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そもそも宗教とはなぜ存在するのでしょう?宗教が無くも絶対に困らないと思っています。
宗教によって幸せになった人が1000万人いても宗教によって不幸になった人が1人でもいたら、死んだ人が1人でもいたら
それはあっても良いと言えるのでしょうか?現実に宗教戦争等で数え切れない程人が死んでいます。
神とは全て人が創った作り物です。それでも信じたければ家で一人で拝んでいれば良いのです。

宗教はと言うより宗教団体は自分では悪だと思いますが皆様はどうお考えでしょうか?

A 回答 (26件中1~10件)

あなたの主張では、宗教が人を「死なせる」ことを悪だと考えていますが、そういった思考が既に宗教由来のものだと言えます。



本当の宗教の無い状態では、人の生き死に、救済や殺人ですら、善悪を規定することはできません。それは単なる「現象」なんです。
そこに倫理の根底を形作る宗教が存在して、はじめて人の生き死にに善悪を与えることができます。

つまり、完全な無宗教は「殺人に対する許容」すらもその視界にとらえています。

例えば私たちは、道ばたのカエルや魚を殺しても、非難は受けません(場合によっては受けますが)。しかし、犬や猫を殺せば、糾弾され、法で裁かれすらします。
これら生き物の違いはどこから生じたのでしょうか?
そう心の底にすり込まれているからです。これが「宗教」です。

仮に宗教が無くなったら……性善か、性悪か。人の持つ「本能」に沿って、助け合いが起きるか、殺し合いが起きるか。それは誰にも分かりません。
ただ一つ言えることは、新しい「宗教」が生まれるだろう、ということですね。

こういう私の主張も、ある種の「宗教」です(笑)
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。
なんだかわかってきました。「自分が他人を死なせる事が悪だと思うのはそれが悪だという宗教に影響されているからである」
宗教が無ければ善悪は無く自分自身が判断し、正しいものが善である。それでは社会が成立しないので宗教は存在し、必要である。
あってます?間違ってます?

お礼日時:2006/09/27 15:23

3度目になりますが、かいてみます。


私は以前教会に行っていた者ですが、教会を批難したりキリスト教が駄目だというようなことは考えていません。
教会の人たちはいい方ばかりでした。
しかし、これだけはいえます。
教会という組織が「この方向で行く!」と決定した時、それにどうしても賛同できない人達も中にはいるわけです。
ですが、組織運営上ベクトルがあっちこっちに向いているのは好ましくないという観点からも、少数派の意見は黙殺されてしまうというのが現実にあります。
さらに、賛同しないことで「不信仰」のレッテルを貼られる事だってあるのです。
意外と少数派の方がまともなことをいっていることがあったりするものですが・・・。
そのジレンマが「悪」だと思う。
そのジレンマに陥りたくない人たちが多数となり、自分を押し殺すようなことがあっても「これが神様の願っておられることだ!自分中心じゃなく神様中心に生きなきゃ!」な~んて自分を慰めるようになってしまうのではないでしょうか?
そして「教会の意志」=「神の意志」とごっちゃにしてしまうのではないでしょうか?
先述の通り、神様の意志は「聖書」に書かれています。
しかし、人間の意識の違いでどうにでも取れてしまうのが悲しいところです。
「行け!」という言葉と「待て!」という言葉の両方が聖書にはちりばめられています。
ですから、悩んでいる最中に「行け!」という言葉が神様から与えられたと思って実行して結果的に失敗した時、クリスチャンはどう発想すると思いますか?
「御心(みこころ)ではなかったんだ・・・。」と言い訳にも似た言葉で自分を慰め、無理やりにでもその失敗を納得しようとするのです。
まさに「自慰」そのものです。
この「自慰」の部分が肥大化し、組織的になればこれが「悪」へと繋がっていくのだと思いますし、この部分を悪用すれば組織は信徒の心をいかようにでもコントロールできてしまうのではないでしょうか?
でも、私の行っていた教会は牧歌的でとても良い人たちばかりでした。教会にアンチテーゼを投げたよな文章をかいた私ですが、今でも戻ってみたいと思います。(でもそうできないでいますが・・・。)
質問者様も一度難しいと思わずに聖書の「ルカによる福音書」という箇所だけでもお読みになってはいかがでしょうか?
勧誘ではありませんのであしからず。(^^;)
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。
上層部の考えは絶対になってしまう所が今の北朝鮮に似ていますね、宗教団体はプチ北でしょうか。自分に対する言い訳も神様のせいにする人間は神以上ですね。この質問に様々な方がご回答アドバイス下さいましたが自分ではまだまだ納得いく結果が出ません。
宗教団体加盟(現役)の方からのご回答も無く、この質問自体目に入らない場所に行ってしまって閲覧しにくくなってしまったようです。ですので一度締め切りさせて頂いて再度似た質問を宗教団体の方向けに投げかけさせて頂こうかと考えております。
たくさんのご回答アドバイスありがとうございました。

