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以前から言われている話ですが、南光坊天海は光秀と同一人物ではないのか。私は自分なりに調べてみました。
日光東照宮に明智家の家紋がある
日光のあけち平を命名したのは天海
天海と春日の局(光秀家臣、斉藤通三の娘)
比叡山に光秀寄進の物がある(光秀死後なのに)
天海の歴史上登場時代と光秀の死亡時期、並びに天海と光秀の年齢が近い?
など色々あるようです。私は半信半疑ですが、皆様はどう思われますか。皆様の賛否両論をお聞かせ下さい。上記に述べ以外でも証拠がある方はそれを、反対の方は反対証拠もありましたら、お知らせ下さい。

A 回答 (9件)

まず、明智光秀の生まれは1528年~1537年頃(1528年が有力)ではないかと考えられています。

そして、天海の没年(これははっきりしています)は1643年です。つまり、もし光秀が天海だとすると、116歳となってしまい、これは無理があります(日本の男性最高齢記録を超えてしまいます)。なので、光秀=天海はかなり無理があります。

しかし、天海が明智光秀の「縁戚」である可能性は非常に高いと考えられます。
・筆跡の類似。天海の筆跡と、光秀の筆跡は同一ではないですが共通点があり、「親子のような関係」であったと鑑定されています。

・行動面での可能性。これは、まず明智の周辺状況を考えないといけません。明智は遠山氏とのかかわりが深い一族でして、この遠山を天海は大変重用しています。たとえば英勝院。これは、太田の氏族ですが、母が江戸城代である遠山綱景の娘なのですが、この遠山というのは、美濃から下向してきた一門なのです(つまり明智の縁戚)。ただ、英勝院は本当に太田の一門かは不明なのですがね。

実際のところ「明智光秀=天海」は年齢的に無理が強すぎるため、その縁戚である明智秀満(鬼武者ですがね)かそれに準ずる人物ではないか?という説が(天海=明智遠山氏説では)いまのところ強いと考えます。秀満は、遠山氏の出自ですね。その後光秀の婿養子となりましたが、もともと秀満は明智の従兄弟ともいわれていまして、どちらにしても非常に近い間柄なのです。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/天海
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この回答へのお礼

お返事ありがとうございます。筆跡の類似。知りませんでした。これはかなりおもしろい内容です。現代科学なら筆跡鑑定できますものね。私も天海はおそらく明智家に非常に近い間柄の人だと思います。しかし、秀満を天海だと思ったことはありませんでした。これはかなりおもしろい説だと思います。色々な角度で歴史を検証するとたのしいものです。

お礼日時:2006/10/22 22:47

会田康範氏は、「現段階の研究の到達点として、天海は陸奥高田の出身で、比叡山にでて天台宗を学び、南都六宗を学んだのち、一時甲州に行き、天正19年から関東に入り、その後家康の知遇を得たとされている。

」   と書いています。
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この回答へのお礼

お返事ありがとうございます。天海が陸奥の出身者ではないかという話は聞いたことがあります。私が読んだ本にはその説も曖昧だと書いてありました。一体何が真実で何が違うのかわかりませんが、おそらく得体の知れない人物だったのでしょう。

お礼日時:2006/10/24 21:53

受け売り程度の知識なので参考程度に読んでいただきたい(^^)



(1)日光東照宮に明智家の家紋がある
 明智も徳川も源氏を本姓としていたので「明智の家紋」というのは源氏の家紋とされるものなので「明智家の家紋」と断定できない。

(2)日光のあけち平を命名したのは天海
 ご質問の中で唯一否定しきれないものかも。

(3)天海と春日の局(光秀家臣、斉藤通三の娘)
 光秀の家臣の娘というかなり希薄なつながりで排除されるかどうか
 これで排除されるなら光秀の娘である細川ガラシャなどは何故関ヶ原の合戦直前まで生きながらえていたのか?

(4)比叡山に光秀寄進の物がある(光秀死後なのに)
 これは確か「光秀」という人物が寄進したことになっています。歴史上著名な「光秀」は「明智光秀」ですが、「光秀」という名の人物は「明智光秀」以外には同時代には存在しなかったのか?という立証が必要です。

(5)天海の歴史上登場時代と光秀の死亡時期、並びに天海と光秀の年齢が近い?
 年齢、活躍時期に若干のずれがあることは他の方の回答にあるとおりです。

 そもそも荒木村重のように信長に謀反した後でも生きながらえ、その名を残していることを考えると仮に明智光秀が生き延びていたらわざわざ名前を隠す必要もないし、逆に名前を隠して生き延びていたのだとしたらこんなにわかりやすい形で痕跡を残すのも不自然です。
 同一人物説はロマンはありますが....歴史的事実とは離れたところにあるような気がします。
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受け売り程度の知識なので参考程度に読んでいただきたい(^^)



