それが生きることであり、生産することであり、所有しつつ存在することである。」
今村仁司『交易する人間』より

この辺り、よく理解できるのですが、

「素材貨幣はなくしたり代替できるが、形式としての貨幣は廃棄不可能である。なぜならそれは、人間関係に内在する暴力の制度的回避の装置であるからだ。しかしわれわれは、貨幣や商品の優越的支配が別の災厄をもたらすことも知っている。この両面を承知しつつ、同時にこの隘路をどうきりぬけるのか。これが貨幣と精神との格闘の長い歴史が教えることである。出来合いの回答は存在しない。」
今村仁司『貨幣とはなんだろう』より

今村さんの貨幣論は、正直、難しいですね。私見では上記の「貨幣は廃棄不可能」と言う結論に異を唱えたいと。特に、フロイトやポストモダン的な雰囲気もあって、死の恐怖を貨幣と結び付けているようです。経済学では、貨幣商品説と貨幣名目説という対立が有りますが、今村さんの場合、雰囲気は後者ですが、もう一つ良く解らない部分もありますね。経済学と社会学の相違と言えばそれまでかもしれませんが、同じ対象を研究する場合は、両サイドからの一致が理論的にも要請されますから。

あらあら、益々質問と外れてしまいました。

>今回 焦点は 日を見るよりはっきりしています。類(全体)と個との関係です。

有難うございます。「内と外」の問題に戻れましたね、
先のお礼の冒頭に書きましたように、まだまだ、検討が必要なようです。
ただし、質問自体は、認識論的な究明でしたが、まぁ細かいことは気にしません。

詳しいアドバイス、有難うございました。

お礼日時:2007/10/28 17:49

こんばんは、fishblow66さん。




●やや、あな掘りましたよ久々に。
おっこちる程掘る前に、腰が砕けました。



"ようおきばりやしたなぁー"
月末が近づいたからといって…
二人してこうもピッチあげるかなぁ?ため込むなぁー!!


"虎穴に入らずんば虎子を得ず"かどうかは知らないけれど…


白いマッドのジャングルに~♪今日も嵐が吹き荒れる~♪


●へぇー ←What?

きばりすぎ!dangerous=☆


こちらは、まだ療養中。
風邪は風邪でも鼻風邪ピープー。
お腹中はくだしてないよ。
詳しくは…
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3417579.html

http://ghostrider.tblog.jp/?eid=155521


絶版と、なってた?

うんじゃ、ちょい栄養補給。

http://210.150.25.172/news/print/medtech.html
【微生物学講義録】
http://jsv.umin.jp/microbiology/main_003.htm
【第三の生命鎖糖鎖とポストゲノムの解析】
http://www.nistep.go.jp/achiev/ftx/jpn/stfc/stt0 …
【構造生物学】
http://www.ic.it-chiba.ac.jp/pc/theme.html



おきばりやすぅー。……φ(.. )
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。
きばって、トレーニングに汗を流してきました。
一時間と少しですか、なんとか自転車を停止させず、
最後まで登り切りましたが、脚力低下を実感してきました。

絶版本は、なんとか手に入れたのですが、
図書館の返却日に追われる事も無くなり、かえって進まない。
何度も読み返しが続いて、今週は同じ所のくり返しでした。

そういえば、シュレティンガーの猫じゃなくて、
シュレティンガーの「生命とは何か」
此方の絶版は手に入れる当てが無いですね。

>おきばりやすぅー。……φ(.. )
ちょっとそっぽを向いたような、
応援かもしれませんが、なんとか、浮世の義理ごとと、
あそび・読書も両立させて、此処は暇なときに。

お礼日時:2007/11/03 17:41

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


最初に社会があった、私見では「有機的社会」有ってその後、「個人」が確立したような気がしますが、どうでしょう。(No.23お礼欄)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
わたしの《論文》は この最初の一文を 《はじめに隣り合いがあった》と言い替えたもので しかも ただそれだけのものです。

つまり まったくの思弁(臆測)だけの内容ですし 歴史をたどったと言っても《幻想的》にそうしただけです。
おっしゃるとおり 最初から結論が出ている議論です。
そのこころは 《最初に社会があった》から 《「有機的社会」有ってその後、「個人」が確立した》までの距離は それほど近いものではないと言おうとしたところにあります。