お礼日時:2006/10/05 14:39

またまたお邪魔します



私は教団と言う団体自体には善も悪もないと思っています
教団自体はただの団体なので、そこに属している信者によって善悪が変わってくるのではないのでしょうか

ですから、どんなに教えが立派でもそれを変に解釈すれば、教団が悪い方向にむかってしまいます

そしてその言葉を教えと言う形でみんなが信じてしまえば、大勢が危険な考えをもってしまいますし、そうなればその言葉を疑う人のいない団体は危険な方向に進んでしまいます

私はその思考の固定化が怖いのです

疑う事や疑問を持つ事を止めてしまう恐ろしさを考えてしまうと、どうしても私は宗教を信じる気にはなりません

自分は間違っているのではないでしょうかと何時も疑問を持つから、失敗をしても軌道修正が出来るのです

でも、頭から信じて疑う事を止めてしまえば、それが出来なくなってしまいます

そして宗教を信じている人は、疑問を持つと言っても宗教の教えの中で解決しようとするので、広い視野を持つ事ができません

ですから、私は宗教はやはり悪だと思います
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。
人間は個人では良い人でも集団になると悪い部分しか表に現れなくなってしまう弱い存在ですね。

お礼日時:2006/10/05 14:29

度々すいません。


おっしゃることはごもっともで、宗教団体と宗教を分けて考えることが出来るのならば、ある意味宗教団体は「悪」なのかもしれません。
私はクリスチャンでした。(今は教会に行っていません)
教会というところはいわゆる「聖書」という書物を経典(というより生活の細部にまで至るガイドブック)として読み進めていきます。
聖書の中に出てくるストーリーと自分をオーバーラップさせたり、何が神に喜ばれるのか?ということを真剣に考えています。
ちょっと前にアメリカのスポーツ選手の間ではやっていたと記憶しているのですが「WWJD(What Would Jesus Do)」という頭文字をいれたミサンガみたいなものがありました。意味は「イエスならどうしていただろうか?(と考えましょうという意味)」
しかし、この「神(聖書では「主」とか「イエス・キリスト」であったりする)」がある意味問題なのかもしれません。
聖書という文章で形を成した物を有していても、捉える人間の側の解釈でいかようにも取れてしまうのです。
はるか昔に「十字軍」がありました。
「聖地エルサレムを奪還・・・。」なんて奇麗事いってましたが、宗教戦争です。殺し合いです。
これを企てたのは誰だったでしょうか?
当時の王族、諸侯といわれる人たちでした。
この王族、諸侯といった指導者がいわゆる「宗教団体」的な働きをしたというのなら「悪」だと思います。
この十字軍だって解釈の取り方で「十字軍に行くな」という神様と「十字軍に行け」という両方の神様が表れます。
「右のほほを打つような者には、左のほほを向けなさい」といった「敵を愛せよ」という言葉は聖書に山ほどでてきます。
ではなぜ当時の人々は十字軍に大儀を感じて出陣したのか?
それは当時の支配階級の思惑を満たすためにです。
交易の拠点としてのエルサレム地域の覇権が必要だったのです。
このために多くの一般人、敬虔な信徒が犠牲になったのです。
支配階級は自分の都合の良いように聖書の言葉を曲解して人々を先導するのかもしれません。
長くなりましたが、「教団は悪」「個人は善」という中途半端な意見に落ち着いてしまいました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。何度でもご意見下さい。
キリスト教徒の方だったんですね、現在教会に行って無いというのは辞めてしまったという事ですね。
聖書はホテルに泊まったとき目に入って読んだ事があります。異様に難しいです。
難しいからこそ読む人の読解力や自分の心情で様々な解釈だ生まれるのでしょう。
「右のほほを打つような者には、左のほほを向けなさい」=「敵を愛せよ」
これはどうやればそう解釈出来るのか不思議です。私には「黙ってやらせておいた方がすぐ済む」的な親に怒られている状況が思い浮かびました・・・反省しながら左のほほを向けないといけませんでしたね。

