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キリスト教に関する質問です。

神は全ての人々の罪を背負わせるために、一人息子のイエスを地上に送った、それほど人類を愛していた、とのことですが、その意図がわかりません。

なぜ人々が罪深いからといって誰かが犠牲にならなければいけないのでしょうか?

人類を創ったのは神です。親が子供たちの過ちの責任を、長男もしくは一番かわいいと思っている子供に負わせているかのように思えます。(キリスト教によると、人類は神の子ですよね?イエスの兄弟ですか?)
俺たちが悪いことをしたのに、何もしてない兄さんが警察に名乗り出てくれたよ。罪悪感感じるけど俺たちは罰を受けなかったし兄さんに感謝感謝、って感じですか?しかもそれを親(=神)がやらせたんですよね?
そもそも誰かを身代わりにしたら許される、その身代わりになってくれた人を敬う、という発想がよくわかりません。

なんでこんなに理解しがたいことが、世界中の人が信じている宗教の根本なんだろう?とものすごく疑問に思っています。

A 回答 (25件中1~10件)

>人類を創ったのは神です。

親が子供たちの過ちの責任を、長男もしくは一番かわいいと思っている子供に負わせているかのように思えます

これはあなたの言うとおりでしょう。これが神の愛かな?

>そもそも誰かを身代わりにしたら許される、その身代わりになってくれた人を敬う、という発想がよくわかりません

身代わりなんだけど したら許されるという物ではない。
発想ではなく信仰によって考えるという事でしょうね。

これを信仰によって信じる事が出来るなら救われると聖書に書いていますね
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この回答へのお礼

そうですか。ちょっとがっかりですが納得はできます。
もっとも愛するもの(イエス)にこそ難しい要求を、なんですかね。
外から考えていると矛盾ばかりが目に付いてしまいます。やはり信仰が先ですか。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/06/19 21:20

質問者さんは、既にご覧でないかもしれませんが以下回答です。


>なんでこんなに理解しがたいことが、世界中の人が信じている宗教の根本なんだろう?
契約を重んじる文化圏の人であれば理解しやすい理論だからです。
彼らの考えは以下のような流れです。
1)神がイスラエル人に対して『律法(掟、十戒など)を守れば救われる。守らない場合滅ぶ』と契約を結んだ。
2)しかし、その契約は人間側が履行しなかった。(=このままでは人は滅んでしまう)
3)でも、神は人間を救いたいと思った。
4)しかし、1)の契約が履行されないまま契約を廃棄する(無かった事にする)事は秩序を無にする行為である。
5)そこで全人類の身代わりとして神の子であるキリストが十字架で刑死を遂げ、1)の契約を全うした。
6)全うされた1)の契約の替わりに、「5)の内容を信じる者は救われる」という新しい契約が結ばれた。
1)が古い契約(=旧約)、6)が新しい契約(=新約)です。6)の契約に従おうとする者がキリスト教徒です。

3)と4)は少し補足説明が必要かと思われます、何故なら我々日本人は契約に鷹揚(悪く言えば無頓着)だからです。
日本では徳政令や棄捐令のように、時の為政者が金銭貸借契約を一方的に破棄する政策が幾度も行われています。
(現代でも日本は「公約」を守る気もない政治家と、守らせようとしない国民から構成されています)
他の多くの文化圏では契約は絶対で、一度交わされた契約は守るべき物として全てに優先します。
日本人は「神様がルール決めたんでしょ?だったらそのルールを神様が変えたって良いじゃん」と考えますが、契約重視の社会では「神様が自ら定めたルールだからこそ、たとえ神様でも勝手に変えたり破ったりしてはいけない」と考えます。
(勝手に契約を無かった事にするのは契約社会その物を根本から揺るがす行為ですから、決して許されない行為なのです)
以上の理由から(日本人である質問者さんが疑問に思うのも無理は無いのですが)世界の色々な地域や国で受け入れられる理論なのです。

