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学校の課題で、知のプロセスにおける主観と客観との関係を説明しなくてはいけないのですが、いまいち主観と客観の意味が判りません。自分で何かテキストを1つ、もしくは2つ読んでそれを分析しながら主観客観の関係を明らかにしていく、というのがこの課題の趣旨なんですが、その取っ掛かりさえ掴めていない状況です。曖昧な質問で申し訳ないのですがどうか助けてください。

A 回答 (10件)

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当事者意識と他人行儀…



此の事例が象徴的なのではないでしょうか?
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不特定多数者によって同時に共有され得る感覚の種類は何でしょうか?



純粋な思考だけが主観を拵えている訳では御座いません。
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私はファンではありませんが、某巨大掲示板に #6 氏のような伊東美咲のスレがあったのでつい書きたくなりました。

余談。

本題に入ると、主観→客観は成立するが客観→主観は成立しないといったことを書けという課題でしょうかね。
個人的にはこの問題を考えようとする時は、以下の書物を引っ張り出して何とか理解しようとします。しかし何度読んでも、そういう問題が存在するのは分かっても、理解や納得まで至らないわけですが。

竹田青嗣『自分を知るための哲学入門』『現象学入門』

もちろん、前者のほうがとっつきやすいです。その後に出版された似たような書物があればそれでも可。ただし著者が違うと見解も違ってきます。


担当教員の好みもあるでしょうが、彼の学問上の立場は別にして、あなたが「客観的」にまとめればそれで合格点を出してくれるように思います。
しかし、あくまで客観「的」であって「客観」ではありませんよ。「主観」がなければ「客観」もない、すなわち絶対的な「客観」はないのですから(竹田氏によれば)。
つまり哲学者の言うことは絶対に正しいが、学生の言うことは絶対に間違い(あるいはその逆)、というのはあり得ないということです。

課題で何かテキストを読んでというのは、伊東美咲ファンのように自分の頭の中だけで完結した妄想ではなくて、「客観的」に存在する書物を何か読んで、これは単なる自分の妄想ではありませんということを私(担当教員)に示しなさい、という趣旨ですね、たぶん。

いずれにしろ「主観」「客観」といっても、ここの回答者諸氏のようないろいろな解釈があると思います。
したがって、その解釈(結論)が妥当かどうかというよりは、そこに至る過程(プロセス)が妥当かどうか、あるいは過程そのものに対する質問者さんの見解を問われているのではないでしょうか。


#6 氏がヒントを出されていますが、この過程がウェブログで行われるとどんな感じになるか、というのは以下のページに簡潔な説明があります。
さまざまな無数の「主観」(暗黙知)が「客観」(形式知)に限りなく近づく(しかし全くの「客観」ではない)過程で、多くの人の共通理解が生まれてくる、といったようなことです。
http://kotonoha.main.jp/weblog/000846_knowledge- …

まず最初に何か厳然とした動かせない「客観」が存在するのではない(これも上記の過程で生じるから)という考え方は、個人的に好きな考え方なのですが、質問者さんがこのような考え方に馴染めるかどうかはまた別問題なので無理にそう考えろとは言いません。

何か誤りがあればご指摘ください。
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知のプロセスにおける主観と客観との関係


といえば、結論はナレッジマネジメントの野中理論「形式知と暗黙知」の相互関係
の話にもっていけば合格点のレポートが書けそうですね。

まず主観というのは、哲学用語でいえば、「考える主体」のことです。対になるのは
「客体」であって「客観」ではないです。
客観というのは、簡単に言えば第三者の視点。
ものを考えるとき、「見ている自分」と「見られている対象」と「それを記述するもうひとつの
視点」という差異を意識することが大事です。
たとえば、伊東美咲を「いいなぁ」と自分が思う「主観」と、伊東美咲は、質問者さまを
全く知らないという「客体」の側の視点と、所詮、伊東美咲と質問者さまは、無関係と
いう「客観」的知見と存在します。

