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 聖霊は、三位一体の一角を成しているわりには影が薄い存在だと思います。

 「神様に祈る」「イエス様に祈る」人はいても、「聖霊様に祈る」人はあまりいないような。

 キリスト教徒はどんな場面で聖霊を意識するのでしょうか。
 それとも、よほど信心深い人でなければ気に留めない存在でしょうか。

A 回答 (4件)

祈りは聖霊が取り次いでくれます。

聖霊の名前を出さなくても自動的
動いているそんな感じ~
神様と言えば3つの要素イエスをさし、聖霊をさし 神をさしている場合もある。具体的に見えない存在だから意識しない。見えなくても意識しなくても空気みたいな貴重な存在ですね。

オックスフォード大学神学教授のアリスター・マクグラスによると、21世紀に成長し続けるのは、カトリックや福音派、そしてペンテコステ派(聖霊派)だという。 メインライン教会の停滞が叫ばれる中、ペンテコステ派の勢いはいわゆる第三世界を中心にとどまるところを知らない。 ...

彼らは具体的にいいますね。
宗派によって違いますね
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2007/07/29 10:38

キリスト教徒ではない側面から。

。。。


【初めに言葉(ロゴス)があった。言葉(ロゴス)は神と共にあった。言葉(ロゴス)は神であった。】

ヨハネの福音書の最初の出だしです。
ロゴスは多義的な意味を持ちますが、この場合はなんでしょう。


創世記の部分。
【地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。 】

訳によっては 上 じゃなくて 際なんですが、イエスが水の上を歩いたという、、、どの書だったか忘れましたが、それはこの創世記のこの部分をひいていると思うんですね、作家は。

なんか受精の瞬間のような創世記の出だしの部分ですが。。。



アレクサンドリアのフィロン(20/30年? - 紀元後40/45年?)は、ユダヤ人哲学者で、プラトンのティマイオスの影響を受け、旧約聖書とプラトン哲学が調和的であると考え、モーセの思想がプラトンに影響を与えたと考えた。

で、「ロゴスは神の言葉である」という考えになり、天地創造の前にイエスが存在しており、深淵の淵を漂っており、言葉によってこの世が実体化し、、、、ってなったんじゃないかと。


人は意思をもったあとに行動をするか?
実際はやるぞと決定する前に、既に体が動きを開始しようとしている。

なにが人を動かしているんでしょうね。
とにかく人の意志より先に活動をするものが、正しく指示してくれないと、「何故こんなことをしたのか」とかよくわからず、後意味づけとして、自分で納得のいく言い訳を考えなければならなくなる。



エイリアンハンド症候群。
自分の意志とは関係なく勝手に手が動いてしまう症状。

勢いよく買い物カゴに自分の手が桃の缶詰を放り込んでいき、必死で棚に戻すが、戻した瞬間、手がまた桃の缶詰を買い物カゴに入れてしまう。

戻すよりカゴに入れる方が勢いよすぎて、結局、カゴからあふれんばかりの桃の缶詰の入ったカゴを押して、店員さんに驚きの顔をされながらも、大量の桃の缶詰を買って帰るしかない。


ある人は一日何時間でも絶叫を続ける。
「苦しい、痛い」と意味のある言葉を発することもあるが、ほとんどは意味を持たない音でしかない。
大音響で叫び続ける。

で、あるとき必死の形相で「私が喋るのを止めてください」って言葉がその大音響の音の中に含まれていたんですね。

これは意味がわかります。
自分は絶叫したくないのに、体が勝手に絶叫を続けて止めることができない状態が苦しいと訴えているわけです。

何がその人にこういう行動をさせているのか?
悪魔つきのような現象。


その人は自分が絶叫しているという自覚がある。が、止められない。
自分の意思で絶叫を続けているとしか、本人も自覚できない。
でも 自分はちっともそれをしたくない。
何か別なものと一体化しているような状態で、なにかに体をのっとられて操られてしまっているかのような状態。



カトリックは悪魔祓いも熱心に研究しているそうで、エクソシストチームがその人に「悪魔よ去れ」と、十字架と聖水で悪魔退治の祈祷文を読めば、その人は治るのでしょうか?