さて失礼かとは存じますが、明らかな誤りを他の方が信じるといけませんので・・・以下はオマケです
No21>当時のギリシャ語には英語に相当するhis(男性+所有格)という語が無かった。
No21>神の子、人の子、○○の子表す言葉など無かった。
「当時」が何世紀を指すか分かりませんが少なくとも、ホメロスの時代(紀元前8世紀)にすら男性+所有格(ギリシャ語では属格)はありました。
有名な「イーリアス」の冒頭には「怒りを歌え、女神よ。ペーレウスの子アキレウスの怒りは・・・」と書いてあります。

No21>それで古いギリシャ語の新約聖書には イエスを○○(男性詞)の子 など書かれてはいないそうです。
例えば、ギリシャ語で書かれている70人訳新約聖書の冒頭、「マタイによる福音書」の第一ページの一行目は
「アブラハムの(息)子、ダビデの(息)子であるイエス・キリストの系図」と書いてあります。
ギリシャ語は名詞に性があるので「~の子△△(人名)」とあれば、△△が男性名詞なら自動的に「~の息子」だと、ギリシャ語をわずかでも知っている人なら読み取れるのです。

議論にならないように事実のみ記します。
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この回答へのお礼

後半に回答をくださった皆様、どうもありがとうございました。
全て興味深く拝見させていただきましたが、こちらに代表してお礼を書かせていただきます。
いろいろな意見を伺うことができて本当に参考になりました。
まず最初にキリスト教を信じない限り、私の疑問は納得できる形では解決しないのかな?と思いました。

お礼日時:2007/08/19 20:09

No.21です。

 何度もすいません。


前回と重複する箇所もあると思いますが。

>イエスによる罪の許しなどないとのお考えでしょうか。

新約聖書は多くの言い伝えをある特定の人が編纂して作りました。
どれを正当とみるか、ニセモノとして退けるかは、その作った人たちの判断にゆだねられた。

というより作って他を異端として迫害して、暴力で勝ったのでこれが聖典となっただけ。
正しかったから彼らが選んだ書物が聖書になったのではなく、力技でやった。

その暴力で無理やり正当化して聖書を、今日の人たちは真実だと信じているわけです。



イエスがもしいたとして、「どれがイエスの言葉であるかを知るには、その当時のユダヤ教の風習や思想、キリスト教の正統派を自称するものたちがニセモノと退けたもの、異端としたもの、ユダヤ教のタルムードやラビ文学など、それにユダヤ書(旧約聖書)にあるかないか、で判断したほうがいい。」と誰か言っていました。


新約聖書の編纂において、いくつもの書を、一つの書にまとめたわけですが、章一つを作るにしても、どれがどの文の前にっくりか、後に来るか、編纂者は悩んだと思います。

章内だけならいいですが、別のところに本来あったと思えるものまで、混入させてしまっている。


山上の説教。
これにおいてもある箇所が文の途中で二人称から3人称(逆だったかもしれません)に変わっていることから、その部分に来る文章では本来別の場所に書かれたものだといわれています。

別の場所に書かれた文章が、編纂中に別の場所に混入したため、文全体の言いたいことが変わってしまった。

入信のきっかけは山上の説教を知ったからという人が多い。

「本来は別の意味だっただろうけど、今の聖書の方が感動的で心を打つから 改造されイエスが言った本来の意味を伝えていなくてもかまわない」と言うまえに、どうして元の意味を知りたいと思わないのか と私はちょっと不思議に思います。

信者でもない私ですら、本来のヘブライ語での意味は?と調べたのですから。
ましてや信者ともなれば、当然興味を持つだろうと思うのですが。


で、イエスの裁判においてピラトは、イエスに罪は無いとした、とあったと思いますが、史実のピラトは疑わしいものは裁判無しに処刑する人物で、イエスの時だけ裁判をして知りもしない相手に温情をかけるなど考えられない。

