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最近よく見かけるのですが、sexとgenderの違いは何でしょうか。
sexだと差別用語になるときいた覚えもありますが、sexだとmaleとfemaleしか選べないというのも一因ですか?
genderだとmasculine、feminineとneuterの3つの選択肢があると聞きました。
本当のところはどうなのでしょうか。
よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

 「女性が男性の下に置かれた」根本的原因をお尋ねですね。

うーむ…たしかにそういう状況は歴史的に見ても地域的に見てもかなり普遍的なものですから、「何か」はあるはずです。けれど根本的に「これだ!」という端的な、結論的なものとなると、私は知りません。こちらの方面は不勉強でして。
 ですから、分かる範囲で。ただ一つ言えることは「男より女の方が下である」と見なしてよい根拠というのは無いだろうということです。「女が男より下と見なされるに至った原因と力学」という方向で考えてみます。

 genderではなくsexのレベルで見ます。文化とか社会といった後天的な要素ではありませんから「普遍的」な原因につながるかもしれません。
 で、男女の身体の違いに根ざした部分といいますと、何と言っても女性は子どもを産めます。人間の場合、新生児は非常に未熟な状態で生まれますから、出産後の母親は育児に忙殺され、それ以外の生産活動・社会活動から遠ざけられることがあります。ここに女性が「第二市民階級」と見なされるに至った原因があるとも考えられます。
 しかしながら、原始社会、古代、中世、近代と通して眺めますと、育児にかかる母親の負担は意外と軽かったことがわかります(もちろん地域によりちがいますが)。数家族の母親が共同で子育てをしたり、向こう三軒両隣的な小コミュニティで養育したり、あるいはジイさんバアさんまで含めた多世代で共同したりしております。母親一人に育児の負担が集中するようになったのは、近代に入ってからでもずいぶん最近のことです。「育児→社会参加不能→第二市民に」という図式は根本的なものとは思えません。男女差別は近代以前からあるからです。
 原始社会ですでに「男は狩りに、女は家に」という性役割分担があり、「メシ食えるのはオレのおかげだろ」的に男性が優位に立っていたという説も小耳にはさんだことがあります。が、これもイマイチ。というのは、およそ人間の食うものたるや八割がたは「植物」に由来するものであり、動物性たんぱく質の摂取は意外と少ないのです(イヌイットのような農耕不能地域住民は除いて)。すると「食えるのは男のおかげ」という論理も論拠に乏しい。実際には、女性たちによる「採集」がより大きな重要性を担っていた可能性が高いでしょう。するとむしろ「女の方がえらい」ことになっていてもおかしくはなかった。
 sexというレベルの違いから、ということでいちばん言えそうな気がしているのは「戦闘能力の差」です。戦争に行くのは基本的に男だけ。そうして生命を張って社会を守る働きをする者だから、社会運営にも主導権を握る。こういう要素が「男を上に、女を下に」動かす力学に働いていたのかもしれません。…しかし、実際には女性だって「やろうと思えばやれる」わけで、どうして男だけが戦場にということになったのかと、そこまで遡るとわからないことも出てきます。平均的に力が強い? …ということなのでしょうが、しかしそれでも「男は戦い、女は戦わない」という性役割分担自体、後天的なgenderであると言えると思います。(現在では日本も含めて「女性の兵隊さん」がいますし。)

 視点を変えまして、男女間の性的関係の歴史から見ます。暉峻隆康『日本人の愛と性』(岩波新書・ただし現在在庫なしとのこと)という本をその昔読みましたが、けっこう「納得」でした。
 ざっといきますと、平安時代くらいまでは、男女とも比較的自由に恋愛を楽しんでおり、性道徳も比較的緩やかだった(ある部分では現在よりも)。ところが鎌倉時代以降、封建体制がメインになってくると、土地・財産「相続」の相続の問題から「嫡子が紛れもなく父親の子であること」が重要になり、ここから女性に「貞操」が厳しく要求されることになった。これが明治以降の民法でも「家父長制」という形で固定的に残され、今日に至っている…と、だいたいこういう流れです。
 注目点は、「女性を家に縛り付けて所有する」ことが一般化したのは封建時代以降だということです。「女性の浮気は許さないが、男の浮気は甲斐性だ」という、いわゆる「性のダブルスタンダード」も、このあたりに根がありそうです。
 しかしながら、平安時代の女性は自由だった、社会的地位が高かったとは無条件に言えないように思います。中流・上流階級ならば入内(天皇への嫁入り)の可能性を期待してのことでしょうが、女子の誕生を喜ぶ傾向もあり、またそうした女性ならば教育を受ける機会にも恵まれたようです(清少納言のように、女官として採用されるためにも)。が、女性たちが主体的に何かを起こしたというようなことは、ほとんどなかったでしょう。
 また、日本以外に目を向けても、例えば「世界三大宗教」に共通する女性蔑視一つを見ても、はるか昔から「女は下」と見られていたとは言えるでしょう。(ただ、宗教に関しては必ずしも「女性蔑視」ではなくて「性欲の制限・禁圧」の問題とも言えましょう。ですが、それもまた「性欲の反動」にはちがいないと思います。男のスケベ心が、女性を宗教的救いから排除していたとすれば、これも立派な「差別」でしょう。)