実際ドイツであって事件。
悪魔に乗り移られたかのような状態になった人に対して、神父が悪魔祓いをしたんですね。
そして少女は死亡。 神父は殺人罪で訴えられた。

結局、悪魔は存在するとして、神父は無罪になりました。
死因は悪魔に少女が殺されたのでもなく、悪魔祓いの儀式で神父が少女をぶったたいて殺したのでもなく、餓死なんですけどね。


神父が儀式に熱中して、少女に食事を与えなかったのではなく、少女が食事が取れるほどの精神状態ではなく、食べれなくてとうとう餓死してしまった事件。
というのが真相で、裁判で悪魔の存在が立証されたとするのは早合点。



キリスト教では三位一体ですので、神に「清くなりますように」と祈ること自体、既にロゴスが清くなりますようにと祈っていることになり、自分を操っている何かが清くなって、自分は悪をしなくてすむようにと、願っていることになる。


んじゃないかと。


悪魔祓いの祈祷文、すごいですよ。

【天にまします我らの神よ 願わくば御名を讃えさせたまえ、御国が地に来、御心が行われますように。
日々の糧を与え、我らの罪を許し、負い目を許したまえ。
試みに会わさず、悪より救いたまえ。
御力により、我が戦いを助けたまえ。】

ここまでは大体 キリスト教徒の毎日祈る内容と一緒なのですが、、、、

だんだん一般信者の祈祷文とは違ってくる。

【聖なる主、全能の父よ、永遠の神よ、主キリストの父よ。
悪の暴君を地獄の炎で焼き、怒りの獅子を撃つため、一人子を送り
苦しむ我らを破滅と白昼の悪魔の手から放ちたもうたち父よ。
神のかたちなるこの人をも、ぶどう園を荒らす者たちを恐怖で打ちのめし
この悪魔のしもべから放ち、捕囚の苦しみから救いたまえ。

<中略>

見よ、主の十字架が汝を滅ぼす
祈りを聞きたまえ
この叫びをみ前に、我が主が共に
汝、汚れたる悪魔よ、去れ!
汝を地獄へ落としたキリストの命令だ!
神の港から去れ!
この神の僕から去れ!
キリストの力が汝を追う!
キリストの力が汝を追う!
キリストの力が汝を追う!】


まだまだ続きますが、これがエクソシストたちが悪魔祓いの時行うおまじない。
聖霊(言葉)なわけです。



ふと今思ったのですが、もしあの絶叫を何時間でもやっている人に対して、「悪魔祓いでもなんでもいいから治してください 助けてやってください」 とエクソシストにお願いした場合、受けてくれるのでしょうか?

その人はキリスト教徒じゃないので、「キリスト教を深く理解していた場合にのみ、悪魔祓いの祈祷は効果を発揮する」って断られるのでしょうか。


言動を起こすなにか。
それが聖霊だと仮定して、神に祈りを毎日捧げていたら、聖霊が清くなり、悪事は一切やらなくなるか?

なるんだったら、侵略戦争をしたブッシュをキリスト教徒が一丸となって再選させることなんてありえないとは思うのですが。。。


というわけで、えっと 神に祈ること自体で、既にイエスも聖霊にも祈っていることになるので、、、、、

で、、、、で、、、、、 それが一体なに? どんな効果があるのか? ってものではなく、清くなれ 清くなれと清くないのを自覚したものが、清くなれる かもしれない いう希望を胸に、、、、


毎日神に祈りを捧げているのではないか と思います。


で、洗礼者ヨハネはどうやら、信者に既に清いと自覚させるために儀式として洗礼を受けさせたようなんですね。
イエスも受けた途端、鳩が登場しますが、この鳩が聖霊でもある。


だからといって、そこいらにエサ撒いて鳩が下りてきたって喜んでも仕方ない。
だってこれは比喩表現なのだから。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2007/07/29 10:41

三位一体について 人間の言葉で明らかにすることを試みます。



父なる神は 子なる神を生みたまうた。また父なる神は 人間を生みたまうことが出来る。父は この権能を 子なる神を生むとき 子なる神が 量的・質的な差なくして 持ちたまうように 授けた。父が子を生んだというのであるから 経験的な概念で言っても 父は子を愛したまうた。子を愛したまうたと同じように 人間を愛したまうた。そして父は子に 人間を愛する権能をも 十全に 欠けることなく 授けたまうた。

父が子を生みたまうことと 愛したまうこととには 量的・質的な差異がないと考えられる。言いかえると 生みたまい得る存在ということは 愛したまう存在であることに等しく 父である権能は愛である能力と同じであり この愛は 子である権能にも等しい。

