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上杉謙信は関東管領職の就任式(?)を鶴岡八幡宮で行ったようですがこれは宿敵北条氏康領のど真ん中ですね。公式行事を行うのですから堂々と入府したはず、氏康の妨害等はなかったのでしょうか。精密な地図のない当時、上杉側の主要人物が関東までの交通事情を知らしめることは戦術上大いに不利では?また上杉側は謙信が暗殺されるケースなどは考慮しなかったのでしょうか?
同様に謙信は上洛して将軍義輝に謁見していますがこの場合も隣国朝倉領を通過しているはず、同様の妨害は考えられなかったのでしょうか?

A 回答 (2件)

1 戦国期の領域支配


現在の感覚より、ずっとユルユル。
強大な勢力の間には、両属的な地域も多々ありました。一族によっては、片方が強くなると一族のAが一族の代表をしたり、別の勢力が強くなるとBが一族の代表をしたり。どこにも属なさい勢力があったり。
一族によって一族の代表を替える例で言えば、三河の菅沼氏や奥平氏などは、そんな動きをしています。
どこにも属さないというと、信長がまだ尾張一国を制していなかったころの、川並衆などが典型。また、寺社などでは、戦国大名領域内の独立国家でした。

2 上杉謙信の鎌倉入り
総勢10万で鎌倉入りしたと言われています。
この数字を信じるならば、石高換算すると300万石程度の領域から武士層が集結したことになり、これはほぼ関東一円+越後にあたります。徳川家の江戸入り段階が250万石と言われますので、だいたいその程度。
ということは、関東中の武装勢力がほぼ全員、手下になっていたので、小田原城に籠城していた北条家以外に、親北条勢力はその時点ではいなかったことになります。

3 上杉謙信の京入り
朝倉家とは、将軍家からの要請として、両国通過の許可が得られていました。加賀は本願寺の了解を得ており、越後から、加賀に海路は行ったように記憶しております。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます、確かに関東の豪族は北条がくれば北条、上杉がくれば上杉になびいてますから途中の道はそれほど困難がなかったのかも。
京入りは幕府公式行事で朝倉も妨害する意図がなかったのですね。

お礼日時:2007/09/20 09:36

鎌倉入りは多数の軍勢で北条領国を攻め、北条側が小田原城へこもったのを包囲しましたが、篭城が長期にわたったので包囲を続けられずに囲みを解いてそのまま鎌倉へ行って関東管領の就任行事をしたもので、多数の軍勢に守られており心配はありませんでした。

(北条牽制のために小田原を攻めたという説もあるようですが。)
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます、小田原攻めの時期に鎌倉参拝をしたのなら理にかなってますね。納得がいきます。

お礼日時:2007/09/20 09:34

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