端折った言い方になりますが おそらく 《はじめに 家族あるいは親族があった》くらいがいいように思います。つまりその意味での《有機的なつながり》が のちの社会の形成の基礎だと まづわたしも 考えます。と同時に この血族および姻族の一定の範囲でのまとまりは その指導者としての族長と成員一人ひとりとの自由な関係を はじめから 持っていなかったとは思いません。

いま《自由》という言葉を使ったので それはないだろう・歴史的事実に反するだろうと言われるかも知れませんが こういう意味です。つまり おっしゃるような《個人の確立》がなされていない段階では それでは 個人は どういう状態にあったかについてですが 次のように見るのが 妥当だろうというものです。

たとえば 族長に対して 人びと一般は 従属していたと言ってしまうと 従属の意識が 個人にあったということになるでしょうか。なぜなら 言うことを聞くというのは そこに 自己がいるからです。その自己を自己は知っているからです。その意味です。その意味で 個人どうし あるいは 族長と個人との関係は 素朴に・何ら特に規定することのない内容をもって 《自由》であったのだと。

つまり そこでは 自由な関係だからと言って 個人は たとえば民主主義を 明確に思想として 唱えたということではなかったでしょうし かと言って 盲目的に服従していたというものでもなかったでしょう。一方で 集団もしくは全体という概念 そして 他方で 少なくとも個人が自称に《わたし》を用いて言葉を話すという限りでの自己もしくは個の概念 これらの〔時には 両極のような〕二つの観念は おそらく同時に成立していると推し測られるのではないか。という見方なのでした。

ポトラッチは 経済的にも政治的にも成功した者が その権力と財力を 見せびらかすことによって 内外に(自分にも人びとにも)確認するという行為である性格がつよいと考えます。(全体と個との関係の問題というよりはです)。

クラ交易の事例は すでに親族からさらに発展してその範囲を拡げその構成内容を複雑にした種族・部族の次元で――ということは 言語を同じくする最大範囲としての民族の次元にまでは行かずに―― 互いに 信頼関係(一種の同盟関係)を結びこれを持続させるために 交流しあう制度だと思います。 

  *《その構成内容を複雑にした部族》というのは 
  一般に言う債務奴隷あるいは戦争奴隷を容れてというような意味です。
  *《信頼関係》と――社会の最初の段階ですでに――言ったのは
  家族の中の素朴な共同の情感あるいは親和力のような感性のことを踏まえたものです。

そこでは 集団としての単位が色濃く反映しています。そして実際にも 個人は それぞれ自らの集団の一員であることこそが 自己の身分(あるいはその人格ないし全生涯)をわきまえるというかたちになっていますが だから 個人が埋没しているとは――無理にでも――考えないという見方です。

異族の間では 個人どうしの対立はなく もしくは あっても すぐさま 部族どうしの対立と見なされその集団どうしのけんかになるという報告を読んだことがありますが このとき それでは 個人は 集団との関係において どのような状態にあったでしょうか。

つまり 個人はまだ確立していなかったと見るか。わたしの場合 そうではなく(――もう少し精確には 近代理性ののちの時代から見て 《確立》はしていなくとも しかも そうではなく――) そもそもどれほど埋没していても どれほど集団への帰属が全的であったとしても 個人という存在があったからこそ やがて自己という意識が出て来たのであろうというものです。
(これが 詭弁に映る程度で 《無理にでも》とことわりました)。

そうでないと この自己や個人の意識が 高じて 自分勝手な個々ばらばらの個人主義が はびこると やれ集団が大事だ / やれ全体があってこそ個があるのだというもう一方の極に揺れます。揺れすぎます。単純には 懐旧趣味に流れるのではないかという思いがあります。
(fishbowl66さん自身は どこに位置していますか)。
(これを指摘するという意味では 上の詭弁や無理も 必要なものであって 役割を果たしたときには 消えているでしょう)。
(《全体が初めにありき》というのも 虚構ではないでしょうか)。

どちらも大事であると どうしてならないでしょう。

ハードボイルド弁証法でした。
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この回答へのお礼

最初の部分は、一寸した誤解でしょうか。
個人と社会の関係を一般的な、個人の集まりが社会を、逆転させる妄想でした。
この点は、思いつきに近いもので、もう少し色々考える必要があるようです。

