プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

ふと思ったのですが、豊臣家は大阪夏の陣でしたか(うろ覚え)、秀吉の嫡男秀頼(うろ覚え)が自刃し、他の庶子らも根絶やしにされ、子孫は絶えたと理解しているのですが、間違っていませんか?

A 回答 (6件)

No5の補足でおかしなところがあったので・・・



「まあ、木下弥右衛門が、尾張中村の土豪である木下(いわゆる妻の家系である木下と考えられます)に入っているとする説もあったりで、秀吉側の家系はさっぱりわからないとするのが普通です。」

これですが、妻の家系であるとはいえません(というか間違い・・・)・・・・妻の出自は杉原氏で(これはほぼ確実)、木下という苗字は、秀吉が名乗らせたとするものであるとされています。
となれば、木下は木下でも、妻の家系の木下氏は秀吉とは縁もゆかりもない(妻の外戚という間柄のみで血縁なし)となりますね。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

秀吉のような傑出した人物のDNAがどこかに残っていたとしたら・・・
期待したい気持ちもありますが、伝説のヒーローにはかえってふさわしいのかもしれません。皆様ありがとうございました。

お礼日時:2006/09/11 18:52

ちょっと補足を・・・



庶子で続いている・・・というのは、秀吉を筆頭とする豊臣家ではまずありえないのですけどね。だとしたら秀頼が生まれるまで秀次が家督を継ぐ予定だったり、秀長の次に養子が来たりとかはありえないので(そもそも、養子が家を継ぐというのは家系を挿げ替えるときか、直系が断絶したときなのが普通。前者は小早川、吉川が好例で、後継者があまりにも馬鹿だったり、風采が上がらなかった場合にもありえます。若きころの北条氏康は、福島家の流れ養子である綱成に家督を取られかけました。後者は、最上家の最上義守とかがありますね。)。

なお、ねねとの間に子供はいません。これはほぼ確実(養子ならたくさんいますけどね。なお、石松丸は側室の子とされています)。それと、別に子がいない妻というのも、それほど不思議ではないと思うのですがね・・・身体的要因もありますし。

なお、断絶にも言葉の定義としていくつかあります・・家系断絶は秀吉が好例ですね。
江戸時代の「お家断絶」これは別に血族が完全に絶えたわけではありません。普通「改易」で藩が消滅することをいいます。この場合、単なる改易ですから、庶流も(とはいっても、いわゆる直系の庶子ではなく、3代前の又従兄弟とかが普通)たいてい残っており、(もしかしたら嫡流も)山ほどいます。基本的に17歳以下で当主が死亡した場合、(たとえ血筋があっても相続が認められないため)断絶とするのがルールであったため、それを避けるために養子などが用いられるのですが・・・それでも、特に江戸初期にはかなりの量の改易があります。

なお、木下氏ですが、いわゆる妻の家系(外戚)の木下氏は、秀吉と直接的つながりがないので・・・足守藩も豊岡藩(杉原氏)も日出藩もねねの家系・・・
そして、秀吉の家系は父親の名前までしか確実ではなく、あとは不明(尾張浅井氏の子孫を称していますが、証拠はないです)。
まあ、木下弥右衛門が、尾張中村の土豪である木下(いわゆる妻の家系である木下と考えられます)に入っているとする説もあったりで、秀吉側の家系はさっぱりわからないとするのが普通です。
で、妻の家系は外戚扱いで、こっちで家系が続いていても普通は続いているとは言わないので・・・
やはり、「豊臣家の血筋は絶えている」、と認識するのが普通でしょうね。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/木下弥右衛門
    • good
    • 5

記録では断絶とされていても、実は連綿と続いている子孫がいたりするので、断言はできないですよ。

庶子の子孫が多いですが。
ただ、もし存在するとして、子孫の苗字はどうなるんでしょうか。豊臣、羽柴、木下・・・?。
北政所ねねの血縁なら岡山足守の木下家がもっともよく知られています。大分県にも木下家が続いているようです。他に「杉原」姓の子孫も現存しています。ねねに子供が生まれなかったのが不思議ですね。一人はできたようですが。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

秀吉のような傑出した人物のDNAがどこかに残っていたとしたら・・・
期待したい気持ちもありますが、伝説のヒーローにはかえってふさわしいのかもしれません。皆様ありがとうございました。

