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源義経は史実では奥州藤原泰衡によって滅ぼされたと
ありますが、死亡したとされたあとも東北地方にはたくさんの伝説があり、チンギスハン伝説なども残って
いると聞きます。チンギスハンが詠んだ詩が、静御前を思って詠んだ詩ではないか?とかチンギスハンの誕生の時期は義経と近いというところからそういう伝説が生まれたようなのですが、詳しいことは知らないので義経の史実死後の東北の伝説やチンギスハン伝説を知っている方がいましたら教えていただけないでしょうか?

A 回答 (6件)

 北海道に渡り、アイヌの酋長の所に身を寄せていました。


 そこで酋長の娘と恋仲になりましたが、義経は再起を期して船出をしました。そのこと気が付いた酋長の娘は必死に神威岬まで追いかけましたが、時すでに遅く、義経の漕ぐ船は遙か沖に。
 悲しんだ娘は怨みの言葉を残し、岬の崖から身を投じ、神居岩と化しました。その言葉が「和人の船、婦女を乗せてここを過ぐればすなわち覆沈せん。」
 それ以来、女の人を乗せた船がここを通ると必ず転覆したので、神威岬は女人禁制の地になりました。

 その他、下のURLにいっぱいあります。

参考URL:http://www.akiku.com/hokkaido/yoshitsu.html
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この回答へのお礼

恋の伝説ですかー。静御前は頼朝の前で義経を思った舞を踊りそれを見た頼朝は激怒したという話もありますよね。義経は相当もてたのですね。現代になってもいろいろな伝説を残し語り継がれてきた義経という人は魅力的な人物だったのかもしれませんね。ご回答参考URLありがとうございます!

お礼日時:2005/02/22 04:11

5です。



徳川氏に関しては、こっちの参考ページの方がいいですね。

http://www.town.ojima.gunma.jp/iroha/tokugawa.htm

「坊さん」というのは、ここにある徳阿弥さんのことです。
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歴史的に洗うと、参考ページのような経緯があります。


義経ファンには、なんとも幻滅させてしまう内容なのですが・・。説としては江戸時代に創作され、1の方が言うように、アジア進出の根拠に利用されて広まったと言うことらしいです。

>源頼朝、足利尊氏、徳川家康と幕府を開いた人たちは皆源氏の血を引く人たちらしいです。


徳川氏は、もともと三河地方の土豪に坊さんが流れ着いて勢力を拡大したもので、源氏などという証明はありません。
http://www.kaiun-goriyaku.com/10j-004.htm

(ここに簡単な経緯説明。基本的には流れてきた坊さんの「証言」と後世の整理が加わった説明ですので、どこまで歴史的事実かどうかは分かりません。)

ところが、頼朝以来、将軍は源氏であるべきという慣例がありました。源氏の血筋に実際に力あるのではなくて、そういう先例になっているので、将軍になったものが源氏になる必要があるわけです。摂政・関白に藤原氏がなるのもおなじことです。秀吉さんも、いきなり関白になったわけではありません。近衛家(藤原氏)の養子になってから、関白になっています。

そこで、徳川家康が源氏であると言い出して、摂関家に家系図の鑑定を求めて認められたという経緯があります。摂関家では、断るわけにもいかず、これを認めます。また断る理由もありません。多額の謝礼をいただきます。

戦国大名の家系などは、自己申告で決まってしまうものが相当多いのであまりあてになりません。最初藤原氏を名乗っていたのに、途中から源氏を名乗るなど、途中から家柄を変えたものもあります。

足利家に関しては、鎌倉幕府御家人からなっているのでそうなのでしょう。戦国期を経てしまいましたので、血筋などは、その土地で長年(平安時代とか鎌倉時代とかから)定着しているような氏にしか、信憑性のないことなのです。

参考URL:http://www.library.pref.osaka.jp/nakato/shotenji …
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この回答へのお礼

そうなのですか!なんというか家柄というか血筋というか(おおまかないい方ですが)というのはその当時からあったのですね。今でも家柄を評価するという風習はのこっていますよね。例としてイスラム教シーア派でも4代カリフアリーの子孫を最高指導者とするとあるように人間というのは外見や文化が違ったとしても考えることの基本には共通のことがあるのかもしれませんね。歴史というのはそう思うと人間というものの追求につながるものでもあるし現代でも学ぶ意義がなんとなくわかりますね。私のお礼の内容が少しずれてしまいましたが(笑)参考のURLとご回答ありがとうございます。

お礼日時:2005/02/22 06:37

 静御前を詠んだ歌というのは分かりませんが、『成吉思汗』という名前を固有名詞と考えず、日本の漢語読みにすると、『吉成りて汗を思う』となり、『汗』という漢字を分解して水干とすると、『吉野山の誓い成りて静かを思う』という意味になるというものです。

付け加えると、この成吉思汗という漢字は後で漢人がモンゴル語の発音に当てはめたものでもないんですね。というのは、成吉思汗が金と戦っていた時、停戦のため国王が役人を派遣するんですが、その役人が帰って来て、『成吉思汗という人物は戦いばかりで学問の無い人だと思っていたが、こちらの意地の悪い質問にも一々きちんと答えられる文武共に優れた人だったと言っているし、名前も自分で署名したというんですね。(当時モンゴルには文字が無かったのに)これは金側の記録です。
 
