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多くの種類の動植物が普遍的に持っていると思われる、
「生存本能」や
子孫を残そうとする(?)行動は本能という解釈がされているようですが、
この「本能」が、
生物に備わった理由と、
その目的とは何なのでしょう。
また様々な「愛」とは、
この行動を起こさせるために付帯する感情なのでしょうか。

宗教的な観点からのご意見ではなく、
哲学として過去にこのような考察や
ある程度説得力のある仮説が提唱された
ことはあるのでしょうか?
また、皆様が考えるご意見を伺いたいと希望しております。

よろしくお願いします

A 回答 (8件)

本能は意思や都合にお構いなく強い腕力でもって私を引っぱるのですが、


目的は自己保存。性欲は肉体の保存で、
愛情は精神の保存、本能の資質をより良く伸ばし育ませる為にあると思います。

子孫は性の欠乏を満たした半分の、完全なる私でもあります。
しかし、子孫にも性の欠落があって、又半分の私。

完全に向かう為に目標を持ったり、
恋を求めて行くのも本能かなと思います。
完全な私が出来あがれば一人恍惚となり
人恋しくなくなるかもなと思います。

独立精神の遺伝子があるなら、それは生殖の本能さえも無用にします。
生殖活動をしなくても増やせるのは
精神を社会に還元帰属させる意思、与えるというより返すつもりの好意。
社会に代理に育ませて慈しむという純粋な無私な愛だけなのかも?

昆虫や魚なら一度に沢山の子孫を産んで、
その内僅かでも生き残ればいいという保存の目算があって、
「育む愛」は必要でないかもしれないけれど、
人間は社会学習も(言語や礼儀など)手間暇かかるし自立も遅いので
親の肉体の負担や時間の拘束は大きいです。
少ない子孫を同種の協力が得て育てる方が種の繁殖に有利なので、
子孫を望まない恋愛であった場合で、失恋なども
子供を奪われる親の感情などに感情に本能が似せていて
(かけがえのない者、守るべき者を失うのは自分にも絶望です)
相手や自分が何も奪われていなくてもマイナスになるのです。
本能が愛の持続を望ませているようにも思います。

>哲学として過去にこのような考察や
ある程度説得力のある仮説が提唱された
ことはあるのでしょうか?

私には説得力のある考察と思っていて
信頼を置いた人の提唱の引用なのですが、今だ仮説です。
動物行動学や遺伝子学の本には説明があると思います。
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結果論だけど



悪い...
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動物というライン上からは


生きているということがすばらしいことだから
と思いたいが
人間の一員としては
自己を知るために
というところあたりがあっているかな.
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物質を形成している原子のことから話を始めると、とてつもなく長い前置きになるので、地球上で最初に誕生した単細胞生物(いろんな分子の結合体である物質の集合体)のところから話します。

私は専門家ではないので、証明はできません。あくまで聞きかじりです。
物質の集合体である単細胞生物(あるいは多細胞生物かもしれません)はある時期、何かの拍子でいままでとは違う物質を取り込むか、または、自ら持っていた物質の分子構造が変わったことによって、自らを細胞分裂させ、自分と同じ遺伝子を持つ生物がつくれるようになりました。その単細胞生物は別に意思をもっていたわけではなく、ただ、ある分子同士が偶然に接触し化学反応を起こしただけです。その生物は、延々と細胞分裂を繰り返すようになりました。
それから数年後か、数億年後かわかりませんが、そのうち今度は、ある単細胞生物は少しだけ分子構造の違っている単細胞生物(この生物もある拍子に分子構造が変わってしまっていた)に出会い、どういうわけか融合し、そして、少しだけ違う遺伝子を持つ単細胞生物をつくりだしてしまったのです。その第三の単細胞生物は自らも分裂することができるし、他の単細胞生物と融合してまた別の遺伝子を持つ単細胞生物を生み出すようになったわけです。
そして、ある組み合わせよって生まれた単細胞生物は、他の単細胞生物と融合し、少しだけ違う遺伝子をもつ単細胞生物を生み出すプログラミング遺伝子持つことになってしまったのです。
この子孫生産遺伝子を持った単細胞生物は、その後、どんどん増えていきました。時には環境の変化などで、多くの犠牲を出したりもしましたが、その繁殖力はゴキブリ並みだろうと推測されます。もしくは、人類並みかも知れません。
その後、子孫生産遺伝子を持った単細胞生物は、何年毎か、何千年毎か分かりませんが、化学反応を起こしながら別の形態にと変化していったそうです。
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>子孫を残そうとする本能の目的は



むつかしい。で.す.ね。
う~ん。答えじゃないけど。自信ないけど。考える時間と。トポス下さい。と言うか、くれた。と思って自由思考。
生物は生物じゃなくて、お日様があったからかも。
例えて言えば、山の中腹にくぼ地があって、この事象の可能性の一部がそこにはまっちゃっている状態。かな?
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個人的な意見ですが、愛とは理想的な心理状態を指し、生殖活動とは関わりなく万物に愛を注ぐのが健康な姿です。



