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武田信玄の上洛の道筋を見ると、三河を進軍しています。何故、三河を通る必要があったのでしょうか?地図をみると信濃から木曽路を通り、美濃を攻めても良かったのでは?しかも信玄は木曽路から美濃に秋山信友の別働隊を派遣しているので、木曽路が行軍できなかったわけではないはずです。何故、信玄はわざわざ三河を進軍したのでしょう?ご教授ねがいます。

A 回答 (6件)

当時の武田軍の軍制では農民兵と軍役衆という半農の兵が主力で農繁期に出兵するとその年の収穫に差し支える為、長く本国をあけて遠征することはできませんでした。



これは織田信長のように兵農分離を断行していない所は共通した悩みでした。
従って信玄としては京都まで漸進策をとらざるを得なかったと思います。

木曽から美濃を攻めたのは信長を牽制する為で、本命の目標は三河の制圧、徳川軍の分断と、次の段階の準備であったと思われます。
信玄は決して無理な戦争をしない人で、作戦も十分な準備(敵の後方攪乱、調略など)を行っています。

徳川軍の団結は他にぬきんでていましたが武田軍の無敵振りを見せつけられて内応者も出る期待もありました。  三河を制圧すれば甲斐、信濃は安泰となり、米作地帯を手に入れ、次の進撃に有利となるのです。

あえて上京を唱えたのは近畿地方などの反信長勢力を励ます為です。
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武田信玄の兵制では主力が農民兵だったため農閑期以外での長期の遠征は無理でした。

これは織田信長以外の当時の大名のほとんどに言えます。
また、今川義元が上洛を企図した当時と異なり、京都までの道は全て織田領となっています。

こうした自国の限界と現状を現実家の武田信玄が把握していなかったことはないと思います。

戦略として信玄が描いていたのは、徳川家を圧迫し、出来れば駿河・遠江を占領した上で、織田信長の親征を誘うことだったと思います。織田の勢力圏に攻め込むのではなく、誘い込むことに主眼があったため、美濃や尾張方面に主力で侵攻しなかったのだではないでしょうか?

急激に膨張した上、信長の独裁体制であった織田家は、彼を戦場で倒すなり、その軍団を叩いてしまえば、崩壊する要素を多分に持っていました。
その上で、駿河・遠江・三河あたりまで占領してしまうのが、信玄の具体的な見通しだったのではないでしょうか?

実際に織田信長は自分自身が武田家と対峙することを極端に避けています。
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信玄の領国拡大バターンを見ていくと、確実さということに尽きます。

三河侵入についても、当面は遠州の確保と家康打破が考えられます。
駿河方面からの侵入も考えられるかもしれませんが、元亀二年三月に高天神城を猛攻していますが落ちていません、片や四月に三河に侵入し足助城を落としています。信玄としては、北から三河、遠江の家康を圧迫したほうがやりやすかったと思われます。また、天竜川沿いは、長年の努力で安定した信州勢を配下に持ち、信長にも心理的に圧迫させられると考えたのかもしれません。
また、天竜川を背にして戦う不利もあるため、二俣城を必要に攻め、属城としています。(川中島の戦いの教訓か)遠江の要の城は、東の高天神とこの二俣にあるといわれています。
二俣城の確保は、天竜川の渡河を容易にし、いつでも浜松を狙えるということを意味しています。時機を見て、家康をおびき出し、野戦に持ち込もうとしていたのではないか、それが三方が原戦いとなったようです。
信玄の意図としては、遠江を手に入れ、家康を併呑させ信長を圧迫していくということではなかったか。
上洛については、結果的に信長を追い詰めればなるということでしょうから、着実に詰めていくという手法をを取っていると思えます。

まとまりませんが、こんなところです。
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さいとうたかおの「武田信玄」では、三路邁進と言っています。

本隊が通過したのがが三河だったわけですね。そして木曽路が秋山信友。
これは私的な考えですが家康をたたかずに美濃進軍してしまえば、家康に退路を絶たれ、信長との挟み撃ちにあうのでは?
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1番の方の補足をしますと


信濃→美濃 は結局現在の 20号線一本ですが、信濃→三河は151,152,153の三本になります。
三本あれば、輸送量も多くなれるという事もありますが、軍事の基本として、意図の秘匿が重要になります。
どの道をメインにやってくるか?というのが、美濃方面ですと、わかりやすいのに対して、三河方面では、三本あるが故にわかりづらいというものがあります。

また、世間的には信玄の上洛戦と言っていますが、本当に上洛を意図していたかも不明です。
意図の秘匿の原則から言えば、「上洛するぞ!」と、言っても、上洛する意図はなかったと考える方が妥当かと考えます。
特に武田軍は、遠征戦をやったことがありませんから。

参考URL:http://www.mapion.co.jp/c/f?uc=1&grp=all&nl=35/2 …
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当時の街道は人2人がやっとすれ違える程度のものなので、全軍を一つの経路で進軍させる事は合理的では無かったのでしょう。

分進合撃と言うやつです。それに、東海道は信玄にとっても補給線として必要だったと思います。濃尾平野を押さえた後、大軍の消費する物資を駿河から尾張の熱田等の港への船舶輸送で賄う考えだったのでは?この時代、物資の大量輸送はなんと言っても船舶輸送が一番でしたので。
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