No.10ベストアンサー
- 回答日時:
色々と言われていると思いますが、ボクはたった一つの理由と思います。
嫉妬
です。
単に、他の子飼いの武将から嫌われた理由は、
太閤になってから秀吉に常に傍に置かれ重用されたからです。
※福島、加藤などの7本槍達からは重用されたように見えた。
彼らは地方に飛ばされ、大坂近くの佐和山を三成は与えられた。
その嫉妬心から、武功の無い三成を目の敵にしていじめたのでしょう。
秀吉に一番の忠誠心を持って仕えたのは、やはり三成です。
太閤殿下の恩義を一番に思い、豊臣家のために考えていたのは、三成です。
その実直な忠勤ぶりが秀吉に認められる反面、他の人間から疎まれたのです。
人間誰しも欲望や野心はあります。しかし三成は決して金欲になど捕らわれません。
だから家康は数的不利であるのを承知で今後の目の上のタンコブである三成討ちを
覚悟したのです。
考えてみてください。家康は三方が原戦いの惨敗を糧にして負ける戦は
仕掛けないと決めています。
なのに関が原へは念には念を入れて望んでおり、それでも勝利は確信できていない。
でもあえて合戦を挑んでいます。そこが家康が三成を恐れていたと評価できる
とこでは無いでしょうか。
もどすと嫉妬心から、朝鮮出兵の事や、監視役(チクリ屋)など言うことで
彼らは憂さを晴らしていた。そこを家康が付け込んで三成を敢えて反目させたと思います。
要は武士の面子ってヤツで有言実行しなければならない点をついた。
そして、彼ら秀吉子飼いの武将が根っからの武士の家系では無いことも察してしていたと思います。
もしも関が原に秀頼の旗印が上がれば合戦は全く逆になったはずです。
加藤清正らも三成を心から嫌っていないと思います。同じ釜の飯を食った中です。
裏腹なイケズな性格もたらした事件かも知れませんね。
No.11
- 回答日時:
関ヶ原の合戦までの経過を見ますと、会津攻めから戻った東軍に対して西軍は一度も先制していません。
岐阜城陥落、大垣と赤坂の対峙、関ヶ原での会戦に至るまで、いつも東軍が先手を取っています。私が良くわからないのは、信長が築いた堅城である岐阜城が見殺し同然に陥落したことです。同時に、5千の兵力を期待できる織田秀信軍が消滅しました。この兵力は、関ヶ原で主力となった石田・小西・大谷(組下武将含む)、あるいは立花や長曾我部と同等の兵力です。例えばですが、兵力は千人程度と少ないが日本一の武名を誇る島津義弘を岐阜城に軍監として入れ、織田秀信の5千の兵で守ったとします。東軍の先鋒部隊3万がいくら攻めてもビクともしないでしょう。そうしている間に石田他が西軍の主力で後詰すれば東軍先鋒は岐阜城外で全滅するしかありません。篭城戦の見本のような展開となったでしょう。
石田三成隊が関ヶ原で最後まで勇戦したこと、No7さんが言われるように三成が一般に言われるほど人望がなかったとは思えないことは事実ですが、岐阜城を簡単に失った時点で三成の作戦能力・統率能力には疑問符をつけざるを得ません。
西軍を旗揚げした時点で三成は彼の5千の兵と共に最前線の岐阜城に赴き、親しかったと思われる織田秀信と協力して防備を固め、岐阜城から西軍全体を指揮するべきだったでしょう。
その際に、先述したように島津義弘を「西軍の野戦軍司令官」として担ぎ、「それがしは若輩者にて戦の経験もなく、戦については惟新入道殿に全てお任せします。それがしの兵をそっくりお預けいたす」とやればどうでしょう。島津隊・織田隊・石田隊合わせて1万の兵が義弘の指揮で動けば、東軍先鋒3万を野戦で撃破するのも可能だったのでは?野戦に出ずとも、岐阜城が陥落する恐れは全くありません。この3部隊が岐阜に貼り付いていても、西軍の兵力は潤沢ですから伊勢などの東軍方の城を掃討するのに不足はありません。丹後で篭城している細川などは放置プレイで十分です。