イエスは教会によって人間から神とされ、神と呼ばれるようになり、聖書は戦争の勝者によって好きに、都合良く書き換えられ常に時の指導者の便利な道具として使われ続けてきたようですね。

>「十字軍に行くな」という神様と「十字軍に行け」という両方の神様が表れます
これはどう考えても権力者の二分した意見を神が言っていたと偽り利用した例だと思います。

>「教団は悪」「個人は善」という中途半端な意見に落ち着いてしまいました。
現在の自分も大体同じ意見です。中途半端なんでしょうか?そもそも宗教団体は宗教では無いのでは!?部活?

お礼日時:2006/10/03 15:44

宗教を「悪」だとする考え方は私は一方的で「木をみて森をみず」的ないわゆる「近視眼的」な結論だと思います。


悪いものならなぜ、今世紀にいたるまで「宗教」は存在しているのでしょうか?
しかし、世界をにぎわすニュースの中に宗教的な要因が絡まりあっているものがたくさんあることは事実です。
嘆かわしいことです。
自分の信じるモノが一番すばらしいと思わなくてはその宗教はその存在自体が成り立たないと思いますし、その主張がお互いの中に摩擦を生み出していることは事実です。
つまり「自分は正しい」とみんなが思っているし、そう思わなければやっていけないのです。
宗教はなくてもいいのか?
という問いには「なくても良い!」と考えてしまうことも正直ありますが、やはりなくてはならないと感じます。(これは感覚です。)
人間に「死」という命題がある限り宗教と言うものは付いて回るのです。
人(他人)を幸せにするのが宗教なのではありません。
自分が幸せになることが大事なのです。
もしその自らの幸せの中に他人の幸せを願う心があるのならばそれが人(他人)を幸せにすることができるのではないでしょうか?
人間が存在する限り、宗教以前に個々人の間でも摩擦は生じるのですから戦争を含めて事件はこれからも起こり続けるでしょう。
人間関係と同じように宗教間でも摩擦がおこることは必至です。
私は宗教を否定したくない。
しかし、宗教団体による集団ヒステリックな現象は避けるべきだと考えますし、宗教団体は大きくなればなるほど残念ながら腐敗していくものです。
このいやな部分を見て「宗教は駄目だ」というのも短絡的だと思います。
私はどの宗教であれ、信仰する個人個人は真面目ですばらしい方々だと思うからです。
しかし、個人と集団では考えが違う場合があります。
これが不孝の始まりなのです。
集団へ帰属する者は集団へのある意味「忠誠」を誓わなくてはならなく、これに反することは「罪」として断罪されてしまうケースがあるのです。
このジレンマが悲劇を生むケースもあります。
日本人は特にこの質問(宗教?)のような疑問にぶち当たるようです。
世界が平和でありますように!!
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
>悪いものならなぜ、今世紀にいたるまで「宗教」は存在しているのでしょうか?
「宗教ではなく宗教団体=~教を信じている人の集団」とします。
タバコの様な物で、それでご飯を食べてる人がいるからです。崇高な理由なんて見当たりません。

>自分の信じるモノが一番すばらしいと思わなくては
>その宗教はその存在自体が成り立たないと思いますし、
>その主張がお互いの中に摩擦を生み出していることは事実です。
>つまり「自分は正しい」とみんなが思っているし、
>そう思わなければやっていけないのです。
まさにその考えが宗教絡みの戦争の引き金になっているのではないでしょうか?
そこまでしてやっていかなくてはならないのですか?
宗教団体に入ると「自分は正しい」という意識が芽生えるのでしょうか?
「自分は正しい」なんて普通考えもしません。
その考えが魔女狩り等神が殺せと言ったら平気で何でもできる原動力なのでしょう。

>集団へ帰属する者は集団へのある意味「忠誠」を誓わなくてはならなく、
>これに反することは「罪」として断罪されてしまうケースがあるのです。
>このジレンマが悲劇を生むケースもあります。
そのようですね、初めから集団に入らなければ罪とされないんですから矛盾しています。
「集団ヒステリック」なんてものでは片付けられない事件が歴史上存在し、さらに歴史が古くなると
その事実は教えの捉え方が間違ってたのかもね~あの時はしょうがない!で済ませてしまいます。
はやく目を覚ませて欲しいです。

