電子書籍の厳選無料作品が豊富!

戦国期の鵜殿氏の城館であった、三河上之郷城と三河西郡城は同一のものですか?

鵜殿長持・長照親子の居館と
鵜殿長忠の居館

の違いだと思うのですが、調べてもいまいちよくわかりません。
同一だとしたら、分家した長忠はどこに住んでたんでしょう?

A 回答 (3件)

とある資料ですが、旗本鵜殿氏は、氏長の家系であるとしていますね・・・まあ、本当かどうか怪しいのですが・・・


鵜殿氏については、以下2つの回答のように、謎が多くまだはっきりと経歴がわかっていません。
そのため、経歴を断定するのは明らかに危険であり、現時点ではよくわからない、とするしかないかと思います。
鵜殿長忠も、最期がよくわかっていないのですから、1562年時の動きは、とりあえず兄とかと一緒に動いていたと考えられる、という以上の断定はできません。
側室云々というのは、その筆者がどこから引っ張ってきたのか存じませんが・・・正直なところ、断定してしまっている時点でアウトかと思います。
こういった人の場合、という説もある、また、こういった説もある、といくつか説を並べて、断定しないという書き方が正しいのですが・・・

こういった資料上の混乱は、滅亡した家には多く見られます。例外は徳川が保護した武田家くらいなもので、あとの北条なども多くの重臣で資料の混乱が見られます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

家康側室・蓮葉院(西郡局)が鵜殿氏の出であることは確かな文献にも記されていますし、その中では鵜殿長持、長忠、長祐が父の名として上げられていました。
家康の側室の選び方を踏まえれば、滅ぼした家の娘を側室にするってのはちょっと違うかなあと思いまして。
で、長忠が長祐の養子になっていればつじつまがあうかな、と。

たしかに戦国時代の混乱の後に書かれた書物ですから、真偽のほどは分かりませんね。

お礼日時:2006/06/24 19:46

三河の鵜殿氏は名門なのに、不明なことが多いです。


私の見た諸本の記載にも矛盾があります。  「正行院過去帳」により鵜殿長持が弘治二年(1556)9月11日没は確実です。   1562年 西郡城(=上之郷城)の落城時、長持戦死の説は否定され、伴氏に討ち取られたのは長持でなく長照と推定されます。   捕虜になったのも、二人の子でしょう。   
長照が桶狭間の時、大高城兵糧入れへ参加は確実です。   判らないのは、長持が遠江の二股城主より、三河に移ったと書いてあるの本もあります。     
No.1さんの harimaya com が妥当のようです。
見ていませんが、冠賢一著 「史料紹介 鵜殿氏関係文書」 昭和48 雑誌 があります。

この回答への補足

長持が桶狭間以前に没していたというのは私も何かで読んだことがあります。
鵜殿氏は謎の多い氏族なんですね。
ありがとうございました。

補足日時:2006/06/13 17:20
    • good
    • 0
この回答へのお礼

って補足に書いてしまいました。
申し訳ないです。

お礼日時:2006/06/13 17:24

どうも同一としてもかわらないほど近くにあったか、同一であったと考えられます。


まず、上之郷(神之郷)は今の蒲郡(カマゴオリ)というところにあるのですが、西郷とよばれていました。
http://www.city.gamagori.aichi.jp/museum/bun/c_9 …
蒲郡のことですから、市の関連がつくっているこちらが一番信用が置けるかと思います。
なお、とあるページでは鵜殿長氏を城主とした西郷城が紹介されているのですが・・・これはちょっとおかしいですね。彼の生年や、動向(後に言うように1562年には上之郷にいた)から考えても、そのサイトはちょっと間違っているとするしかないかと思います。

で、長持、長照、長忠なのですが、長照と長忠は長持の子ですね。
1562年合戦時、長照、長忠ともどうも上之郷城につめており、さらには長照の子2人もつめていたようです。

さて、ここからが問題です。
長持:一説には1557年に死去。さらに一説には1562年討ち死に
長照:1562年に討ち死(最有力)にとも、その後も生きていたともされまったく持って不明。
長忠:1562年に討ち死にとも、その後徳川に仕えたとも言われており不明。

家康が上之郷城で鵜殿を捕え、それを今川に捕らえられていた妻子の交換に使ったのは有名なのですが、このときの人物が長照という説もあれば、その子である2人という説もあるのです。さらには長照、長忠2人であるという説まで・・・

つまり、この一門、上之郷城落城以降の末路がよくわからないのです。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/udono_k.html

http://www.geocities.jp/katoshiro3594/mikawa_no_ …

http://www.m-network.com/sengoku/ieyasu/kaminogo …

つまり、彼らの足跡はいまだによくわかっていません。
そのため、どうも同居状態であったようではありますが、詳しいことはまだ不明、とするしかないかと思います。
ということで、どこにすんでいたのか、というのは現状では結論は出せないのかと思います。

なお、江戸時代になると旗本として鵜殿氏があるのですが、これは長忠の家系であるとされているのですが、徳川家に仕えた時期がいまひとつ不明です(長忠なのか、その子孫なのかが不明)。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/鵜殿長照
    • good
    • 0
この回答へのお礼

さっそくの回答、ありがとうございます。
鵜殿長忠は鵜殿長祐の養子になったと書かれたHPもありました。
とすれば鵜殿長祐の柏原城に居住していたのでは?とも思うのです。

ある本には長持・長照親子が討ち死にしたとき、別城の鵜殿長忠も攻め入られ、服従の証として娘を側室として差し出したとあったので、、、
なんだか混乱してしまいました。

お礼日時:2006/06/13 17:18

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!