 事の次第はそういうことですので、男女差別の問題は近代以降に限られるものではないのですが、しかし特に顕著な問題として浮上してきたのは近代以降でしょう。生産形態として農耕が一般的で、労働の場と家庭とが重なっていた時代は、女性も一人前の労働力でした。ところが、近代に入って労働の場と家庭とが切り離されてくるにしたがって「男は職場、女は家を守る」という図式が一般化し、同時に「メシ食えるのは誰のおかげだと思ってるんだの論理」による男性優位が確立してきたと考えられます。
 フェミニズムの論客、上野千鶴子さんあたりが一番問題にしているのも、このあたりに関わる「近代資本制」や「家父長制」の問題です。

 しかし…結局「根本的な何か」は…私にはわかりません。
 とりあえず言えること。
 まず、「ジェンダー」という性差は生物的なものとは別であり、先天的・自然的な差ではなくて、文化的・社会的に形成されたもの、後天的なものであるということです。したがって、男女差別を根拠づけるような「男はこうだ、女はこうだ」という男性観、女性観のほとんどは「いつの間にか心に刷り込まれた思い込み」でしかなく(「ジェンダー・バイアス」と呼ばれます)、そういうものとして相対化・解体が可能であるということです。
 問題は、そうしたジェンダー・バイアスの発生根拠なんでしょうね。ですが…うーむ…誰か、詳しい方にフォローしていただければよいのですが…。

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 もう一つ。言葉の問題ですね。特に職業名などで「-ess」など女性を表す語尾がついたりするケース。
 言語学的に言うと「有徴化」ということだと思います。例えば、市長さんは男性が普通だから、市長が男性の場合は「mayor」でよい。が、奇特にも女性が市長を務めている場合、「おっと、こりゃ珍しいや」ってな感じで「特徴を付した呼称」、すなわち「有徴化された」呼称として「mayoress」が用いられる、ということです。
 しかし、このような有徴化した呼称が用いられる背景には、「ふつう、女性には市長を勤めるだけの資質はない、市長を勤められる女性は特別な女性だ」みたいな、女性の能力一般に対する低い評価、はっきり言えば「偏見」が潜んでいるとも言えます。
 そういう理由からでしょう。特にアメリカでは「-ess」の付いた職業名や、あるいは「postman」みたいに最初から男性を表す言葉で作られている職業名などを、男女の別を含意しない中立的な言葉に置き換える動きが盛んです。「スチュワーデス」が禁句になりつつあるのもこの流れです(欧米では既に禁句らしいです)。挙句の果ては「historyはダメだ、herstoryにしよう」とか…。…なんかこう、ここまでいくと「言葉狩り」にすぎないのではないかと思わなくもないです。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございました。
やはり性差別の根本的な原因を探すのは難しいですね。でもserpant-owlさんの説明は、とてもわかりやすいです。
性差別というものは、今後どんなに女性が活躍してもなくならないものなのでしょうか。全くなくそうとするにはものすごい時間が必要とされると思いますが、やはりこれからの女性たちにとっても大切な課題の一つだと思います。

お礼日時:2001/04/22 23:01

 A・ギデンスという社会学者が、ジェンダーの「刷り込み・再生産」がどれほど日常的な、さりげない行為の中で行われているかを示す実験をしています。

ちょっと面白いかもしれませんので、紹介しますね。
 「べス」という名前の生後6ヶ月の幼児に対する5人の若い母親の反応を観察しました。母親たちは、ベスちゃんを喜ばせるために、しきりと人形をあてがって遊ばせようとしました。
 次に「アダム」という名前の、同じく生後6ヶ月の幼児に対する、別の母親グループ5人の反応を観察します。今度は、母親たちはアダムに電車のおもちゃをあてがって気を引こうと努めました。
 ところが、「ベス」と「アダム」は、違う服を着ているだけで実は同じ子どもだった…という実験です。