以下の相違点も、微妙なもののようですね。
>たとえば 族長に対して 人びと一般は 従属していたと言ってしまうと 従属の意識が 個人にあったということになるでしょうか。なぜなら 言うことを聞くというのは そこに 自己がいるからです。その自己を自己は知っているからです。その意味です。その意味で 個人どうし あるいは 族長と個人との関係は 素朴に・何ら特に規定することのない内容をもって 《自由》であったのだと。

この辺りは、いつも感じる言語の不都合と言いますか、個人・家族と言う言葉は、現在の言葉で、今、考察しているアルカイックな世界では、個人と言う概念もないし、家族と言う纏まりもなかった時期が有るかもしれません、社会も変化していく中で、言語による切り取りは、変わってしまったもの・無くなったもの・現れたものを、同じ「個人・家族又は自由」と言う言葉を使うしか仕方がないですね。
尤も、この辺りの、個人の有り様に、見方の違いが有るのでしょう。

>(fishbowl66さん自身は どこに位置していますか)
全体主義も個人主義もどちらも行き過ぎは問題があるようです。
私に主義主張は有りませんが、基本的には、進化を信じている方ですね。
生物学的には人間の進化は終わったとする説が主流のようですが、意識の部分で、進化と呼べる変化が可能かもしれない、と言った希望的観測を持っています。その為に、同じようなアルカイック社会の認識のなかに、個人が最初は無く、生成進化する個人主義の可能性を期待していますね。
この意識の違いが、上記の相違点に現れてくるのかもしれませんね。

要するに、作用反作用の法則と真似の世界です。
自分だけ、スピード違反をしても、自分だけは事故を起さない、
この様な考えが、間違いだと気が付く日がいつか来るかもしれません。

ちょっと質問とずれて、長々書きまして、お礼にもなりません。失礼しました。

お礼日時:2007/10/28 16:54

   貨幣の起源をめぐる個人と社会との関係について



 はじめに 隣り合いがあった。(ここですでに そもそもの初めに 個人と社会との同時成立を見ようとしています)。
 家族があったし 生活が そもそもあったわけですが 隣り合った生活が始まっていた。この共存において 経済生活が 基礎となる。
 経済生活において 仕事を協力して行なう。そしてその一方 そうではなく 一定の距離を置いて 手を差し伸べ合い 互いに有るもの無いものを融通し合うという隣り合いもあった。

 モノを融通し合う共存では それが 一方では 人間的な(人格を信頼しあうという大前提に立つ)助け合いになるであろうし 他方では モノとモノとの交換という協力にもなる。はじめには 当然のごとく 後者のばあいでも 互いに相手に信頼を置くゆえに成り立ったと考えられる。少なくとも あいつだから互いに協力し合おうという関係であったと思われる。

 こう述べてくれば もう その先は 歴史的必然の過程のごとくに 物語は決まってくるようにも思われる。

 人間生活における基礎としての経済生活にあって その共存は はじめに 人間どうしの信頼関係によって成り立っていた。(信頼が置けない場合は 共存を控えたと見ておけば 成り立つと言える。袂を分かって移住したか あるいは けんかをしたか それは いまどうでもよい)。

 信頼関係が モノの交換行為において 信用として規定されるようになる。つまり あいつはよく知っているからというのでなくとも 信用のおける者だという評判で成り立たせる。

 この信用が いづれそのうちに 経済価値として 捉えられる。よくもわるくも いわゆる合理化である。だとすれば この経済価値は モノじたいに属すると見なされてゆく。

 貨幣がどのように出現したのか よくわからないが モノが経済価値を有するとなれば この前提に立って さらに合理化が進めば 交換は 数学的な価値としての等価交換であるという考え方が 人びとの頭の中に成り立つ。ここから 貨幣は現われた。 

 貨幣がない状態と 貨幣がある状態とでは そこには命がけの飛躍があったという見方が出されている。これを さらに飛躍させれば そこには 絶対者の問題が見え隠れしている。

 はじめの人格どうしの信頼にも つまりはその前提として 人間は信頼するに値するという見方が かかわっている。人間を そしてあるいは信頼の有無・当否を超えた存在を 想定してこそ この性善説が成り立つと人びとは考えた。

 モノを価値として・しかもその数量として規定しうるということ また それによって 数量としてのモノを 互いに等価値として 認め合うということ ここにも 有限な数量を超える存在 あるいは 相い対するモノの価値(特にその対立関係)を超えた存在 これを想定するようになるし 想定してこそ 等価値という現実が成り立つと人びとは考えた。 

