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江戸時代、諸大名の改易、減封などが多くみられます。
これらには多くの理由が付けられていますが家中の騒動が理由になっているものもあります。

外様の雄藩である伊達、前田、黒田藩は三大お家騒動として歌舞伎にもなっていますがいずれも改易になっていません。

伊達、黒田藩は先祖の幕府への忠勤が並ならぬものがありましたからその考慮があった可能性はありますが
前田藩はそのような事績はないのにどうして咎めがなかったのでしょうか?

幕府としては支藩を含めて百二十万石を取りつぶす好機だったはづなのに。

A 回答 (4件)

代々将軍家との姻戚関係があり、その実子が藩主になっており、時の将軍とさらに姻戚関係になっているからです。


http://www.tabiken.com/history/doc/D/D087L200.HTM
系図をみてください。将軍家と婚姻しているだけでなく将軍家の娘の実子の子孫が代々藩主になっています。外様大大名家には将軍の娘や養女を正室にもらいますが、正室はなかなか子に恵まれません。しかし、前田家は将軍の娘を正室にしたときは実子が育って藩主になっています。将軍家と血縁のない2代利長は弟(養子)利常と徳川秀忠の娘が婚姻するとさっさと利常に家督を譲ります。利常のときに寛永の危機がおこりますが、なんとか乗り切ります。その子が光高ですが、光高が生長すると利常はこれまた早く光高に家督を継がせます。光高と家光の養女(しかも家光と仲のいい水戸頼房の娘、光圀の姉;家光と尾張、紀伊は不仲)の子が綱紀です。家光は男子がなかなか生まれなかったので甥(姉の子)の光高と松平光長をかわいがります。光高は早死にして綱紀が幼くして藩主になります。きわめつけは綱紀が保科正之(これまた家光、家綱の信頼厚い)の娘を正室にします。この娘は早死にして次の吉徳は側室の子でしたが、綱紀は名君で将軍綱吉の信も厚く御三家並みの待遇でした。
http://www2.odn.ne.jp/~cft38200/kakei.htm
http://www.tabiken.com/history/doc/D/D087L200.HTM
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この回答へのお礼

詳細なご教示有り難うございます。

血脈からみて幕府に文句のないようにがんじがらめの状態ですね。

綱紀の側室の子が吉徳でしたか。 
このあたりなにか血統(優生学上)の不可思議をかんじます。

お礼日時:2006/06/03 12:33

前田家が将軍家と姻戚関係を結んだことが最大の理由です。


家康は前田百二十万石の二代当主 利長を警戒していました。   家康は孫の珠姫を、利長の世子の猿千代に嫁がせ、利長を早く隠居させ、猿千代を当主にし、姻戚関係として徳川に臣従し、北陸の押さえとなるよう図りました。
この時以来反乱でも起こさねば前田家は、ほぼ安泰ということです。  利長は44歳で隠居し 猿千代が利光(のちの利常)として継ぎました。   お家騒動などあっても、諸法度に大きく違反しない限り、問題にされませんでした。
前田家としても芸術を奨励し、謀反などの疑いを避けるよう努力しました。  
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この回答へのお礼

ご指摘有り難うございます。
姻戚関係がものをいったというのは納得しました。
前田藩も苦労してますね。

お礼日時:2006/06/03 12:24

まあ、歌舞伎はフィクションもかなりありますし大げさにしてありますからね。



それに守旧派の勝利に終わったものを幕府が介入して処分するわけにもいかなかったんじゃないでしょうか。
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この回答へのお礼

加賀騒動以後に減封された大名があります。

お礼日時:2006/06/03 12:20

加賀騒動の起きたのが綱吉の時代までであれば改易された可能性は大きかったでしょうが、すでに幕府としても幕藩体制を安定維持するのが重要で、よほどのことがないと改易しない時代だったからでしょう。


前田家は江戸時代前期には3代利常がちょっと頭が足りないようなふりをしたり、軍事ではなく文化に力を入れて幕府にはむかう気などこれっぽっちもありませんよといった感じで幕府に目をつけられないように努力していました。
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この回答へのお礼

前田家が幕府の嫌疑を恐れて色々策を講じたのですね。

有り難うございました。

お礼日時:2006/06/03 12:18

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