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お世話になります、或いは、お騒がせします。
最近、矛盾という言葉を、彼方此方でよく耳にするのですが、
矛盾について考えてみました。嘘がつけるかどうかと同様
矛盾がそもそも可能であるとはどのような状態なのでしょうか。

そこで、悪しきギリシヤ的二元法、「自然」と「人為」に分けて
自然の中に矛盾はあるだろうか、どうもなさそうな気がする。
そうすると、矛盾はわれわれが勝手に作って勝手に困っている、厄介なもの。

さてさて、自然の中に矛盾を探しにいき、見つからなかったのですが
本当に見つからないのでしょうか。

宜しくお願いします。

A 回答 (17件中1~10件)

「矛盾が可能である状態」というよりは、物事の本質は矛盾ではないかと思っています。


厳密に言うと、「矛盾の拮抗」自体が存在そのものではないかということです。
矛盾の無いものは偽物ではないかという気がします。
地球は、太陽と離れようとする力(遠心力)と近づこうとする力(相互求心力)の矛盾を自転と公転という手段をとることによって拮抗させていますし、人は男性と女性という矛盾した性によって成立しています。
また、人には運動神経と自律神経とがあり、自律神経は交感神経と副交感神経から成っています。
ホルモンなども含めあらゆる面での矛盾の拮抗によって人体も出来上がっていると言えるように思われます。
なんといっても、無(死)から生じて再び無に変えるために生きているのですから、これほどの矛盾はないとも言えるでしょう。
保存(生存、建設)と安定(死、破壊)の調和、拮抗こそが生きるという現象なのかもしれません。

>そうすると、矛盾はわれわれが勝手に作って勝手に困っている、厄介なもの。
:とおっしゃっておられますが、むしろ矛盾を困ったこと、厄介なものとすること自体が困ったことではないか、という気が私はします。
無論、論理的矛盾の存在を否定はしませんが、
大局的には、そのような矛盾発生要因が必ずあるはずで、(矛盾指摘と共に)そこを探ることが本質に近づく道のような気もするわけです。

いずれにしても、
「>自然の中に矛盾を探しにいき、見つからなかった」のは、矛盾が無いのではなく、自然が全て拮抗という解決手段を身につけているからではないかと思われます。

例によって外しているとは思いますが(^^;)、素人の私見としてご笑納下さい。
 
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この回答へのお礼

れれれれ、おもわず、タバコを落としそうに。
探し方が悪かったのでしょうか、
>厳密に言うと、「矛盾の拮抗」自体が存在そのものではないかということです。
>自然が全て拮抗という解決手段を身につけているからではないかと思われます。
う~む、慌てて辞典で調べてみる。泥縄ですなぁ(笑。
矛盾(広辞苑)
(4)[哲](イ)一方が真なら他方は偽り、一方が偽りなら他方は真という二つの判断の関係、および相互に否定しあい第三者を中間にいれる余地のない二つの概念(白と非白)の論理的関係。
(ロ)現実にのうちにある両立しがたい、相互に排斥しあううような事物・傾向・力などの関係。
危ない、危ない、おもわず騙されそうな、説得力のあるご回答。
拮抗できること自体、矛盾ではないようです。
それでも結構微妙な所がありそうで、面白いご回答、有難うございました。

お礼日時:2007/01/28 13:03

おはようございます。



難しいですね。
まず観念的なものであればいくらでもつくりだせます。
現実的には、人間は、ものそのものではなくて形相を知覚(経験論的に言えば)するので、自己矛盾したものというのは認識できないのではないでしょうか、例えば山であって山でないもの、海であって海でないもの、のように。


残るは理論とかそういった客観を定式化する際の矛盾と言うことがあると思います。
例えば量子力学の、コペンハーゲン解釈およびエヴェレット解釈とか。
でも定式化というのは人為では?
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。
お見苦しい、質問になってしまい、反省しております。
言語の問題にまで進んで、自己言及についてもいろいろなお考えをお聞きしたかったのですが、それと、自然と人為の区別も方法的に限界が有るような気がします。
質問自体も長くなり、締め切って再質問したほうが良さそうですね。
「禍転じて福」と成るよう頑張ってみます。