 もし貨幣が この超越的存在のしるしであったとするなら この貨幣の出現は 命がけの跳躍を 人びとの頭の中に起こしたということかも知れない。それは 或る意味で 神をも恐れぬ原罪行為であったかも知れないし あるいはむしろ すでにあった原罪を和(やわ)らげる人びとの知恵であったかも知れない。

・個人と社会と貨幣の歴史を 幻想のうちにたどってみました。ほにゃらか大学学位請求論文です。

・(補遺)もし貨幣の発明に際して 絶対者の想定を行なわなかった場合を考えてみると その場合には 自分たちの仲間という定量 あるいは その民族社会としての枠組み これが あたかも絶対者としてのように 人びとのすべての共通項を為していたと考えられる。共通項というのが 最小公倍数のようなもので おれとおまえの仲じゃないかという場合を含めた《信頼関係》であり その仲間意識であり 貨幣を流通させうる一つの根拠であったかもしれない。一般に日本では 《公》だったのだと思う。 

この回答への補足

取り合えず、
>大学学位請求論文です。
温情評価で「可」とします。

仔細は、再度、読み直しますが、むにゅ、むにゅ。
と言う所で。お礼は改めて、お楽しみに。

補足日時:2007/10/27 17:32
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この回答へのお礼

今回の論文は下記の文章に対応したものでしょうか。
>「有機的社会」有ってその後、「個人」が確立したような気がしますが、どうでしょう。

とすると、
>個人と社会との同時成立を見ようとしています
と言う結論が最初にあるわけですが、この根拠が不確かですね、勿論、言語的に考えて「内外」の二面性は関係的でどちらが先というより、同時に成立すると考えることも出来ますが、貨幣の起源を参考にして、原始的社会の交換を観察した、ポトラッチやクラ交易と言われるものは、集団間の饗宴や贈与の循環として、個人的行為というより、むしろ、集団を代表する族長の行為と考えられるような。
つまり、集団的な交換行為が対外的に発生することと、集団内での個人的交換の発生は次元の違う「相似」の関係のような気もします。ともかく、原始的集団内部では、交換ではなく互酬的な配分が集団の長によって決められ、個人的な私的所有の観念すらなかったのでは。

では、外部との交換の起源は何処にあるのか?
>互いに相手に信頼を置くゆえに成り立ったと考えられる。
交換の起源に信頼をおくのは、腑に落ちません、論点先取りかトートロジーの落とし穴に落ちてしまいそうです、交換の結果が満足のいくものでありそのくり返しが信頼を生むとも言えますから。
起源の問題に関する一つのアプリオですね、
『畢竟するに、秩序問題や貨幣の生成といった問題が困難なのは、それが事前的見地から見れば単なる「不可能」、事後的見地から見れば単なる「当たり前」なのだからである。そしてそもそも、両見地の「混同」から不可解さと問題性が生じているのである。これが秩序問題一般に関して言いうることである。』(貨幣と精神 生成する構造の謎 中野昌宏)

そこで、飛躍のために絶対者の問題が出て来るのは、生成の問題を結果から必然的な過程と捉える場合、何某かの意図を想定したくなるものです、そこで絶対者の存在証明といった別のアプリオが顔を覗かせます。
と、ハードボイルドにコメントしてみましたが、ご意見は大変勉強になります。
こんなお礼で、愛想が尽きましたでしょうか?

お礼日時:2007/10/28 07:02

ハードボイルドほにゃらか談議です。

いいですか ハードボイルドですよ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
死ねと言われたことは 二度ある。

経営者寄りの実務論しか議論されていない修士課程に よそから入って(=転校) その経営学のゼミの指導助教授に対して 理論を迫った。また かれは 経営者報酬論を専攻していたが わたしは 付加価値分配論であったから 労使どちらに分配が多くいくかで 真っ向から対立してしまっていた。

かれは 目に見えてではないが 家では ノイローゼになったらしい。そのことを 学部から上がって来た我が同僚の学生らは 指摘して おまえ(=わたし)が悪いと言う。論文の主題を変更しろと言う。特に何も気にかけなかったところ ある日 とつぜん おまえは死ねと 一人が言った。