そして夜裁判が行われたとなっているが、当時は夜裁判は開いてはいけなかった。

鞭打ちその後槍で刺すというくだりは異教の生贄の儀式のやり方。

ユダヤ教ではそんな贖罪の儀式などないし、大贖罪として神に捧げられる動物は特別な動物で(羊ではない)、しかも傷一つ無いものでなければならなかった。


イエスの磔刑の場面は、ユダヤ教を知らないものが、創作した部分である疑いがかなり強い。


当時のギリシャ語には英語に相当するhis(男性+所有格)という語が無かった。
神の子、人の子、○○の子表す言葉など無かった。
ヘブライ語においてはベンが息子を指し、ベン・エッサイとなれば、エッサイの息子、またはエッサイの子孫という具合にそれを示す語はあった。

それで古いギリシャ語の新約聖書には イエスを○○(男性詞)の子 など書かれてはいないそうです。


古代はイエスは神だとは思われていなかった。
後世の人が会議でそうした方が有利だとして決めた。
そしてそれ以降 一切イエスが神だったかどうかを議論してはならないと決定した。



どれが真実でどれが虚構なのか今更わからないですが、さきほども述べたように古代のユダヤの慣習、文学、思想を手がかりにすれば、作家の言いたかったことが見えてくるように思います。


申命記だったと思いますが、罪を犯した当事者のみが裁かれ罰を受けるのであって、それ以外のものが身代わりになってはならない と厳しく書かれています。

母親を尊敬しこそすれ、「自分になんの関係があろうか 女よ」 などそういう軽薄な態度をしてはならない と申命記だったと思いますが書かれています。
従ってイエスが母親に向かって「私とあなたがどんな関係があるっていうのか 婦人よ」とユダヤ教知っていたら作者は書くはずがない。

これも誤訳か 後世の加筆だと思います。


マリアが結婚式の席で「酒が無くなった」とイエスに言った。
これは新郎か新郎の母親が酒の手配をするという慣習があったことから、イエスの結婚式だったことになってしまう。


キリスト教会はそれを知ったら愕然として、説教内容を変えなければならないことになってしまう。

女性蔑視が強いキリスト教ですから、女性を蔑ませるために後世の人が工作した可能性が高い。
特に聖書を編纂するにあたって、女を悪魔と思っていた人が編纂にあったったことから、こっそりこのエピソードを作って挿入したのは編纂者の可能性もある。

イエスの実像は虚飾され、イエスが言ってないことまで、言ったように工作されているようですが、ではこれはイエスが言ったことか?

「私は受けねばならないバプティスマがある」

イエスが進んで人間の身代わりになり贖罪により罪を消そうとしたと思われているようですが、誤訳のようです。

イエスが受けるのではなく、イエスが火のバブティスマにより裁く というのが本来のヘブライ語に添った意味。

火は罪を浄化するという概念がありますから、そこから火くぐり、樋渡の風習がオリエントにあって、日本にもそれが伝わってきた。

つまりイエスは殺しにやてきた というのではなく、ユダヤ教の厳しい律法を火として、その火に触れ(理解することで)ることで神の元から離れた放蕩息子たちに帰還になるチャンスを与えているという描写だと思うんですね。

にもかかわらず、律法を否定したたステファノは死刑
つまり永久追放処分。破門です。

これはクムラン宗団のやりかた。 破門者を殺してはないない。
信仰心がなくなったので、死人とみなされたわけです。
そして死人も復活のチャンスはあったのかもしれない。

イエスの描写がそれです。
だから、イエスの死と再生がクライマックスではなく、本来はもっと前に書かれていたものだったのではないかと。
放蕩息子として。

確か申命記に放蕩息子に関する扱いもかかれていたような。


パリサイ派は厳格な律法主義者だったのか といえば、死海文書からママドトたちは彼らを、口だけは厳しい律法主義だが、実践はできていなかったことから、滑らかなる者 という隠語を使って表現していたようです。