量子力学の有名な二重スリットの実験でしたか、
波動と粒子が観測者に依存する、此処はまだ未解明で矛盾なのかどうかすら判断できない状態のようですね。確かに下のほうもきりが無いのですが、上のほうへ向かってみたい所です。
有難うございました。

お礼日時:2007/02/03 07:33

優しく御礼くださって有難うございます。



>貨幣の謎に迫るfishbowl66が全力で解明に挑戦する貨幣の哲学

っていう部分で渋~い男性の声が聞こえてくるようで思わず「まあ!金魚鉢さんカッコイイわねえ!!」と笑ってしまいました。刑事番組のオープニングみたい。
さて
>悪しきギリシヤ的二元法「自然」と「人為」に分けて

何故「悪しき」と結論されていながら敢えて分けなければならないんか、という疑問を感じつつも
それは「自然」自身が自分で「わたしゃ矛盾しておりますです」などと申し述べはしないでしょう。
ヒトなら「アンタそれ矛盾しとるで!」と言われて「そうでした、御指摘ありがとう」と慌てふためきもするでしょうが(笑)

たとえば「昼と夜」にしたって局所的には昼と夜が「同時に訪れる」ことは通常ありません。でも地球規模で見れば、ここは昼で、あそこは夜、と同時に訪れている。要するに切り口の問題でしょうか。

自然のシステムのなかでは或る現象に対して真っ直ぐに突き当たって行く真逆の現象が用意されている。
始末の悪いことに人間が「指定する」或る現象に対して本質的に釣り合う現象が用意されているとは限らない。
たとえば、これは或る質疑応答で見かけたのですが
「身体に障害を負っている者が、いわゆる健常者を顎で使うという情況に対して表面とは裏腹に障害者は内心で深い劣等感を抱え持っているのだから、それはバランスがとれている状態だ」
などという見解を示した人がいました。これって「本質的に」「バランスがとれている」のでしょうか?

>矛盾の起きる責任を自然に被けちゃいけない

ヒトである自分自身を「自然」そのものとして扱えと要求するのであれば、どなたかの仰るところによって
頼ろうとしたり干渉しようとしてはいけないし(たとえば第三者に向かって「そのお礼の仕方はケシカラン、などと干渉するとかね)所有しようとしてもいけないし相手にだけ責任を取らせようとするのも、おかしな話。全き無為でなければなりませんでしょう。
ところが我々、親に勝手に名前を付けられただけでは飽き足らず、あまつさえ、おのれ自ら「ハンドルネームまで付けて名乗る」始末。理解や協力を得られないと怒り心頭にもなりますしね。
それとも「自分以外のヒトは自然でない」と言いたいのでしょうかねえ。

>発した言葉と、受け手の理解した言葉、後者まで責任は取れるのだろうか

困難ですね。ですから最初期の段階で用心しなくてはなりません。どんなに用心したつもりでも自分では良かれと思っていたとしても、それでも人は失敗する。だからこそ最低限の誠意をもって発するべきでしょう。それが伝われば、それほど目くじら立てることもあるまいと思います。ジョークならジョークであると分かってもらう努力をするものでしょう。文字だけで「ばーか」と言って相手が好意的に受け止めてくれるには、それなりの下地が必要です。
まして出発点から「自慢する権利」だの「発言と心のなかを区別するのが有意義な人生」などという意見に至っては。。。何をかいわんや。それはまあ実生活上は本音を抑えねばならないことも多々あります。特に他者を傷つける恐れがあるときなど。しかし哲学の質疑をしているところでまで処世術の極意を力説されても~。
(私としては自分の周囲が複雑怪奇極まりないので自分の心と頭のなかと、ここでの発言くらいはスッキリさせていたいものだと思います。それとも、やっぱりここでも疑問の解決なんかより御近所仲良く茶飲み話を優先させなければならない?)
単にパフォーマンスが目的ならば「あー♪」とか「うー☆」とか言ってりゃいいでしょう。そしたらこちらも「おー!」で済ませられますものを。。。