主観は、往々にして再現性のない証明の困難な事象を認識します。たとえば
オレは背の高い女が好きだ。伊東美咲ちゃんは背が高い。よってオレが伊東美咲
ちゃんを好きになるのは当然のことだ。
この三段論法は、間違っていませんが、「俺」が伊東美咲ちゃんを好きになる正当性ま
で立証するものではありません。
オレはかわいいおちょぼ口の女が好きだ。伊東美咲ちゃんはかわいいおちょぼ口だ。
よってオレが伊東美咲ちゃんを好きになるのは当然のことだ。
これでもかまいません。これは、理屈でこういうのを「形式知」というのです。
理屈上は誰でも納得する話です。
「そうか、お前は伊東美咲さちゃんがタイプなのか」と客観的に納得してくれます。

しかし、「俺」は、いくら自分が好きになる理由が明解であっても、それがタレントと
自分を結びつける絆にならないということを経験上知っています。
これを「暗黙知」といいます。とりあえず、自分のなかで「戦う前からあきらめる」みたいな
無理だよね。みたいな自覚があったりします。
でも、これは立場が変わればそうはならないわけで、芸能プロとかマスコミ関係者なら
伊東美咲ちゃんとのコンタクトの機会はやまほどあったりします。
主観というのは、人それぞれの理解です。
客観というのは、誰が見ても疑いのない事実の認識が得られる立場のことです。
知のプロセスとは、人それぞれの理解を基点に、誰がみても疑いのない事実の認識に
至ろうとする流れと、そのように普遍化されて推論の働く理屈になったものに基づいて
思惟しながら、自分なりの推論を導くプロセスが交互に行われるということです。

オレが伊東美咲ちゃんを好きなわけはお前にもわかるだろう。(理由の説明・・客観)
うんうん。わかるけど、当面きっかけはつくれそうにもないよな。(主観・・・暗黙知)
それはお前の勝手な思い込みだろうよ。オレは来週美咲ちゃんのサイン会に
いくんだぞ。(形式知・・・客観)
サイン会で知り合った相手と恋人になった芸能人はいないだろう。(暗黙知・・主観)
オレは、好きでいるだけで満足なんだからいいだろう。多分きっとそうだろう。
美咲ちゃんに良く似た女の子紹介しようか?
おう。頼むよ。でもオマエの〇〇似って、とんでもなくかけ離れたケースが
多いからなぁ(経験的暗黙知・・・主観)
そんなことない、本人もよくそう言われるって言っていたぞ。(形式知 ・・・客観)
そうかぁ
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知のプロセスなんて頭の良い単語の意味は知りませんが、ろくに勉強もしていない阿呆が一つ回答してみます。



主観客観の関係を明らかにするとなると、多くの方は同じような結論になるでしょうね。
川端の例で言っている方がいますが、要するにその課題は”主観での感じ方と客観での表現方法”についてをズラズラと書けば良いのだと思いますよ。
難しい事ではなく、少し難しく考えてしまいがちな事でしょうか。

主観とは、己、もしくは他が自分の考えとして言う意見。
客観とは、己以外の意見全て。
やや矛盾しますよね。ここで躓いているのではないでしょうか?
要点言っちゃえば、客観とは言おうとして言えるものではなく、誰かが言ったものが全て客観であり、それが自分の意見だというのなら、それは主観でもあるという事です。
また、
自分で客観を言おうとしても、それは全て主観であり客観には成り得ない。
いくら考えて客観的になっても、主観は混じっていますから完璧に客観には成り得ないという事です。
よって、より客観的に表現するというならば、誰もが分かりハッキリしている情報だけで表現するのが近い、が、それさえも表現法方によって主観となり、他人の感じ方も異なるために良い客観とは言えない。
客観とは、自分だけが利用する見解であり、己の主観が他人のソレとなるのだと思いますよ。言葉の意味としては。

