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実際に今みたいに舗装もされていない真冬の北アルプスを、当時の防寒具でしかも歩きで長距離横断したという話はとても信じられないのですが、これってやはり本当の話なのでしょうか?そのルートにもいくつかの説があるみたいですが、これらについてもう少し詳しく知りたいのですが、どなたかご存知の方やサイトを知っていたら是非教えて下さい。お願いします。

成政の埋蔵金伝説もあるみたいですが、こちらも知っている情報があったら教えて下さい。

A 回答 (2件)

これは歴史的に証明されている事実です。



佐々成政一行は予想以上の危険と苦難の連続で、激しい疲労のため幻覚幻影にも襲われた。四百年前の平家残党の豪傑・悪七兵衛景清らが現れたという。激烈な雪崩が山谷を震動させて一行を脅かした。犠牲者も出たが、とにかく立山越え、いわゆる"ザラザラ越え"を断行して家康の浜松城に到着した(単なる伝説でなく、家康側の史料「家忠日記」の天正十二年十二月二十五日の項に明記された史実だ)。近年発見された「武功夜話」には、成政一行熊の毛皮で身を包み、四尺の野太刀を帯び、らんらんと目を光らせていたと、一行の荒々しい息遣いが迫るように記述されています。

さて、そのルートであるが、
1584年戦国の武将佐々成政は、芦峅寺の中語(ちゅうご:山岳ガイド)を先導に家臣18人と厳冬の北アルプスを横断した(*1)。現代においてさえ容易に人を寄せ付けない厳冬の北アルプス、この時代のことを考えれば日本山岳史上に残る出来事と言えるだろう。この「さらさら越え」のルートであるが、資料も少なく正確な道筋は不明であるが、一般には

常願寺川--->立山温泉--->ザラ峠--->中ノ谷--->刈安峠--->黒部川の平
--->針ノ木谷--->針ノ木峠--->籠川谷

と言われている(もう1つのルートは*2)。
ザラ峠は、五色ヶ原から北へ30分ほど行ったところ、この地に立ち戦国の武将の生涯に思い馳せては如何でしょうか。

(*1)織田信長没後、勢力を伸ばしてきた羽柴秀吉に対して、成政は信長の次男信雄を推して織田家再興をはかるべしと遠州浜松の家康に会って進言しようとする。しかし、西に前田家、東に上杉家、南は秀吉の勢力範囲とすべて敵の領地。そこで考えたのが厳冬の立山連峰を越えて信州に出るという無謀とも思える北アルプス横断であった。

(*2)その他の説として、針ノ木谷から北葛乗越を越え北葛沢へ出るルート、七倉乗越を越え七倉沢に出るルートがある。

佐々成政の「さらさら越え」ルートは戦国の昔から忍びの道として使われ、江戸時代にも信濃の人々は立山参りの裏参道としてひそかに利用していたという。
この信濃野口村(現在の大町市)と越中富山を結ぶ山道は、明治8年に道幅約3m、道程90キロ、小屋や牛小屋を建て荷牛が通れるスーパー山道「越信新道」に仕上げられ、越中から塩や魚、薬などの物資を運ぶ山岳産業道路となった。有料道路としてその収益で道の維持を図ったが(*3)、冬期の崩壊破損が激しく、越信新道は明治15年に廃道となった(*4)。

(*3)料金は立山温泉で徴収したという。また黒部側の平の小屋は昔「どうせん小屋」とよばれていたことから、銅銭、或いは道銭の意味で、ここでも料金を徴収していたものと思われる。

(*4)常願寺川から立山温泉、ザラ峠への登山道は古くからよく通られた道であったが、現在では廃道となっている。針ノ木谷から針ノ木峠への道も今では歩く人も少ない。針ノ木谷二股に「牛小屋跡」が地図に記載されているが、今はその跡形も無くなっていると記されています。

埋蔵金伝説に関して。

【「朝日さす夕日かがやく鍬崎に 七つむすび七むすび黄金一ぱい光かがやく」

この歌は、富山県に伝わる鍬崎山についての里歌だそうです。
 佐々成政はおびただしい軍用金を立山の山中に埋蔵した、と言われています。越中の伝説では、成政がさらさら越えをしたとき、途中、長く苦しい旅の妨げになるものを雪の中に埋めさせ、その中には、軍用金もあったとされています。そして、今の「内蔵介平」がそれらを埋めた場所であるとされています。
 しかし、この里歌にもあるように、鍬崎山に埋蔵金があるとも考えられています。他にも、針の木峠付近説や九州説もありますが、様々な文献から考えてやはり鍬崎山が有力ではないかと言われています。
 ところで話変わって、富山県大山町では、毎年、この埋蔵金伝説にちなんだお祭りを開催しています。遊園地の中の緩やかな山地を使って、埋蔵金探しをやるのです。もちろん、本当の埋蔵金を探すのではなく、あらかじめ紙で作られた小判を土半分くらい埋め、それを探すのです。小判を見つけると、それは地元の商店街で使用できる商品券やおかし、金一封などに変わります。ただ、探すのも楽ではないです。なんせ夏の暑い盛り、しかも丘陵ですから。だけど、とても楽しいお祭りです。地元の方に、佐々成政についての話を伺うこともできました。それに、こうすることによって、佐々成政という一人の人間が語り継がれていくことは、とても良いことだと思います。】と書かれています。

また、別の記述では、
【金色に輝く馬印・旗指物は、成政が莫大な黄金を所有していたことを裏付け、後世これが埋蔵金伝説を生み出した。隠し場所は鍬崎山とも内蔵助平とも早月谷とも針木峠ともいわれる。埋蔵金は多分事実ではないと思われるが、多くの人の夢をかき立てた。成政の支配した越中新川郡には松倉金山・亀谷銀山はじめ「七かね山」があって、これが成政の資金源だったのだろうという。】と記されています。
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この回答へのお礼

自分でも調べてみましたがやはり本当の話みたいですね。さすがに佐々成政ですね!!スゴイ!!参考になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2006/07/21 19:11

こちらのサイトは参考になりませんか。



 ◎佐々成政関連リンク
  http://www.ccis-toyama.or.jp/toyama/kachi/narima …

参考URL:http://www.ccis-toyama.or.jp/toyama/kachi/narima …
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2006/07/21 19:08

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