質問

質問者:fishbowl66 ほにゃらか形而左右学 数学
困り度:
  • 暇なときにでも
1)「自然は数学で書かれた偉大な書物である」と。(ガリレオ)
2)「自然は数学で出来ている」がや。(何処かで聞いたような)

1)から2)の帰結が肯定されそうですが、

1)では、自然に対する敬意と謙虚さを保持して、
その上で、自然を体系的に観察するには数学が有効である、
と、述べるに留まって、否定の必要はあまりなさそうですが、
2)では、自然を単なる対象として、数学で理解できる、といった
断定的な意図が見受けられます、つい、否定したい誘惑に駆られます。

1)から2)への論理的誤謬について、ご指摘下さい。(誤謬の有無を含む)
さらに、
1)ついて、ではそれ(数学で理解するのが容易)は、なぜか?
このことを問題にした哲学者や資料があれば教えてください。
結局、2)だから、1)だという事になりそうで、混乱しています。

テストもレポートの予定もありませんし、私見も混入していますが、
宜しくお願いします。
質問投稿日時:07/05/03 18:17
質問番号:2970486
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回答

良回答20pt

回答者:noname#31063 そうでしょうかっ!?
失礼しました。

回答ではないですが、
自然は数学(数式)ではないと思います!
アインシュタインも確立肯定派だったのかな?

生物学的には1+1=3以上で、2だったら子孫繁栄しません。
1+1=1+1
答え『2』という取り決めはは人間が作った数学概念(?)。


数学は嫌いというより全然(滝汗)。
種類:アドバイス
どんな人:一般人
自信:参考意見
回答日時:07/05/03 23:57
回答番号:No.1
この回答へのお礼失礼です、と切り返せないのがつらいですが。
私も数学は(も)苦手で、自信が無いから切り返せません(笑。

先月、DVDのお店にやっとダビンチコードのパッケージに中身が
早々借りてきて見たのですが、何を見たのか覚えていない中で、
「フィボナッチ数列」が印象に残っています。
1,1,2,3,5,8,13,21,34,55,89・・・
この数列は、兎の増え方から、カタツムリの殻、植物の葉の配列まで説明でき
簡単に総和も計算できまるらしいのです(私は良く知らないですが)。

確率も数学じゃないの、と言いたい所ですが、数学音痴、どうなんだろう。
たっぷり汗をかいて、内臓脂肪の解消が出来ると一石二鳥。

そうそう、決して、
自然は数学で出来ている、と決め付けているわけではないですよ。
此処では、穏かに「なぜ」に注目、有難うございました。

回答

良回答10pt

回答者:noname#31273 不審不可解な暗喩(暗号と言うほうが正確かも)を紐解くには、その対象ごとにコツが必要になります。そのコツが分かれば、あとは呆気ないほどカンタンになります。たとえば一つの参考として
「仕事」「株券」や「リスク管理」また「月」や「雲」が何者を指して喩えた表現なのか。「物語」というものの性質とはどんなものか。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3000854.html
投稿者の発言が腑に落ちない場合は履歴なり投稿なりの内容を、通しで閲覧し分析をかけてみれば、自ずと浮かび上がってくるものがあります。その人物の思索能力レベルや思考の癖等、思いの他に、いろんなことが見えてくるものです。人間ウォッチングをする場合なまじ数式なんぞに頼るより、よっぽど確実です。但し先に申し上げたとおりコツが必要です。そしてそのコツは一度手に入れれば呆気ないほどカンタンだったりするものです。とくに対象が低次元であるほど。
――ここまでは御質問者様が或る程度「御察しでいらっしゃるのであれば」御理解可能なこと、もしも、そうでないなら、どうか無理に御思案巡らさないでくださいネ。クダラナイと言えば実にクダラナイことですので(笑)