だから「滑らかなるもの(柔軟なもの、律法をあまり重要視していないもの)は幸いだ」といわれ喜んではいけない。
冷笑されているのだから。


イエスは何故両替商の台をひっくりかえしたのか。
生贄を捧げにやってきた人は、そこで神殿硬貨に変えて、生贄の動物を買っていたわけです。
ところが、実際は動物は生贄に捧げられず、両替商(恐らくサドカイ派)が動物を次の巡礼者に再度売っていた。


聖書からここいらあたりのイエスは厳格な律法主義者だったことが伺えるので、生贄に捧げないで金を懐に納めるという神を愚弄する行為に激怒した という解釈が正しいように思います。


サンヘドリンもサドカイ派もヘロデ系で、大祭司は純粋なレビ人ではない者がついていた時代。
ヘロデは自分の言うことを聞かない祭祀を殺していた。
言うことを聞く犬には自分の親族と結婚させ、血縁関係を築き、政治だけではなく宗教も手の内に入れていた。

律法を軽視したものが神殿を占拠しており、信仰は拠点である神殿から腐敗していた時代です。


神殿の収入である神殿税を取る台をひっくりかえして殴り込みをかけてきた男に対し、ヘロデ系は危険を感じないはずがありません。

ただちにローマへの反逆として(ローマに神殿税でたまった金を渡していたのにそれをひっくりかえして否定したのがイエス。)ピラトに処刑させたかもしれない。


イエスという男がいたかどうかわかりませんが、行動からするとゼロテ党員の一人が物語の実際のモデルだった可能性があると私は思えました。


ユダにしても裏切り者だとされていますが、ヘブライ語には少なくとも一つの単語に複数の意味があり、裏切り者の他に、、、なんだったか忘れましたが、逆のいいニュアンスの意味もあるのだとか。


ユダが金貨を返したという意味も、賄賂を返したという話ではなく、神のものは神に返す 持ち主のものは持ち主に返す というニュアンスの記述なのだとか。


もう一つ、、、 <盲目の人を癒した。>
直訳すればそうですが、ヘブライ語では<目がいい>というのは視力が優れているという意味じゃあない。
<気前がいい>という意味。
<目が悪い>はケチという意味。
<盲目>という表現なら「ドケチ」でしょうか。


共同財産の概念を作り上げ規定としたのが、エッセネ派の一つの分派と思えるクムラン宗団。
入会者は財産を共同金庫(底なしの穴=二度と持ち主には戻ってこない)に納めていた。
ただし、個人でも財産を所有してよかった。
目が悪いと言われる人は、ちょっとしか提供しなかったということですね。

しかし入会して理解を深めると財産に関する執着がなくなり、目が治った と。
在家信者ではなくなり財産をほとんど寄付して、クムランに住み着いたのであないかと思えます。


ピラトはローマ史に名を残しているから実在の人物。
ヘロデも実在の人物ですが、ヘロデは人口調査をやっていない。
やったのはそのずっと前の時代の人で、しかも別の国がユダヤを統治していた時代の統治者が命令したこと。


ヨセフたちがヘロデ王の幼児殺しを逃れるため とあるが、さんざんヘロデの悪口を書いたヨセフスの記録にも一切その件は出てこないことから、これも後世の創作の可能性ばかりか、イエス実在までも揺るがす虚偽になってしまった。


キリスト教の古代の資料で、イエスの後継者に任命されたとされる義人ヤコブ。
聖書ではなくヨセフスの記述から確かに熱狂的な歓迎を受けたヤコブは、その時代いたようです。
でも、イエスに関することは聖書関係しかない。


想像するに、やはりいくつもの違う時代のエピソードや他人のできごとが書かれた資料が残っていて、それが後にQ資料(想定)となり、それを元にさらに創作が加えられ福音書の元になるものができあがり、その文書をさらに、人の思想や希望の見地から並べ替えられ、あっちとこっちの文書をつぎはぎしてできたのが、今日に伝わる聖書になったのであないかと。


