No.7ベストアンサー
- 回答日時:
当時の人口について補足します。
モンゴル帝国全体でどのくらいの人々が暮していたのか知りませんが、比較の参考になりそうな数字を2つあげます。
元朝では、フビライが南宋を併合した後の数字として、5883万4711人というのがあります。元朝領内のどこまでを含んでいるかは分かりません。
チンギスハーンが草原を統一したとき、遊牧民を95の千人隊に再編成したといいます。大雑把に計算して、仮に一人当平均4人家族とすると全体で40万人、5人家族で50万人。
ちなみに、今のモンゴル国の人口は260万人、中国は13億・・・
No.8
- 回答日時:
被征服地の兵力を次々に吸収していったことと、基本的に軍事をモンゴル貴族が握り、統治は現地人や下級のモンゴルが行った、ということで少数の民族による支配が可能になったわけです。
またこの過程で逆にモンゴル民族の一部は実質的に別の民族になっていったようです(ロシアあたりじゃトルコ系キプチャク族に吸収された)。まあ近代の「民族」とこのころのモンゴル族というものは違います。特に遊牧民が団結する図式のとき、部族(といってますが実のところ民族・国家)連合の形になります。モンゴルとはそういう形だったのではないでしょうか。それと今のモンゴル民族というものは同じではありませんから。
おすすめ文献はmuto 123さんがあげておられる、
モンゴル帝国の興亡 上・下 杉山正明著、講談社
大変示唆的な本だと思います。
この回答へのお礼
お礼日時:2005/02/11 00:01
みなさん、丁寧な回答、誠にありがとうございました。本当に勉強になりました。
自分がモンゴルというものをまるで理解していなかったことを知りました。
推薦図書は是非読んでみます。ありがとうございました。
No.6
- 回答日時:
一つ問題になる点として、近代以前には民族国家はなかったということがあります。
この意味で、近代以前においては大きな領域(または人口)を抱える国では、支配者集団は常に少数派です。漢や唐、7世紀のイスラム帝国、古代ペルシャ帝国、あるいはローマ帝国なども同じことです。これらの国々に共通することは、民族の団結といったものではなく、中心勢力の求心力の強さ、つまり政治力に帰結すると考えられます。モンゴルにおける求心力という点を2つ挙げておきます。
寛容性と多様性
かなり初期の時点から、モンゴル以外の人々がチンギスハーンの元に集まっています。モンゴルには宗教や文化、人種を越えて人々を受け入れる力がありました。
支配者集団における富の再分配
フビライの時代には全国から合法的に銀を集めて、支配者集団に再分配するシステムが有効に機能していました。
参考
モンゴル帝国の興亡 上・下 杉山正明著、講談社
世界史の誕生 岡田英弘著、筑摩書房
No.5
- 回答日時:
“モンゴル族”という言葉はある部族の人たちを指しているのではありません。
チンギス=ハンの支配下に入った部族のことをそう呼んだのです。
遊牧という特殊な生活をしてる以上、もともと外との交流(交易)は
欠かせないものですからもともと結構いろんな人種が入り交じってました。
モンゴル人は肌や目の色、外見的特徴などで人を区別したりしなかったのです。
「優秀な人が高位につく」という理想的な状態が実現できました。
政治面での強さですね。もっとも、政治とかいう概念がありませんが。
実際モンゴルが中国の金朝を制圧した後、文化の違いなどのために
2種類の政治体制を混在させざるをえませんでした。
>いくら騎馬隊が強くても
政治面よりもこちらの方が重要かも。
モンゴル軍はとにかく機動力がありました。1人が馬5,6頭を
乗り継いでるわけですからもう想像を絶する早さだったのでしょう。
モンゴルが都市Aを攻めた場合、もちろん近くにある都市Bには
都市Aからの使者が注意を呼びかけに行きますよね?
