
No.8ベストアンサー
- 回答日時:
歴史は変わっていたと思います。
1572年10月、武田軍上洛開始。
1572年12月、三方が原の戦いで、武田軍が徳川軍に勝利。
1573年2月、足利義昭は信長に対し挙兵。
1573年4月、3年間死を公にするな、との遺言を残し武田信玄死亡。
この時、足利義昭は二条御所の周囲に堀をめぐらし城構えの上、持久戦に入っている。
義昭とすれば、信玄が上洛するまでの間、守りぬくだけでよかった。
そのため、信長の講和の申し入れも受け入れなかった。
信玄死亡の報が義昭に届いていれば、義昭は講和を受け入れていたと思います。
1573年4月、義昭が信長に降伏。
1573年7月、信長が義昭を追放。室町幕府滅亡。
まして、信玄がこの時重病(死亡)に陥り、武田軍が引き返すことがなければ、信長は一旦戻った岐阜城から再度上京し義昭と対峙することなく、武田軍と戦うことになる。
そうなれば信長は逆に篭城し、兵農分離されていない武田軍が一旦兵を引くのを待つか、あるいは打って出、武田軍、義昭をはじめとする信長包囲網の挟み撃ちにあい敗れる、または和平交渉した可能性が高い。
信玄があと5年生きていれば、
(1):徳川家が史実のような形で存続できた可能性は低い。
(2):武田家の世代交代も違う形になっている。
(3):1582年3月織田・徳川・北条連合軍の侵攻により、武田家は滅亡したが、(1)(2)であれば、違う形になっている。
(4):(3)の武田家の滅亡がなければ、1582年6月本能寺の変もない。
No.7
- 回答日時:
1467年、応仁の乱に始まる百数年に及ぶ戦国時代を治めたのは織田信長、豊臣秀吉、徳川家康です。
しかし、その背後に『鉄砲』という新兵器の存在も無視できません。武田信玄がこの新兵器にどれほどの意欲を持っていたのか。 果たして、甲斐の国から堺の港へのルートを持っていたか。 信玄が軍馬による従来の戦法に長けた武将である事に異論を唱える人はいないでしょう。 しかし鉄砲の威力なくしては戦乱の世は平定できなかったと思います。
ですから、早かれ遅かれ信長の軍門に下る運命にあったと考えます。
No.6
- 回答日時:
私も、ほとんど変わらなかったと思います。
そもそも、元亀三年の出兵は信玄の卓越した戦略の集大成のような作戦です。しかし、このとき朝倉義景が勝手に撤兵しており、それを信玄は激しく非難しています。もし朝倉軍が撤退していなければ信長は兵を動かせず、非常に苦戦したと思います。実際は死期が近いことを悟った信玄は強引に西に兵を進めますが、もし自分の健康にまだ余裕があるならもっと慎重に事を進めたはずです。三方が原もまんまと家康をおびき出すのに成功しましたが、かなりリスキーな作戦です。実は、あそこで城から出た家康の判断は決して間違いではないのです。
もし信玄の健康に余裕があれば、三河を蹂躙して家康と信長を分断させていったん兵を引いたでしょう。武田軍の組織からしても長期作戦は不可能です。そして上杉謙信も信濃や関東にちょっかいを出してくるはずですのでそこでやっぱり時間を取られます。結局、大勢に影響はないということです。
No.5
- 回答日時:
大局的、長期的に見てあまり歴史は変わらなかったと思います。
当時の武田軍の兵制では他のご回答にあるように、農繁期の戦闘は出来ませんからどうしても短期決戦型になります。
従って三方が原で家康軍を撃破して進軍しても三河、尾張を占領して停止でざるを得ないし、この占領地を自己の戦力化するには数年では短かすぎます。 この地方は群小領主が林立し、離合集散の激しい土地柄で彼らを信服させるには絶えず武田軍の勝利を見せつける必要があります。
信長包囲網も強力な武将はなく信玄頼みの傾向が強くて武田軍の進出なくしては頼みになりません。
従ってもし5年の寿命があっても、北条、上杉を考慮すればとてもそれ以上の進撃は無理だったでしょう。
恐らく10年以上の寿命がなければ上洛はかなわなかったとみるのですが・・・
その間に織田軍の態勢も強化されるでしょうし、ますます時間が必要になる筈です。
No.4
- 回答日時:
こんにちわ。
信玄があと5年長く生きていれば、大きく変わっていたかもしれませんね。
ちょうど信玄が死んだとき、対信長包囲網が最盛期でした。
信長は信玄の死によって窮地を脱していますから、これを考えると信玄があと5年生きていたら、信長は・・・。
その後の体制についてはどうなっていたでしょうかね?
信玄は三方原の戦いの際、家康の首はどうでも良かった節があります。
その後の体制は、三方原の戦いの後信玄の配下に入ったであろう家康を中心に回って行ったのかもしれません。
No.3
- 回答日時:
天下統一はできなかったかもしれませんが、変化はあったかもしれませんね。
信長/家康にとってはかなりの脅威でしたから、思うようには動けなかったでしょう。であれば、信長の天下統一への動きに大きな影響が出たかもしれません。
そして、信玄から勝頼への世代交代がうまくゆかなかったとも言われていますが、あと5年生きていたら違ってきたかもしれません。そうなれば、信玄が死んだ後も信長/家康にとっては脅威であり続けたかもしれません。
でも、そうなると光秀が信長を討つタイミングもなくなったかもしれませんね。結局大差なくなったかも?
No.2
- 回答日時:
武田信玄はあくまで中世の人間であり、織田信長は、近世の扉を開いた人間と思います。
武田軍は兵農未分離の農兵が主体であり、信長は傭兵による専用の軍隊を持ち、最新兵器である鉄砲を活用しました。長篠の戦いは、信玄がもし存命であっても、同じ結果になったと思います。No.1
- 回答日時:
ほとんど変わらないでしょう
理由
農閑期しか戦ができない体制であった
兵站に関する認識が無いため、食料は無償現地調達(略奪)で長期間にわたる戦線の展開などできる状態ではない
要するに、戦略的な構想が無いから、局地戦では勝利できても、それが体力を消耗する結果にしかならない(恩賞を与える原資が確保できない)
真田幸村と同じです、局地戦で戦果を挙げてもそれを活用する戦略が伴わないから、あだ花に終わるだけです
質問者の主張するように負けなかったかも知れませんが、絶対に勝てません
ある時期を過ぎればたいした脅威にはなりませんから、相手にしなければ良いだけです
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