 おめーむちゃくちゃ性格わるいぞ>ギデンス …というツッコミは置いときまして、実に生後間もない頃から「男の子は男の子らしく、女の子は女の子らしく」という刷り込みが行われていることを示す実験です。人は生まれて以降あらゆる局面を通じて「男」「女」へと作られていくわけです。前回の回答でも触れたように、人間は脳味噌未成熟なままに生まれます。そして、外界からの刺激に影響されながら生後1、2年の間で急激に脳細胞同士のネットワークが形成されます。となれば、脳そのものからして後天的なジェンダーが植え付けられているとすら考えられます。「三つ子の魂百まで」とはよく言ったもので。
 ジェンダーという形で後天的に「押し付け」られた性役割というものを、完全に克服し脱却することは不可能でしょう。ここで仮に「ジェンダー=性差別の源」と単純に同一視してしまうと、「差別の撤廃は不可能」ということになります。
 けれどジェンダーというもの、必ずしも全面否定すべきものでもないでしょう。ある場合にはたしかに性差別を根拠づける「制度」としても作用します。しかし反面、それは「ある秩序へと自分を組み入れる手続き」を保証するものでもあります。人間誰しもTPOに応じた服装や態度、言動をとるのと同じ事です。会社へ行くときはスーツを着る。お葬式の席ではしめやかに死者を悼む。そういうふうに、与えられた情況に合わせることを「外界への隷従」と捉えるか、場への参加権を確保した上での「自己の積極的行為の可能性」と捉えるか。ここで違いが出てくるのではないかと思います。
 たとえば「従順な可愛い女」というやつ。この「オトコが決めた価値基準」に従うことが骨の髄まで習い性となってしまっている女性と、自覚的にこれを演じ、それなりに「オンナのシアワセ」を味わいつつも、時に自己を主張してオトコの股倉にケリをかます女性とでは多少のちがいがございましょう。まーその、人それぞれではございますが、後者もまた、元気があってよろしい!…ということで。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』にも「女は征服されることで支配することを知っている」という、なかなか深い言葉があります。「汝、女へ行くときは鞭を忘るな」という老婆の言葉の近くに。…でも、これだけで女性蔑視発言とは言えません。念のため。)

 労働問題など、比較的「見えやすい」局面での差別というのは、それだけ問題にもしやすいですから、戦いやすいし比較的に解決もしやすいでしょう(もちろん、個々の具体的場面では大変な苦労があるはずですが)。が、意識の根底にまで染み透っているような深い根を持つ部分となると、自覚化するだけでも大変で、上記のように克服不可能とも考えられます。
 しかし、何とか自覚化する作業が肝要なのではないかと考えます。その上で、流され、踊らされるのではなく、能動的・主体的に演じ、たまには裏切り、逆らってみる。そういう「身振り」が何かを変えていくのではないかな、と思います。

 それから、これは何も女性だけの問題ではないでしょうね。男の側も、「男」というジェンダーに縛られている部分があるはずですから。なんかこう、「フェミニズム」とか、そういう言葉を聞くと、男としては居心地の悪さを感じてしまいます。「男を悪者扱いする思想」みたいなイメージ、ありますからね。で、たしかにそういう要素、モノによってはあることはありますので、実は私自身もそういう居心地の悪さを心の中から払拭しきれないでおります。が、しかし、「女性の解放はいずれ男性の解放にもつながる」というふうに考えていきたいです。
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この回答へのお礼

とても面白い例をありがとうございます。
確かに、小さいころから「女の子らしく」または「男の子らしく」と育てている親を見かけます。思いもかけない刷り込みでした。
「女性の解放はいずれ男性の解放にもつながる」、女性だけでなく男性にもいろいろな意味での性の開放を考えてもらいたいです。
進んだ考えをどうもありがとうございます。

お礼日時:2001/04/24 08:35

 簡単に言ってしまうと、sexは単に生物学的・医学的な範疇での男女を指し、genderは社会的・文化的な男女の性役割や性格付けを含めた性差を指します。


 Sexという言葉自体が差別用語ということはありません。ただ、そういう生物学的・医学的な区分だけでは男女の(とりわけ人間社会における)問題は扱いきれず、肝心の問題を隠蔽しかねないという意味では、不十分な概念と言えます。その結果として、社会の中での男女差別問題などが論じにくく、扱いにくく、したがって解決しにくくなる。そういう意味で、間接的に差別を放任してしまう言葉とは言えるかもしれません。

 genderとして三つを挙げておられますが、理屈から言うと「社会的・文化的な性差」というのは、それぞれの社会、それぞれの文化に応じて無数にありうることになります。国連の人権委員会は、その基本的なものとして五つを定義しています。まず最初の二つは、
 1 「男」、つまり女性を愛する男性
 2 「女」、男性を愛する女性
…となります。すると次のは想像がつきますね。
 3 男性を愛する男性、いわゆるホモセクシュアル
 4 女性を愛する女性、いわゆるレズビアン
…さて、五つ目は……? って、クイズやってる場合じゃないって。
 5 性転換者(男→女、女→男)
という五つです。
 あくまでも国連の定義ですから、文化圏・宗教圏によっては容易には受け容れられない部分もあるでしょうね。

 なおも興味がおありならば「補足」をどうぞ。
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この回答へのお礼

だいぶわかった気がします。確かに医学的なものと、社会的なものを比べたらそこで違いが出てくるのは当然のことだと思います。それを「差別」にから切り離すためにgenderが出てきたのかもしれませんね。

問題は変わりますが、これまでの歴史を見て、女性が男性よりも下の階級に見られていたのはどうしてなのでしょう。
また、フランス語などは単語に女性か男性を意味する言葉を付けますよね。なぜそういうものがあるのか、そしてその基準などはあるのでしょうか。
よろしくお願いします。

お礼日時:2001/04/22 14:20

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