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なぜオスマン帝国で産業革命が発生しなかったのでしょうか?
ウィーン包囲などヨーロッパを圧倒するほどの国力があったのだから、オスマン帝国で産業革命が発生してもおかしくなかったように思えるのですが。

A 回答 (3件)

「豊かさ」の誕生―成長と発展の文明史


日本経済新聞社
ウィリアム バーンスタイン, William J. Bernstein, 徳川 家広

によれば、産業革命ないし経済成長の常態化には、私有財産制度への信頼感が必要。

経済に参加するすべてのプレーヤーにとって、投資とその見返りが合理的に保証されないとならない。
上記の書籍では、出だしにレパント沖のオスマントルコの提督の話が出ている。その提督は、財産をすべて金貨にして船に持ち込んでいたそうだ、理由はいつ皇帝に財産没収されるか分からなかったから。
巨大な帝国であるオスマン帝国で、財産の自由利用が認められていたのは皇帝のみ。(その皇帝も死んでしまえば、自分の希望する跡継ぎに財産を残せなかった)そのような社会では、何らかの長期的な投資を行い見返りを期待することができず、よって、投資を必要とする産業革命も起こりようがない。
同様なことは 明帝国でもいえる。永楽帝が個人的に大遠征軍を出すことはできても、皇帝が変われば海禁策となり、継続的な大航海時代は起きなかった。
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この回答へのお礼

なるほど財産権の保証は要因として大きそうですね。
綿織物の機械化や蒸気機関の発明などはオスマン帝国や明・清で起こってもそう不思議はないと思うんですよね。技術的要因よりも社会制度的なところに制約があったのですね。

お礼日時:2007/04/18 20:28

いずれのご回答も等を得ていますが戦争の場合人口と支配地域の大きい方が動員力が大きいのが当然です。



多くの場合兵力の多い方が有利である事も事実です。
オスマン帝国の場合、その軍隊はイエ二ティという独身男性による精鋭部隊が中心をなし、戦闘の中心局面で戦場に投入される事がおおかつたようです。

軍楽隊の設置など軍制上も当時のヨーロッパ諸国より一歩進んでいました。 又コンスタンティノープル攻撃の際には軍艦を山越えに移動するなど着想も優れており、ウイーン攻囲でも大口径の大砲を多数準備してヨーロッパ軍を苦しめています。

軍事技術の点では明らかにオスマン帝国が優位だったのです。

産業革命とはかなり無縁の時代でしたが学問的にはイスラムの学問は近代科学の先達という名誉を有しています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。イエニチェリ強いですよね。

お礼日時:2007/04/18 20:32

世界史を、中央vs辺境という視点で捉えた場合、オスマン帝国は「中央」だったからです。



産業革命が革命(=力関係が逆転するほどインパクトのある変化)と言われる所以は、人力に頼らない、動力による生産が可能になったため、力関係が人口の大小ではなくなったためです。

産業革命前までは、人口が多い国、地域=力がある国、地域でした。つまり、中国、インド、アラブ地方、エジプトの4大文明が起きたユーラシア大陸中央が最も力があり、ヨーロッパや日本といった人口の少ない辺境は弱者の立場でした。

ですから、16世紀の大航海時代や印刷技術の発明など、ヨーロッパの科学技術が世界的に最高水準に達してなお、南米・アフリカは植民地化できても、アジア諸国を植民地化することはできませんでした。むしろ、オスマン帝国には押され、明清の皇帝や、ムガール皇帝にはへりくだった対応をして居住と貿易の権利を認めてもらうなど、総合力的には対等かそれ以下だったものと思われます。

ですので、人口の少なさという絶対的なハンデを負わされたヨーロッパでこそ産業革命が生まれる土壌があったのでしょうし、オスマン帝国やインド、中国では、産業革命を引き起こす科学技術の研究は、支配者の既得権として管理されていた分、どうしてもヨーロッパに遅れをとっていたのだと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
ただ、人口が少ないことは産業革命の必要条件ではないと思います。これならシベリアでもアフリカでも産業革命が起こってもよいことになってしまいます。

お礼日時:2007/04/18 20:29

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