いくつもの別々の話が、たった一人のエピソードとして統合されてしまった。
と私は思うんですね。


聖書には罪はその人本人のみで完了するものであると書かれており、他のものが肩代わりをして罪を担ってはならないと書かれている。

もちろん神を偶像化し、その人間が作った産物を神として拝んでもならないと書かれている。


キリスト教徒に言わせると、イエスが十字架に磔になったデザインの十字架や、身代わりに処刑されたことを示す十字架は、神の偶像化ではないと主張します。

が、どう見ても偶像化して拝んでいるにしか見えない。


そしてイエスは人間ではなく神であり、神が人間を愛していたから身代わりになった というとんでもない話までできあがってしまった。


旧約の話を知っていれば、聖書とは逆のことを作家が書くはずがない。

神は間違えたものを作ってしまったと、人類を滅ぼそうと洪水を起こしたとある。

ただ、ノア一族は、災いを免れる結果となった。
該当しないから、神といえども該当しないものは滅ぼせない。
という内容。
該当しないものも滅んだら、万物の法則のない混沌とした無秩序の世界になってしまう。

過ぎ越しの祭りの起源。
これも該当しないものは滅んでいない。

神は該当しないものは慈悲などかけずとっとと滅ぼすという概念をユダヤ人はもっていたわけです。

だけど、イエスの時代だけ神は温情をかけたのか?
イエスの時だけピラトは温情をかけたのか?

ノー。 
神は無秩序ではなく、普遍であり、コロコロその時の気分で決断を変えるなんてことはしないものでなければ。


罪が無いものが滅んで、罪のあるものを助けることもある なんてことを普遍の概念を持つ神がするとなったら、そりゃあ もう なんでもありで混沌とした世界です。

人間は間違うが、神まで(万物の法則)誤ってしまっては無秩序。
カオスの世界です。


ということに気づけないと、「神は今までさんざん人間を滅ぼしたが
この時だけ突如寛容になり、自分を捧げ、人間の変わりに罪を背負った」なんて思考になってしまうのかもしれません。


「どうせ神様だから、殺してまた生き返るから殺していい」とか、「人に冤罪を着せ殺しても、いい人だったら天国にいくんだから、殺してもいいの 自分は地獄に落ちてもかわまわにしさ」とか、「ユダヤ人が神を殺したから神を殺したユダヤ人を絶滅しろ」という考えを誘発する結果にすらなってしまう。

命の尊さを軽くみてしまうからこうなる。

キリスト教の歴史は命を軽んじた結果引き起こした惨事づくしですよね。

口では「命は貴重です」といいながら、実際は逆。


何故、聖書に他人の罪を肩代わりして身代わりに裁かれてはならないと書かれたのか。
どうして規定になったのか。
未然に惨事を防ごうとした神のはからいを預言者を通して神が人間に与えた とせず、神の言葉を軽んじて信じず、改造してしまった結果 どうなったか。


律法の一字一句 ヘブライ語の律法は、この世の終わりまで変わることはなく滅ぶことはない。

逆に他の言語に書き換え、しかも旧約を否定し、律法を否定し、、内容を書き換え、神を自分達で作ってしまい それを信仰の対象としてしまったら。

歴史の通りです。

ユダヤ教のセクトが招いた悲劇が根源ですが、信仰をなくしてしまったため、隣人を殺すことになる新しい宗教を作ってしまったわけですよね。


というわけで、旧約の存在の重要性、律法の重要性をユダヤ人がどうしてあそこまで言っているのか理解できるように思います。

異教徒のみならず隣人まで殺してしまうから。

10戒はユダヤ人に対して神が告げたことになっています。
つまり隣人とは同じユダヤ人のこと。

「異教徒の町にいかず むしろ失われた神の民である羊の元にいけ」

私の推測ではこの失われた民 隣人とは他の10支族のことだと思うんですね。
どうしてそのように作家がイエスに言わせたか、わかったような気がします。


「サマリアの町に入ってはなならい」は後世の加筆の疑いがありますし、ローマ帝国が占拠していたので、サマリアは異教徒の町になってしまっているから異教徒と交わってはならない という意味かもしれません。