お礼日時:2006/10/03 10:34

私は悪だと思います



何故かと言うと、自分の家族がある宗教を信じていますが、特に考え方や行動が変わっていないからです

いやむしろ考え方が固定化して、自分で考えなくなってしまって何でも当てはめて考えようとするので、以前よりも悪くなっていると思います

私はこの考え方の固定化が怖いと思っています

でも、本人たちはその事に気付いていません

私は考え方が固定化するのが嫌なので、私だけが無宗教で通しています
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
まさに宗教団体による洗脳によって自分や周りに起こる事象を都合良く当てはめてしまっているようですね。
その状況が続くと益々洗脳され身包み剥がされてしまうのではないでしょうか?
#20、22様のご家族の様に宗教団体に入って幸せを感じている?人間がいる数だけその家族は不幸になっているのかもしれません。

ご回答数も減ってきてはおりますが実際なんらかしらの宗教団体にご加入の方の意見をお聞かせ頂きたいと思いますのでもうしばらく締め切らずにおります。
是非、ご意見下さい。また、宗教団体加入の方への質問がありましたら書き込み下さって結構です。

お礼日時:2006/10/02 10:11

悪だと思います。


私も、団体を作るのは自分勝手だと思いますね。それで愛だの語るなと言いたいです。

私自身、宗教を否定できる根拠のあることは言えません。
しかし宗教によって、苦しまされました。よって、"私の中では"悪としか思えません。
良い人たちも居ますし、理解しがたいような人もいますが、宗教という存在が私にとって悪です。
ですから、"宗教を信じている個人"は私にとっては悪ではないです。

戦争の9割が宗教が原因らしいですしね。
存在自体は根拠がなくても悪と言えるんじゃないでしょうかね?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
ご自分が宗教団体に苦しまされたのでしたら相当悪だという思いも強いでしょう。
なにせ私は実害経験が無いのに悪だと思う位ですからね(ニアピンはあり)。
>戦争の9割が宗教が原因らしいですしね。
戦争の理由には多々ありますが宗教が理由で起こる戦争が事実存在している事について
宗教団体の方はどうお考えなのでしょう?
不確かなものを信じるもの同士の争いに確かな人間が血を流して良いのでしょうか。

お礼日時:2006/10/02 10:00

子供の頃から当たり前のように、仏壇に手を合わせ、


お盆にはお墓参りをしています。
それには何の抵抗もありませんが、
営利を目的としていないといって、立派な建物の宗教は
悪だと思います。
端的にしか言えませんが、本当に迷惑してます。
義理の母が、宗教にはまっていて、
旦那の実家に行くと、作り付けの仏壇があり、
まだ誰も亡くなってないのに、手を合わせています。
この前よく見たら、戒名を書くような掛け軸に
だんなの苗字、義母の旧姓、私の旧姓が書かれたものが、仏壇に
掛けられていました。
旦那も、義父も良くは思っていないのですが、ほおって置いている
様子です。
私としては、勝手に何かされたら、、。
と恐怖に思っていますが、手立てがわからずにいる状態です。
ですので、私にしたら、宗教団体は、悪です。
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この回答へのお礼

ご意見有難う御座います。
営利目的の団体は悪ですね。
この団体に入り「まだ誰も亡くなってないのに戒名を書くような掛け軸に
だんなの苗字、義母の旧姓、自分の旧姓が書かれたものが、仏壇に
掛けて」得た幸せは本当の幸せだというのでしょうか?
宗教団体のおかげで幸せになっている人の一人なのでしょうか?
もちろんその掛け軸は破格な値段だったのでしょう。
この様な宗教団体の存在は他の宗教団体から見てどうでしょう?
なにも行動できなのですか?
政治家だって悪い政治家は普通の政治家に暴露される事もあります。
(政治家が悪いという意味ではありません)
よく考えたらホームレスの人に勧誘している団体ありませんよね
あからさまに困ってるじゃないですか!