ところで一連の遣り取りを拝見し改めて思いましたが、やはりここでは比喩或いは暗喩ということが抜き難く絡んでいるように見えます。それは
1)「自然は数学で書かれた偉大な書物である」
2)「自然は数学で出来ている」
これら自体が比喩としての表現でもあるわけですね。
以前私は「哲学における比喩というものはズレていては始末が悪い」と述べたことがあります。そもそも的確な比喩を用いることができるのであれば、それ自体が問題の本質を掴めているからに他ならない。ところが世のなかには、わざと本質からズラした比喩を用いて何らかの意図を達しようと図る人もおりますし、もっと情けないのになりますと本質を掴む能がないことを逆手にとってか開き直ってなのかドンドンとズラシていくことを何か「高度なゲーム」であるかのごとく思い込んでいる人もいます。
こういった種類の人は、もちろん、およそ「哲学の徒」足りえませんし人間の精神文化の要たるコトバを愚弄しているに他なりません。ですから彼らの発するコトバなどは「ひと山いくらの大安売り」ゆえ豪も人の心を打たない、それどころか物事を不必要に煩雑にしてしまいます。煩雑にする――物事を入り組ませて本質を掴ませないことが目的であることもありますし、その比喩なり暗喩が的確でないことが自分で分からなかったりする場合もあるわけです。
No.2の御回答者のたとえ話は、その点からもオモシロいですね。実際こうした思考形態の人もおられます。
こういう人が或る人から「違うものを一緒くたにしてはいけない」と注意されているのを見たことがあります。ところが、そう注意している人自身が「違うものを一緒くたに」してしまっているところがあるのが何とも言えない気分を催させたものでしたが、注意された当人に言わせれば「音痴なのだ」そうで(笑)それ以外では何かの目的があると解するべきでしょう。そしてそれは当人にとって「見抜かれると辛い」ものなのです。ですからコンピュータウイルスのごとく、定義から逃れるために、いろいろと「隠れ蓑」を使うわけなのです。
こうした人の場合、自分一人でつぶやいているだけではツマラナイ、やはり他人に自分の「声」を聞かせたいのだが、しかし呼びかけの「声の内容」は知られたくない、という相反する心理が働いています。大概は自分一人の「物語世界」に立てこもり満足しているだけなのですが、無理やり「声」を聞かされるほうはワケが分かりませんから本当のコミュニケーションをとる気も感じられず無礼な感じもするしで苦痛でしかない。
実は「声」を聞かせる当人自身は「分かってもらいたい相手にだけ」他の人に分からないように発しているつもりなので、それが目当ての相手に理解してもらえたと「感じられたら」あからさまなまでに喜びます。
逆に普通は、どうせ分かってもらえないだろうと最初から投げている面もあり、それは或る種の屈折したナルシシズムと共に「目当ての相手以外の人」へは「軽侮」を伴っているものです。ですから、その「軽侮している相手」が「軽侮されている」ことに感づいて怒りだせば、むしろ大そう面白がるのですけれど意に反して「分かって」しまわれたら大慌てですし、肝心の「分かってもらいたいお目当ての相手」に理解されなかったら切なく悲しむわけです。
「目当て」でないと見做された人にとっては、一方的に雑音を聞かされて、まことに無礼千万なことですが(笑)
しかし皮肉なことに、他人も同じようなのではないかと疑心暗鬼になって自分から墓穴を掘ってしまうところが、哀れを誘うところです。要するに「投影」という素朴な心理作用なわけですが「投影」されたほうは気持ち悪くてたまらんでしょうね。(笑)

さて、ずいぶん面妖なことを長々申し上げたかもしれませんが、御設問に挙げられた文の「比喩的表現」はさて置いて、果たして数学で観察、理解できるかということ、もうすでに幾人かのかたから御指摘があるようですが少なくとも現時点において限界はある、そもそも観察、理解できるという以上に、数学をもってするくらいしか観察、理解の糸口がないではないかというのが精々のところなのでしょうか。しかも、それによっても万全なものではない、漏れ出るおそれが常についてまわる。これは「ヒトという自然」を対象にした場合、ことにそうではないかと思いますし尚更、主観客観というものが及ぼす影響を看過できない。