(1)日光東照宮に明智家の家紋がある
 明智も徳川も源氏を本姓としていたので「明智の家紋」というのは源氏の家紋とされるものなので「明智家の家紋」と断定できない。

(2)日光のあけち平を命名したのは天海
 ご質問の中で唯一否定しきれないものかも。

(3)天海と春日の局(光秀家臣、斉藤通三の娘)
 光秀の家臣の娘というかなり希薄なつながりで排除されるかどうか
 これで排除されるなら光秀の娘である細川ガラシャなどは何故席殻の合戦直前まで生きながらえていたのか?

(4)比叡山に光秀寄進の物がある(光秀死後なのに)
 これは確か「光秀」という人物が寄進したことになっていますが、歴史上著名な「光秀」は「明智光秀」ですが、「光秀」という名の人物は「明智光秀」以外には同時代には存在しなかったのか?という立証が必要です。

(5)天海の歴史上登場時代と光秀の死亡時期、並びに天海と光秀の年齢が近い?
 年齢、活躍時期に若干のずれがあることは他の方の回答にあるとおりです。

 そもそも荒木村重のように信長に謀反した後でも生きながらえ、その名を残していることを考えると仮に明智光秀が生き延びていたらわざわざ名前を隠す必要もないし、逆に名前を隠して生き延びていたのだとしたらこんなにわかりやすい形で痕跡を残すのも不自然です。
 同一人物説はロマンはありますが....歴史的事実とは離れたところにあるような気がします。
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この回答へのお礼

お返事ありがとうございます。私の一番ひっかかるところはまさにここです。わざわざひ光秀が自分が生きていると示す必要性です。本当に生きていたなら隠すでしょう。

お礼日時:2006/10/24 21:50

光秀と天海が同一人物は、ありえないでしょうね。


もしも同一人物だとしたら、秀吉が名を馳せることは出来ないはず。

御首をあげたからこそ、秀吉の勢いを高めたのですから。


しかし、同一人物であると言う疑いの点はいくらもあります。

1.首実検。この時の首実検は結局、秀吉他数名でのみ行われたこと。
2.天海の出現が北条征伐の時、この時に天海=光秀ならば生きてられない。
  この時なら坊主とは言え、見た目で似ているので絶対にバレますし人の口に戸は立てられない。
3.天海の年齢と光秀の年齢。
 (光秀の出自には不明な点が多いのと時代背景から天海の年齢も正当とも思いにくい)

などの点です。

1の点については、秀吉の「大返し」の真偽です。秀吉は信長に恩義を感じてたので、
ありえませんが、万が一にも光秀の謀反が秀吉または黒田官兵衛によるものとすれば、
秀吉が光秀の謀反を事前察知していたとしか思えません。

私としては、秀吉よりも黒田が画策した可能性も否めません。
それを察知した秀吉が、後年黒田を自分の傍におかず、九州を監視することを名目に
遠ざけたのでは無いかとも推測できます。

黒田と明智が繋がっていれば、首実検の際、別の首が出てきて驚くのは、秀吉です。
光秀の首を上げてこその勝ち戦なのに首を取れなければ意味がありません。
しかし首実検の際に、出来レースを仕掛ければ、光秀を死んだ事にすることは可能です。

家康の伊賀越えにも疑問が多々あり。当時の状況で数名の部下のみで峠越えが可能かどうか。
その点に黒田・明智・徳川の3者間の密約があったのでは?
後から事実を「察知」するまたは「知る」秀吉も加わり4者間。

とすれば、後の秀吉と家康の親密さも頷けるところです。

それにより、

ここに出てくる疑問は、光秀が謀反するにメリットが何処にあるか。

2の点。天海が世に名を轟かすのは、北条征伐の時。
万一にも天海=光秀なら絶対に秀吉の耳に届きますし、それを確認するはず。
しかしその点に誰もが触れなかったのは、秀吉が、
「明智光秀は死んだ、わしが首実権をした」
と受け流していたのでは無いでしょうか。秀吉がそういえば誰も逆らいません。

3の点。この時代に年齢詐称なんて簡単に出来ると思います。
明智光秀の年齢、天海の年齢どっちも誤魔化すなんて簡単な事。
書物に残っていたとしても、本人によっても家康などの徳川関係者によって書き換えることも可能。
どれも信用に値しません。