お礼日時:2006/09/29 13:31

はじめまして。



ご質問は大きく分けて、A宗教はなぜ存在するのか、という問いと、B宗教団体は悪だと思うがどうか、という問いに分けられていると読みました。

A宗教はなぜ存在するのか

昔々のお話です。
人が生まれながらに自立し、何不自由なく暮らすことができれば、そもそも何の問題もなく一人で生きていけるのですが、我々は生きていくために教育を必要とし、食料を自ら生産するなど衣食住の維持のために日々労働しなくてはいけません。それらを効率化するために、我々は集団を形成し助け合っていかねばならない宿命をもっています。そこに、争いの種が生まれる状況が生まれます。
南の島で食料がそこの人々に十分な数だけ木に生っているなど、何不自由ない状態を想定すると、争う必要すらないことが想像しやすいかと思います。

争いの解決手段、集団を一定の方向にまとめるにあたり、宗教はとても効率の良く個人では覆しにくい要素を持っています。
民にとっては、苦しい生活を耐えしのび、教えを守っていれば天国へいけるという救いが生まれます。治める立場にとっては、自分の力ではどうしようもない神様を想定しているのですから、王を殺害して自分が取って代わるように、神を殺害することは難しいでしょうし、神を否定して民の反感を買うのは得策ではないでしょう。利用した方が都合がよいのです。

集団を律するには法を持っておこなうのが良いでしょうし、集団を大きく動かすには宗教を利用すると効果的だったのでしょう。
近現代の科学の発達や社会の発展は、国としてのまとまり方を変えてきましたし、特に平和な状態は人間を大きく変えてきました。何が正しいか、我々は様々な価値観を多く知りすぎ、混乱しているのだと思います。かつてはこういった状況を回避するために宗教が方向を示していたのですが、先進諸国を中心に、宗教ではまとめきれない事態が数々生じてきているのでしょう。

宗教が必要ないのは、その社会が統制されなくても維持できているからです。貧しい環境であったり協力体制がなくては生きていけないような環境であれば、神にすがりつつ、おかげさま、お世話さま、と仲良く生きていかねばならないでしょう。そういう環境に置かれた人にとっては、より大きな存在(ご先祖様とか神様とか)を意識し、感謝しつつ生きることは自然なことなのです。
相手のことを意識するためにも宗教は有効です。宗教が不要だという方は、暗に信心を否定し、宗教を信じる方を否定する意見を表明しているのですから、様々な相手を尊重しているとは言いがたいですね。現段階で宗教不要論は、宗教を中心としたシステムにおいて、その一部にすぎない、というレベルだと思います。

特に日本は宗教について乱れきっている傾向を感じます。八百万どころか、それに倍する神様が乱立しているのではなかろうか、と。錯覚だとか神は存在しないとかいう意見がありますが、それは個人の主観に属する問題で、他人がどうこう言って変わるものではないでしょう。信じるものは救われる、縁なき衆生はなんとやら、そういうもんです。



B宗教団体は悪だと思うがどうか

No.5の回答者の方へのお礼欄にあった、
>しかしそう考えるのも最近のエセ宗教の影響かもしれません。
>だいたい人を不幸にした分だけ自分が幸せになろう的なエセ
>宗教が多いですよね・・・
>やっぱり宗教云々ではなく宗教団体が問題なんでしょうか。

No.10の回答者の方へのお礼
>>宗教団体と宗教心というものを一旦分離して考えてみませんか?
>皆様のご意見ご回答でそう考えるようになってきました。

という記述が、ポイントかもしれませんね。

そもそも、宗教自体は社会を組織する上で、必要欠くべからざるものとして生まれてきているものです(と、感じています)。正確には、社会全体を統制する意味での宗教は必要なくなりつつある、という所だと思います。

ただ、個人のレベルでの宗教は、まだまだ必要でしょう。我々は人間関係を中心に様々なストレスで日々悩み、カウンセリングを受けたり占いに頼ったり、色々と拠り所を求めているのですから。この辺りに、新興宗教の入り込む隙があると考えています。

こういった意味で、宗教団体の社会的役割は薄くなりつつありますが、個人の信仰心は形を変え、さらに現代社会のニーズに応じた形で必要性を増しているのかもしれません。こういった心理が果たして「信仰心」と言えるのかどうか、ちょっと分かりませんが。

No.8の回答者の方へのお礼の
>宗教が無くも絶対に困らないと思っているのは自分が(自分の
>国や環境が)平和であるから?と考えました。
>>人を救済する役目を持つ宗教が、時に人を殺し合わせますからね。
>そうです。この点がどうも気にいらない部分です。

国の支えとしての宗教は、先進諸国においては役割を果たしているかもしれませんね。宗教の影響力が強い国では、貧富の差や厳しい気候など、何らかの問題を抱えているものです。多分。