異教徒に交わると、異教の生贄の儀式が混入し、バビロニアの再生するために殺されるタンムズの概念が混入されてしまう。

異教の神の誕生日である12月25日がイエスの誕生日だと制定され、異教の日曜が安息日に変わってしまい、異教の言語に置き換えられ、本来の意味を伝えない物語を、真実だと思ってしまう危険が出て、隣人を殺す結果にもなってしまった。

だから異教徒に交わってはならない は予防線だったわけで、踏み越えてはならない重大な根拠がちゃんとあることになります。
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peetさんのご質問、とても興味深く読ませていただき、考えさせられました。



zeroforeさんがおっしゃるように「視座をかえる」というお話は、全くその通りであろうと思いました。

peetさんによれば「神はなぜ?」という問いです。
これは「神を理解しようとすること」であろうと思います。
もし人間が神を理解できた、もしくは理解できていたのなら、人間がこんなに神について悩む必要はなかったでしょう。

神と人間。
聖書によれば、神と人間は深い関わりの中にあったにもかかわらず、その関係を崩してきてしまったといいます。
ですから、人間は神の意図、神の思い、神の神であることさえ分からなくなってしまっている、ということのようです。

ですから「神はなぜ?」という問いは、人間が答えることはできないと言えると思います。

聖書はイエスを神の子として表しています。
日本の有名なクリスチャンの一人である内村鑑三という人は聖書について「聖書はイエス・キリストのことが書いてある。だからイエス・キリストを信ぜずして読んでも分からない」といいました。

なるほど、と思いました。

多くの場合、それはキリスト教徒と称している人の多く、ということですが、彼らは聖書から人間としての生き方を学ぼうとします。
「隣人を愛せ」と言われればその通りに、「平和を作り出すものは幸い」といわれば、どうすれば平和を作ることができるのか、一生懸命考えるのです。

これがいわゆる一般的なキリスト教信者でありましょう。

しかしキリスト信者となるとちょっと違います。
キリスト信者は「神はその独り子をお与えになったほどにこの世を愛された。それはみ子を信じるものが一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」という言葉をもって、イエス・キリストは神の子救い主であると受け入れ、自分の救いの根拠であると受け入れて、キリストを神として拝むのです。

それはなぜかと言いますと、やはり人間の「罪」ということです。

最近もやたらに事件や事故が報道され、この社会では相当地位のある人と思われるような人でも犯罪に手を染める世の中です。
どなたかもおっしゃるように、キリスト教国と言われるところでも犯罪は蔓延しています。

人は、何かに律されていたとしても、違った環境、律されていない環境の中ではいつでも同じ状況になるということの現れです。

戦争がそうですよね。
今考えれば空恐ろしいことも、そこでは普通になってしまう。

最近の事件などを見聞きしても、とても絵空事とは思えない。
それは「自分にも同じ種がまかれている」という現実を自分の中に見るからではないでしょうか。

そして良い人・悪い人にかかわらず、まさにすべての人が共通に持っている「死」という出来事。
ここから逃れられる人は誰もいないという現実があるわけです。

キリスト教の中で最も信じられない出来事の一つは、イエスの復活です。
クリスチャンであると自称する人たちの中にでさえ、このキリストの復活は「真実ではあっても事実ではない」という人がいます。

しかし、結局のところキリストの復活を信じられなければ、キリスト教的な「なぜ神はイエスをこの世に送ったのか」という問いは分からずじまいでしょう。
なぜならば、聖書はイエスの復活を中心にして書かれているからです。

いつ誰がどこでどのように書いたのかさえ分からないと言われる「4つの福音書」は、イエスの復活に関することです。

イエスの復活と言う出来事から始まったキリスト信仰なのです。

信じるというのは、簡単な話しで、そうであったかそうでないか分からないが、そうであると「信じる」ということだけです。
この信じることを通さなければ「神はなぜ?」という問いを解決することはできない・・・と思います。