 イギリスの大英博物館にある成吉思汗の像には何故か鎧に笹竜胆の紋があるとか、成吉思汗が最初に旗挙げした時に用いた旗が九リュウの白旗だったとか成吉思汗の父親の名前がエスガイ(蝦夷海?)で母親の名前がホエルン・イケ・センシ(池の禅尼?)と挙げたら切りが無い程一杯あります。

 この義経・成吉思汗一人二役説(論争)は大きなものでも江戸時代から4回も行なわれていて、NO,1さんが言われる程簡単なものでもないんですね。
 
 作家の高木彬光氏の『成吉思汗の秘密』(角川書店)という本があり、これは今までの4回の大論争をまとめ、更に氏の考えも付け加えているというものです。
 内容は探偵神津恭介が一人二役説を立証しようとし、同じ東大文学部教授がそれに対し学問的(科学的)に反駁を加えていくというもので、どこにどんな問題点があるのかを分かり易く書いてくれています。

 学問的に考えると、やっぱりどうかという部分もありますが歴史推理小説として一級品です。最近、日中共同調査で成吉思汗の大ゲルの位置がやっと分かり、墓ももうじき見つかりそうで楽しみです。
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この回答へのお礼

近頃チンギスハンを祭るために馬などを焼いた「燃飯」の儀式が行われた証拠が発見されましたね。チンギスハンの陵墓が見つかった場合義経=チンギスハン伝説は100パーセント違うものと証明されるのかもしれません。(義経と同一人物と確認される確立も0ではないかもしれません)それを考えるとワクワクします(笑)歴興味深い話をありがとうございます。

お礼日時:2005/02/22 06:16

もともとこの種の義経伝説は彼の死後も東北や北海道の各地に点在しています。




さて、義経=チンギス・ハン説ですがこれが広まったのは意外と遅く日露戦争前後辺りからなのです。この時代は日本が大陸への進出が盛んになり始めた時代と言えるでしょう。


さて色々と賛成意見や反対意見がありますが、ここでいくつかの判断材料があります。

1生年不明
確かにそうなんですが、チンギス・ハンは両親や家族の名前はもちろん先祖の名前まで分かってます。それに生年が不明な歴史上の人物は彼以外にも沢山居ます。有名なのはキリストが居ますね。

2チンギス・ハンはモンゴル文字の読み書きが出来なかった。
これは事実です。変ですよね?モンゴル人でしかも、父親は族長を務めた程の貴族の家柄なのに、しかし・・・理由はあります。何故なら、モンゴル文字は彼の後の時代にウイグル文字を改良して作られたのです。ちなみに彼が使っていた文字はウイグル語とされています。

3思考の違い
義経は平家を滅ぼすのに相当手段を考えずに実行に移してます。例えば鵯越とか屋島とかは当時の考え方では相当に卑怯な手段に映った事でしょう。それだけ平家への復讐心が強かったのか、それとも才能ある初心者だからこそ考えついたのかもしれません。
チンギス・ハンは残虐な事を繰り返してますが、彼なりに筋は通している観はあります。例えば何度も剣を交えた盟友には名誉ある死に方を許してますし、西方遠征の原因の一つである使者への無礼もとりあえず原因追求の為に再度使者を派遣して詰問しています。


さて余談ですが、義経以外にも大陸に渡ったとされる人物として、幕末の新撰組の幹部「相良左之助」
がいます。 彼は上野の戦いで戦死せずにその後大陸へ渡り馬賊として生き延びたとされています。こちらの方はあまり知らないのですが・・・
とはいえ、個人的にはこうした伝説の類は当時の人々の願いや希望、その対象となった人物の放つ魅力がそうした伝説へと昇華したと思ってます。こういった事はその当時の空気を伝える声無き人々の代弁者となっているのでしょう。むしろ事実か否かでは無く、何故そうした伝説が生まれたのか?を問いつつ調べていくと面白い物を見ることが出来るかもしれませんね。
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この回答へのお礼

新撰組の人物は主要な人以外あまり詳しく知らないこともあり大陸に渡ったとされる人がいるなんて知りませんでした。これも興味がわきますねー。しかし現代においても大陸(外国)にわたり実績を残すという人物は高く評価されます。この時点では私が理解している歴史では「国」という枠組みが完全に出来上がっていたのかはわかりませんが、その当時支配されていると認識されている領土を越えて活躍するということは評価に値するという考えは今と変わっていないですね。当たり前なことのようだけどなんか不思議に感じます。時代や文化が変わっても人の考えることはあまり変わらないのかもしれません。ますます歴史というものに興味がわきました。ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2005/02/22 06:01

 義経に関しては諸々の伝説があり、史実はともかく想像を掻き立てられますね。

ですが、義経=チンギス・ハン説だけは、腹が立ちます。全くのガセです。
 確かこの説を唱えたのはシーボルトだったと思いますが、帝国主義の時代に選民思想を広めるために使われたに過ぎません。
 あのように巨大な帝国を創る事が出来るのは、日本人以外にいない。という馬鹿な考えです。
 チンギス・ハンが騎馬民族で、生年がはっきりしないために利用されただけです。
 
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この回答へのお礼

高校生の頃日本史の先生が言っていたのですが、源頼朝、足利尊氏、徳川家康と幕府を開いた人たちは皆源氏の血を引く人たちらしいです。これを考えると不思議に感じます。源氏の血筋というのはそれだけ不思議な力があり義経のチンギスハン伝説というのも嘘ではないかもと思わせてしまうのが不思議です(笑)ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2005/02/22 03:48

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