そして、宗教が集団活動であり独特な価値観を有する以上、信じる人とそうでない人との軋轢は、絶対に起こってしまうものです。
それを悪と思うか、そういうもんだと思うか、それは個人の主観で決まるものでしょう。個人レベルではともかく、そもそも私は宗教がそんなに崇高かつ無害なものだとは思っていません。きれいなバラにはトゲがあるものだと、昔から決まっているのです。



最後に、以前宗教不要の質問に回答したことがあります。
http://okwave.jp/kotaeru.php3?q=2202722
No.29で回答しました。そういう意見も参考になさっていただければ、と思います。まぁ、質問者の方はとっくにご理解いただいているとは思いますが。

長文失礼しました。
何かの参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

ご意見有難う御座います。
宗教とは元来、協力し合って生きていかなくてはならない過酷な環境において
人々を統率し易くするた為の道具として作られたというのが1つの考え方ですね。
~すれば天国へ、~すれば地獄へ、というのもわかりやすくしてはいけない事をあらわしたと。
正しく伝わった部分の宗教観は良いものだと、現在においても必要かと思います。

一方、宗教団体は人間の弱い部分を利用し信者を増やし、一部の人間が私服を肥やしている。また、神を盾に理不尽な行動を考え、実行にうつす。もちろん全ての団体がそうでは無いにしても同じ宗教団体としてそれを調査、警告もせず自分達には関係無いと無視する事は同罪だと感じます。

リンク先拝見させて頂きました。

お礼日時:2006/09/29 13:17

宗教はソフトウェアであり、道具。


だから、それが善か悪かという設問自体がナンセンス。
道具に振り回されて問題を起こすのも、その人の使い方が悪いだけ。

さて、宗教が紛争に利用されることは、その存在自体を否定できるほどの問題か?
「宗教は無い方がいい」という思想を利用すれば、そう考えている極限状態の民衆を巧妙に扇動して信仰を持つ人を虐殺させることだってできるはずだが、これをどう思う?
あらゆる思想は、それの対極にあるものを攻撃するよう扇動する材料となりうるんじゃないだろうか。
だからどちらかというと、善悪等の二元論で何でも語ろうとすること自体のほうが有害なのではないかと、私は思う。

また「宗教団体には、たちの悪いものがある」から「宗教団体とは、たちの悪いものだ」と短絡するのはおかしい気がする。
「日本人には犯罪者がいる」と「日本人とは犯罪者だ」は違うでしょ?

質問文を読むと、宗教について知っている範囲では自分の価値観に合致しないからという理由で、その存在意義を全否定し、それが悪いものだとレッテルを貼ろうとしているように思えるのだが、その方法は憎悪を煽って紛争の火種を作っている過激な宗教指導者がやっているのと同じように見えてしまう。
今まで信仰に手助けされなくても生きてこられた恵まれた人生を送ってきたというのは、それを必要としてきた人より偉いことなのか?

・・・・・と、偉そうな回答ですみません
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。
例えれば、包丁は料理もできるが人も殺せるから善か悪かどっちか?と似た感じでしょうか
これは使い方次第ですね、しかし使い方を正しく教えてくれる人がいれば全く問題ないはずです。

>そう考えている極限状態の民衆を巧妙に扇動して信仰を持つ人を虐殺させることだってできるはずだが、これをどう思う?

この答えは回答者様がご自分で仰るように「あらゆる思想は、それの対極にあるものを攻撃するよう扇動する材料となりうる」
と、思います。だからと言って何も考えるなというのも無理があります。

>善悪等の二元論で何でも語ろうとすること自体のほうが有害なのではないかと、私は思う。

時に、正面から議論する事自体は必要で、かつ、無害だと思います。
逃げ続けた結果、宗教のあり方や使われ方がアヤフヤになっていき現在に至っているのだと思います。

質問当時と現在ではこう気持ちが変わっております
・宗教自体には善も悪も無い
・宗教団体は悪だと思っているので宗教団体に属する気は全く無い
・宗教の存在意義
1、ルールとして存在、現在法律として応用されている?
2、先祖を敬う習慣や冠婚葬祭、行事
3、不幸、不安からの緩和

>今まで信仰に手助けされなくても生きてこられた恵まれた人生を送ってきたというのは、それを必要としてきた人より偉いことなのか?

私の質問内容にそう取られる部分があるようでしたら反省致します。
ただ、皆様の意見として聞きたいと質問致しました。

お礼日時:2006/09/29 11:30

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