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お世話になっております。
中国では外戚とか宦官が権力を持つことがよくあったとおもいますが、日本では宦官がいないかわりに鎌倉時代には乳母の一族が権勢をふるうことがよくあったと思います。これは日本だけの現象でしょうか? 江戸時代ではそういうことは無くなったようにおもいますが、これはなぜでしょうか?

A 回答 (6件)

乳母が日本で重要になったのは院政のころから。


乳母と乳父(だったかな)とセットになり、一種の養育係となったためです。一族でバックアップという形です。
例:後白河の乳母の甥に当たる藤原信頼が院近臣
古代においては、親王の名前は、養育一族の名前だったりします。これも、広い意味では乳母といえましょう。
例:推古天皇=額田部皇女 とか、○○部皇女、○○部皇子というのは、附属された(養育にあたった)氏族
戦国時代では、信長=>池田家の乳母関係は例外だったのではないでしょうか?というのは、同時代で乳母の話を聞かないからです。

江戸時代においては、乳母は、覆面をして授乳したそうです。それくらい乳母の存在を削除する方向で頑張っています。
春日局が例外ですね。例外なるが故に、家光=家康と春日局との間の子供説とかいう奇説も生まれたのかと。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
乳母は古代からあったんですね。勉強になります。

> 江戸時代においては、乳母は、覆面をして授乳したそうです。それくらい乳母の存在を削除する方向で頑張っています。

ということは、江戸時代は過去の外戚や乳母の一族が力を持つことを規則で防いでいたのですね。
徳川家康は天下を取ってから、徳川家が長く続くように本当に知恵を絞っていますね。

お礼日時:2007/03/01 08:47

江戸時代においては、2代将軍秀忠の乳母・大姥局、3代将軍家光の乳母・春日局、4代将軍家綱の乳母・矢島、5代将軍綱吉の乳母・近江、11代将軍家斉の乳母・大崎、13代将軍家定の乳母・歌橋などが知られています。


将軍の権威を嵩に着て大奥の実力者となった者が多く見られますし、政治力を活かして諸大名と関わりを持ち、幕政を動かしたものもいます。
当然、将軍の身内ですから、親族(特に男子)は士分に取り立てられることもあったでしょう。

> 江戸時代においては、乳母は、覆面をして授乳したそうです。それくらい乳母の存在を削除する方向で頑張っています。

というのは誤りではありませんが、乳母の存在を消すためではありません。
乳母が覆面をして授乳したのは家斉の時代であり、その子女が40人以上もいたために乳母となるべき女性を上流旗本家から迎えることができなくなってしまったのです。
そこで下流旗本家や御家人その他の身分の低い家柄の女性を乳母としたわけですが、その乳母は当然お目見え以下ですから、高貴な将軍子女に面と向かって接することは禁じられ、覆面をさせられたというわけです。

江戸幕府後期は乳母だけではなく大奥そのものが幕府の負担となっていたわけですし、母系の親族を幕政に参加させないという決まりごとが家重の時代に作られていたこともあって、大奥の持てる力を制限させようという動きがあったのは事実です。
しかし、これは乳母とその一族の権勢どうこうというものではなく、女性が政治に携わるのをよしとしない風潮があったこと、財政難を乗り切るための政策の一つと見るべきでしょう。
実際、幕末までも乳母は政治力を持っていましたし、将軍側室の生家の石高が加増されることもありました。その一族が江戸時代初期と違って大名クラスにまで出世できなかったのは、幕府にそこまでの余裕がなくなっていたからという見方もできます。

海外でも当然、身分の高い家では育児は他人任せです。
ただ、日本の乳母が育児だけではなく教育を教える立場にあったのに対し、欧米ではベビーシッターとしての役割に限定されていたようです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/06/22 16:31

#3さん、伊達政宗の養育係であった喜多の弟片倉小十郎景綱はどうでしょう。

厳密に言えば乳母ではないですが、信頼関係は乳母以上です。また、その弟は片倉小十郎ですから・・・(^^ゞ
織田信長における池田恒興と五分はるでしょう(^^)v
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
すいません、私の質問が言葉足らずだったのですが、

> 中国では外戚とか宦官が権力を持つことがよくあったとおもいますが
これによって漢の滅亡につながった。

> 鎌倉時代には乳母の一族が権勢をふるうことがよくあったと
これも平頼綱の専横から霜月騒動となり、これらが幕府滅亡の遠因となったとか、比企一族が乳母そして外戚となり別の外戚の北条氏と争い、それが源氏宗家の滅亡の原因となった、という乳母の害がこの質問のテーマでした。

片倉小十郎や池田恒興は主君を助けてはいますが、害をなしたということはないと思います。

あと、乳母というものは日本だけなのか、という質問もしております。こちらの方もよろしくお願いします。

お礼日時:2007/03/01 09:08

室町時代の今参局もそうですね。


銀閣寺で有名な足利義政の乳母で、結構
政治に口出ししていました。義政の母と
妻の日野一族とはかなり仲が悪く、追放
されるのですが途中で暗殺されてしまい
ました。
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乳母は、同じころに子どもを産んだ母親がなります。


同じ乳で育った乳母の子は乳兄弟として、信頼できる側近になる仕組みです。合戦が日常化した世の中で、決して裏切らない家臣は貴重だったでしょう。
織田信長の乳母の家、池田氏も清洲会議に参加するなど特別扱いを受けてますので、鎌倉時代に限ったことではありません。
秀吉以降、中国でいう後宮が整備され、一つの家が君主と特別に結び付くのが難しくなったのではないかと考えます。
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乳母がぶんぶん権力を揮ったのは春日局や矢島局など徳川時代も結構いると思いますが……。

徳川幕府では乳母は大奥の人で、やがては御簾中さまや愛人さんや御腹様(実際の母・前将軍の正室とは限らない)の影響は強く受けますが、基本、政治は表のお仕事、日常生活は奥と別れていたせいではないでしょうか。
表の方々も奥のご機嫌を損ねると大変と思って苦労はしたようですが。

この回答への補足

春日の局だと、権力と言っても大奥に限定されたものだし、子供が大名にとりたてられていますが、乳母の子供が小姓になるのは自然なことのように思います。
鎌倉時代のような比企一族や平頼綱とその一族のような一族が政治権力に食い込むようなことは江戸時代には起こっていないようにおもいます。
江戸時代には外戚が力を持つこともありませんでしたが、これはおそらく将軍の御台所を公家に限り、また公家は政治に手が出せないようにしめつけていたためだろうと自分なりの解釈をしております。

補足日時:2007/02/26 06:36
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