先日、私が今現在継続中の質問のなかで或る御回答者様に御指摘いただいたのがコトバの「ネガとポジ」です。
たとえば挙げられました「矛盾」これを、この質疑ではネガティブに捉えられているようですが「矛盾」とは詰まり「差異」であり「区別」です。
それが真実有り得ぬものであるならば何故、我々は、このコトバを生じさせるに至ったのでしょうか。
「悪」なるものすら必要であり「矛盾」が「悪」だとするならば、それも受容すべきでしょう。
しかし「区別」こそは、あらゆる学問、人間文化の源でもある。
それを有り得ぬこととする人は、およそ学問の世界から離れなければなりません。
哲学の起源たる驚異こそは「差異」から生まれるものだからです。

自然界のなかには本来「矛盾」と名づけられるものがないにせよ、いずれ「人為の矛盾」の最たるものは「口で言うことと実際の行動が違う」ことでしょうね。(類語には「二枚舌」とも出てました)
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この回答へのお礼

>そうすると、矛盾はわれわれが勝手に作って勝手に困っている、厄介なもの。
今回の質問の鍵は実はこの辺にあって、自然に矛盾がないと仮定できる場合、どこかに、矛盾の発生する要素、点ではなくて傾向としての、矛盾を起す可能性が発生する、構造のようなものを、自然と人為に区別して、人為の中で、詳細な考察を狙っていたのですが、
諸般の事情により、一旦、中断。

質問が編集されたからと言って、直ぐ締め切る必要もないのですが、編集された質問を「わたし」の質問として、受け付けるのが無神経な気がしました。
仰る通り、ハンドルネームに対する、悪しき思い込みなんでしょうが、そんな了見の狭い、男性です。決して「まあ!金魚鉢さんカッコイイわねえ!!」なんて、誤解しないでね。
矛盾そのものについても、
>「矛盾」とは詰まり「差異」であり「区別」です。
此処も微妙ですが、締め切っていますから何も言えません。
「和して同ぜず」これですね。
有難うございました。

お礼日時:2007/02/03 07:13

ANo.12です。

「意味不明なんじゃー」でなくて救われております。
お礼(謎?)ありがとうございます。

↓老子道徳経なんかを読むと自然に矛盾はないようです。
http://www.ginzado.ne.jp/~okoshi/rousi.html

矛盾が湧くのは頼ろうとしたり干渉しようとするからで、
自然は誰かが名付けたからと言って所有して責任を取る必要のない物。

責任を取るつもりもないのに名前をつけて納得しようとしても
自然は名前が与えられるから生まれたり動くものでなく、ずっと知らない。
所有されたものに従うこともしない。無為自然。


自然を所有しようと名前をつけるものは、理解や協力を得られない
権力者。
星の王子様に登場する部下の居ない王様ということになります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第二章
万物は間断なく盛大である。
成長していっても、誰れもそれを所有しない。
仕事が成しとげられても、それに頼るものはいない。
達成されても、名声を求めるものはいない。

第三十二章
「道」は実在的であるが名がない。
もともと区別がなく目にみえないものである。
けれども、天下にそれを支配できるものは何もない。
もしも統治者や君主がそれにとどまれば、
下の万物は当然、彼らに従うだろう。

そして、天と地は統一され、平和の露を降らせるだろう。
命令されなくとも、人々は自ら調和するだろう。
区別が始まると名前ができる。
名前ができるとどこにとどまるかを知るべきである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

日本の道徳(資本主義やら儒教的)とは違っているようですが、
元々は老子の「道経」と「徳経」を起源にしていると思います。
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この回答へのお礼

「未開民族」の研究は、以前の前近代的な否定的な捉え方が主流でしたが、近年、「未開」と言う言葉自体に、反省が加えられています。民俗学のフィールドワークの報告は詳細なもので、植物の名前、薬としての効果、毒性の有無、などなど、実用的であると同時に、非常に多彩です。日本でも「くろはえ」「しらはえ」と言った生活に密着した風の名前がありましたが、「未開民族」にも、いろいろな風の名前があるようです。海辺にもいろいろ名前が有ります。遠くの海は、所有できない海に成るそうですが、底の見える海は所有できるそうです。技術にも所有があるようで、クラン(集団?)の中にも階層・役割の分担が有り、技術の使用の制限まで有るようです。全体的に概念語は稀のようで、名付けること、所有することの不思議さを改めて実感しております。