ある団体にいたころ 講師の解釈がまちがっているとわたしは指摘した。日頃から わたしは 規律正しく振る舞っていたところ とうとう 周りの者は 気持ち悪いという表情を示し始めた。そこへ 一人が割って入って あいつ(=わたし)は長生きしないからうんぬんと言って みんなを慰めた。


問題は わたしにないのだから ほうっといた。
わたしにあるのなら 指摘すればいい。
それだけのことだと思っているわたしは 人びととちがっているだろうか。
もっと言えば かれらは まだ人間になっていないのだと考える。人間に一旦なったけれども 放棄してしまった人たちだと考えられる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
こういう人間ですから 個人を人一倍二倍も大事にします。
むろん 社会の全体としてのまとまりも 個々の一人ひとりの自由も どちらも ともに 重要です。わたしの口調やくせは 個人の自由を先にもってくるように響くとは思います。

もう愛想が尽きましたか?
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この回答へのお礼

brageloneさん、ハードボイルドですか。
私見では、個人的な事は捨象して、
此処では、知識や学問的普遍性を追求することが、H.ボイルド。

とは言え、ゼミの話は誰にもあることですね。
私の場合は、教授の
「理論より実践」
今、思うに、トロツキーやサルトル辺りの影響でしょうか?
なにしろ、70年安保のゴタゴタの時代です。

>もう愛想が尽きましたか?
もし、「個人」を「私」の事と考えられるようでしたら、
考え直します、ハードボイルドですよ。

お礼日時:2007/10/27 17:23

ANo.24のつづき




うーむ、認証システムは絶対じゃないと思う。
システムの精度があがればあがるほと人はそれに依存しちゃうから困りもの。巷じゃ、人毛でこさえたというウィッグが美容院や街でファッションアイテムのひとつとして髪の有る無しにかかわらず女性の間でもてはやされている。で、そのウィッグ(付け毛)は誰の毛だとなれば…大半は発展途上国に暮らす女性たちの頭髪。ちり紙交換ならば、古新聞とトイレットペーパーの交換といったところだろうがこちらは紙といっても紙ちがいの髪。髪を売って紙幣を得る。DNA鑑定が盛んな折り、人毛の付け毛。落ちてある髪の毛を手がかりに…人物を特定しようとするものなら海越え山越え野を越えてと、いつの間にやら日が暮れて、スットコドッコイもいいところ。何やってることやらとなりもする。誤認、誤認、誤認。
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この回答へのお礼

littlekissさん、おまけ、有難うございます。

へーぇ、○デランスなんかも、抜け毛するのかな。
ウィッグのお話も、なかなか考えらせますね。

何処かのプレゼント関連のCMで、時計と髪飾りの話。
昔話かと思っていましたが、髪の毛も血液も商品ですか。
再確認、再確認、再確認。

お礼日時:2007/10/27 17:06

こんばんは、fishblow66さん。



|(>_< )|………|( >_<)|
あっ、ちゃぁ、ちゃぁ、、、

"前門の虎 後門の狼"かいなぁ? いやー、まいったなぁ。
どっかで、"禍福は糾える縄の如し"と、口走ったからか…
ならばと、めっちゃ熱いのが出てきた。熱いって(//▽//)
ちょっち冷めるまで…
マリオ風に"B-DASH!"三 (/ ^^)/"あそびましょ~♪
"ぴぴぴぴぴっと、□で囲ってロックオン。


"閉塞偶角緑内障"
【レーザー虹彩切開術】強いレーザー光線を虹彩に照射して小さな孔を開ける。


【バイオメトリックス認証システムについて】
http://www2.ucatv.ne.jp/~y9e0s125.moon/report/jy …


あなはほるもの おっこちるとこ
∥|∥
∥|∥
∥|∥
ヒューストン
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この回答へのお礼

littlekissさん、ご回答有難うございます。

>あっ、ちゃぁ、ちゃぁ、、、
今、読みかけの本、なかなかで、これは買わなくっちゃ。
ところが、絶版。>いやー、まいったなぁ。同感。
ゆっくりと読み返すために、ちっとも進みません、
スキャナーの様に、読み取り可能なハイテクとは無縁のポンコツです。

