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 ペリーが黒船でやってきて、開国を日本に迫りましたね。ですが、どうしてその後、日本は色々な国が責めに来たのに、植民地化はされなかったのでしょうか?まとめるのは難しいと思いますが、できるだけ簡潔に教えてください!

A 回答 (6件)

1.日本の統治システムが良かったから.内乱もなく,外国が入るすきがなかった事.--ペリ-提督がこの国は将来脅威になると思っていた-と書物で知りました.


2.その当時の幕府には.海外からの植民地になった中国などの情報が入り,植民地にならないように防いだのです.そのときは天皇は攘夷を考えていたのは,井伊直弼の暗殺で分かるように、攘夷派からは.井伊直弼は朝敵のように思われていたのです.
3. 薩摩や長州がイギリスとの戦いで簡単に破れて,攘夷では勝てない事を知った事も影響しているでしょう。
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 まず国内では、アヘン戦争での清朝の敗北が幕府に伝えられて、幕府も雄藩も警戒を強めて軍事力を強化し、西洋の情報入手に努めたこと。


 次に当時の情勢としては、アメリカは南北戦争、イギリスはインド統治に目が向いていたこと、ロシアの南下政策に警戒感が強まったこと(日英同盟に向かいます)。ロシアは国内の政治・社会体制が揺らぎ始めたこと。フランスは普仏戦争で忙しかったこと、そしてパリ・コミューンに向かいます。などなど欧州は、取るものに乏しい島国をわざわざ侵略するような情況になかった。
 また大陸にしても英領や仏領になったわけではありません。列強は競いつつ手を合わせつつ半植民地状態にしていったわけです。日本を侵略したら、その隙に他国が広大で豊かな大陸に足場を強めてしまう。わざわざ、そんな馬鹿はしないわけです。
 こういう情況の中で、明治の人たちは、したたかに外交・軍事・産業の発展をはかっていったのです。
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この回答へのお礼

質問にお答えしていただき、ありがとうございます。大変参考になりました。実は、私の学校の倫理の授業でこの質問をされていて困っていましたが、pierreさんのおかげで無事に回答できました。ありがとうございました。

お礼日時:2001/06/16 20:08

 ペリー来航に関してなんですけど確かペリーは2度来航してますよね。

その時(1回目と2回目の来航の時期の間に)にアメリカでは大統領選挙かもしくは大統領交代劇みたいなのがあって武力制圧策から和平策への進路転換が在ったような事を某国営放送局の番組で見た事がある気がします。(たしかフィルモアか誰かだったような…スイマセン、思い出せません)
たしかその番組によると大砲は空砲だったとか…

 太平洋戦争後の植民地化を免れたのは他の方々の意見とは他に既に植民地化という事自体に無理が出来ていたのも要因の一つだと思われます。
 なぜなら、日本およびドイツ、イタリアなどに対して連合国側が正義を主張する最大の理由は日本などによる「侵略、即ち植民地政策」から被侵略国を守った、というものですし。露骨な植民地化は出来なかったと思います。
 その後、ソ連など共産主義圏とアメリカの対立から、朝鮮戦争やベトナム戦争でその当時、事実上の支配国であったアメリカが疲弊し、なおかつ日本はその戦争などが復興の足がかりとなって経済的に発展したという事や国際連合の発足などから見て世界が平和の方向へと流れていった(+疲弊して戦争ができるのはソ連とアメリカぐらいのものだった)という事も一つの要因ではないでしょうか。

 まぁ、でも本当のところ、侵略はされても植民地化するためには何かしらの資源が必要なわけですから、幕末期以降に関しては日本には資源(土地も含めて)が無かった(日本の貿易輸出品の推移を調べてみると良く解ると思います)訳ですから、物理的にも無理だったというのは事実だと思います。
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1.江戸以前に鎖国政策が取られる以前に日本は海外に植民地をたくさん持っていました。