現実はそうはならず、西軍陣営にいる日本一の名将(義弘)は最後まで待機していました。こんな無駄遣いをした時点で、西軍の負けは決まっていたのでは。
No.9
- 回答日時:
三成の欠点は一本気であった事、自分に近い武将も同じ気持ちと信じ込んだ事、清濁を会わせ飲むという腹芸が出来ない性格であったこと、につきます。
その他は彼の職歴によるもので、彼はあくまでも文系の能吏で武将ではなかったのに信義を貫く為、敢えて武将として行動しようとしたのです。
彼の才能は兵站、輜重、編成という後方勤務に長けており戦場での功名という点では2流、3流でした。
しかも主君である秀吉はこの点に彼の能力を買って使っていました。
彼が不人気だったのは、秀吉は部下に与えた所領に必ず直轄領を置きこれの代官に三成を当て監視役を兼ねさせた為で、この為三成は密告者と見られる誤解をうみました。
彼自身その性格から忠実に任務を遂行しただけですが豊臣恩顧の武断派と決定的な不仲を生じてしまったのは秀吉の不覚といえます。
近江派と尾張派との分裂、正妻ねねと淀の方の軋轢を放置したのも秀吉に責任があります。
彼の不運はこういった彼の責任でない情勢に腹黒く対処出来ず信義一辺倒で能力以上の大変に挑まざるを得なかった事です。
No.8
- 回答日時:
当時の武将達にとっては、戦国期に戦場で戦った戦歴が未だにものを言う時代だったのではないでしょうか。
石田三成は豊臣政権下で、ある程度戦さの収まった時代に登場した有能な官僚ですから、戦場で暴れまわった他の武将から見れば、“自分たちの同類ではない”ということになり、それに比べて徳川家康は東海一の弓取りと言われ、秀吉と五分に戦える実力の持ち主であり、当時の武将たちから見たらその存在は老獪にして圧倒的であり、“自分たちの同類の中の最も恐ろしい且つ尊敬する人”という存在だったのではないでしょうか。
No.7
- 回答日時:
役職・性格上の不利はすでに出ている通りですね。
それでも、家康を敵に回し、上杉・宇喜多・毛利・島津の諸侯を西軍として纏め上げたのは、彼しかいなかったのではないかと思います。好き嫌いは多かったようですが、それでも石田家中は最後まで一枚岩でしたし、大谷・真田・立花など石高は小さくとも器量人とされていた人物が数多く三成に加担したことからも、信頼される人には信頼される人物だったと思います。
ただ、なんにせよ戦った相手が悪かったですね。相手は毛利(120万石)・上杉(120万石)を足してもまだ大きい徳川家(280万石)ですし、秀吉ですら恐れて朝鮮出兵時もまったく兵を出さずに内政と蓄財に専念していた上に、トップは修羅場をくぐってきた家康ですから。
東軍に加担した豊臣恩顧の大名も、「ひょっとしたら、家康はこの戦いを機に豊臣家をないがしろにするつもりでは・・・」という恐れを抱きつつも、280万石の圧倒的な存在を前にして、保身に走った部分もあったのだと思います。
No.6
- 回答日時:
思い込んだら、視野が狭くなることだと、思います。
利休に対してのこと、忍城の攻め方のまずさ、朝鮮での作戦の下手さは、彼のクレバーな脳みそがあり、視点を変えるということをしていれば、違う局面があったと思います。
関ヶ原でも、せめて、ねねさんのおぼえめでたくしておけば、秀吉子飼いの清正、福島正則くらいは、もうちょっとなんとかなったと思います。
好きなんですけでね。
ものすごく。
当時だって、見かねて、忠告した人は、いると思います。
聞く耳は持たないと、知りつつも。
No.5
- 回答日時:
関ヶ原の合戦は、実際の戦闘が始まる前から、戦いが始まっていました。
家康は、西軍の諸候に、戦わなければ所領を安堵するというような書状を何十枚も書いています。一方三成方は、人質を取ろうとしてかえって東軍の憎悪をあおりました。人の心をつかむという点では、三成は家康に全く及ばなかったようです。