元々、天海の死んだ年齢も確かにこの上ない高齢であったことは事実。
本人も晩年は自分の年齢を解らなくなっていたと言う話も存在しますし。

現実的なトコでは、天海は明智筋または土岐系の縁者だったとの推測が
一番の納得できる落としドコではないでしょうかねぇ。
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この回答へのお礼

お返事ありがとございます。黒田と徳川の説は非常におもしろい説です。黒田が絡んだなんて考えてもいませんでした。実は徳川はかなり臭いと思っていました。あまりにもタイミングよく京から抜け出している。考えると色々ありますが、あくまで憶測に過ぎませんけど。しかし、天海はやはり明智の縁者だったのでしょうね。

お礼日時:2006/10/24 21:47

私の質問も、ご覧になってください。


ちなみに、指示は、支持の誤字です。
私は、石田三成公の大ファンで、生存説を追いかけたことが、あります。
真田幸村公も大好きで、追いかけたことがあります。
光秀公もいいですね。
年齢的に有りえないとされているのでは、なかったでしたっけ。
日光の明智平というところには、生存を支持する説明文の立て看板が立っていました。
わずかの例外を除いて、生存説が出るということは、人気や支持のバロメーターだと、思っています。
自分の質問の中では、折れていますが。
もし、光秀公=天海僧正じゃなかったとしても、明智家の部下の娘が幕府に大きな影響を与えた(春日局)って、小気味がいいですよね。
織田家の血筋である、淀どのの妹(お初でしたっけ)が、秀忠の正室であり、大奥の完成に尽力したなんて、皮肉にも思えます。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2364959.html
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この回答へのお礼

お返事ありがとうございます。明知平にそんな看板があるのですか。かなり面白いことを聞きました。実は日光東照宮に行ったとき、徳川家の展覧会みたいなのをやっていました。その中に天海の肖像画があり、光秀説のことについて肯定的ふれていました。私は自分で調べた結果、天海は光秀ではないと結論づけましたが、天海はおそらく明智家とかなり親しい人物か一族だと思っています。しかし、そんな天海をどうして家康はだまって見ていたのかわかりません。家康は何らかの形で本能寺に関わっていたのでしょうかね。考えすぎですね。

お礼日時:2006/10/22 22:41

明智光秀は比叡山焼き討ち後、坂本を本拠地とし、焼失した西教寺の


復興に尽くしています。つまり・・・

日光東照宮に明智家の家紋がある、日光の明智平を命名したのは天海、
天海と春日の局(光秀家臣、斉藤通三の娘)、比叡山に光秀寄進の物が
ある(光秀死後なのに)

・・・これらは天海大僧正が明智光秀を慕っていたからではないでしょう
か。
仮に光秀本人だったとしても、わざわざ「私は生きていますよ~」みたい
な分りやすい、むしろ浅はかなことはしないのではないかと思います。
それを政治的に利用されて困るのは生まれたてでしっかりしていない
徳川政権なのですから。
 
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この回答へのお礼

お返事ありがとございます。私ももし天海が光秀ならわざわざ自分が生きていることを知らせるはずがないと思います。実はそこが一番ひっかかっています。ひそかに生きていたならありえそうな話ですが、あそこまでやると信じ難いです。

お礼日時:2006/10/22 22:33

江戸幕府の初期には光秀に直接会ったことのある人物も生きていました。


いくら年月を経てるとはいえ彼らが光秀に再会して気が付かないものでしょうか?
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この回答へのお礼

お返事ありがとうございます。実際にあった人とは誰なのでしょうか。この話は始めて聞きました。貴重な意見ありがとうございます。

お礼日時:2006/10/22 22:31

東照宮というより隣接する輪王寺では?


天海が世に出るまでのことが知られていないことと天海を紹介した者が明智家に所縁の者だった。光秀が生きていればほぼ同じくらいの年齢だったためでしょう。額の傷も同じだったという説もあります。
*比叡山に光秀寄進の物がある(光秀死後なのに)
比叡山といわず高野山にも光秀だけでなく諸大名の寄進というよりお布施を入れた人の碑がお墓という形であります。また、死後納めるようにという遺言で奉納する場合もあります。
同一人物か否かは疑わしいですね。私は別人だと思います。同一人物説では他に源義経=ジンギス・ハーンというのもありますね。確か九州だと思いましたが庄屋の某が秀頼だというのもあります。
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この回答へのお礼

お返事ありがとうございます。私も天海と光秀は別人のような気がします。ですが、何か光秀が哀れに思え、興味を持ちました。旅行で偶然行った先が西教寺で光秀一族の墓がありました。きっと天海も光秀が哀れに思ったのでしょうね。

お礼日時:2006/10/22 22:30

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