そのため江戸時代ヨーロッパでは日本の海軍力に異常に警戒していました。

2.ヨーロッパにおいて、日本の武士は危険以外の何者でもなかった。
  他の植民地が恫喝において成り立っていたのに対し、日本人には通用しなかった。日本人を恫喝した場合、切り殺される可能性が高かった。

3.島国であることから武器弾薬の輸送を海上輸送に頼るほか無い上に、武士(兵力)が日本中に存在していた。

4.日露戦争後、新渡戸稲造著の「武士道」が西洋でベストセラーとなる。
日本人の考え方に対し、理解されたと同時に「ハラキリ」のような言葉が無気味なものとして認知された。

5.第2次世界大戦の最中に日本の研究を行った結果、日本人が植民地に適さないとされた。(ルースベネクトの菊と刀をお読みください。)
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やや独断が入りますが、



■日本刀の切れ味

が大きな役割を果たしたと思っています。英国初代公使オールコックの「大君の都」にも、その恐ろしさが描かれています。安土桃山時代に来たポルトガル人宣教師もそのような主旨のことを言っています。日本刀は長いこと重要な交易品ですらあったのです。

searchingboyさんの言われているのは「ペリー提督日本遠征記」だと思います。彼はシーボルトの「日本」などを予め読んで、日本文化や日本人についてかなり詳しい知識を持っていました。彼に同行したオランダ人通訳ヒュースケンは日本通ですが、後に攘夷派の刃にかかり絶命しました。

薩長は英軍と砲火を交えて敗れたものの、薩英戦争では敵将も戦死するなど、圧倒的に劣る火器ながらそこそこ善戦しました。

これに先立つ生麦事件でも、薩摩藩島津斉彬の行列を馬で横切った英国人を斬り捨てたました。

ですから彼らには「日本人侮り難し」との印象を与えたのではないでしょうか?

それともう一つ。実は西欧人が日本を植民地化しようとして果たせなかったのは幕末~明治初期だけではなく、もっとずっと前、安土桃山時代~江戸時代初期にまで溯ります。少なくとも、豊臣秀吉の宣教師弾圧に対して、キリスト教宣教師側は武力で日本を占領するように進言していました。(進言相手は忘れた)

徳川家康以降も基本的な構図は変わらず、鎖国もある意味でやむを得ない選択だった訳です。

この頃の権力者や、幕末の攘夷派の、ある意味で「好戦的」で断固とした態度が外国人をして、他のアジア諸国、アジア人とは違う印象を与えたのではないでしょうか?それを身を持って実感させてくれたのが、日本刀の切れ味だったと思っています。

幕末、外国人を襲った攘夷派を処罰するよう幕府に要求したある外国政府の意向に沿って、確か犯人10数人の首を役人が次から次に切り落としたところ、立ち会った外国人が「あまりにむごい」とのことで公開処刑を中止させたと何かの本に書いてありました。これもまさに「日本刀の切れ味」なくしてはありえなかったでしょう。
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1.弱体化していたとは言っても、幕府体制という統治システムが確立されて  いて、しかもその幕府はオランダを通じて近隣諸国(東、東南アジア)の情勢も知っていて、簡単には植民地化されないように策を講じていた。



2.中国やインドのように植民地化しても特にうまみはなかった。
 資源の無い国ですからね。
 ペリーの開国要求もアメリカの太平洋で操業している漁船の補給基地として開国を迫ったわけですし。

3.幕府はフランスに、薩長連合はイギリスに近づき、武器や近代戦法を学び
内戦(戊辰戦争)をしていたので、長引けば外国の内政干渉を受け、地方毎別の国に植民地化される危険性もあった事も事実です。

4.内戦終了後、速やかに近代化を進めるため欧米に学び、諸外国に独立国として認めさせた。

5.幸運にも日清戦争に勝ち、続いて超幸運にも日露戦争に勝ってしまったので、諸外国としては手出しできなくなった。(お陰でアメリカには日露戦争後、仮想敵国にされましたが)

特に幕末の幕府及び新政府の首脳陣はみんな隣国清国の惨状を知っていたので、日本が同じ目にあわないよう努力したのは事実ですね。
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