父が子を生みたまうたとき 何らの時間的なへだたりなくして そこに――つまり言いかえると 父から及び子から つまりさらにあるいは 父と子との交わりから――愛が 父や子と同じ存在・同じ力として 発出したまう。

子の父は 父の子を および 両者のまじわりである愛を 人間の世界に 派遣されたと考えられる。子は 人間となって派遣された。つまり みづからを空しくされ 肉となって現われたまうた。それは かれの神性を欠如させてではなく そのまま 父なる神の独り子なる神として現われたまうたと察せられる。言いかえると 第三の愛なる神を発出したまう神として この地上にやって来たまうた。

第二の子なる神が 人間となってやって来る前にも 父と子は 愛つまりは言いかえると第三の聖霊なる神を 同じくこの地上に派遣したまうたと考えられる。子なる神がやって来て 人間の言葉でこれらの神のみ心を 告知したのであると。つまり 聖霊は 人間に派遣され 人間の肉に宿りたまうのであると。子なる神は人間となられたが 聖霊なる神は そうはならなかった。聖霊も子も 互いに等しい神であられるが 聖霊が 固有の意味で神の愛として 人間に与えられ人間の内に宿りたまうのであると。(人間はこの神なる聖霊を分有すると言われる)。

この父と子と聖霊との三位格(ペルソナ)の一体性は 光にたとえられる。光の 光源(父)と発耀(子)とその明るさ・暖かさ(聖霊)の一体性にたとえられると。三位一体とは 各個が各個に等しく 各個が全体に 全体が各個に等しい存在であると。つまり 真実の光なる神は 一つなる本質(存在)でいましたまうが 三つのペルソナを持ちたまう。父とか子とかその交わりである聖霊とか これらの表現は 関係として言われるのである。言いかえると 子の父も 父の子も そして聖霊も それぞれ本質として 聖であり霊であり愛であるということ。(性の存在しない領域にかんして いわば親ということを示すために 父ということばを用いている)。

人間は この三位一体なる神に似せて造られた存在であると考えられた。

神は 光であり そのうちに関係として三つのペルソナを持ちたまう一つなる真実の神であると 人間は記憶する。この《記憶》は 記憶が記憶に帰るとき つまりあるいは 人間がその記憶に尋ねるとき そのようにその内容を知解する。つまり 記憶がこの《知解》を生む。そして なぜなら 記憶し知解するとき そこに これら言わば父のような記憶と言わば子のような知解とを結び合わせる第三の行為能力である意志を持っており この《意志》は 人間が神の愛を分有させられてのように 記憶と知解の行為の初めに はたらいたと 記憶され知解される。この人間の 記憶と知解と意志の一体性は 神の三位一体の似像(にすがた)なのであると考えられた。(ただし 残念ながら 人間の記憶と知解と意志との一体性としては それぞれのあいだに時間的な隔たりがある。むろん 神ではない)。

人間の 記憶は いわば精神の秩序であり 知解(知識)の宝庫である。記憶の宝庫から精神が知解するとき 意志が発出されていると考えられ この意志は人間の持つことが出来る愛である。自己の記憶と知解と意志なる三一性は 他者のこれらの三一性に 同じものであると考えられる。このとき 自己の意志 自己の愛は 他者の愛――他者への自己の愛 および 他者じしんの自己の愛――と同じであると考えられる。

人間は 三位一体の似像なる存在として 人格(ペルソナ)を持ち 一つの本質(=存在) 一つの生命である。

信仰の問題ですから ドグマではありますが。ですから われわれは おのおの聖霊を分有しているという姿で捉えます。もちろん 祈ることも あります。まったく自由です。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2007/07/29 10:41

「聖霊とは何か?」という事でよいのでしょうか?



「聖霊」とは、人を正しい方向に導く存在です。
簡単に言いますと、「天使」と解釈しても良いでしょう。
この「聖霊」(天使)ですが、原則的に人間の守護霊であったり、道案内人てであったり保護者であったりする存在ですから、「聖霊に祈る」という行為はありえません。
カトリックにおいては、神には崇拝し、キリストには礼拝し、聖人には崇敬を行う事になっていますが、聖霊に関しては、祈りの対象とはしていません。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2007/07/29 10:42

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