家康にとって最も恐るべき事態は、名目上西軍の総大将である毛利輝元(石田三成は西軍総大将ではありません)が秀頼を奉じて関ヶ原へ参陣することでした。そのため毛利一族で家康シンパであった吉川広家を通じて「大阪にとどまっていれば領地を保証する』というような密約を交わしたらしいのですが、そのためか毛利は動かず東軍大勝利となりなした。関ヶ原の後この約束は反古にされ、毛利は防長二州に押し込められました。
No.3
- 回答日時:
器量はもちろん家康に及ぶわけは無いのですが。
そもそも、年齢からして生きてきた経験が違いますので。また、当時の織豊政権~江戸前期までは、かなり独裁政治に近いものであると考えてください。独裁政治の最大の欠点は「カリスマ不在で簡単に崩壊」することです。本能寺の後の織田政権しかりです。で、残念ながら光成では一番上に立つことは出来る器量は無いと言うことです。
現代で考えると・・いわば、大臣になれる人と、次官になれる人の違いです。いくら頭が優秀でもこればっかりはどうしようもない。で、権力で考えれば圧倒的に大臣のほうが強い。
また、光成の役割も、大きく影を落としています。彼の役割は「取次」というものです。
はてさて・・・この取次という職は、いわば諸大名の情報を秀吉につたえるのですが、この際に情報の取捨選択を行います。
そして、大きいのは「悪い情報も伝える」ということです。いまでもそうですが、上司にちくる人はあまり好かれませんよね。
また、彼は出頭人とよばれる、いわば主君が直々に見出した人物であり、主君の意思を忠実に履行するものでもありました。つまり、いやがられることも結構やりますし、それ以上に主君の後光の下、政治を牛耳っているわけです。
さらに、本来槍働きで考えられるべき勲功を、その方面では対して活動していないのに高い位置にいるというのは、これはその方面の人からすれば面白くありません。これは、軍人と官僚の対立という、多くの政治機構でみられる衝突の様子です。
もっとも、光成自体の性格も、結構きついところがあり、あまりすかれるタイプではなかったようです。
ですが、それ以上に、その役職によって嫌われるところが大きく、そしてこれは、「豊臣政権」自体の根幹にある問題点でもあったのです。
結局のところ、光成に人望がなかったのも、あっさり裏切られた原因でもあるのです。
No.2
- 回答日時:
この時代の武士は、鎌倉以来の「ご恩と奉公」が色濃く残り、主君は家臣に食い扶持を与え、身分を保証してやり、家臣はその対価として命をかけて主君に尽くします。
現在のプロ野球のフリーエージェントと同じく、自分の能力をより高く買ってくれる主君が現れれば、そちらに行ってしまう、云わば超リアリストの集団です。
徳川家康は、そういった世界で長年生き残り、表も裏も知り尽くした武将で、反りの合わない次男の秀康を捨て駒にしたり、またそういった父親の気質を知り尽くした、4男の忠吉は舅の井伊直政と共に抜け駆けするなど、表に見えない部分で手をうっています。
それに対して、石田光成は情とか正義感といったものを信じる理想主義者で、夜襲やだまし討ちなどを嫌い、筋目を通そうとしたのですから、時代に合わないということでしょう。
彼の器としては、大将の器ではなく、官僚であったということで、現在でもこういったタイプはよくいると思います。
昭和(平成ではどうも当てはまる人がいない)の政治家で言えば、家康は田中角栄、目的のためには手段を選ばず、相手の欠点や付け入る部分を鋭く観察し、清濁併せ呑む大政治家。
光成は三木武夫、高い理念と清潔感がありながら、お金も派閥の力もなく、国民の支持だけを頼りに議会運営を行った。
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