お礼日時:2006/09/11 18:52

まず、秀吉直系はいませんね。


秀吉は、側室や妾が山のようにいる割に、異常に生殖能力が低く(作らないようにしていたわけでもないと思いますが・・・)、男子は確実なものは鶴松と秀頼の2人です(石松丸という、長浜時代の子がいたといわれていますが、存在が疑問視されています。どっちにしても早死にしたとされていますが・・・)。
で、元服まで生きたのが秀頼たった一人。
で、秀頼の子である国松は徳川家が殺害、娘は尼ですので子はいません(彼女が37歳で没して、豊臣直系は断絶)。

さて、直系以外(養子など)ですが・・・
まず、甥で養子になった秀次。一族は秀次事件で連座して皆殺しとなっていますので、子孫はありません。

秀勝は2人います(実は、石松が秀勝を名乗っていて、それを偲んでつけた・・・とされています。なので、実際は3人いることになります)・・・まず一人目。織田信長の子ですから、秀吉の血は入っていないですが・・・18歳で没しており、子はありません。
次は、甥であり、秀次の弟の秀勝。彼は23で没していますが、娘が一人だけおり、淀殿の教育の後、九条幸家にとついでいます。一応数人娘や子がおり、その後も一応続いてはいます。

さて、秀次3兄弟(父は日秀という人)の最後の一人である豊臣秀保。彼は、同じく子供がいなかった秀長の養子となっています。しかし、病の後変死します。後継はないため断絶。

秀吉の妹の朝日姫は、数度の離縁があったり、一人は農民一人は下級武士で、さらに子も特に続いていません。

というわけでして、秀吉の子はもとより兄弟に広げても、甥である秀勝の娘が唯一で、男系では完全に絶えています。

さて・・・さらに広げると・・・実は多少残っています。
まず、福島正則。かれは秀吉の叔母が母親ですね。女系ですが、血は入っています。ただ、子孫はあまり繁栄していませんね・・・
また、秀吉の母の縁者である小出氏があります。
あと、加藤清正が、一応母が秀吉の母の妹(従兄弟の説も)でして、縁者ですが、子が継いだ跡には孫がいないためそのまま断絶。
もう一つは・・・妻の家系である浅野ですね・・・

なので、質問者さんの認識は間違っていないですね。

あの一族、生殖能力が異常に低いので(秀吉は4人兄弟であるにもかかわらず、その次代は、日秀の3人のみ。普通の武家ではこんなのはまずありえません)・・・こういうことになったといえますね。
ただ・・女系だけは残っている、と言う付け加えがでます。
    • good
    • 1

豊臣秀頼の嫡男に国松という子がいましたが、徳川家に殺害されましたが、娘の天秀尼は仏門に入ることにより助命されています。


尼さんですので子供は作っていないと思います。

弟の豊臣秀長には娘がおり、豊臣秀保の正室です。

甥の豊臣秀次は秀吉の姉日秀の子で、秀吉の後を継いで関白になりましたが、秀吉の怒りに触れ、一族は根絶やしにされました。

豊臣秀保は豊臣秀次の弟で、若くして(16歳?)亡くなっています。

豊臣秀勝も豊臣秀次の弟です。
彼とお江与の方(後に徳川秀忠と再婚し、徳川家光を産む)の間には完子という娘がいます。
彼女は叔母である淀殿に養育され、後に公家の九条幸家に嫁いだそうです。
厳密には秀吉の子孫とは言えませんが、江戸時代まで残った数少ない親族ではあります。
 
こう見てみると、直接の子孫は一人もいないことになりますね。
親戚筋は僅かに残っているようですが・・・
 
 
 
    • good
    • 3
この回答へのお礼

秀吉のような傑出した人物のDNAがどこかに残っていたとしたら・・・
期待したい気持ちもありますが、伝説のヒーローにはかえってふさわしいのかもしれません。皆様ありがとうございました。

お礼日時:2006/09/11 18:52

秀頼も秀吉の実子ではないという話も聞いたような・・・


どこかに秀吉の子孫が生きていれば!
歴史ファンにはたまらないですね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

秀吉のような傑出した人物のDNAがどこかに残っていたとしたら・・・
期待したい気持ちもありますが、伝説のヒーローにはかえってふさわしいのかもしれません。皆様ありがとうございました。

お礼日時:2006/09/11 18:53

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!