論理というものにおいても主観の影響を受けて前提の正しさを置き去りにして進めることができるのであれば、それは全き信用には価しないでしょう。当然のことですが、まず論理の前提が正確でなければ何ともならない。ところが、この前提が誤っていることに気づかず長たらしい数式を打ち立て、それらしい答えが出せないと言って呻吟している人を見たことがあります。こちらが哀しくなったものでした(笑)或いは循環論法というやつもありますね。上記の人は、せめても、これに陥ってはならないと苦しんだようなのですが(笑)
No.5様の御意見も興味深いですね。
>それ(数学で理解するのが容易)は、なぜか?
もちろん「ヒトが編み出したもの」だからでしょう。秩序法則というものを数学的方法によって発見し数学的方法によってしか記述できない。しかし「全てが」発見できたわけでないし捨象抽象化が避けられない以上、数学的方法をとることによって、むしろ「取りこぼす」ものが出るおそれがある。しかも論理というもの前提が正しいという保証などない。このあたり、すでに御質問者御自身、指摘なさっておられますがコトバの問題と重なってくるところです。
コトバというものも始末が悪いもので、我々現代人の直感また直観能力が衰えているとしたら、コトバに頼り過ぎているせいなのかもしれません。だからと言ってデタラメなコトバを吐き散らしていいとは断じて思いませんが(笑)
論理を有効な手段とするには前提を確実にすることから始めなければなりませんでしょうが、切り口を、どうとるかによって左右されてくることなど、いくらもありますし、そこがそれ、慌てて切り取ろうとすると前提段階で大失敗しかねない。しかし、その「慌てて」というところに、またニンゲン臭さを感じます。こうした面を見受けますと理数の専門家と言えどニンゲンに変わりないのだなあ…という感慨を持つものです。まして望ましい結果が出せないと悩むに至っては。

「真理とは結局最もよく機能することのわかった仮説に過ぎない」
――フレイザー 金枝篇――

その人は、第三者情報によれば、記号論理学の亜流(良くないほうの意味ですよ笑)に凝っていたそうでして、whyを軽んじ(と言うか、そんなこと問うてどうする、と言いたいようでした)how to を求めてやまない感じでしたが、詰まりは哲学向きじゃないということになりますかね。
>質を量に還元出来てしまうのか
或いは量を質に還元できてしまうのか
「単に検出器のノイズを下げ単に検出器の数を増やし単に長期間、観測を続けた成果である。単に量を変えたに過ぎないのだが、これによって新しい世界が開けた。量から質への転換と言えるだろう」
このように仰っていました。悩ましいですね。(笑)
別の或る専門家のかたから伺ったことですが
「ポパーは反証可能性を増大させないような理論の修正を禁止している、しかし現実の科学において反証可能性を増大させないような理論の修正がよく見られる」そうです。やはりニンゲン臭さを感じます(笑)
「数学は芸術です」
数学者 広中平祐先生の御ことばですが、意味深ですね。
ヒトが産み出したもの。しかし天然自然の摂理に裏打ちされているもの。音楽などは特にそうですね。リクツではない。

本当は、数学で観察、理解可能なのか否かというよりもヒトの主観性を、どのように克服できるかということのほうが、より重大な問題なのかもですね。それは結局、科学分野や論理、コトバの問題にも繋がってくるもののようです。

この投稿、恐らくは、かえって御回答者様を混乱させてしまったかもしれませんので、ここにお詫び申し上げておきます。どうぞ御容赦くださいませ。
種類:アドバイス
どんな人:一般人
自信:参考意見
回答日時:07/05/31 02:32
回答番号:No.20
この回答へのお礼ご回答有難う御座います。
昨夜、そろそろ、お礼をとここへ来たのですが、
たまたま、テレビが「エピソード記憶」などと言う
「言語記号」を私の包囲環境の空気を振動させ、
つい、途中からですが、珍しくテレビ番組を見ていました。
脳に損傷があり、一部の記憶が出来ない人の話題です。
おそらく名古屋放送局ローカル番組で、全国ではないと思います。
要するに、昨日の出来事の記憶が上手く出来ない、
それでも、言葉は話せるようで、会話もできる。
身近に、不健康な人はよく見ますが、この方も大変なようです。
色々と考えさせられますが、
記憶の何たるかがテーマという訳ではありませんから、
私の関心からいえば、「洩れた」ものがあって、
その後、言葉が話せて、記憶に障害がある。
こう様な事実から、どのような推理が可能か、
お礼は飛んでしまいました。
主観と客観の問題は重要ですし、
回答の理解の為にも背景の共通意識が不可欠ですが、
基本的には、客観世界に関心をもっていると思っています。
断定を避けていますが、外を理解するのは難しいですが、
同時に内を理解するのも難しく、
愛用の自転車を汚れた布で掃除しているような、
拭いても拭いても、汚れが取れずに、不思議に思っている。
さて、このお礼は、誰の為に書いたのやら。

PSこの手の名前は、嫌いだ。断定(笑。つづく
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