びっくりしました。
わざと驚かしました、驚いてくれたかな(笑。
これからと言うときに、突然締め切って・・・
それだけでも十分驚きですね。
道子、第二章も面白かったです。
また立ち直りますから、宜しくお願いします。

お礼日時:2007/02/03 06:44

#11です。



>「思考」は常識的に考えて、「自然」ですか「人為」ですか。
この質問は、新しい問題提起を含んでいるので、とても「好き」です。

fishbowl66さんは、「人為」と「自然」の区別がつきますか? 「人間の活動」は「自然現象」ではないのか、あるいは、人間の身体活動や脳の活動は自然現象ではないのか? サルが簡単な道具を作るのは自然現象だけど、人間が自動車を作るのは自然現象ではなく、人為現象なのか? ライオンが山羊を襲うのは自然現象で、人間がファミレスで日替わりランチを注文するのは自然現象でないのか? うーん。常識的に考えても、「自然」と「人為」の区別はなかなか難しいように思います。

そして、「思考」とは何でしょう? 「思考」は、自然(あるいは、身体)から遊離して、独自の自発性を持って働くものでしょうか? 例えば、お腹がすいた。吉野家の牛丼を食べようか、それとも、イタトマのピザを食べようかと考えるのは、「思考」ではないのか? もし、これも「思考」だとすれば、「お腹がすいた」という生理現象(自然現象?)は思考ではなく、「お腹がすいた」と「感じる」ことは思考の一部なのか、あるいは、思考ではないのか? うーん、これもなかなかよくわからないです。

逆疑問ばかりで、答えになっていなくて済みません。でも、せっかくですから、無理に答えを作ると以下のようになります。

無理矢理、「思考」も含めて「人間活動の全て」は自然現象の一部だと考えてみます。

そうすると、「自然現象」である「思考」が「自然」について考えることになります。この場合、「矛盾」はどこに位置づけられるかというと、「自然」の中の「思考」という活動の中に位置づけられると思います。「自然」の中の「思考」以外の部分には、「矛盾」は”存在しない”と思います。

例えば、典型的な例として、「運動の矛盾」がありますが、これは、A点を通過する物体は「A点に存在する」と同時に「A点に存在しない」というものです。これは、明らかに「思考」における矛盾であって、「思考」の外にある矛盾ではないと思います。「自然界にも矛盾が存在する」と言えるとすれば、それは「思考」も「自然」の一部であると考え、かつ、「思考」の内側においてのみ存在するという意味においてだと思います。
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この回答へのお礼

正直動揺しています。
質問とご回答の一部が編集されたことは、ご存知ですか。
ご回答は、大変面白く、質問の仕方自体に考える点が有りそうな気がしていたのですが・・・
編集と言う一手について、全く不意を衝かれてしまいました。

とにかく、今はこれ以上申し上げられません。
正直、誘導のための質問、これは事実です。

早々、一年の計が挫折しましたが、次の手を考えます(笑。
すみません、自分の事ばかり書いて、
ご回答の、指摘を参考にして、再度自分の質問に挑戦してみます。
一晩寝ればスッキリする、単純な人間です。
有難うございました。

お礼日時:2007/02/02 17:59

「言葉は発せられた瞬間に他者のものとなる」ヘーゲル


他者は他者であるから他者である。自分とは異なるから他者である。この単純な事実を見据えねばならない。
自分から見て自明なことであっても他者から見れば、それは自明なものとは限らない。まったく同一の言葉を自他が同じ意味で見ているとも限らない。
ゆえに言葉を発することとは、すなわち他者に誤解されるリスクを負う所業である。ときにそれは危険なことであり、恐るべきことである。

にもかかわらず言葉を発し他者との間に横たわる深淵に架橋せんと欲するならば、そのリスクを乗り越える勇気を持たねばならない。その恐れを振り切った言葉だけが力を持つ。
他者の物となった言葉に責めを負わねばならない。他の誤解を受ける可能性を自覚した言葉だけが、自らの身を守る。
~或るサイトより引用~

先日は良い御回答をいただきまして有難うございました。
今回の、この御質問に有益な応答ができる自信もございませんので参加させていただく予定はなかったのですが、たまたま或るサイトで下記のような一文を見つけましたもので、お礼代わりに。。。