で、
取っ掛かりですがー……テキストは数頁の物であれば楽に用紙数枚は満たせるくらい書けます。
例えばですが、まず読み、次に感想(主観)を書く。続いて本文を読み真実を出来るだけ抽出する。
その真実情報から感情を無くしたデータ文を作成し、感想と比較をする。
その比較結果で気づいた事、傾向、文体、作者の性格、読者の心理を書いていく、とか。
それが知のプロセスかは知りませんが、そういう事しか出来ないし、そういう事書いていればハズレは無いですよ。
面倒な課題ですね。考えたら楽しくなくなり、書く作業がつまらない。
先生に読ませるのはそれなりに緊張が心地良いでしょうか。
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客観


一般的な理論・合理性があり、正当な筋道を通れば辿り着くとされるもの。もしくは大多数の主観が一致する場合で普遍性があるとされるもの。例は科学
まずは疑うことを前提とし、その批判の中で最も正しいとされるものを採用する場合は客観と呼べる
主観
説明ができない、もしくは証明ができない事象。例は宗教や信念など
まずは信じることを前提とするようなものは主観と考えられる
って、なにか質問の趣旨と違っている気もするが。
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私見ですが…



主観:ある対象を、自分(主)の観点からみること。
客観:ある対象を、自分以外の第三者がみた場合
   を、自分の立場から想定(認識?)すること。

主観も客観も、最終的に認識している主体は、自分自身なのでは?

Aという対象を自分の立場からみるとき、
このAは、「(1)自分にとっては~である」「(2)他人にとっては…である」と、
『2つの視点』から、認識するとおもいます。
この(1)が主観で、(2)が客観なのではないでしょうか?

※もし違っていたら、御意見ください。
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 (質問者さんが持ち出された?)「知のプロセス」とを関らせつつ、カキコめるか?心許ないのですが、やってみます。



 一例として、川端康成は「雪国」の中で、「国境の長いトンネルを抜けると」云々と記しました。
 この時、彼にとって「(・・抜けると)雪国云々」と「東京方面から新潟方面へ北上する場合に(更には雪が降り易い冬季に)限定した点が正しく、(川端流の)「主観」であり、彼の筆致が磨かれていたが故に、「主観」をノーベル賞に輝く作品(の一つ)に、昇華させた、と私は解しています。

 何故なら、トンネルが用いられているという事は(この場合は清水トンネルですから)北上する人間のみならず、(新潟方面から東京方面へ)南下したい人間の存在を同時に、意味するからです。

 ですから、「雪国」の文頭で、展開された(川端流の)「主観」を排し、(出来る限り)「客観」化する事が許されるなら、「国境の全長Xメートルのトンネルを冬季降雪時に抜けて、北上すると雪国云々」と言う表現の方が妥当性を持つと、言えるでしょう。

 私は「主観」vs「客観」と言う質問者さんが提起された概念を、川端康成の「雪国」を例にしつつ、説明して見ました。

 彼の文学性をずたずたにした点も又、私自身の「主観」である、と念を押しつつ、今回のカキコみを閉じます。
 お粗末で失礼致しました。
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簡単にしか説明できませんが…



まず分かりやすい「客観」から言えば、
その文章を第3者の立場で外から分析する事と思います。

主語は誰か?
誰に向かって話しているのか?
場所はどこか?
時間はいつ頃か?
繰り返し出てくるキーワードや、否定の後の肯定(~ではなく~。)の様に、筆者が強調している事はないか?
比ゆが何を示しているか?
文の雰囲気は穏やかか、激しいか?
筆者がこの文を書いた時、どの様な状況にあったか?
…など、その文の特徴を調べる訳です。
絵画を外から見て分析する感じでしょうか。

一方、「主観」はその人物に感情移入して考える事と思います。
絵画の世界に入ってその世界を自ら探索するという様な。
言ってみれば「追体験する」事でしょうか。
その中で得るものは、人によって千差万別という所でしょう。
私的に解釈すると言えるかもしれません。

課題はおそらくこの両者がどの様に働いてその結果、ある人の中である物事が「知」として形成されるかを問うのでしょうね。

本当に稚拙な答えでごめんなさい。
ご質問から私はこの様に推測しました。
あくまでご参考までに。
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