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魏志倭人伝を読んでいて気になったのですが、「其の北岸狗邪韓国に至る」の記述の狗邪韓国は、魏志弁辰伝の弁辰狗邪国のことだから倭地には含まれない、という解説を多数見かけました。

しかしその説が正しいとして対海国までが倭だと考えると、最も倭に近いのは弁辰狗邪国になりますが、魏志弁辰伝には「倭と界を接するのは弁辰toku廬國」と書かれていて、矛盾が生じてしまうと思います。

狗邪韓国と弁辰狗邪国が同一だと考える理由、もしくは国名の重複は無いと考える根拠はどこから来ているのでしょうか?

A 回答 (4件)

矛盾だと声高に叫ぶ人がいることは確かですが、本当に矛盾でしょうか?


国というのは一列に並んでいるわけではなく、国境線は広がっているのですから、『界を接する』国が1対1でなければならないという理屈はどこにも存在しません。倭側は対馬が突出していますからこれは一意に決まりますが、相手側は複数でもかまいません。これが一点。

次に、一つの例として、今はなき青函連絡船を考えて見ます。これは青森港と函館港をつなぐ航路です。仮想的にここに古代の国があるとし、青森国と函館国をつなぐ航路としましょう。すると、本州から北海道にわたるには、まずはその航路の南岸である青森国につき、そこから青函連絡船で一海を渡ることになります。

ところが、北海道に一番近いのは恐山のある下北半島です。ですから、下北半島が青森国とは別の恐山国である場合には、界を接しているのは青森国ではなく恐山国となります。また、津軽半島も別の国だったとすると、津軽国もまた界を接しています。したがってこの場合には、航路の南岸は青森国ですが、界を接しているのは恐山国と津軽国です。これで矛盾はどこにもありません。

狗邪韓国と考えられている金海は(現在では)内陸に入り込んだところに位置していますので、そこより対馬に近いところにトク廬國があったとして何の問題もないことになります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。確かに「狗邪韓国よりも対馬に近い所に弁辰toku盧國が存在した」という可能性を考えると、矛盾は解消しますね。

ただ韓国考古学会の見解では、狗邪韓国は釜山市東莱(福泉洞)にあって、後に金官伽耶の時代に金海市良洞里→金海市大成洞に移ったとされています。東莱なら釜山港は目前ですが、弁辰toku盧國が介在する余地はあるでしょうか?

お礼日時:2005/11/19 08:37

>ただ韓国考古学会の見解では、狗邪韓国は釜山市東莱(福泉洞)にあって、



これは、聞いたことがありません。
狗邪韓國を金海周辺とするのは有力を越えて定説に近い物になっています。
福泉洞を狗邪韓國の遺跡とするのであれば、それはおそらく金海と福泉洞を含む範囲を狗邪韓國としているのだと思います。
ただ、手元にある『朝鮮半島の考古学』(同成社)では、福泉洞は国名不明になっています。

>東莱なら釜山港は目前ですが、

釜山が発展するのは、李朝時代の15世紀です。

>弁辰toku盧國が介在する余地はあるでしょうか?

有力な候補は巨斉島、もしくは、巨斉島を一部に含む国です。
また、上記のように洛東江の東西で国が別れていたとすると、釜山を含む国名不明の国も候補に上がります。
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この回答へのお礼

再度丁寧な回答をいただき、ありがとうございます。とても勉強になりました。

お礼日時:2005/11/20 17:26

東夷伝の韓伝に『韓は、帯方郡の南にあり、東西は海で限られ、南は倭と境を接する』


とあります。対馬から倭であるのなら、韓の南も海である筈でしょう。しかし、そのように書かず韓の東西のみ海であると記述したのは、韓と倭が陸続きだったことを窺わせます。それだとなぜ倭と境を接しているのが狗邪韓国では無く、トクロ国と書いた事も合点がいきますし。
ただ、倭人伝で対馬国以降の国には情報を詳細に記述しているものの、狗邪韓国に関して全く記載が無い事はおかしなところではありますが
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。確かに狗邪韓国に関して全く記載が無いというのは不思議ですね。狗邪韓国は5千戸近くを擁するかなりの大国だったはずなので、何らかの補足記事が付けられても良いように思えます。

「倭と境を接する」という表現は解釈が難しいところです。黄河や長江も川の一つというスケールで考えるなら、対馬海峡を挟んでも「接する」という感覚なのかもしれませんし・・・。

お礼日時:2005/11/19 11:27

この辺は難しい処ですね。

単に記述の間違いと言えば其れまでですし、同時代の朝鮮や日本を扱った資料が三国志以外は現存していない以上、少ない文から解釈するより他ありません。
同一だと考えるのは「狗邪国」の名がどちらにも入っているからでしょう。「狗邪韓国」は「韓の狗邪国」と言う意味になりますし、「弁辰狗邪国」と言うのは「弁辰の狗邪国」という事になります。弁辰は弁韓と辰韓を合わせた名称とみられ、馬韓とともに韓を構成しています。すると、つまりどちらも結局一緒であり韓の中では「弁辰」と付け、外(外国)では「韓」と区別したのかもしれません。
次に重複でないと考える根拠は、やはり名前が違うからでしょう。(それしか言えない…)

…といった所でしょうか。ところでこの「狗邪韓国」が物議を醸しているのは、「同一か否か」ではなく、「倭人の地域であったか否か」という所に関心があるせいだと思います。私が持っているちくま学芸文庫の三国志の東夷伝地図は、朝鮮半島の南端に「倭」と書かれています。購入して最初に見たときは「?」と思ってしまったものです。しかし東夷伝をつぶさに読むと、図の表記は極めて妥当であると感じました。東夷伝には幾度と無く韓と倭が境を接していると書かれている上、「弁辰トクロ国」の隣りが倭であると具体的です(対馬から倭であるのならば不自然な記述)。それに「弁辰狗邪国」または「狗邪韓国」が辰王などの韓の王に属していたという記述はありません。勿論、「狗邪韓国」が倭に属していた決定的な決め手は無いともいえます。しかし、中国では倭の勢力が朝鮮半島に及んでいると思っていたのは間違いない様です。少々横道ですが
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。弁辰狗邪国も狗邪韓国も、本来の国名が「狗邪国」であることを表すのは間違いないのですが、例えば「不彌國」は馬韓にも倭にも存在しますし、「奴国」は倭人条に重複して表れます。ですから国名が同じであっても、同一国とは限らないと思ったのです。

『倭人条の中なので狗邪「韓」国と表記した』という御意見は参考になりました。

お礼日時:2005/11/19 08:50

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