ではなぜクリスチャンたちはこのイエスを信じるのかといえば、
救いを求めるからです。
自分の現実の、罪という問題にたいして、また必ず迎えなければならない「死」という問題に対して、そこからの救いを求めるからです。

よく反キリスト教的な人たちからは「死んだものが復活するなんていういい加減なことを言う宗教をどうやって信じたらいいんだ!?」ととわれることがあります。

もしわたしが知っている「人間」が救われうるのは、そんな異常な事態でも起きない限り、救われはしない、と思うのです。

かくいうわたし自身、自分の中に潜む罪の種がいつ芽生えてしまうか、また、死ということを迎える瞬間に救いを確信して死ぬことができるか、ととわれても「大丈夫です、救われていますので」といえる自信はありません。
だからこそ、ただただ「キリストゆえに救われる」ということを信じる以外にないのです。

それから、他の人がお答えになっているかもしれませんが、
「神の独り子」という表現は、「神の息子」ではありません。
「神から出た」ということで「子」という表現を使いますが、伝統的な理解ではか「神からの神」であるということです。

また、人間は神による創造物(被造物)です。神の子ではありません。

神が神自ら人間の現実におりてこられ、人として生きられ、神を否む人間の現実で抹殺され、そして復活し、人間と神との和解の道をお開きになった。
この真の人にして真の神であるお方を信じると言うことを通して、神は人をご自分の子としてお迎えになり、完全にお救いになる。
それがキリストを信じるということです。

長くなりましてすみません。
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>なんでこんなに理解しがたいことが、世界中の人が信じている宗教の


>根本なんだろう?とものすごく疑問に思っています。

あまり回答にはなりませんが..
ここ最近?の理性重視の方向性からは理解しかねる言い方かも知れませんが、
最終的には考えても分からないとは思います。少なくとも理詰め
で最後まで理解できるようなものではないかなーと思います。
例えば99匹の羊を野に置いて、迷える1匹の羊を探す。現代的に言えば
無駄です。しかし99対1で考えるのではなく、その1に目を向けるのが
キリスト教の神です。1とは他の誰でもなくあなたです。

世界的に"クリスチャン"の割合は多いかとは思いますが、その大多数は
あるいは習慣でそう言っているだけかもしれません。しかし、例えば現代
日本でも、大人になって洗礼を受ける人もいます。
見方によれば、"宗教というのは逃避だ"ともいえるとも思います。しかし
"逃避"のみで2000年以上続くのかなと疑問には思います。

「十字架にかかり、人類の罪を贖ったキリスト」ということは意味不明
かもしれません。しかし感じる人は、あるいは感じるときにはそこに
"何か"を感じるのだと思います。そこから何かが始まります。
私の書き方が意味不明ですね..

ともかくちょっと視座を変えることで、いろいろ見えてくるものはある
と思いますよ。
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神はキリストを送ったのでは有りません。

誤解しないでください。
彼が目覚めて開祖となったのか祭り上げられてなったのかは不明ですが、その彼の思想・信条・行動が民衆の心をつかむ+お上の統治上の利益と合致したので布教できたのであって、けして神が送ったものではありません。後にこのバランスが崩れ彼ははりつけになりますが、そこは何年もキリスト教が商売として続くとそれで飯を食っている奴らが出てくる。彼らは死活問題になる。そこで出てきたのが、神は全ての人々の罪を背負わせるために・・・と言う有難い教えです。
これで人たるキリストは神の子となり、永遠に罪を背負った英雄となったのです。
これで彼らのビジネスとしてのキリスト教は残った。
これも異論は有るでしょうが一つの考え方です。これもキリスト教に対する一面的では有りますが解釈できないことは無いと思います。
1000人がいたら1000通りの信仰があるはずなのです。
宗教の根本は「井の中の蛙大海を知らず」の後に続く言葉だと思っています。それは「されど空の高さと水の深さを知る。」です。
空を見、水の水位の変化・温度で四季を感じ与えられた環境で精一杯生きて行けが神の教えだと信じています。
人は弱いものでそれに悩みを持つ、悩みを解決しようかと持ち掛け、その前に金をだしな、集めた金で御殿を建てる、御殿が建つほどご利益があると宣伝をする・・・この繰り返しで儲けて行く。
宗教の根本は自分の内にあります。これは全ての宗教に通じることだと思います。
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神はキリストを送ったのでは有りません。