やや、あなを掘りましたよ、久々に。
おっこちる程掘る前に、腰が砕けましたが。

お礼日時:2007/10/27 16:54

fishbowl66さん ANo.22の《魂》は むしろ《本能に近い感情・情感・情念あるいは愛情》のことです。

まぎらわしくてすみません。

《魂 anima 》というくらいですから 《動物 animal 》と共有するような《感性》のことです。

ここでは 《生物学的欲求と社会学的欲望》をひっくるめて さらにその感情が縺れた場合を言っていると思います。

★他者ないし隣人を愛せは 《自分と同じように》という文句がついています。だから できます。

愛するとは たとえば 相手に持ち前の能力を十二分に発揮してもらうように 何らか手助けすることがあれば 申し出てやってみることです。

ほにゃらか談議は くせになりそう。いつも 妄想的ですみません。
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この回答へのお礼

ご回答、有難うございます。
成るほど、
>★他者ないし隣人を愛せは 《自分と同じように》という文句がついています。だから できます。
力強い、お言葉です。
という事は、自他の違いの結果に関しても、《自分と同じように》ですか。能力の違いを考えると、結構難しそうで。この事は、此処まで。

ところで、ほにゃらか談義、
とある本の、貨幣の起源に関する、複雑難解な本を読みつつ、
個人と社会の関係(内・外の関係ですから、質問と無関係ではないと思います)普通、個人が集まって、社会が出来る、という順序ですが、アルカイックな社会のポトラッチその他は、どうも個人的交換ではないような気がします、最初に社会があった、私見では「有機的社会」有ってその後、「個人」が確立したような気がしますが、どうでしょう。
取り合えず、妄想的お礼でした。

お礼日時:2007/10/23 18:29

littlekissさん風に 珈琲をどうぞ。


ほにゃらか談議です。

関係性一般は ただそこに人がいるといった感覚〔的な受け取り〕でいいのでは?

関係における感情のもつれ 特に性関係におけるそれ このもつれも しかし 解きほぐすことはできるという議論がみつかりました。幕間のおなぐさみに!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
したがって 愛の力は非常に大きく 愛によって長らく思惟しており 気遣いの膠(にかわ)によって固着していたものを 自己を思惟するために或る仕方で還帰するときでも一緒に連れ込むほどである。

それは 精神が肉の感覚をとおして外側で愛好した物体である。精神はそれとの長くつづいた或る種の親密な交渉によってそれと縺れている。だがいわば非物体的な本性の領域である内面へ物体そのものを一緒に引き入れることは出来ないから 物体の似像(にすがた)を思い廻らし 自分でつくり上げたものを自己自身の中へ引き入れるのである。

その似像をつくり上げるとき 自分自身の或るものをそれに与える。しかし精神は自分のうちに このような似像のかたちについて自由に判断する能力を保持している。これは適切な意味で精神であり 判断するため保持されている理性的な知解力である。

物体の類似によってかたちづくられるあの魂の部分を私たちは動物を共有していることを知っている。
(アウグスティヌス:『三位一体論』第十巻・第五章 中沢宣夫訳)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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この回答へのお礼

リバタリアンのお姫様には、ゴールドブレンド。
意味通じますかね、ほにゃらか談義です。

愛ですか、これも私の不得意な部分。
自愛心・自己愛などは、生存本能ですから、肯定できますが、
同時に、他者を愛する、ことは納得できません。
つまり、内と外を同時に愛せる、矛盾です。

私の理解ではbrageloneさんは、魂を肯定していますよね。
私は、唯物論者では有りませんが、無神論に近いです、
魂も信じていません、それでも、対話ができる。
これは、実は、難しい問題があります。
本当に正しい事を信じていれば、間違った人に、寛容は無意味です。

それでも、ほにゃらか談義が成立すれば、すばらしいことですね。
いつも、有難うございます。

お礼日時:2007/10/22 19:20

えらそうに述べます。



自己同一性は 自己還帰していれば 具体的に――つまり関係性一般にではなく―― 個別の関係性に応じて 融通が効きます。(カッコウはわるいですけれど)。

生物学的欲求と社会学的欲望 公と私 内と外・・・議論の展開を楽しみにしています。
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この回答へのお礼

ご回答、有難うございます。
病気がうつらず、安心しております。
>生物学的欲求と社会学的欲望 
この間に、言語化という過程があるようですが、
一部の説では、全面的に言語化を強調します、
すると、感性・感覚の生、と言いますか、
根拠としての感性か、偶然の恣意性か、この壁が突破できません。
なかなか難しいようです。

お礼日時:2007/10/21 16:23

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