矛盾を勝手に作った我々も自然の一部には違いなかろうと思いますけど
>矛盾がそもそも可能であるとはどのような状態
こんな状態?? ↓

「闇の人」ヘラクレイトスのことば
「生と死、覚醒と睡眠、若年と老年はいずれも同一のものとしてわれわれのうちにある」
「神は昼夜、冬と夏、戦争と平和、飽食と飢餓である」
「水にとって土になることは死、しかし土から水は生まれる」

(矛盾対立するものが相互に否定の否定を通して一となる。)
或いは
『般若心経』
「舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是 ・・・」

矛盾の即一は大乗仏教の下では日常茶飯事のこと、特に新奇なものではありません。

とのことです。
>私のような凡人は基本から少しずつ、塗り絵を塗りつぶすようにして全体を理解したい

全く同感でございます。
難しい御返事はなさらないでくださいね私には分かりませんよ。
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この回答へのお礼

>「言葉は発せられた瞬間に他者のものとなる」ヘーゲル
興味深い言葉を有難うございます。
言葉・他者・私の関連で、考えてみたいことが浮かびます。
あまりへ理屈を捏ねてもいけませんが、
発した言葉と、受け手の理解した言葉、後者まで責任は取れるのだろうか、難しいところですね。
例えば、比喩やジョーク
普通の会話では、相手が目の前にいて、ジョークが通じたのか直ぐ理解できますが、このような場所で、やり取りしていると、正直不安になりますね。

ご回答有難うございました。

お礼日時:2007/02/01 18:25

矛盾や理不尽は自分に都合が悪い場合にだけ使います?


宝くじを買ったけど、当たると使う目的や対価するものがない自分には
大金を労せず貰うというのは都合が悪い→受け取りに行くのを辞退せざるを得なくなった…?
という話があってもいいと思うのですが、まず居ませんと思う。

「なぜ矛盾?」「気味悪いから」
「なぜ気味悪い?」「矛盾だから」
「なぜ矛盾?」…延々続く。感情のメビウスの輪。

人為に矛盾が出てくるのは「合理的じゃないと気持ち悪!」
とする感情の都合論で
証明しようとするほど「気持ち悪!」にハマル循環論ですね。

自然は、例えば地球だって真空の宇宙に浮いてますが、
「気持ち悪!」とか「可愛そうに」とか「偉いぞ、応援してるから」とか
感情的になれる方が居られても、
都合が良いも悪いも利益にも悩みません。自然は悩めません。
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この回答へのお礼

今回は、やわらかな頭脳をお借りできて、幸いです。
成る程、矛盾も感性で包み込んでしまうわけですね。

と言うことで、矛盾の起きる責任を自然に被けちゃいけないよ。
と言った感覚で、よかったのかな、
確かに、自分の足の下に、南米の青空を思い描くのは難しい。

ところで、一歩進む前に、もう一度確認ですが、
「昼」と「夜」
これ、同時に存在できない矛盾に当て嵌まるのですが、本当かな。
それと、これは、自然なのかな、それとも人為なのかな?
ひとつ上の回答から思いついたのですが、
やわらかに解釈すると、どっちなのでしょう。

おっと、お礼の質問、つい口が滑ってしまった(笑。
ご回答有難うございました。

お礼日時:2007/02/01 05:02

「矛盾」も「自然界」も思考が生み出した概念であり、その限りにおいて「自然界」に「矛盾」は存在しますが、もし、思考の外部にある「自然界」という概念を考えるのなら、その概念自体が「矛盾」した概念だと思います。

「矛盾」とはAであると同時にAでないことですから。

この回答への補足

お久しぶりです。
「思考」は常識的に考えて、「自然」ですか「人為」ですか。
この辺りは、面白いポイントになりそうで、
暇な時で良いですから、もう少し詳しく、判りやすく、
ご説明願えないでしょうか。
頭が悪く、勝手を言って申し訳ありませんが。
有難うございました。

補足日時:2007/01/29 18:25
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この回答へのお礼

ご回答、有難うございます。
私の、我侭にもお付き合い頂き、有り難い限りです。
最初、ご回答の意味は良く判らなかったのですが、
いろいろ、ご回答を頂き、一歩進めそうです。
今回一先ずこれまでで、ぼちぼち、考えながら御礼させていただきます。