誤解しないでください。
彼が目覚めて開祖となったのか祭り上げられてなったのかは不明ですが、その彼の思想・信条・行動が民衆の心をつかむ+お上の統治上の利益と合致したので布教できたのであって、けして神が送ったものではありません。後にこのバランスが崩れ彼ははりつけになりますが、そこは何年もキリスト教が商売として続くとそれで飯を食っている奴らが出てくる。彼らは死活問題になる。そこで出てきたのが、神は全ての人々の罪を背負わせるために・・・と言う有難い教えです。
これで人たるキリストは神の子となり、永遠に罪を背負った英雄となったのです。
これで彼らのビジネスとしてのキリスト教は残った。
これも異論は有るでしょうが一つの考え方です。これもキリスト教に対する一面的では有りますが解釈できないことは無いと思います。
1000人がいたら1000通りの信仰があるはずなのです。
宗教の根本は「井の中の蛙大海を知らず」の後に続く言葉だと思っています。それは「されど空の高さと水の深さを知る。」です。
空を見、水の水位の変化・温度で四季を感じ与えられた環境で精一杯生きて行けが神の教えだと信じています。
人は弱いものでそれに悩みを持つ、悩みを解決しようかと持ち掛け、その前に金をだしな、集めた金で御殿を建てる、御殿が建つほどご利益があると宣伝をする・・・この繰り返しで儲けて行く。
宗教の根本は自分の内にあります。これは全ての宗教に通じることだと思います。
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このままいけば


世界を滅ぼすためということになるねぇ。
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小学生が大学の講義を受けてもつまらないでしょうね


そんな感じ その人の信じていく経験の積み重ねが大きな信仰となります。
子供がコンピューターゲームをするに何も考えずにやっていますけど
その裏で機械が動いてますよね。信仰もそれと同じ

昔は礼拝にいくのかパチンコ屋にいくのか?
パチンコを選んだクリスチャンです

知識を持っている方はこのサイトでも多いけど
確信を持ってこうです!と言える人はいない
信仰と知識とはまた別のもの
信仰というのは信じている人が1000人だとすれば1000通りの信仰があります。人にも指紋をみれば違うように信仰もみんな違いますね
だからノックする。触る。木に登るとか 自分から動く事によって信じることが出来るのだと思います

ちなみに教会に足を運んだのは数年前ですね
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歴史家の視点で読み解いた記事を以前読んだことがあります。


かなり前ですので詳細については忘れてしまいました。
詳しい方がいらっしゃいましたら補足していただけると助かります。

当時、虐待を受けていたユダヤ民族。
政権から自分たちの土地を手に入れるためにカリスマが必要になり
イエス・キリストが担ぎ上げられた。
新興勢力(宗教)が政権に対し武力蜂起をした場合、政権側は見せしめとして重い刑に処さなければならない。
だから十字架を背負わせ見せしめにした。
処刑方法に人道的というものはないと思いますが、一宗教家を処刑するのであればもっと普通の刑があったはず。
思想を広めたということだけなら国外退去という処置もあったかもしれない。
と、いうのがその記事の内容だったと思います。

歴史家の視点で見ると代理贖罪というのは後付けの理論なのかもしれません。
いろいろな意見があるのもしょうがないなとその時思いました。
あくまでも参考意見として。
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この回答へのお礼

当時の状況がそうさせたのであって、聖書に記載されていることは後付けであるという解釈ですね。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/06/23 00:31

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