都市Bの高官が話を聞いて「なに?では防衛戦の準備を…」
と言ったときには既に地平線には土埃がみえていたという逸話があるぐらいです。
まったく準備するまもなくあっというまに攻め落としたのです。
またモンゴル人は純粋で素直でした。命令には疑問も持たずに従うのです。
兵隊としてこれ以上のものはありませんね。殺せと命令されれば
女子供容赦なしです。実際、徹底した残虐ぶりで周囲の国に恐怖感を
与えて士気を削いでます。先ほどの例で言うと、都市Aを陥落させたら
その町の住人を全員奴隷にして、都市B攻めの先陣として突っ込ませます。
人質を盾にする「ハシャル戦術」ですね。また1日目で降伏しなかった
都市は住民の1/3を殺す、2日目で降伏しなければ1/2を殺す、
3日目でもまだ従わない場合は皆殺しにしてます。
他にも文化の違いがありました。
日本の武士と同様に、ヨーロッパにも騎士がいます。
モンゴルに対し「やぁやぁ我こそは備前の国の~」と前口上を
述べていたらいきなり矢打たれて死んじゃった。という事です。
パルティアン戦術や集団戦術においてとっても合理的だったんですね。
No.4
- 回答日時:
モンゴル帝国ができあがたのは、初代皇帝チンギス・ハーンの建国からわずか70年後です。
どうしてこの短い年月の間にあのような大帝国を築くことができたかについては、(1)チンギス・ハーンはじめ歴代の皇帝が優れた軍事的指導者だったこと、(2)当時、東西貿易の安全を願っていたイスラム教徒の商人達が有力なモンゴルを支持したこと、(3)周囲の国々が全盛期を過ぎていたことなどがあげられます。また、モンゴル騎兵の優秀さも忘れてはなりません。彼らは、各自6頭ほどの馬を持ち、それを乗り換えながら素早く移動しました。戦闘になると、得意の集団戦法をとり、羊の角を芯に入れた強力な半弓で敵を倒しました。
しかし、こうしてできた大帝国も14世紀に入ると、贅沢な宮廷生活やラマ教の熱狂的な信仰に耽る一方で、専売していた塩の増税と、紙幣の乱発により、国家財政が破綻してしまいました。そして、民衆の生活は困窮し、各地で暴動が相次ぐようになり、たった90年で支配は終わってしまいました。
No.3
- 回答日時:
チンギスハーンの築いたモンゴル帝国は、ある日突然
出来たものではありません。まず前史があり、チンギスハーンによるモンゴル諸部族の征服・統一があり、ここまでは世界各地にある偉大な長による国内統一の物語に過ぎません。
モンゴルが恵まれた環境にあったのは隣接して中国(当時の支配者は金)という世界でトップクラスの文明国家
があり、その征服に成功したことです。モンゴルが如何に騎馬戦に長けていたとはいえ、中国に蓄積されていた
武器、戦術、兵法、特に攻城戦と行政制度がなければ
チンギスハーン一代で終わっていたかも知れません。
中国を得たことにより、兵站、戦力ともに強化され、チンギスハーンの息子や孫たちが西進して各地に帝国を
築くことが出来たと思われます。モンゴルの戦術は恭順
か虐殺かが明白だったので、本国から遠い征服地でも比較的少数の守備隊で支配が可能だったと思われます。
歴史には征服軍の主体をなす部族の名前しか残りませんが、シーザのガリア征服でも、更に古くはアレキサンダー大王のペルシア遠征でも降伏して新たに同盟軍となった異民族部隊が参加しており、蒙古軍も例外ではないでしょう。千人の騎馬兵が活躍するためには千人の後方支援部隊(輜重を含む)がいたと思われます。歴史で語られるのは騎馬兵だけですが・・・
参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%B3% …
No.2
- 回答日時:
私なりの考えを。
軍事的には
1、モンゴル軍の主要食料は羊。
羊は自分の足で軍団についてくるので、兵站の負担が極端に少なかった。モンゴル軍の武器の弓も鉄と羊の角が主原料でほとんど自給自足で、戦略レベルの機動力が高かった。
2、軍隊の構造
チンギス=ハンは軍の最小単位を10人として100人で戦術単位、1000人で作戦単位、10000で戦略単位の軍団にわけ、高度な組織先を展開した。
3、相手国の社会上の構造を攻略
特に、西方遠征ではかの地の政治・社会状況に極端な奴隷制度が存在した。
奴隷の身分の開放を約束して、城門を開けさせた。
また、屠城(中国の古代の宗教観念で、相手の土地の神の力を封印するためにその土地の生物を皆殺しにする)を使い分け、奴隷が反乱を起こせば、奴隷を許し、反乱を起こさなければ屠城した。
統治
基本的に単純な統治を行った。
チンギス=ハンは自分の子供や孫たちに、征服地の王族の娘を嫁がせて、孫たちを王として封建した。
統治も普通の封建システムで工夫も無く、かえって、土着の豪族の力が増した。
元や朝鮮のほうでは少し違う統治をしている。
元では中国式の官僚システムを採用しながら、朝鮮では高麗王国の皇太子に娘を嫁がせて、間接的な影響力で我慢した。
全体的に、官僚には現地の人材を用いて、交易に力点をおいたように見られます。
当時のモンゴル人自体の軍事動員力は通常時20万最大で40万ぐらいかな。
No.1
- 回答日時:
中国をはじめ、現地の優れた官吏を吸収したことが大きいでしょう。
さらにトップをモンゴルから派遣して、中央集権をした点もあります。モンゴル騎兵自体は少なくても、戦闘方法を教育し、異民族出身の短弓騎兵はかなり多かったと思います。
ただ、正確なパーセンテージはちょっとだせません。戦時に馬と短弓をもってこれて、使いこなせる人の数はそのときによってまちまちだったと思います。また元寇では海を渡るため、馬をほとんど運べず、歩兵中心になったことから、馬を全面的に動員できたのはシルクロード沿いの通りやすい地域に限られていると思われます。
馬が効果的に使えない日本や東南アジアを攻略できずに終わっているため、騎馬兵がモンゴルの最強たる所以だったと思われます。
本はたしかジンギスカンと言う名前の本がよかったです。
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