子孫を残すことに性欲を感じるうちは正常な判断が下せません。
性欲とは真実の愛を真っ向から否定する悪意です。

命には全てに満ちていこうとする衝動があり、これは本来自らの子孫を残すこととは関係ありません。利他的な衝動であり、本来欲望とは無関係です。特に知性を持ち合わせた人間はこのような「命をつなぐ」ことに利他的な行動を取ることも可能です。
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僕は生きることに意味はあっても理由はないと考えています。



たとえば菌には空気中では生きられないものと、空気中でも生きられるものがいますよね。
空気中で生きられない菌は空気に触れると死んでしまうので、当然空気中には空気中でも生きられる菌しかいないことになります。

さて、人類が水中などで繁殖する菌を知らなかったとしたら、つまり
菌は空気中にしかいないと思っていたら、次のような疑問が生まれるでしょう。
「なぜすべての菌は空気に強いのか?神がそのように創ったからか?」

この場合、菌が空気に強くあるのではなく、空気に強いからそこに生きることができるのでしょう。


「生存本能」についても同じだと思います。
生物が普遍的に「生存本能」を持っているのではなく、「生存本能」を持つからそこに居るのでしょう。
「生存本能」を持たない、つまり生きようとしない生き物は死んでしまってそこには居ることができませんから。

ですから、人類が生存本能を持ち、地球上に生きているのもある意味偶然といえるでしょう。
もし人間が生存本能をもたず生まれていれば、地球上には居られないでしょう。

偶然そのような本能を持ち生きているのですから、人間が生まれて生きることに理由はないと思います。
しかし、生まれて生きているからには、生きることに意味はあるんではないかと思います。
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僕は生物についてそんなに詳しいわけでもないし、哲学界の事はさっぱり知らないです。

でも、この事についてはたまに考えるので、素人考えですみませんが回答させて下さい。『こう考える人も世の中にはいるんだなぁ』ぐらいに聞いてくれれば幸いです。

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まず、人間一人は二つの要素に分けられると思います。それは『意識している部分』と『意識していない部分』です。
例えば、内蔵の動きは殆ど意識してないですよね。それに普段意識してやっていると思ってる行動も、無意識の部分が多いと思います。呼吸もそうだし、歩くのだってそう。もっと言えば、手を動かしてるのだって別に一つ一つの筋肉を意識して動かしてるわけじゃないし、筋肉に電気信号を送るのを意識してはいません。殆ど人間ってのは自動的に動いていると思うんです。その点で言えば、アメーバや虫と基本的に変わらないのだと思います。

また、意識していない部分ってのは思考にもあると思います。感情なんかがその代表ですよね。意識して喜んだり悲しんだりは出来ないと思います。夢もそうですね。夢は意識して見ません。
記憶もそうかもしれませんね。覚えたり忘れたり・・・。意識してない事の方が多いと思います。

こうやって連々と人間というのがいかに意識していない存在かを述べてきたわけですけど、『意識していない部分』ってのは一体なんなんでしょう?
理性ではないですよね。意識してないんだから。制御されてるわけじゃないんだから理性ではあり得ないです。
そこからそれらは本能とも言えそうです。いや、『仕組み』と言った方が分かりやすいと思います。

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そこで『愛』について考えてみましょう。『愛』にも色々あります。人類愛だったり親子間や家族の愛だったり、恋人に抱く思いもあるでしょう。この中では『子孫を残そうとする本能(?)』について関係があると思われる、『親子間の愛』と『恋人同士の愛』の二つについて考える事にします。

この二つの愛の根本には意識していない部分が関わってるんです。親子間では母性本能(と言っても色々あるでしょうが、『意識してない部分』としてまとめて母性本能と呼ぶ事にします)や刷り込みが、恋人間でも感情という意識外の営みが絡んでいます。これだけ見れば『愛』とはそういう仕組みという事も出来そうです。
ただ、それだけでは『愛』というには足りない気もするんですよね。『愛』である為には相手がどう感じるか、相手がどうなるかも必要になってくると思うんです。そして、それを自分が考えるというのは『意識している部分』だと思うんですよ。この子はどうしたら喜ぶかな?とか、これをしたら傷つくかな?とか。全て意識しての思考だし行動だと思うんです。

『愛』の根本には『意識していない部分』があり、愛を愛足るものにする為には『意識している部分』が重要な役目を果たすと思います。

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で、『愛』は決して『子孫を残そうとする本能(?)』の為にあるわけではないと思うんです。そういう『仕組み』ではないと思うんです。

もしその為にあるのならば『意識している部分』は要りません。虫やその他の下等生物がするように、オスは手当たり次第に求愛活動をしてメスはそれだけを判断基準に選べば良いでしょう。思い出を作る事もないし、相手を思い遣る事も必要ないはずです。
しかし、それは『愛』とは呼べないと思います。それだけでは単なる生殖活動の一環に過ぎません。愛が愛足るためには『意識している部分』が必要なんです。意識して相手の事を思い遣るというそれこそが『愛』だと思うんです。

以上から僕は『愛』というのは子孫を残そうとする本能に付帯している感情ではないと思います。そもそも『感情』というのともまた次元の違う話だと思います。

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長文失礼しました。素人がなんとか捻り出した考えで申し訳ないですが、何かの参考になれば嬉しいです。
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