お礼日時:2007/01/31 19:22

いいえ決してからかいに来たわけではなくて、矛盾(contradiction)を表現とその対象の意味論的な問題として捉えてると、1の文章は11文字なので「この文章は七文字である」は矛盾であって、2の学生が法を学んでいなければ矛盾となるかもしれないし学んでいれば矛盾とならないかもしれない、と言いたかっただけなのです。

失礼いたします。
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この回答へのお礼

あら、おからかいではない。
そうすると、引掛けられてしまったのでしょうか(笑。

しかし、頭の良過ぎる人にも困ったものです。
矛盾に関して、自己言及が重要な論点になることは承知していますが、

私も偶に、ほんとに頭の良い人と会議などするのですが
「そんなことも判らないの」「あっこれはあれですね」何しろ早い。
私のような凡人は、基本から少しずつ、塗り絵を塗りつぶすようにして全体を理解したいのですが、直ぐに結論がわかってしまうんですね。「人は納得しないとなかなか動きませんよ」と言っても聞く耳持ちません。

それに、このサイトをニヤニヤしながら眺めているだけの人も、どうしてそれが問題になるのか、哲学の弱点はなぜそれが問題かを理解するのが難しいんですね。

ここはひとつ、お手柔らかに「自然に矛盾がないのか」
このシンプルな所から、プロセスを楽しみながら、考えて行きたいのですが。

よく自分の頭で考えろと言いますが、このサイトは人の優秀な頭脳をお借りできる素晴らしい(管理人さん読んでるかな)所ですので、「自然の中に矛盾がある」とか「そのような質問自体が無効」と言ったような、質問者のレベルに合わせてご回答頂けると有り難いです。

とは言え、わざわざご回答頂き有難うございます。

PS.坂部さんの「理性の不安」以前から気になっているのですが
あれは、カントの解説ですか、それとも、批判まで行っているのでしょうか。
もし暇があれば、教えてください。

お礼日時:2007/01/29 18:22

#5です。


わかりやすく解説していただき感謝いたします。
自分なりに整理してみた(例によって引き出しを間違えているかもしれませんが)のですが、
「>「拮抗」と「矛盾」の関係をあれこれ小突き」回すのは、たとえば
「>同時に存在できれば、矛盾していない」という命題にはやや不満が残るからだろうと思います。

人間の(少なくとも私の)持つ意思には未だ脆弱性が伴なうようで、
つまり、「矛盾がないからこそ存在している」という誤った思い込みに発展する場合がしばしばあるように思われます。
そして、そこから生み出されるであろう概念や無意識的な発想から、何が獲得できるのかという懸念を生じることになります。
同時に存在しているのではなく、同時に矛として、また盾として拮抗しているからこそ存在している、という視点のほうが普遍性(あるいは永続性)に近づけるような気がします。
自然はその視点を身に纏っているからこその自然なのではないかと思いますが、
人間の場合は、つい人為という余計な(しかも不確かな)思惑が介入してしまいがちなので、(意識的に)拮抗に留意しておく必要があるように思われます。

>言語が世界を余すことなく切り分けているとは信じていない
:現実としてはそうですが、言語以外に切り分ける手段はないということもまた言えるように思います。
このへんも分岐点のひとつになってしまうのでしょうか・・・。
いずれにせよ色々勉強させていただきありがたいと思っております。
 
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この回答へのお礼

今回は、うまく噛み合いませんでしたね。
矛盾しているものが、拮抗して存在しているのか
存在しているものは、矛盾していないのか。この違いのようですね。

ここは、一先ず、ヘーゲルさんの
「合理的なものは現実的であり、現実的なものは合理的である」
で、押し切ってしまいましょうか。

なにしろ、気の早いお客さんがお見えのようで、

「自然の中には、矛盾は無い」
もちろん、これは証明できませんが、蓋然的にせよ十分仮説として
矛盾の原因を、「人為」の中に探しに行けます。

全てが矛盾では、差異がありませんから、その矛盾も認識不可能では。

ここはひとつの具体的反証があれば、仮設は崩れて、この質問も終わります。
たいてい、噛み合わない場合は、質問が良くなかったのでしょうね。
有意義なご回答を頂き、助かりました。有難うございます。

お礼日時:2007/01/29 18:18

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